わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への機微

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る

パート労働で丸1年が過ぎ、「歳入庁創設」を

解体工事のパート労働をやりはじめてから、今日で丁度1年になった。
今朝から、求人のことで、あわただしい。
今、20人ほどいる現場作業者では足りない、、らしい。

社長は「ハロ―ワークの前で勧誘してくないか」と言い出した。
「それは都の条例かなにか法的にに抵触しますよ。よく保険外交員の勧誘をやっているのを見かけますが、ハローワークの壁に、注意喚起の張り出しがありましたし。」と応えた。ハローワークに求人依頼している会社なんだし、、よくまあ、そんな考えが浮かぶな、、と驚いた。

さらに、出所が近い受刑者への求人申し込みも調べて検討してくれ、とも。
全く想定外だ。よく思いつくなぁ、、

そんなに足りないのか、、むしろ定着率の悪さを改善するほうが先だろうと思ったが、そう指摘はしない。
所詮、パート労働、分不相応な意見具申になるわけだし。インセンティブも何もないことは、しない。

社長の要求にはできるだけ応えるが、法に触れることは、あたりまえだが、避ける。
絶対、やらない。たとえば、こんなこと、、

今、この会社が法的に問題なのは、社会保険の算定基礎届を無視して、出していないことだ。実は当初の届出も、実際の支給額よりも低い金額で届け出ている。社長が言った金額を記載し、わたしが出している。虚偽だとすぐわかったが、手取りが欲しい職人の希望に応じているようだ。

なので、「定時改定」も対応していない。一度、そのことを社長に指摘したが「これでいいんだ」という返事。私は、給与の計算事務をやっていないので、その責任を問われる立場にない。日本年金機構に通報せねばならないのかな。

つまり、線引きとして、社会保険は入口のところだけしか、やらないと決めている。

少し検索したが、「厚生年金保険料の納付実績があることから、そこに不正があるという事実はなかなかみつけられない」という情報があり、、だからこうした小企業は潜在的に相当いるのでないか。

やはり、
国税と一本化させて歳入庁を創設したほうがいい、、と思うのだ。
社会保険の徴収は国税と比べ、緩すぎるし、社会保険に査察制度はない。
なんで性善説なるのか、わからない。

消費税アップしか考えていない財務省は、
公共費用(税金、社会保険、NHK受信料)の一本化という思考はない。

もし、歳入庁を創設したら、1兆円くらい歳入はふえるんじゃないかな、、
たしか評論家の上念司氏は、ラジオでそんなことを言っていた気がする。

「財務省を、ぶっ潰そう!首相への忖度を払拭させ、歳入庁創設へ、解体的出直しをさせよう」

その方が、小泉進次郎さんの「こども保険」より、はるかに優れた政策だろうに、、

「創価学会秘史」から

6月17日の日曜、創価学会の教学任用試験に会員・会友を合わせて12万人の方々が挑戦されたと知った。その試験範囲の中に、必ず学会の歴史を知ることが入っている。

実は、私個人としても初代会長の牧口常三郎という人の思想遍歴に関心が強い。なぜ日蓮正宗という一宗門に入信したのだろう。牧口常三郎は青年期は北海道におられたのだから、キリスト教の影響は少なからずあっただろうに、そしてもしキリスト教徒になっていたら価値創造の団体はどうなっていただろうか、、とか想像を巡らせたりする。ただ、その遍歴は分からないことが多い。

今、板橋区図書館から二つの本を借りて読んでいる。
高橋篤史「創価学会秘史」(講談社 2018/2)
鶴見太郎「ある邂逅 柳田国男と牧口常三郎」(潮出版社  )

後者は学会系の出版社で論調は柔和だが、前者は学会に対して冷ややか、批判的な論調(最初は、今日標ぼうするものとは違う、例えば平和思想なんてなかった。戦後に現れた論調だとか)になっている。

が一向に構わない、無名の学会人の私から見れば、どちらも面白く、飽きずに読める。ひとます「創価学会秘史」から面白いと感じた事実を箇条書きで、以下にメモしておきたい。敬称、尊称は略す。

人のふるまいとして最期は獄死した牧口常三郎という人がどれだけ偉大だったか、そのことを確認したい、、「創価学会は小学校長をしていた人が実験証明を旗印にはじめた教育団体から日蓮仏法に直結する宗教団体に飛躍した、というわが認識」(私の学会定義はここからはじまる)は揺るがない。その内在的な歴史をわが身の中心軸にしたいのだ。


1.北海道から東京に来られた牧口常三郎はその初著「人生地理学」は1000頁に及ぶ大著ながら増刷を重ね、多くの知友を得た。志賀重昂(しげたか)、講道館の加納治五郎、民俗学の柳田国男、など。

2.とりわけ牧口より4歳下の柳田国男とは1909年5月2日に知り合い、やがて親しくなっていった。柳田は戦前の創価教育学会の顧問を引き受けて時期もあったが、牧口が宗教の話に及ぶと柳田はすぐ拒否し、シャットアウトしていた。

3.牧口は、東京に出て最初は、社団法人茗渓会で書記の働き口を得た。また弘文学院、東亜学校で地理学の講師をした。その後富士見尋常小学校、文部省図書局に職を得ていた。

4.1905年5月から3年間、経済的に恵まれない女子に対して通信教育を施す大日本高等女学会の主幹を務めた。しかし経営は厳しかった。

5.柳田国男が幹事となった郷土会に牧口も加わった。郷土会は毎月、会員が小日向の新渡戸稲造邸などに集まり、各各自由な立場で各地の風習や民間伝承などの研究成果を発表する場であった。会員はエリート官僚が中心で、毎回50銭の会費を出す代わりに新渡戸から2円程度の御馳走をふるまわれていた。

6.1910年、牧口は農商務省の嘱託として九州の中央に位置する津江村、小国村の生活実態調査に赴いている。

7.柳田国男は牧口の性格を
 「温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命していた」
 「口が下手で、余り物が言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことを云う人であると判ってきた」
 
8.1911年5月、柳田と牧口は、甲州の谷村から道志谷、月夜野、相模にかけて旅行をした。柳田は「非常に気持ち良い旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出される程、印象深いものがあった」と二人の親交の深さを語った。

9.小学校長の牧口は、地元の有力者の子弟を特別扱いすることに反対し、立場危うくなることが多々あった。

10.墨田区亀沢の三笠尋常小学校では、貧しい家庭が多い地域であり、多くの児童は昼食抜きで、事業が終わると副業に汗を流していた。見かねた牧口はペニーランチ、パン1個に汁椀2杯を無料で配る制度を導入した。その後1922年4月、裕福な家庭の子弟が通う白金尋常小学校の校長に転任した。

11.牧口の生家である渡辺家は禅宗、養家の牧口家は「法華の家」だったが、幼少期の牧口に信仰の念はなかった。札幌の生活でキリスト教に深入りすることはなかった。

12.上京後、牧口は禅に参加したり、深呼吸法を試してみたり、田中智学の国柱会に1916年頃、接近した。田中の講演を数回聴きに行った。牧口の岳父である牧口熊太郎が国柱会の会員だった。

13.牧口は、1920年頃から十数年間、古神道の禊に長く親しんだ。滝に打たれたり、厳寒の海に入っていく。財団法人稜威(みいづ)会の主催の禊だった。牧口は自宅でも毎朝冷水浴を欠かさなかった。しかし「心からの信仰に入ることは出来なかった」と。

14.牧口を折伏した三谷素啓は日蓮正宗の有力信徒で、牧口より7歳上、目白商業学校の初代校長であった。ただしその在任期間1年にすぎなかった。柳田国男は三谷に対して「どうも正体の判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。ところが、いくつかの妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議と良く効いた」と。そもそも牧口が三谷を紹介したのも「面白い薬がありますよ」と言ったのがきっかけだった。

15.1922年、牧口と戸田城聖(当時は城外)は三田の慶應義塾に行き、来日していたアインシュタインの講演を聞いた。また牧口はアメリカのプラグマティズムのジョン・デューイにも関心をもっていた。

16.柳田国男は後年、牧口が日蓮正宗に入信した動機について二つの原因を推測して書いている。それは「貧苦と病苦」であると。
「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供(四男四女)が患ったり、死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた」と。

以上、ひとまず、ここまで。

私見だが、小林秀雄は晩年よく柳田国男の評論をされた。「山の人生」の録音もある。おそらく小林秀雄は膨大な柳田国男の著作を読んでいただろうし、その中に「故郷七十年拾遺」もあったはず。そこに牧口常三郎のことが出てくる。小林秀雄は1910年頃、港区白金尋常小学校に通っていたわけで、時期は異なり出会ってはいないだろうが、牧口を自分の母校の校長を務めた人と知っていたかもしれない。

1970年代の前半、小林秀雄は、中村光男などを伴って、日蓮正宗大石寺に桜を見に訪れている。応対したのはわが母校創立者の池田先生であり、互いに微笑みながら歩かれている姿を聖教新聞で見たことがある。言論問題と重なる時期だった。単なる物見遊山ではあるまい、池田大作という40歳代前半の人に直接会いにきたのだ。小林秀雄は、しっかり、池田大作という人の目を見つめたに違いない。私も70年代何度か、先生の眼を見たが、洞察と真剣と奥深さと、人生でそのような眼をした人を、他に見たことがない。

おそらく小林秀雄はその歓談の際も、学会草創の牧口常三郎のことがよぎったのではないか、、その小林秀雄の、2008年に載った聖教新聞の記事は、また後日書き込むことにする。

肝臓の定期検査

6月12日(火)市川の国府台病院へ11時すぎに到着。やっぱ練馬からでは遠く感じた。検査は半年ぶりだ。

1.採血室で管6本をとったあと、1階の検査室で超音波、フィブロスキャンを行った。

今回は医師ではなく、2009年から勤務されている女性の検査技師だった。検査の仕方は手慣れていて、見落としはない感じがした。

前回と同じように「すい臓をよく診てください」とお願いしたら、その前に、麦茶を飲ませていただいた。画像がみやすくなることをわかっているのだ。ありがたい。ただ、技師さんは「すい臓のむかって右端の方は、ぼやけていて見えずらかった」といわれた。が、問題ないようだ。

検査表で、肝臓の辺縁は「鋭」にチェックが入っているのが、うれしかった。それだけでなく、検査表は肝臓、胆のう、胆道、すい臓、腎臓、脾臓といずれも「異状なし」チェックが入っていた。半生を振り返ると「オール異常なし」になったのは、たぶん、発病以来初めてではないかな?

肝機能データはAST18,ALT15,γ‐GTP16、コリンエステラーゼ215L(基準値より25低い)、血小板19.0などで、肝機能はほぼ問題ない。かつてミゾオチあたりが、ふいに差し込む痛みが走ったものだが、今はそう感じることはない。

ハーボニ―治療後2年経過したが、もう「C型肝炎は治った」と言えるだろう。

ただ、やや注意すべきことは、フィブロスキャンの肝硬度は5.3kPaだったが、、
CAPが268dB/mとあった。その基準値は150dB/mであり、それより118dB/m高いと知った。放っておくと脂肪肝になるらしい。青木先生の指摘はやや動揺した。それでも、前回12月は315dB/mもあったわけなので、それと比べれば減少傾向にあるのだから、さらに減らすように、意識付けよう。注意していけば、きっと、基準値におさまるだろう。

2.続いて、栄養管理室で「Lookin'Body」ろいう装置で筋肉量などの検査をし、管理栄養士のかたに食生活の指導をいただいた。「筋肉・脂肪」「肥満指標」「部位別筋肉量」「部位別水分量」といずれも標準値の範囲におさまっていた。

また基礎代謝量は1587Kcalとのこと。したがって毎日2000Kcalほど摂取しても、大丈夫だと栄養士の指摘。大事なのは食べ物の量の目安、たとえば「ごはん一杯の量」とかなのだが、具体的にサンプルを見せてくれたので、納得できた。

わたしの問題は、三食より間食に、しかも甘いもののとり過ぎにある。糖分はとり過ぎると脂肪に代わるという話は、新鮮だった。なのでこれからは週三日の甘いもの摂取とか、リズムを作ることにしよう。決めた!ひとまず火、木、土は甘いものを遠ざけることにする、、と。

3.青木先生の診察は13時すぎで、初めて、院内アナウンスで呼び出された。デイリーヤマザキで食事を終えたところだった。診察に入ると、前回もそうだったが、互いに笑顔だった。青木先生ははっきりこう言われた。「あなたが肝臓がんになる、そうなることないのではないか」と。わたしも、そう感じていた。

肝臓病の「終わった感」があった。完治とはこういう感覚なのだな、なぜだろう、嬉しさというより寂寞に近い無常観がある。失われた二十数年。。。

そこで、定期検査を終了し、C肝卒業の話題にもなったが、、CAPが268dB/mがどれだけ下がるか確認したいので、半年後の12月の検査をお願いした。12月、CAPが基準値に入いるようになったら、国府台病院を卒業しよう。

年内は、この病院に青木先生もおられるといわれていたが、さて来年はどうなるかと、、ほほ笑まれていた。

そうだ、この日、溝上先生とすれちがった。その際、心から感謝を申し上げた次第。本当に、溝上先生の存在は大きかった。偉大だった。決して、忘れない。

神田松之丞という講談師

鈴木敏夫さんの「ジブリ汗まみれ」で、若き講談師、神田松之丞(1983年6月4日生)を知った。検索すると、豊島区出身で、2007年に武蔵大を卒業、、とあった。

その「ジブリ汗まみれ」の声は、落ち着いていた。どうやら、サラリーマンだった父親は、神田松之丞さんが10歳のときに自死した、ように感じた。そこで神田松之丞さんのブログをみると、、以下の記載があった。そのまんま転載する。

私は子供の頃から死について人一倍考えている。それは小学4年の10歳の時に父親が突然亡くなったからだと思う。本当に急だった。そして子供ながらに、人間は死ぬんだと強く認識した。

私はクラスでもとびきり明るい子供だった。それは明るい人間だけに許される特権のように、毎日先生には怒られ愛されるような生徒であったと思う。

父親の葬式の時に、私は泣かなかった。涙を我慢するわけでもなく泣かなかった。
ただ、弔問に担任の先生をはじめクラスメイトが全員で来た時に、いままで泣かなかったのが嘘のように、せきをきったように嗚咽した。恐らくクラスメイトも困惑したと思う。それは私が今まで誰にもみせた事のない姿だったし、私自身体験した事のない感情だったから。

そういえば私は子供の頃、勝手にかくれんぼを始める癖があった。子供というのは勝手なものだから相手がかくれんぼをしている認識がなければ誰も探してくれないのに勝手に隠れて、遊びを始める事がある。

小学生2年くらいだったろうか池袋を父親と歩いていると、勝手に思いつき急にかくれんぼをした。ところが、父親は私がそんな事をしているとは気付かずに何処に消えてしまった。私はエンエンと泣く事だけしか出来なかった時に、優しいお姉さんが警察に連れていってくれた。名前と電話番号を泣きながら言った。何故僕は急にかくれんぼをしたんだろう。お父さんがいなくなっちゃったとひたすら後悔で泣いていたのを思いだす。

しばらくして父親が仏頂面で迎えに来てくれた。その時にどれだけ僕はこの後怒られるんだろうとびくびくしながらそれでいて、もう大丈夫だという安心感でビャービャー、より一層泣いていたのを思い出す。

父親は何も言わなかった。怒るでもなし、優しい言葉をかけるでなし。私は父親に大股でおいていかれそうになるのを走るようについていったのを思い出す。今考えれば父親はあの頃から心の病気であったのだろう。

私は父親が死んだという事実が、もう二度と迷子になっても迎えに来てくれないという絶望におそわれていた。だからいつでも迎えに来てくれるはずの父親が死んだ葬儀に、クラスメイトが全員来てくれた時の安堵感は今でも言葉で表現出来ない。

私はその3日後、自然を装ってクラスになじもうとした。事前に担任の先生が話しをしたのであろう。皆、私に優しく、私は安心をしてまたクラスの人気者としてふるまった。

ただ今までと違うのは話している最中、ふと父親の事を考えた時に能面のように私は笑わなくなった。もちろん、あいかわらずクラスメイトと仲良く話しをしているのだが、ふと自分の笑顔に罪悪感を覚えた。

父親は死んでいるのに笑っていていいのかなと。私は笑う事に罪悪感を覚える人間になっていった。

それでも一日中ほぼ笑っていたが、確実に能面の時間があり、私にとってはこの能面の時間と付き合うのが私の人生なんだなと朧げに思いはじめた。

中学、高校と私はこの能面の時間と付き合っていく中で、談志師匠と出会った。まだ私が高校生の頃であったか。航空公園駅から歩いて10分の会場で、談志師匠の独演会があった。前売り券を手に持ちながら開場時間の19時を待って、外にいたのを思い出す。

季節は真冬で、かじかむ手にあったかいコーヒーで期待を膨らましていた。会場に入り、演者と客層が作りだす空気感に呼吸が苦しくなるような緊張感をともなって席についた。

私はまだこの時、浅草演芸ホールの寄席に三回行った程度であったから、今となれば空気感の違いは当たり前だと分かるが、当時は、ただただ緊張感で開演前から吐きそうになりそうなのはあの会の他に見当たらない。

やがて緊張感を増幅させるように二番太鼓がなり、開演5分前を知らされた。やがて出囃子がなり、ゆっくりゆっくり談志師匠が現れる。物凄い緊張感。座布団に座りお辞儀をして、談志師匠が顔を上げた。満面の笑みだった。

一瞬にして、会場の空気がかわる。突き刺さるような緊張感から笑顔ひとつで解放された時に、一瞬にして私は立川談志を好きになった。やがて「ここ暗くて、誰も客なんかこねぇんじゃねえかと思ったら満員だ。俺、最近客くるんだよな。一番くるんじゃねえか…」

私はただただ圧倒されていた。「勘定板」でさんざん笑い、続く「らくだ」で私はこの人の弟子になろうか迷った。あの「らくだ」は全てが表現されていたようにおもう。くずやの卑屈な人生、喜び哀しみ、女房子供がいるから自分をおさえている人生が、物凄い奥行きのある表現としてみえた。

また、生前のらくだと呼ばれる男の乱暴さとその奥にある寂しさが表現されているのを見て、私は凄い物を見ていると中盤からサゲまでずっと鳥肌が立っていた。

初めての経験でまさにカルチャーショックだった。サゲの後もしばらく立てず、帰る道すがら10分以上鳥肌が立っていた。私はそれまで名人芸や至芸と言うものは言葉遊びだと思っていたのが目の前でされた。その衝撃といったらなかった。

何故私はあの場で弟子入りをしなかったのだろう。今でも不思議に思う。
それから談志師匠を追っかけた。それは私の父性への満たされなさを談志師匠に感じたのか。

はたまた能面のような私にだけ分かる落語に思えたのかは今でも謎だ。ただ、あの「らくだ」は私が求めていたものには違いなかった。それから私は講談師になることにした。細かく話せば長くなるが、要するに師匠の松鯉にもほれたのだ。談志師匠とは違うベクトルで、松鯉はずっと浸っていたいようなたまらない講談師だったから。

談志師匠の訃報を聞いたのは末廣の楽屋だった。11月下席、1年に1度の師匠松鯉の芝居。1階の楽屋、前座もくさるほどいて動きにくい末廣。若手真打ちの某師匠が二階からおりてきて
「今、談志師匠が死んだって。ニュースでやってる」

私はあまりの喪失感でボーッとしていたのを思い出す。そうか今は談志師匠のいない世界にいて、談志師匠がいなくても当たり前のように寄席がやっていて、落語界が続いていくのが不思議でしょうがなかった。

それから涙が馬鹿みたいに出そうになったので、思考するのが嫌になり、馬鹿みたいに前座仕事をした。着物の着付けたたみと、普段なら後輩に任せるのを取り憑かれたように自分でやった。

後輩に「今日、兄さんやたら働きますね」と言われた。確かにこんなに懸命に前座仕事をした事はなかった。
やがて師匠の松鯉が楽屋入りをした。私は父親の葬儀を思い出した。もうだれも迎えに来てくれないと思っていた時に、クラスメイトが現れた時同様嗚咽しかけた。師匠の顔を見て心底安心した。

談志師匠が亡くなっても、まだ私には松鯉がいると思った。師匠は二階に行った。すぐさまついて行き、まだ訃報を知らないようだったので、私がほとんど震える声で談志師匠の死を伝えると、だいぶ間があって「そういう大きな事は突然くるよな」と呟くようにいい、談志師匠の2、3の思い出話を喋り、優しい言葉をかけてくれた。

ふと、松鯉の死を考える。想像するだけでおかしくなる。師匠が生きているのを非常な喜びとして記しておく。


以上。父親の喪失感は、多少想像できる。「クラスメイト全員の前で」というところで、このブログの、前々回に書いた横山隆一さんの話を思い出した。

「ジブリ汗まみれ」に戻る。いつもは饒舌な鈴木敏夫さんだが、そのときは、ほとんど黙って神田松之丞さんの話を聞いていた。若い才能ある講談師の先々を、じっと見守っていこうとしている感じがした。

それにしても、、たしかに私は、講談をまともに最後まで聞いたことなぞ、なかったな。

危機の到来を実感している

ひさびさに書き込む。

1.掲題のとおり、「蔵の財」の危機が到来している。試行錯誤というより打開策が浮かばず、立ち往生の状態だ。

2.解体工事会社の事務作業そのものはあらかた見えてきたし、社長とのコミニケションはそつなくこなしてきていて、かつてのように怒り狂うこともなく、問題はないのだが、、充分な報酬ではないのだ。一人でずっと作業するのも、そろそろ限界かもしれない。

例えば、今日は、2か月前に雇用した重機オペができる人が引き抜きあい、社長はかなり怒っていたが、恬淡と雇用保険のあと処理の確認をする、、といった具合だ。期待した人に去られるのは、社長もつらいだろうに。

3.戻る。わが危機に際して、「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫氏のYouTubeをききまくっている。私たちが、リアルタイムで、ジブリの動きを見つめることができるのは、ラッキーだと思う。鈴木さんのしゃしゃり出ることをきらう人もいるようだが、関係ない。ジブリの根っこは鈴木さんのハンドリングの下にある。自分には、参考になる。

①高畑勲監督の「かぐや姫」で25億くらい赤字を引きづっているはずだが、宮崎監督は、今度こそ、最後のなるであろう作品でジブリの帳尻を合わせてくることだろう。検索すると、、

アニメーション監督の宮崎駿さん(76)は28日、制作中の新作の題名が「君たちはどう生きるか」に稔なると明かした。1937年に吉野源三郎が発表した名著から取った。「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と内容にも触れた。「完成には3年か4年かかる」と言う。

以上。2017年10月の発信なので、2020年初頭には、鈴木さんが世間を騒がしくさせるだろう。映画は、たぶん後生の若い人たちへの贈る言葉になる。興行収入は80億と予測しよう。

②高畑勲さんが2018年4月5日(木)午前1時19分、帝京大学医学部附属病院にて、亡くなられた。享年82歳。
マルキストに匂いを感じさせると日テレの氏家齊一郎さんに愛された人だっという話も、わかる気がした。ただ、紫綬褒章をもらっていたとは知らなかった。理詰めの人だったらしい。これで、鈴木敏夫さんは、後顧憂いなく的確に、必要な人を巻き込み、その力を発揮させ、累積赤字を解消させるだろう。

4.たまたま画像で見た堤未果というジャーナリストの整形顔に驚いた。1971年生。彼女の仮面、その心の闇の深さを感じさせた。あれでは、ジャーナルは頓挫して、整形顔の機微に、話し相手側は、かなり惑わされるのではないか。

私見だが、人相には意識も、無意識も内在されて、表れている。整形によって、それを意識的なものものだけに、顔全体を横溢させてしまうと、日本人の私たちは、何か不自然さを、否応なく感じ取ってしまうではないか。無常、「もののあわれ」は整形を良しとしない。

整形大国である朝鮮半島の人々は、そうした無意識の働きに対する見識は、希薄に見える。民族の価値観の違いか、、

以上、解体会社のPCで書き上げた。動かねば、、

漫画家 横山隆一の言葉

何気に読んでいて、はたと泣けた文章に出会った。フクちゃんという漫画をかいた横山隆一(1909/5/17~2001/11/8,92歳没)さんの文章だった。小林秀雄全集の付録をひとまとめにしたもので、小林秀雄と交流があった方たちの思い出みたいなものが集められた単行本「この人を見よ」の、186頁にある文章だった。

そのまま、以下に掲げておきたい。たぶん、話の場所は鎌倉であったろう。

それとは別に、僕が小林(秀雄)さんの親切について忘れられないことがある。
戦後のことだが、僕の娘が亡くなった。生まれて一か月もたたなかったので、誰にも知らさなかった。

会葬者は永井龍男氏と小林さんの二人だった。リヤカーに棺を乗せて僕が後から押していった。
桜が道路一杯に散っていて、それを踏みながら坂道を登った。登っている内、なんともよい音が聞こえてきた。

カロンコロンという妙なる音である。はっとして考えた。子供の棺の中から聞こえてくるのは、僕が放り込んであった玩具のオルゴールだった。

僕は、車を押すのをやめて、小林さんの方に走っていった。僕は笑い話のつもりで面白そうに話している内、小林さんの顔を見て、急に泣けて来た。

どうと云う訳でもない。小林さんと永井さんが、どんな事を云ったのか、どんな表情をしていたのかも、忘れてしまったが、其時の僕の心には二人が助け神の様に見えた。


自然体の文章だ。読後思った、小林秀雄は、自分の長女を育てて来たこととを重ねて、横山さんの幼女の死を悼んだのではないか、と。なぜって私は、すぐ3歳の次女が赤ちゃんだった頃のことを連想したからだ。

どんなに医療技術が進んでも、生まれて間もない幼子の夭折は他人事(ひとごと)ではない。

ちなみに、小林秀雄の娘は、成長し、白洲次郎、白洲正子夫妻の長男と結婚したわけだが、、

永井龍男の短編「蜜柑」を読んだ。宮本輝の編集「魂がふるえるとき」(文春文庫)におさめられいる短編小説だった。
永井龍男(1904/5/20~1990/10/12、86歳没)の学歴は中等教育だけだ。しかし、菊池寛に認めらるほどの、文章の力をもった作家なのだろう。

西城秀樹さんの死

5月16日の水曜日、西城秀樹さんが逝去した。63歳。私より、学年は一つ下だったが、
まぁ、同年みたいなものだ。彼の死に、さまざまな思いがよぎった。

とりわけ、、
四十代なかばで結婚され、お子さんは3人で、たぶん一番上の長女は、まだ中学生、14歳くらいではないか、、成長を見守れず、さぞかし、悔いが残るだろうな

私も、長女は51歳のときに生まれた子なので、とても他人事(ひとごと)とは思えないのだ。

急性心不全が直接の引きがねだったようだが、問題は、何年か前にラクナ梗塞が再発し、その進行が治まっていなかったことにあったと思う。ラクナ梗塞は治りにくいのではないか、、

西城さんは、脳梗塞になる前は、健康面はかなり自信をもっておられたようで、サウナが好きだったと記憶している。

たしかに、私たちの世代は、若いころ、運動しているときに水を飲まない、遠ざけるという精神論は、よくみかける光景だった。大きな勘違いとも知らされずに。

それにしても、西城さんはよく辛抱強く、リハビリの努力されていたなぁと敬服の念が湧き上がってくる。立派だった。人間として、深く大きい「命の器」になっておられたと思う。その生きざまは忘れない。。合掌

これから老いていくなかで、自分にとって、中庸あるいは中道はどんなものか、西城さんの死を通じて、しきりに考える次第。

追記、、近所に住んでいた菊地さんという壮年独身だった方も、ラクナ梗塞だったが、、
人づてに、最近、神奈川の方の介護施設に入られた、と知った。が、具体的な施設名は聞けなかった。お見舞いが出来ないでいる。

大腸がんのときに見舞いに来てくださったが、予後の闘病が続き、何の返礼もできていなかった。なので、、気になっている。

大雁塔から渭水は見えるか

前回からだいぶ月日が流れた。遠ざかると、一気に過ぎた。こうなると、書き始めることが億劫になる。

そこでリハビリ的に箇条書きで、からはじめよう。

①5月の連休中は、AmazonプライムでBOSHEという米国の刑事ものを見続けていた。原作者はマイクル・コナリーという1956年生まれのハードボイルド作家だった。全く知らない作家だった。原作を借りて、眺め読みしよう。

②小林秀雄の「感想」(ベルクソン論)とベルクソンの本を二冊、購入した。小林秀雄は「感想」を完結せず、断筆してしまったが、そのとき何が見えていたのか。それを知りたいのだ。

③小林秀雄も講演をCDやYouTubeで聞いている。これが古い落語の聞いているようで、その声の響きがいいのだ。言外の心を感じ取ることができる。

④わが大学の創立者は小林秀雄に会っておられる。しばらくして創立者は小林秀雄の、ご自宅の庭に植える桜の木を贈られている。小林秀雄はたいそう喜ばれたという。そういえば、井上靖のご自宅の庭にも贈られたという。大学は桜並木が美しい。

⑤宮本輝さんの講演も聴いた。これもいいのだ。決して偉ぶらない作家だ。

そこで掲題の「大雁塔から渭水は見えるか」ということについて、、

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