わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る

C型肝炎SVR1年後の経過観察

1.この半年のうちに、体重が68kgになっていて、5kgは増えた。だが、炭水化物ダイエットや一日一食とか、無理なことは、もうしない。贅肉が筋肉に変わるならば、痩せなくていい。痩せていると、縮みだすのがはやまるのではないか。

2.昨日、3ヶ月ぶり、市川の国府台病院に行った。保育園の送りとか、何だかんだで9:05に出て10:40到着。今迄ずっとエコーをやっていただいていた女性の是永先生はおられず、大澤先生という方だった。4月から代わったのだと。

村田先生もおられないし、あらためて、C型肝炎治療の歯車が回った感じがした。

今まで指摘されていた胆のうポリープは「今回は確認できない」と大澤先生はコメントされた。

すい臓がクリアに見えるらしいので、前回と同様に、エコーの前にミルク紅茶を飲んでいたが、それがかえって、胆のうを縮めることになり、よく見れなくなるようだ。次回は、何も飲まないようにして、検査に臨む。

エコーの結果は問題はなかった。フィブロスキャンは6程度、問題なし。

3.12時ころ、青木先生の診察。採血結果は、問題なし。「もともと、あなたは軽かったから」と言われた。そうだな、と思いつつ、かつての全身倦怠感を思い浮かべ、(あのダルさは決して軽くはなかったのに、)と、遠くを見つめる感じになった。次回は10月3日で、エコーはやらないで済む。コスパは、ありがたい。

アルブミン 4.7
AST 18
ALT 13
γGTP 13


このところ毎日 、青ラベルの金麦220mlを1缶飲んでいるのに、まぁ、何という正常値なのか、、少し驚く。

ハーボニーを飲み終えてから1年4ヶ月がたち、あらためて、わたしのC型肝炎はこれでひとまず、治癒した!と「安全宣言」しよう。

4.そこで、青木先生にこう尋ねた。
「C型肝炎患者がSVRになったあと、再び感染する割合は?」と。

すると、「かれこれ、肝臓専門医として15年やっているが、再発した症例は二人だけで、、二人とも」と言いながら、左腕に自分で注射する仕草をされた。

「その、、注射って、何ですか?」

「シャブ注、です。なので、普通の生活をされてる人は、まず、、再び感染することは、ないと思いますよ」と言われた。

こころ強いお言葉で、この日一番の収穫だった。

5.昼ごはんを初めて千葉商科大学の学食で食べた。床も天井も、ウッド調で洒落ていて、学生の皆さんは満足そうに見えた。1996年以降に生まれてきた人たちばかり、なんだか幼い感じがして、、当たり前か、わたしが老いているだけなのだから。

テーブルに置いていたKindleで正宗白鳥「入江のほとり」を、食べながら読み終えた。戦前の瀬戸内の家族、一人愚直に独学で英語の勉強する男の話だったが、尻切れトンボで終わり、だから何?という感じだった。小林秀雄は正宗白鳥をリスペクトしていた。

学食のメニューは、セットで450円のものと550円のものと二通りあったが、前者は終了してたので、後者を頼んだ。鳥肉系、美味しかった。次回も来よう。

6.千葉商科大学のキャンパスは思いのほか広いが、道路をはさんで、となりにそびえ立つ和洋女子大の学舎から見下ろされているのは、関係者でないものの、愉快な気がしない。

和洋女子大は、看護学部の設置を申請しているようだ。市川駅プラットフォームの広告看板で知った。看護師不足といわれている。需要がある看護学部の創設はブームかもしれない。

7.何気に、市川から飯田橋経由で有楽町線で帰った。ふと、飯田橋て寄り道したが、そこでもまた、いい情報が取れた。

自分に向けての断想
おもしろいもんだ、、うまく言い表せないが、、
何かいいことがあったら、そう感じたのなら、上げ潮と見切って、それに上乗せする行動をとること、一気呵成、これが人生のアヤというか、、一瞬の意思というか、紙一重の選択というか、人生の機微になる、というのが現実なのでは、、と思う。華厳経に「心はさながら、匠なる絵師の如く」とあるが、そんな大仰なものではなく、普通に起きる一瞬の意思が、、そういう心の連鎖が、人生なのだろう。常に、自分の心を、上中下、左中右、と吟味しよう。

6月16日追記、飯田橋マターは「お断り」の通知が来たが、、負け惜しみでなく、これでよいと、今、思っている。他の行動に向けて、思考の整理になったし、足がかり、踏み台になったからだ。


8.おととい、山口果林「安部公房とわたし」をパラパラ読みで、読了した。思い出したこと、1991年だった、前職にいた頃のことだが、山口果林さんが自宅マンションのリフォームした。そのときの、室内写真を見たことがあったのだ。モノトーンのような感じがした。安部公房のために、リフォームしたんだな、、

安部公房は前立腺がんで睾丸摘出していたが、心不全で亡くなられた。


ボロボロになるまでに着古した綿のシャツが、いま、穴があいた、、もう限界、捨てよう。

わが手もとに置く文庫100冊

年をとるにつれ、手もとにおいてすぐひっぱり出せ、何度も読み返す、、そうしたもっとも必要な文庫を、あらかじめ、きちんと整理して、一箇所に固めておくことが大事だなと、気づいた。それを回すことで、わたしの脳内革命(そんな名の本があったな)の下地をつくるのではと。あとはいらない究極の文庫100冊を以下に掲げておくことにした。徐々に書き込むつもり。

1.マルティン・ブーバー「我と汝・対話」(岩波文庫)
2.スピノザ「知性改善論」(岩波文庫)
3.デカルト「省察」(岩波文庫)
4.デカルト「方法叙説」(角川文庫)
5.日蓮「三世諸仏総勘文教相廃立」(聖教文庫)
6.キルケゴール「死に至る病」(岩波文庫)
7.白川静「孔子」
8.プラトン「ソクラテスの弁明」
9.ベルグソン「思想と動くもの」(岩波文庫)
10.群ようこ「都立桃耳高校」(新潮文庫)2冊
(あらためて10.は、群ようここと本名、木原ひろみさんが、主に1970から73年にかけて在籍していた鷺宮の生徒に対して、を意識した四半世紀ごしの、ユーミンの「卒業写真」ようなの物語なのだと気づいた次第、、2000年に万感の思いで、そう書き下ろしてくれた作家のギフトに、同級生の一人として、感謝している)

11.辻邦生「背教者ユリアヌス」(中公文庫)3冊
12.森敦「意味の変容」
13.堀田善衛「方丈記私記」
14.山本七平「小林秀雄の流儀」(新潮文庫)
15.井筒俊彦「意識と本質」(岩波文庫)
16.宮本輝「錦繍」(新潮文庫)
17.宮本輝「春の夢」(新潮文庫)
18.安部公房「砂の女」(新潮文庫)
19.内村鑑三「代表的日本人」(岩波文庫)
20.S・キング「刑務所のリタヘイワース」

100.「岩波文庫解説目録」 若いころの羅針盤だった。


高校時代を遠くに望む

1.今図書館から借りている本で、返却期限が来ると、「次の予約がなければまた貸してください」といい、また借りる。そうしてかれこれ半年借りてる本は次の二冊だ。

メルロ・ポンティ「眼と精神」(みすず書房) この出版社は高価な本ばかりだが、リスペクトしている。

河合隼雄「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)

なぜ、買わないか、買ってしまえば、積ん読で終わってしまうのが必定だから。なので、返すまでに一つの章、一編の論文を読んでいれば、ヨシとしている。人気のない本だから、継続は可能なのだ。

練馬区にあったらしい小室直樹の自宅には、蔵書はほとんどなかったという。書店で立ち読みして、記憶にとどめたようだ。真似たい、、家におく本はできるだけ少なくする。その代わりノートにとっておくようにしよう。

2.このところ、高校時代のことを振り返りたくなる。同級生は学年430人ほどいた。100周年の同窓会名簿をみると、すでに15人、亡くなっていることがわかっている。今はもう20人くらいいるのかもしれない。

3.同級生だった?らしい群ようこ「都立桃耳高校」を読んでいて、さまざまな光景が思い浮かび、突如、そういえば現国の選択授業で、安部公房「砂の女」を読んだ、そのことを思い出しだし、借りることにした。群さんの本は、彼女が書いていない、その当時のことを思い出させてくれる。激動する社会の中にいた。安田講堂、三島由紀夫の楯の会、連合赤軍、ビートルズの解散と、断片的に浮かび上がってくる。

そういえば、一つ下の学年に、作家檀一雄の娘がいたな、、壇ふみさんの妹にあたる。が、顔はあまり似ていなかったと記憶する。

4.もう少し、安部公房が生きておられたら、ナレーターの垂木勉氏は安部公房スタジオで芝居を続けられていたことだろう。紙一重の運命。知り合いではないが、リアルタイムで、役者山本龍二からきいて知った。人生の機微を感じさせた出来事だった。もしかしたら安部公房はノーベル文学賞もとれたのでは、と思う。ただ、気になるのは「砂の女」だけで、ファンではない。1970年代の心象風景の一つなのだ。

5.高校時代、総じて、教師には恵まれなかった。それでも影響を受けたのは3人。

①倫社の佐々木先生、全科目の中で唯一「10」の評価をくださった。
②現国の北上先生、選択授業で日本の小説を教えてくださった。
③そして漢文の本多啓二先生、但し教わってはいない。

6.本多先生は2009年の晩秋に、胃がんで亡くなられた。その年の2月1日のとき、西新宿で本多先生のがんの話を全身で受け止めた。そのおかげで、侮らずに、直腸がんを克服することができた、、そう思っている。今年が8回忌になる。

7.毎日新聞の切り抜きが出てきた。私たちの高校で15年間、本多先生がいかに活躍されていたかを証明してくれている。今、先生が尽力された庭園、植栽は跡形もない。白亜の校舎に変貌してしまった。私たちの時代の、美しい花の学舎が雲散霧消したことと、1年上の先輩二人が立ち上げた伝説的ロックバンド「四人囃子」の、彗星のような去就と、重なるものがある。もっとも四人囃子は音源が残っているが、、せめてもの思いで、その記事を以下に、、


昭和50年6月30日 毎日新聞夕刊

「東京ムツゴロウ」大奮闘 、、
北海道から上京5年、校内緑あふれる

「東京ムツゴロウ」と生徒は呼ぶ。東京都中野区の都立鷺宮高校(原晋校長、1300人)の漢文教師、本多啓二さん(33)。麦わら帽子とペンキのついたよれよれの作業服がユニホーム。スコップやノコギリをにぎり、リヤカーを引いて同校の緑化に挑戦して5年。校内にはいま、緑があふれている。

ムツゴロウこと畑正憲氏(動物作家)は、大都会を捨てて北海道の無人島に渡ったが、東京ムツゴロウ氏は北海道から東京のコンクリートジャングルに踏み込んできた。二人のムツゴロウに共通しているのは、「人間にとってもっとも大切なものは自然だ」という信念である。

本多さんは北海道釧路支庁標茶町の生まれ。果てしなく続く根釧平野の中で生まれ、育った。遊び相手は牧場の四、五十頭の馬。山や緑も小川も仲間だった。北大卒業後、偶然受けた東京の教員試験に合格。昭和45年4月、同校に赴任した。

「緑が少ない。学校がすさんでいる」本多さんにとって同校の初印象はショックだった。

「潤いがまるでない。殺風景すぎる。なんとかしなくては」
さっそく緑化への挑戦が始まった。

本多さんの父親、本多三郎さん(66)は戦前東京から北海道へ渡り、原野を切り開いた。その父親ゆずりの「フロンティアスピリット」(開拓者精神)が燃えた。

校内は3ヘクタール。手始めは中庭の花壇づくりと植樹。「授業はそっちのけ」(本多さん)で、カンカン照りでも、北風が吹きすさぶ中でも、仕事は続いた。春休みや夏休みも、もちろん棒に振った。

以来5年。植樹はツツジ、サクラ、リンゴ、サルスベリ、ケヤキなど。三十種類を超える。タケの柵つきの花壇は鉄筋三階建ての校舎の周りにいくつもできた。花は季節ごとに変える。春はチューリップ、クロッカス、キンセンカ、夏はケイトウ、サルビヤ。秋はコスモス、キク。

木や花代や道具等の経費ははじめ、PTAが援助していたが、いまは学校が負担している。

仕事は「グリーンづくり」に限らない。時には「便利屋」に早変わりする。校内にころがる使い古しのイスを集め、修繕してペンキを塗り、まとめてベンチを作る。ペンキがハゲれば、いつでもハケをとり、コンクリートがくずれ落ちれば、さっそくコテを持ち出す。

赴任後間もなく、生徒が子犬を抱いてきた。あまりかわいいので、バスケットに入れ、当時住んでいた保谷市のアパートと学校を往復した。みんなで「太郎」と名づけ、かわいがった。この太郎が六匹の子を生んだ。失踪したり、ゆずってやったりして、残ったのが、いまいる「小太郎」。職員室の前に小屋を作ってやった。いま、生徒や職員が代わる代わるエサを運ぶ。

本多さんは言う。
「取り立てていうことでもないですよ。木が生い茂り、花が咲き、動物がたわむれる。これはごくこく当たり前のこと。そのことがわかったら、実践に移すまで」   
本多さんの仕事ぶりを見て「何か手伝いましょうか」と馳せ参じた生徒グループが二つある。園芸部と「土建会社」と名乗る二、三十人の有志の集まり。

「本多先生と働くのが楽しい。先生というより先輩という感じ」というのは、前園芸部長の相羽きよみさん(17)。土建会社の「社員」の一人、東条容行君(17)は「地道にコツコツやる先生の人柄にひかれた。サラリーマン教師と違って、どことなく味がある」

最近では卒業生もときおり、手伝いに顔をみせる。

本田さんはいつか、校内に馬も飼い、生徒を乗せてやりたい、と考えている。


以上、、私は本多先生と同じ年に鷺高に入ったので、学校の変容ぶりをリアルタイムで見ていたことになる。お隣の武蔵丘高校は学園紛争でバリケードがはりめぐらされていた、過激派もあれば大阪万博もあった1970年という、その年だった。殺伐としていても、ちっともおかしくない。

一人の教師によって高校の環境が徐々に変わって行った、、私の場合、毎年、春になると木々の受粉の匂いとともに、その頃よく聴いたフランクの交響曲ニ短調を思い出す。

8.今朝、2歳6ヶ月になる次女は、保育園に行く途中、わたしが「シロ、ジャンジャン、はんぶんこ」と口ずさむと、「ウルサイ」と言った。「アーサイ」とは言わなくなった。ささやかな成長、、である。

気分一新、タイトルをシンプルに

タイトルを変えた。今まで「がんパラダイムシフト」とか「レジリエンス日記」とか、ダラダラ長めのタイトルにしていたが、短めの言葉にした。他人に検索されやすいかなんて考えてはいない。自分が、そのときそのとき、大事だと思うキーワードが表示されていれば、それでいい。なので、カメレオンのように、今後もまたタイトルは変わるだろうが、今までとおり、自己本位で書き続けることだけは一貫している。お約束できるのは一つ、このfc2がシャットダウンしない限り、死の間際まで、書くつもり、ということだ。それが、多くのがんや難病で亡くなられた、ブログを書かれていた方々への報恩になる、と思っているからだ。これは理屈でなく感情からくるものだ。

このタイトルへの思い入れはまた次回にする。

1.月曜に歯医者に行った。左に上の奥歯のかぶせ物がとれてしまったからだ。これで3回目。鶴岡先生はもう土台がくずれてしまっているから、接着の応急措置は無理と言われた。思案のすえ、両隣りの歯を使ってブリッジ入れ歯にすることに決めた。もとより相当悪い歯の持ち主だが、いよいよ入れ歯かとやや感慨ふかいものが、一瞬はしった。63歳なのだから仕方がないと覚悟した。また、反対の歯に虫歯がいくつかあるが、何か事情は、先生に言われた。毎日、歯磨きはしているし、これといって、虫歯発生の原因は思い浮かばないとこたえた。が、この半年で体重が増加していること、発泡酒を一缶、ほぼ毎日飲むようになったこととか、口内環境が悪化して来ているのかもしれない。

2.今、読んでいる本は
①藤田孝典「続・下流人間」(朝日新書) 下流、中流、上流と流れ字が入ることは啓示になった。
②金成隆一「ルポ トランプ王国」(岩波新書)
③室谷克実「悪韓論」(新潮選書)



1年ぶりの大腸内視鏡

8日の14:30、NTT関東病院で大腸内視鏡検査、田中暖樹(ハルキ)先生に診ていただいた。2011年から7回、ハルキ先生に診ていただいている。ほとんど無痛であり、安心して任せられる。先生の内視鏡被検者は、今回、16000人と言われた。毎年1000以上検査されている感じで、スペシャリストの閾値を超えているのではないか。

予定より1時間遅れて入ったが、ハルキ先生は、わたしが必ず来ると看護師に言われていたようだ。恐縮した。下剤による排泄がうまくいかず、残便感があった。

前日、久々、外で、タンメンを食べてしまい、キクラゲとか気にせず食べてしまって、いた。

早朝3時、飲み忘れた下剤を飲んだ。2歳5ヶ月の次女を保育園送りは、徒歩で、園に着くまでは、大丈夫だったが、、次女の布団のシーツをかけている最中に猛烈な便意に見まわれ、大人のトイレが何処かで、右往左往し、どうにか間に合ったものの、、帰りに自宅に着くまでが難儀し、間に合わなかった。来年同じ轍を踏まないようにしないと。

内視鏡検査を忘れていたわけではないが、もう俺の大腸は大丈夫と安心している気持ちがあり、検査を軽視していたことは、確かだな。緊張感がなかった。反省した。

下剤も、所定の2リットルを飲めず、1リットルで断念し、病院に向かったが、電車がトラブり、遅れに遅れた。おまけに、診察券も保険証も忘れていた。

検査結果は、痔があると指摘されただけで、他に問題はなかった。ポリープもなし。ただ、残便を吸引しながら、バウヒンまで4分35秒。去年より1分余計にかかった。わたしの準備不足。

ハルキ先生とやりとりした事柄を以下に。
1.腸は加齢とともに、ダラけてくる。とりわけ横行結腸とS字結腸がダラけてくる。その進行を遅らせるには、運動する、中でもよく歩くことが大事。腹筋を鍛えてもダラけは解消しない。まずはタイムなどは気にせずに、水分補給しながら、歩くのが一番いい。

追記、お隣のTさんは1929年生まれの88歳、毎日5000歩を目標に散歩しておられる。1万歩だと、膝が痛みだすと言われた。表情や立ち居振る舞いは、80歳以下に見え、お若い。一昨年亡くなった叔父と同い年とは、、見習うことにしよう。

2.内視鏡画像で、赤くなっている部位は便の排泄で擦れた跡であり、気にしなくていい。

3.膵臓ガン手術は◯◯術(記銘できず)といってかなりとってしまうので、大腸に負担がかかり、上記のダラけが加速し、腸と腸が癒着しやすくなったり、腸閉塞しやすくなる。

4.街で見かける人で、身体はスリムなのに、おヘソあたりが出っぱっているのは、横行結腸のダラけに起因する。こまめに運動しないといけない。

以上、内視鏡の操作をされながら話していただいた。対話と画像を通じて、ハルキ先生が操作する手の感覚が伝わってきた。腸のかべはゴム管みたいなものでなく、繊細で薄いんだなぁと。ヘボい医者が操作を誤れば、あっという間に突き破れてしまうシロモノなんだなと感じたのだ。

10日の今日、検査の結果を踏まえ、来年の予約のために古嶋先生の診察を受けた。2010年5月の手術から7年たっているわけで、再発とかポリープとか、出てきますよね?と尋ねたら、「出てくる人が多いが、そうならない人も、いる」と言われ、当然といえば当然だが、安心させてはくれない。

過信は危険と理解し、検査は続行しよう。ただ、来年3月で古嶋先生は退職されると言われた。なのでハルキ先生に後任を相談してくださいと。寂しい。2010年5月の直腸がん手術のときは、ほんとうによく指導してくださった、あの立ち居振る舞いは毅然としていて、トラッドな、ブルックスブラザーズの装いがかっこ良かった。安心できた。感謝。

行き帰りの電車で、オードゥー「孤児マリー」を読んだ。残余は70頁。

再び、小人の話

さきほど、NHK「こころの時代」で、栃木県、益子にある真言宗の西明寺の住職であり、医師の田中雅博さんの話を見聞きした。田中さんは1946年生まれ、2017年03月21日に膵臓がんで亡くなられた。2014年10月に末期のステージ4bの膵臓がんが見つかり、おそらくは手術不能で、2年5ヶ月生きられたことになる。NHKの映像で見る限りだが、痩せてない、血色の良いその顔は末期患者には見えなかった。多くの進行がん患者によりそってきたことと、その人相は深い関係がある、とわたしは見ている。宗派にとらわれてはならないなと自分に言い聞かせた。その人の立ち居ふるまいが大事、、人として立派な相をされていた。

さて本題、このところ、25年前の出来事か脳裏をかすめる。あれは何だったのか?が気になるのだ。以前、このブログに書いたにので、くりかえしになるが、ふたたび、具体的に、細かい機微を書いておきたい。

まず、ある掲示板の記事を以下に貼付する。わたしの体験とよく似ていて、いささか驚いた。

投稿日時:09年 07月 20日 19:46
3ヶ月くらい前に50歳代の上司より似たような話を聞きました。
朝方、腰のあたりに違和感(重さ・人の声)を感じ目を開けたところ・・・
身長約15cmでス-ツを着ている60歳くらいのおじさんが、『ヨイショ!ヨイシヨ!』と叫びながら上司の掛け布団を剥がそうと一生懸命引っ張っていたというのです。
一瞬何が起こっているのか理解できず、数秒程(身動きできないまま)見とれていたところ、そのおじさんと一瞬目が合ってしまったそうです。(不思議と恐怖感はまったく感じなかったそうです)さすがにびっくりして思わず目を瞑ってしまったら、あっという間に消えてしまったとのことでした・・・

そんな経験は生まれて初めてだそうで、『霊感も全くないのに、あれは一体なんだったんだろう?不思議だ・・』と言ってました。
とても真面目な方なので冗談を言っているとは思えませんでしたし、『夢』では絶対無い そうです。 (毎日夜10時に寝て、朝5時に起きる生活を続けている方です)


上記の体験を「09体験」と呼ぶことにしよう。09体験は私の場合と、とてもよく似ていた。自分一人だけでないことがわかり、妙にうれしかった。赤い字が私の体験と同じで、青い字が異なる。比較として、わたしの体験は「92体験」と呼ぶことにする。思いつくままに、箇条書きで、表すとこうだ。

1.いつのことか、、1992年秋頃からか93年冬にかけてだと思う。当時、蝸牛社の三年日記をつけていたが、その月日を特定できていない。日記の字が小さく汚く、読むのが煩わしいのだ。

けれど、C型肝炎治療として、1991年11月2日からインターフェロンαを筋肉注射を始め、いっこうに改善の見込みがないので、半年後か・インターフェロンβという静脈注射に切り替えて、その後の出来事だった。ちなみにインターフェロンβは1993年3月くらいで中止している。ウィルス量は全く減らず、ウンともスンとも言わない、その効果が見込めなかったからだ。忌々しいにもほどがある。

92体験は、夜ではない。昼過ぎから夕方になる前の、陽光がある時間帯に起きた。カーテン越しの日の光ははっきり入っていた。

2.どこで、、私が一人で住んでいた自宅だった。平面積50平方メートルほどの古い(1971年頃の建売)、小さな木造2階建ての2階の部屋だった。そこに布団を、ほぼ敷きっぱなしにして寝ていた。畳部屋で、ふすま2枚分の押し入れがあって、、そこで起きたのだ。

3.あらためて日記を見返しても、やはり、その日は出てこない。その日は、晴れで、週3回のインターフェロンβの注射をうちにバイクで御茶ノ水の順天堂病院に出かけたのだ。目白通りをまっすぐ、高田馬場をつきぬけ、飯田橋方面に向かい、途中左折して後楽園に抜けて病院に到着、所要時間は約30分。受け付けてもらってからが長い、1時間以上待つ。よくみかける肝炎患者が何人かおられた。そして、毎回、β注射は静脈注射なので、渡辺純夫先生に射っていただいていた。サッと注射され、ひと呼吸するとジワジワと身体のなかで騒乱が起き、今日も1時間以内に高熱が出ると予感させた。会計を済ませると、一目散に自宅へ逃走する、2階に上がり、布団に入ると、ドバっと熱が出始め、まいったなと、、こんなこといつまでやるのかとつぶやきながら、カラダを横にして眠る。

4.頭は窓の方に、足元は押し入れの方にあった。北枕の逆ならいいだろうと思ってそうしていた。眠り始めたのは14時頃、カーテンをしていたが、部屋は暗くなかった。うとうとしていると、ふと、足元を踏まれた感じがしたのだ、それも数度、ぴょんぴょん飛び跳ねるように踏まれたのだ。痛いじゃないかと寝ぼけ眼で、足元をのぞくと、二人の小人がいたのだ。正確にいうと、足元をみたとき、二人目は押入れから出て来るところだったと思う。そして同じようにぴょんぴょんはねたのだ。二人目は女性のように思えた。二人とも服は白っぽかった。向かって右側が老いた男の小人、左側が老いた女の小人が立っていたのだ。夫婦だろう。

5.小人の身長は80cmくらいはあったと思う。ネットで見かけるような15cmような、小ささではなかった。現在、2歳5ヶ月になる次女くらいの身長は、あった。あの二人は他者だった。夢ではなかった。私の幻覚が作り出したものではなく、私の外に実存する人たちだった。そう、実感していたのだ。おそらく、彼らもなんだか訳が分からずに、私を異界の人間として見ていたと思う。押し入れの麩が、異界との境目、そのドアノブだったのだろう

6.わたしとハッキリ目があったのは老女ではなく、男の老人の方だった。老女の目線は下向いていた感じがする
老人と見つめ合うこと1秒以上か、眼は驚きと恥じらいとが、ないまぜになっていた。上から目線ではなかったし、威嚇するような感じもなかったし、まして守護霊のような感じもなかった。フラットな関係で、「あぁ、みっかちゃったね」という、鳩の豆鉄砲のような表情をしていた。善人の眼をしていた。鼻のあたり赤かったかもしれない、白い服とは対照的に、顔の皮膚は浅黒く、カサカサしていたかもしれない。

7.知り合いでもないのに、全く、怖くはなかった。理性は遠のいていたのかもしれないが、実にリアルだった。

くりかえしになるが、、
最初は視覚でなく、触覚だった。足元の掛ふとんを踏まれて、数度ぴょんぴょんと踏まれて、痛かったのだ。踏まれた感じでは、二人は、よく、旅先のベットで飛び跳ねて喜ぶ幼児の心境に近いものだったかもしれない。一瞬、二人が楽しんでいる感じが伝わってきて、金縛りになるような恐怖感はなかったのだ。

なので直情的に、腹がたった。怒り声で「オイ、何やってんだ、いきなりやって来て足を踏みやがって、、ちょっと痛いんだよ!!オイ、聞こえてるか、」と大声をあげたのだ。わたしの声に、二人は、きょとんとした表情、驚きから次第に困惑したような顔になっていった。

後になって、どう思い返しても、彼らは他者だ、私の脳が勝手に創った人たちではない。それと、ドアとか、引き戸とか、ふすまとかはパラレルワールドとの「仕切り線?」という意味で、必要な装置だったかもしれない。

09体験のように、スーツ姿ではなかった。白っぽかったし、ラフな感じの服で、日常街で見かけるような服でではなかった。

「あのさ、今、悪寒のような熱でまいっているんだ、だから、あなたたちの事情はわかんないけど、そっとしておいてもらえない?」と、わたしは告げたのだ。

「とにかく、あんたがたが、掛ふとんをぴょんぴょんしなければ、こっちは、煩わされず、気づくこともなく、寝れたのに、余計なことをしてくんなよ」と告げたが、そう言う前に、二人はぴょんぴょん跳ねるのをやめていた。

「あ、ごめん」という顔を、男の小人はした。そこであらためて横になってみると、男の小人が布団の右のはじから回り込んで、わたしの背中部分の掛ふとんをトントンして、背中に冷たい空気が入らないようにしてくれた。となると、この出来事の季節は、秋が深くなった頃、初冬の頃かな?

「わるいわるい、気つかってくれて、ありがとう、大丈夫、これでよく眠れそうだから」とわたしは言った。そしてもう一度老人をみると、うなづくようように顔をたてに振り、じゃぁな、右手を上げた。その眼は「あなたは、大丈夫だから」と言ってくれているように見えた

そうして、老女を押し入れの上にあげ、続いて老人が這い上がり、消えていった。

8.少し眠ったが、、まてよ、この家には俺しかいない。近所に、あの二人が住んではいるとは思えない。それに今日は母親が世話をしに家に来る日ではない、、となると、あの二人は不法侵入者か、、とガバっと起き、押し入れのふすまを全開にしたが、何の気配もなかった。

以上が、わたしの92体験だった。出来事から25年の歳月がかかって、C型肝炎は完治したが、直観で、92体験とC型肝炎は関係があると思っている。

何故か、またいつの日か、ふたたび二人があらわれる気がする。わたしの最期のときに、ひょこっと、、そんな気がしている。そのときは何か小物の物物交換をするように、今から記憶のフックをかけておきたい。

追記、その後、家は建て替えて、今、二人がぴょんぴょん跳ねていたあたりで、寝ている。現れそうな押入れは、もうない。

母校47年下の後輩

1.きのう2月ぶりに、三鷹で頭髪のカットとヘナをやった。20年以上前からずっと、オーナー店長にカットしてもらっているが、このところ開口一番、店長の父親の病状たずねるようにしている。大腸がんから肝臓に転移されてから、2年以上過ぎていて、同病だったものとして、気になるのだ。

「父は、今のところ大丈夫です。5月の連休に見舞いに、実家に帰る予定」と店長は言われた。

2.そして、この4月から店長の次女は、都立高に入学したけど、「どこに行ったの?」とたずねたら、「鷺宮高校に入学した」と教えてくれた。ギョッとした。わたしの母校だからだ。次女は47年差の後輩になる。なんだか、愉快な気分になった。善きかな。

3.次女は、府中の試験場に近い自宅からバスに乗り、花小金井駅経由で西武新宿線の都立家政駅まで、土日も含め、毎朝6時に起き1時間の通学、剣道部朝稽古に出ているそうだ。すばらいい精進だ、脱帽。女子剣道部員8人と少ないが、団体戦は強いらしい。

4.鷺宮は昔から偏差値51くらいと高くはなかった。当時の高校入試は群制度で、鷺高は31群と第三学区で、もっとも低い偏差値の普通高校3校の一つであった。おまけに、その3校どこに行くか受験生は選択することができないという不自由さがあった。

5..それなのに、不思議なこと、わたしの同期には東大、千葉大、山形大、都立大とかに進学した人がいた。そのことを卒業してだいぶ経ってから知った。医者もいれば獣医もいたし、美大の教授もいた。勉強する人はひたぶる勉強していた、ということか、解せない。あいつら、いつ勉強していたんだろう。浪人してからか、、

6.鷺高は、軽音楽部とかクラブ活動がさかんで、伝統的に、ブータンのように、「シアワセ度の高い」高校だった。私たちがいた頃は、「恋愛の鷺宮」と言われたが、47年差の次女の鷺高の印象は、校舎は新しいし、私の鷺高観とは全然違うものに違いない。次女は看護師になりたいようだが、3年間、剣道に励むことができるなら、必ず看護師になれるに違いない。

5.私と同期の、作家群ようこの「都立桃耳高校」書き下ろし文庫小説2本立てを次回、持っていくう約束をした。大して参考にはならないだろうが、創立100年超えの都立高校の何かを感じてくれれば、幸甚。ちなみに、群ようこなる女子高生が当時、どんな人だったか、今もって、わからない。

その「都立桃耳高校」の、Amazonのコメントを以下にコピペする。私の1年先輩の方が書かれていて、響いてくるものが多々あるり、不思議な、あたたかい気分になった。先輩に感謝、、

夢のように・・・・・・過ぎ去り。
2014/4/21 投稿者 taka

1970年前後の都立高校の様子がよみがえりました。

私もリアルタイムに経験できた事を還暦が過ぎた今、ほんとうに楽しい思い出として残っています。実は私、群さんと同じ高校の一年先輩にあたります。そして、都立桃耳高校は創立100年をこえる実在の高校なのです。

群さんは小説としてお書きになっていますが、内容のほとんどが実際のことなのです。登場の犬の太郎は70年に赴任された、漢文の先生がどこからか拾ってきた犬でした。漢文の授業中は、教室の後ろで丸くなっておとなしく眠っていたものでした。

当時の新宿あたりや学校周辺の喫茶店は今でもあるのでしょうか。特にFには毎日のように寄ったっけなぁ~。

ロッカーのオカイくんやモリゾノくんは、のちに日本を代表するプログレッシブグループの中心メンバーとして大活躍しました。オカイくんとは去年の同期会で会いましたが、相変わらず良いやつでした。

私は1969年に入学しましたが、70年安保や大阪万博など毎日がお祭りでした。音楽でも芸術でも、何もかもがアグレッシブで希望に満ちた時代だったように思います。単なるノスタルジーではなく、ほんとうに良い時代の青春でした。


ちなみに、Fとはフジノキというケーキ屋さんのことだろうが、喫茶はなくなった。オバケモない。今も当時のイメージのまま存在するのは、校門に近い「水庭ビリヤード」だけかもしれない。

ともあれ、47年後輩のアキラさん、貴女の未来は明るい、頑張れ、、

乾癬のその後

昨夜、500mlの第三のビールを1缶だけ、飲んだが、少し多いと感じた。私は、少しでいいのだ。さて、いつもそうだが、この記事も尻切れトンボで終わる。あとで、書き加えるやり方が、性に合っている。

1.乾癬がぶり返して来ている。練馬総合病院の皮膚科に乾癬外来という表示があったので、問い合わせると、乾癬に詳しい皮膚科の医師がいるわけではなかった。いったんは予約を入れたが、担当医師の女医は2005年卒のようで、30代後半か、問診に応えるカタチで、わたしの病歴を語っても、その医師には、理解できないだろうなとみた。皮膚科の医師に、優れた人は、あまりいないのではないか。乾癬の場合、情報の非対称性は、医者と患者との関係はマ逆で、病歴が長ければ長いほど、患者の方が、情報量が優っているのではないか、と見ている。

2.おまけに、そこは予約料540円を別途とる、という。お金を払って、懸命にわが乾癬歴の話をしてあげても、大した治療法は出てくるとは、思えない。乾癬外来の看板の意図は、光線治療でお金をとることにあるのだろう。

3.けれど、乾癬の軟膏がなくなってしまい、身体のかゆみは著しい。わたしの「駆け込み寺」である南町医院に受診することにした。ネット予約の順番は30番以上、今日はまたなんで混んでいるのだろうと思いつつ、これが永田医院長の地域密着医療の力なのかと敬服。19時すぎ、互いに勝手知ったる感じで、血圧とBMIと対話は正味3分、、だがけっこう響く。

「きゅうに4kgも増えれば、乾癬がまた出てきてもおかしくないんじゃないの」

「C型肝炎、ウィルスが消えたからと油断しちゃダメ、、まだエビデンスがないんだから、経過観察することが大事!」

、、笑顔を浮かべながら、そんな風なことを永田医院長は言われた。

処方箋は ドボネックス軟膏とトプシム軟膏の混合(この方が安上がり)ヘパリン類似物質油性クリーム、ロキソプロフェインとドボネックス以外はジェネリック薬である。これで十分、高い医薬品は要らない。ちなみに、診察料1320円、薬代3460円、計4780円。次回は6月に受診しよう。

医院長もだいぶ年をとられた、感じがしたが、やっぱ、徐々に心に刺さってくることを言ってくるなぁ、この先生は、と1991年8月21日の、C型肝炎告知の夜を思い出させてくれた。

その夜「原因がわかったよかったじゃないか」と言われ、、ギョッとして、奈落に落ちる感じを思いっきり味わったなぁ、、

ともあれ26年前と同様に今回も、、情報の対称性、非対称性はどうでもよくなり、イッポン、とられた感じになる。それが心地いい。AB型かな、医院長も?
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