わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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感想、映画「人間革命」

今は2015年2月17日(火曜)だが、
このブログの日付けは還暦になった
その日に、遡らさせた。

まったく一人言であり、
人の目にとまらせないための、
ささやかな工夫だ。

昨日2月16日、映画「人間革命」のDVDを見た。
40年ぶりに見たのだが、、今見ても、
丹波哲郎はさぞかし大変な思いをしたことだろうが、、

彼はそのときの苦労は語らず、
やがて霊界だかなんだか、
わけのわからないことを始めだす、、
丹波哲郎さんは一種の憑依体質だった
のかもしれない。カオナシだ。

映画に戻る。実に説明の多い映画だが、
十界論がテーマの中心になっていたが、
私は、次の細部に目がいってならなかった。
脚本家の橋本忍の抽象力?を感じた。

あえて敬称を略す。

1.牧口常三郎と戸田城聖は、日蓮仏法を始める前から
固く結ばれた師弟関係であった、ということだ。
財政面から牧口の構想を支えたのだ。
牧口の価値論に対する共鳴もあったのだろうが、
牧口の人格に強く惹かれたのだ。これは重要な事実だ。

2.戸田城聖は治安維持法によって刑務所に
収監され、やがて「仏とは生命の別の名」という
深い気づきに到達したが、
そう気づく下地、淵源は、時習学館の時代、
黒板に犬と書き、子どもたちに
「さあ持って行きなさい」と教えたことに
通底する。

3.畢竟、名前を知ることはそれを
持つことと同じなのだと。受持即観心。
日蓮は、宇宙と私たち生命に対して、
南無妙法蓮華経という名前をつけたのだ。
プラトンは「善のイデア」にとどまったものを
やすやすと超えた。本仏だから、できたのだ。

4.私見だが、日蓮の名も、生命の異名に
他ならないとも思っている。

「分子生物学的にみて、
真核細胞という生物は、一個の核とミトコンドリアから
なる。核は太陽に通じ、ミトコンドリアは蓮に
通じる」と考えると、深く納得できる。
今のところ、こんなこと言うのは私だけだが。

5.戸田城聖の独居房での「所属と無所属」の問題。
映画には出てこないが、戸田城聖はもう一つ
到達したものがあった。
法華経のドラマ、虚空会の中に
実は自分もいた、という自覚だった。
それからたちどころに、法華経が読めるように
なる。ただ、思い出したのだ。
そして戸田城聖は、出獄後、牧口の価値論を封印し、
法華経と日蓮遺文「御書」から指導を始める。

6.私見だが、人は誰でも、
所属の時間と無所属の時間を持っている。
獄中の戸田城聖は、どうだったのだろう。

牧口常三郎のことが心配でたまらなかった
だけでなく、意識は、所属と無所属をいったり
来たりしなかっただろうか?

所属とは、経営者との立場であったり、
その団体の理事長という立場だったり、
属しているという意識であったり、する。
無所属はそこから離れた意識のことだ。
そういう反芻があったに違いない。









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