わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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心象の原風景は二つ

60年生きていると、
何度も思い出す心象の原風景が二つある。

わたしのこころの奥底に沈潜する光景であり
何度も反芻する。
一つは人であり、もう一つは場だ、

一つは、自分が出た大学の創立者と
1974年12月に、、
ほんの数秒間に過ぎないが、
互いに目を合わせときの風景。
そのときの創立者は厳しく、
わたしへの一言は決定的だった。
ずっと、こころに刻まれている。

もう一つは、、
2010年5月27日早朝の病室の、、
大地震を体験したかのような
手術直後の風景だ。
直腸がん手術をした
翌々日の個室だった。

二つとも、楽しいとか、
有頂天になるようなものではなく、
むしろ。いずれも、
自分の奥底が包み隠さず、
洗い出されていくような感覚だった。

悟りなんていう
大それたものではないし、、
神秘的なことは何もないが、、
消えない記憶、、

つまらない寒々とした自分の
こころが透けて見える、、
というのに近い心象だった。

二つの心象風景とも、
「な〜んだ、結局自分って、
宿命を切り替えるギアが全然入ってなく、
前世と同じように流転しているだけだな」
と気づかされた。

そして今もなお、
自分の目は、とても清明とはいえない、
澱んでいる、とわかる。ベースは暗い。

ただ、、

自分の奥底にあるものと直結する術は
これしかない、、と確信はできてきた。
怪我の功名でなく、直腸がんの功名といえる。

自我を超えた大我が、間違いなく、
ひとりひとりの人間の根っこにある
という確信。

「心の師とはなるとも
心を師としてならない」と
ある経文の、心の師に直結するのは、、
この方法しかない。

それは瞑想ではない。
検索すれば歴然だが、瞑想は精神が病む。
瞑想は「心を師とする」ことになるからだ。

すべては「心の師」からはじめるのだ。

いったい何を言っているのか
不可解な感じがすることでしょうが、、

まったく自分への楔として、
こころのフックとして、
書きとどめておきたかった、なので

あしからず、、


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