わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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信長の温情

信長公記によると、
天正3年、織田信長に、
こんな出来事があった。

この頃、哀れなことがあった。
美濃と近江の国境に山中という
所がある。

その道のほとりで、
身体に障害のある者が雨露にうたれて
乞食をしていた。

信長は京都への上り下りにこれを見て、
たいそう哀れに思い、

「たいてい乞食というものは、
住む処を定めずにさすらい歩くも のだが、
この者はいつも変わらず、ここに居る。
何かわけでもあるのか」と、ある時、
不審をいだき、町の者に尋ねた。

町の者は、その由来を答えた。
「昔、この山中の宿で常盤御前を
殺しました。その報いで、殺した者の
子孫は、代々身体に障害をもって生まれ、
あのように乞食をしております。
世間で"山中の猿"と言っているのは、
この者のことでございます」と言上した。

6月26日、
信長は急に上京することになった。
その多忙の最中に、
あの乞食のことを思い出し、
木綿二十反を自ら用意して、
お供の者に持たせた。

山中の宿で馬を止め、
「この町の者は、男女とも
全員出頭せよ。言いつけることが
ある」と触れを出した。

どんなことを言いつけられるのかと、
人々は恐る恐る出頭したところ、

木綿二十反を乞食の猿のために
下賜し、町の者たちにこれを預けた。

信長は、
「この木綿の半分を費用に充てて
近所に小屋を作り、
この者を住まわせて、
飢え死にしないように
面倒を見てやりなさい」と言いつけた。

さらに、
「近隣の村の者たちは、
麦の収穫があったら麦を一度、
秋の収穫後には米を一度、
一年に二度ずつ毎年、
負担にならぬ程度に少しずつ、
この者に与えてくれれば、
信長はうれしく思う」と言い添えた。


以上、いささか驚いた。

情け容赦ないイメージの織田信長だが、
乞食の子子孫孫にわたる宿業を哀れと
感じたのだろう、信長の民をみる目線がいいし、
戦い明け暮れるなか、よく庶民を見ていた。

明日「信長公記」を図書館に
返さねばならないので、
印象に残っているところを書き留めた次第。

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