わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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大根田勝美さんという人

少しブログから遠ざかっていたら
コメントをくださった方がいたことに気づき、
ありがたいな、と思いつつ、最近の断想を。

本はいつも、最初は図書館から借りて
積ん読して、引き寄せられるものが
あるとサクッと読み、
要約とはいえないキーワードをノートし、返す。
しかしほとんどは、積ん読いて、返すだけだ。
それでいい。

けれど、たまに日が経つにつれ、
思い出す本が現れる。そうしたら
その古本を買うことにする、そんな流れに。

そうして今週、蔵書にした本があった。
大根田勝美著
「億万長者になる7つの鉄則」朝日新書 2013年

1937年生の100億円の資産家だ。
たしかに、あざといタイトルだが、
内容は堅実で示唆にとんでいた。

以下検索したものをコピペする。

米国・ニューヨークからほど近いニュージャージー州の高級住宅地に、2000坪の土地を持つ。約33万ドルで1984年に購入し、純和風の庭園と邸宅を完成させた。「米国で日本庭園を造るのは私の夢、誇りでもありました」
大根田勝美は、「個人資産は100億円以上」「米国で一番成功した日本人ビジネスマン」とも言われる。日本に一時帰国する時は、東京都内のマンションに住む。2年前、6億円で現金で購入した。
記者は、半世紀近く前に渡米する前後の写真やエアメールを本人や知人に見せてもらった。ピザにかじりついている26歳の大根田は、まっすぐ前を見つめている。
「ピザなんて、それまで食べたことなくて」
もとはカメラの組立工だった。中学卒業後、オリンパス光学工業(現・オリンパス)の長野県・伊那工場で働きながら定時制高校に通った。胃炎になり、胃の3分の2を切除された。
東京に転勤すると、カメラと顕微鏡の修理部門に配属された。
輸出部の大卒社員が、海外からの研修生を引き連れ、出入りした。黙々と修理し続ける工員を前に、これみよがしに英語で雑談し、大声で笑って去っていく。
「気に入らねえ」。劣等感と嫉妬心。「英語ができれば、自分だって」
一念発起して、社内の英語教室に通い始めた。だが初歩的な内容でも、基礎がないからついていけない。
教室には、優秀な人材を探す人事課員も参加していた。その目を、意識した。
「一度撤退し、1年間密かに独学しよう。みんなを追い抜き、驚かしてやる」
貯金5万円をはたき、英語学習のレコードを買った。毎朝1時間聴き、ノートに書き写して通勤中に暗記。寮の天井や壁を、英語の慣用句を書いた紙で埋め尽くした。
その間、営業部に異動し、胃カメラの販売を担当するようになった。海外駐在員になりたいと思い始めた。
1年後。英語教室に復帰した。人事課員もいる前で、胃カメラについて見違える英語で説明してみせた。”Very good!”。米国人の講師も目を見開いて驚いていた。
新婚旅行から戻った直後、人事部長にニューヨーク駐在員を発令された。
「胃カメラ販売の基盤を作ってこい」
海外駐在の中でも当時、別格だった米国駐在員の座。そこに、中卒の組立工出身として初めて抜擢された。
64年に渡米して最初に住んだ部屋は約3畳。月給は400ドル(当時約14万円)だった。
米国では胃カメラより需要の高い内視鏡に力を入れることになった。
日本人や日本商品への偏見があった時代。しかも初対面で多忙な医師に、短時間で強烈な印象を与えるにはどうすべきか。そう考え、自らの胃の手術跡を見せもした。「若い時にこの内視鏡があれば、僕の体はこうならなかった」と。事業は軌道に乗った。約10人の部下を抱えるようになった。
米国で5年目の春。東京にいる同年齢の大卒組は主任に昇格したが、好成績を残している自分には何もなかった。
「どんなに頑張っても、中卒入社というだけで報われないのか」。絶望し、退社を決めた。

再び頭をもたげた「大卒」へのコンプレックスと反骨心は、幼いころの記憶に根ざしていた。
集団疎開先の伊那で、父親は身寄りも仕事もほとんどなかった。「自分で稼ごう」と小学校の登下校中、道に落ちているガラスや銅線などを拾い、換金した。高校に行けなかったのも経済的理由だった。
終身雇用が当たり前だった時代。慰留されたが、翻意はしなかった。
退社後は販売代理店を立ち上げ、オリンパスと契約。売り上げの10%が報酬の契約だったが、好成績でも報酬率が引き下げられた。5年目で関係は破綻した。
数カ月後。米国への本格的な進出を目指していた医療機器メーカー、町田製作所から声をかけられ、合弁会社を立ち上げた。この合併会社は4年半後、米国の内視鏡販売で出遅れた大手光学メーカーの旭光学工業(後のペンタックス、現・HOYA)の傘下に入り、旭光学とは新たに合弁会社を設立した。
当時、日本ではまだM&A(企業の合併・買収)への関心が低かったころだ。「せっかく立ち上げた会社を、なぜ売ってしまうのか?」と不思議がられた。

「会社とは経営するものではなく、売るものだ」。それが大根田の信念だ。「一つの会社を作り上げる力と、大きくするノウハウは別」なのだという。
そんな中、大根田のその後の人生を決める出会いがあった。75年、ボストンで開かれた内視鏡の学会に190cm、100kgはあるという「岩がそびえ立つような」巨漢が現れ、握手を求めてきたのだ。
ユダヤ人のルイス・ペルと名乗った。ウォール街で名をあげたトレーダーだったが、オイルショックなどで株から足を洗っていた。医療機器界で知られた大根田と組もうと、売り込みに来たのだ。町田との合弁会社の販売員として契約したところ、頭の回転が速く、カリスマ的な話術や先見の明もあった。
「こいつは単なるセールスマンで終わらないな」。ある日、新会社の副社長への昇格を打診した。二人三脚が始まった。
ペルには誕生日に高級車を贈ったこともある。「感謝は言葉だけでなく、ちゃんと形にして示すことが大事」
80年代に入ると、ペルは副業として「起業サポートビジネス」を持ちかけてきた。医療系の新しい機器のアイデアを持つ人物に接触し、資金や人材を集めて起業させる。出資の見返りに株式を安く取得。事業が順調にいけば、大手企業に買収され、大金が転がりこむ仕組みだ。
大学の心臓内科医がカテーテルの針状の先端を曲げられる発明をしたという情報をつかむと、大根田とペルはそれぞれ基礎資金として15万ドルを出資し、商品化のための会社を立ち上げた。4年後には500万ドルの売り上げを記録。大手会社に買収され、投資した15万ドルは40倍の600万ドルで戻ってきた。
別の会社には設立時に25万ドルを出資し、その後、米最大手のジョンソン・エンド・ジョンソンに吸収合併された。3500万ドル超の持ち株売却益を得て、元手が140倍になった。
いずれもペルが見つけてきた話だった。ペルの人や商品の情報網と、大根田の資金収集力や会社を立ち上げる技量。その相乗効果が、巨富につながった。
今も日米の医療系の企業に、1億円単位で分散投資している。「小さくてもいい物を見つけて育てている。収穫は大きいと思う」
妻が4年前に体調を崩したのを機に、会社組織からはすべて退いた。「心労をかけ続けた罪滅ぼしに、これからは一緒にゆっくり過ごそう」。庭園の一部を有機農園にしてキュウリやトマトなどを栽培し、料理している。

以上、、わたしは億万長者に関心はない。
時流がよかったこと、
自由診療の米国だからこそ
巨富の端緒がつかめたのだろう。

そのことより、
ストリートスマートという言葉を知ったことが
大きい。それは、

自分の置かれた環境を徹底的に観察しつつ
具体的に変えていく方法を見つけていく力、
実人生の知恵をさす。

その反対概念はアカデミックスマートだ。
学者の知識ともいえよう。

すごく合点がいった。
ジブリの鈴木敏夫氏は、大学4年のとき
そのまま学者の道を選ぶか 迷ったときに
友人から「おまえは実人生をすてるのか」と
言われ、ハタと気づき、
徳間書店の入社試験を受けたという。

その後鈴木さんの仕事は
ストリートスマートそのもの、
生きる羅針盤は加藤周一だった。

これは、マイ100冊新書の一つにする。

さっき木村拓哉の宮本武蔵の前半を観た。
大根田さんはある意味、武蔵に似ている。
けど大事なのは、対極にいる「又八」という男であり、
多くの男の人生は武蔵より又八に近い。

読み手の心が、又八から武蔵に、
振り子のように、右往左往する心の機微を
原作者吉川英治は意識していたに違いない。



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2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
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