わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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同一人物かも、世良田律子さん

私の場合、友人の記憶は高校から始まる。

小学校、中学校のときの人とはまったく音信もなく、
どうにも思い出せない。

むしろ先生方の方が記憶に残っている。
なかでも、本を読むことの楽しさを教えてくださった
4年の担任、斉藤省吾先生の記憶は、
自分の内奥に深く留まっている。

その大人の男の目はこうも厳しいのか、
という印象をもった。その目は、
日本共産党の覇者、宮本顕治氏に似ていた。

ある日、斉藤先生は半日かけて、
ご自身の生い立ちをかたられた。
貧困のなか、苦学生として教職の道に
ついた話だった、、感動した。
その、聞いたままを作文にしたとき、
先生はたいそうよろこんでくださり、
ありがとう、いずれ半生記を書いてみるよ、
と言ってくださった。

全体が怖くもあり、発言は重く響いた。
なので、斉藤先生が担任の4年のときは、
きちんと集中して授業を受けた記憶がある。

5年になり担任が別の先生に変わったとき
斉藤先生がくださった「銀のナイフ」(すでに絶版)という
岩波の児童本には、斉藤先生の次の言葉が刻まれている。
「   」

50年前の話であり、存命なら100歳近くになっているかもしれない。
その斉藤先生の消息を知っていたかもしれない人として、、
同級生の「世良田律子さん」が思い浮かぶ。冷静な、気品のある人だった。


練馬区内の小学校、中学校がいっしょだった。
バイオリンが弾けていたし、朝日のジュニアオーケストラにいたて、
一度だけどこかの演奏会に、聴きに行ったような気がする。

たしか中学のブラズバンドでは、
クラリネットをやっていたのでないかな、、
ちなみに私はアルトサックスをやっていた。

高校はわたしの行った高校より上の都立高、石神井高校かな?に入った気がする。
中学卒業とともに、意識から遠のいた女性だった。

でもわたしの「思い出ポロポロ」には、
必ずその名前が思い浮かんでくる。
声はやや低めで、冷静で、頭がいい人だった。

珍しい名前なのに、検索すると、、でた。

同姓同名の女性に関する記事、2006年頃の記事が表れた。
なんとなく、わたしの印象と重なる。そのまま転載すると

きょうの新聞のおくやみ記事を読んでアッと声をあげた。
「喪主・世良田律子さん」って私のしってる「世良田律子さん」だろろうか?
私のしってる「世良田律子」さんなら30年前、
どっぷり関西に漬かってた私に初めて「東京の人や~」
とショックと憧れを抱かせた人だ。
東京、といっても銀座とか浅草ぢゃなくて
下北沢とか吉祥寺といったイメージ。(あくまでも私の中の)
理知的でボーイッシュでいて女らしくて…下級生はみんな憧れた…と思う。
「うちの兄貴の得意料理でさ~」と言いながら教えてくれた超簡単宴会のひと品。
今もときどき作ってます。
  ※宴会サラダ?※
    大根 マッチ棒状に切る
    わかめ もどして一口大に切る
    コーン 缶から出して水を切る
      以上をマヨネーズで和える  だけ

パートナー(事実婚でいらっしゃるのでしょうか)のご冥福をお祈りしています。


55歳で亡くなられた画家の奥さん?だったのだろう。

また何か思い出したら、この続きを書こう。

2017年04月29日の追記

やはり私が知る世良田律子さんは貝原浩の連れ合いの世良田律子さんと同一人物のようだ。
市民ラジオのサイトの写真、その女性を見て、「あぁ、やっぱり世良田だな」とつぶやいた。
そのサイトの口上を貼付しておこう。

アーサー・ビナードが初めて担当する市民のための自由なラジオ“Light Up!”。第1回目は何をしようかと考えていましたら、わくわくしすぎて、初回からスタジオを飛び出してしまいました。アーサーは、好奇心いっぱい、じっとしていられないのでしょうね。

今回は、東京都練馬区は江古田にあります画廊、ギャラリー古藤(ふるとう)で開催されていました画家、故・貝原浩さんの原画展「チェルノブイリからフクシマへ風しもの村 原画展 貝原浩が遺したチェルノブイリ・スケッチ」におじゃましたときの模様をお届けします。貝原浩さんは、チェルノブイリ原発事故から6年後、「風しもの村」となったベラルーシを訪れ、そこに暮らす人々のスケッチを遺したのですが、それから度々現地を訪れています。そんな貝原浩さんの絵に囲まれながら、貝原さんのお連れ合い世良田律子さんにお話を伺いました。

今年は、チェルノブイリ原発事故から30年という節目。1986年4月26日に起きた過酷すぎる核災は、世界を震撼させました。ただ現地の方々には、なかなか正しい情報が届かず、多くの方が被爆をし、亡くなっていきました。そして被爆した子どもを中心に甲状腺がんが多発。日本からもたくさんの医療支援が行われて来ました。貝原浩さんは、そんな医療チームに同行したわけです。

そして貝原さんは、立ち入り禁止区域のはずなのに、そこで暮らす人々に出逢いました。それからというもの、その人たちを描き、その人たちと語り、その人たちと同じ食卓を囲み、結果、貝原さんは癌を患い、若くして亡くなります。

愛おしい視線で、大地に生きる人々を描き続けた貝原浩さんの絵から、そしてそこに添えられた文章から、私たちは何を受け取るのでしょうか?

この原画展を見に来ていた朗読家の原きよさんの朗読も交え、世良田律子さんとともに、チェルノブイリ、そしてフクシマについてもじっくり語り会いました。どうぞごゆっくりとお聴きください


以上、ギャラリー古藤は自宅から近い。世良田さん近くに来ていたんだな。

いずれにしても、小学校のころの人を、全く邂逅することもないまま、こうして遭遇できたのは、初めてだった。きちんと生きて来られたのだろうな、と感じた次第。いつまでもお元気で、、と祈る。



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