わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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小林秀雄と田中美知太郎

きのうあるとこに書いたものを
そのまま転載しておきたい。

きのうのブログと重複するが
お赦しあれ、、

・・・・・・・・・・・・・

最近、田中美知太郎という偉大な哲学者の
全集にはさまれていた月報を読んでいましたら、

その中に、小林秀雄との対談のことが掲げられて
おりました。

お二人は奇しくも1902年生まれ同士で、
哲学という川をはさんで対峙しながらも
何か呼応するものがあったようです。

昭和35年9月になされた
「現代に生きる歴史」という
テーマでなされた対談に、
次のようなやりとりがありました。

小林秀雄は言う、
「現代の唯物史観的な歴史家の傾向というものは
進歩したつもりで、実は退歩している。
徳川時代の古学者とか国学者の考えの方が
ずっと正しい処があると言えます。
彼らにとって歴史的対象とは、
ある時代の事実ではなくて
事実がその時代に経験された、
その経験の意味だったのです。
これは正当なことです。
客観的事実自体には歴史的意味はない。
その事実が、どういう風に感じられ、
どういう風に考えられていたかということが、
歴史的事実である」

これに対して
田中美知太郎は素直に肯定した上で
次のように言われた。
「実際に宗教家というか、
そういう人物が書いたそれが、
実は一番うそのない証拠なんですね。

あとの物的証拠というのは
完全犯罪の場合と同じように、
うっかりするとだまされることがある。

だから、その時代を知るには、
その時代を生きた宗教家とか芸術家とか、
そういう人の書いた書物を本当に理解すると、
それがやっぱり一番うそのない証拠になる。
それを大事に取り扱わないとのは大変な間違いだ。」

と応えられていました。

おぉ、なんというタイムリ-な文章に遭遇したのだろう。

というのも、「いまでしょう」と一念発起して
鎌倉時代の日蓮の遺文集(「御書」という)の全編を
音読することを4月に決めて、日々進めているからです。

御書は1619頁あり、全429編あります。
短いものから音読し始め、
現在639頁、324編を読み終えたところです。

これからが大変、、
未読の長文の御書が山脈のように連なっていて、、
今は、いわば尾根伝いの縦走をひかえ
ベースキャンプにいるようなものですが、、

田中美知太郎の言葉を深くかみしめていたところです。

その含蓄ある言葉が心地いい、、


田中美知太郎さんのことはまた次の機会に書くことにしたい。




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