わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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森岡正博氏の言葉から気づいたこと

今回の記事で500になった。
あと2500書き、3000にしよう、と思っている。

さて、

無痛文明論に惑溺する
森岡正博という人がいる。

彼の著書
「宗教なき時代を生きるために」を
借りて読んだ。

買って蔵書するほどの価値はない。

宮台真司といい、
近頃の人文系の学者は、、
アタマがいいのだか わるいのか、、

学歴というレベルは高いのだろうが、
人間学というラベルでは稚拙に思えてならない、、

と感じさせる。。

それに、誰もがリスペクトする

田中美知太郎さんにしても、
西谷啓治さんにしても、

自分を哲学者などと
名乗りはしなかった。

戻る、

本の「はじめに」で、全てが表現されている。

生きる意味はとは何か。
私が存在するとはどういうことか。
これらの問いに自然科学は何も答えてくれない。


しかし、

それらの問いに解決を与えてくれるという
宗教を、私は決して信仰することはできない。

この宙ぶらりんな私は、
どうやってこの世界で生きていけばよいのだろうか。

そして、答えは、、

自分自身の内側から
根本問題に対する解答を
発掘してこなければならない。

そうした孤独の作業を多元的にささえあい、
閉じた癒しの共同体をつくるのではなく、
遠くからはげましあってゆく何かの仕組みが
必要なのだ、、


という。

内容のオウム真理教のことも
尾崎豊のことも、正直どうでもよく、
共感できるものはほとんどなかった。。

私の批判は、そうは言っても、

結局、そこにも自家撞着があるのだ、、

上記の「何かの仕組み」は、
森岡さんを起点とする森本教といわれても仕方のない
小乗仏教のような、ワークショップが生成されるだろうから。

そのことより、

自分の思考の整理につながる言葉があった。

森岡さんは、宗教の「信仰」に対する違和感は、

「絶対の真理がすでに誰かによって
説かれている」ということに、
いつも無限の距離を感じてしまう、
ことだという。

それより、森岡さんは

絶対的な真理に到達できない私の限界を
ありのままに見つめることで、逆に
超越者の存在を受け入れることも信仰であると、

拠り所にしていかれる、ようだ。

大学時代のことを書かれている。

そのころ、大学のキャンパスは、
新新宗教の勧誘であふれていた。
私は無数に声をかけられたし、
日蓮宗系のS学会の人とは
つっこんだ議論もした。

私は理系の学生だったから、
科学では生と死の問題は解けない
という話題からよく入った。

その点は彼らもすぐに同意してくれた。

しかし、私は、
あなたの宗教でどうして生と死の
問題に解答が出るのか、

それを証明してくれというふうに
がんばったと記憶している。

彼らは、結局、
聖典に真理が書かれているから、
それが正しいのだという
トートロジー(同語反復)でしか
答えてくれなかった。

その答えは、科学者をめざそうとした
ことのある私にとっては、納得がいかなかった。


世界と宇宙の成り立ち全体にかかわる
こんな根本的なことに関して
「××こそ正しいのだ」という断定をしたり、

あるいはその命題の正しさ自分のいのちを賭けて
全身全霊で疑うことを積極的に停止したりするという、
態度はとれないからである。


それより、


思考を放棄せず、
自分の目と頭で、生と死の意味を追求していきたい
と考えている。


以上、

森岡さんの文章から気づきは、
トートロジー(同語反復)
という価値判断だ、ある意味、正しい。

宗教の壁を示唆している、と思う。

正しいことの根拠を、経典によっても、
論理によっても、全くの第三者に
伝えることは、困難だからだ。

日蓮の教学には、
その正当性のエビデンスとして
文証、理証、そして現証があるが、

仏教に縁のない第三者には、
文証、理証は、まさにトートロジー(同語反復)
と判断されても、仕方がないのだ。

ただ現証だけ、つまり
体験あるいは経験だけが、
宗教の壁を氷解させることができる
のだろう。

司馬遼太郎は、日蓮宗を
現世利益の宗教と評していたが、

それは現証を揶揄した評価なのだろう。

素朴に、
宗教への入信は、神秘的な悟りを
得たいと思いにたって、
始める人は少ないのではないか?

敗戦後のS学会の興隆は、
圧倒的に、病気や貧困から、
どうにかしたい、という
庶民ひとりひとりの、
やむにやまれぬ行動の選択、、
その連鎖なのだ、と言いたい。

そんな利益信仰、、などと
あなどってほしくはない。

それが汎生命、自分自身を見出す
契機になるからだ。


私は、思考という表層の意識に
それほどの優越性があるとは思っていない。

森岡さんは「生命学」という言葉で、
知性の方向性を志向されているようだが、

それが私がいだく「汎生命論」からみると
「生命学」のニュアンスは穏当ではない気がする。

もう一つ、
森岡さんは、病をかかえておられるだろうか、、

死に至るかもしれない病をかかえたとき、
森岡さんは、どのようなことをいわれるのか、、
うかがいたい、きがしている。

「病いによりて道心に入る」からだ。。




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