わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
TOP生老病死と汎生命論 ≫ 森毅と森敦の対話

森毅と森敦の対話

今朝の体重は62.5㎏体温は36.2度で、体調はいい。

見た夢は複数の大きな珍獣(現実にはいない)を飼っている夢だった、、全く意味は不明、、

わたしは、おぼろげに、自分の病気の解明に知恵を与えてくれるであろう
森敦の「意味の変容」という小説が好きだ。

それは、生涯をかけて、何度も手直しした小説で、、ダヴィンチでいえば終生手元においていた
「モナリザ」のような本だ。

森敦は詩人ランボーのような人だったと思う。22歳で鮮烈に文壇デビューして、
忽然として消え62歳で芥川賞をとる。

回帰するところが、ランボーとは違うが、それは養女や周囲の期待に呼応したのだろう。

森敦は天才だったと思っている。文学にとって数学が大切と気づいている人だからだ。
その天才が、もう一人の天才、数学者の森毅と対話している対話本がある。

「森毅の学問のススメ」(編集:浅田彰、ちくま文庫)

もしかしてあるじゃないかと探してたら、あった、、浅田彰氏が引き合わせている。
合わなければならない二人が、会うべくして会った。
さすが、、二人の思考のにじり寄りを見事に編集している。

1984.12.21の対話だ。日付まで印す浅田氏の熱い思いが伝わってくる。

「竹林の七賢」のような二人の会話は高尚で、楽しそうだが、肝心要の対話のところが全くわからない。
しかし、森敦が「今日は本当に満足しました」と言われた。

その最後のクライマックスの部分を、今はわからくても、いつか読み起こすしたくなる自分のために、写経のように、対話を写し、載せておきたい。。
(延々と、日々ちょっとずつ書き込む旨、お赦しあれ)

P308
敦:とにかく、僕らが文学でやるので、「意味の変容」でもときどき数学からはみ出して、
  言うことがあるわけですよ。

  たとえば、あの近傍の中では中心はどこに来てもいい、というやつですね。
  その中心は近傍の域外まで歩き回るんだと僕は書いてるんですよ。
  そんなこと証明されてないんでね。ないけれども、ま、考えてみようと。

  それは「宇宙の樹」というのに書いてあるんですが、僕らの近傍には関係ないけれども
  中心になっているような「宇宙の樹」などというものの存在は、厳密には証明されないわけです。

  そうやって、自分勝手にですね、数学をやっている方に説いているんじゃなくて、
  どれが一番簡単な数学から説けるか話せるかというのをやっているんで、
  途中で逸脱していくわけです、文学的逸脱をね、

  数学というのはもう、そういう空想じゃだめなんですから、どうしたって証明してやらなくちゃいけない。


毅:ま、それも、建て前だけみたいなとこもあるんですよ((笑)

  ただ、数学との関連でいうと、数学との関連で言うと、ちょっと「意味の変容」を読むときの
  つらさみたいなものがあるんです。

  それはね、個々の用語に、数学としてある種の意味のイメージを付与してあるでしょ。
  それをある程度、それこそ意味を変容さして理解しなければならない。


敦:いや、僕はおっしゃるとおりだと思います。


毅:それはまあ、数学用語に対してもっている既成のイメージにこだわってたら読めないということですね。


敦:それはね、先生ね、あれ、なんとも言えない満足と、何とも言えない恐れがあるんです、僕には。
  その恐れを知ってないことはないんです。

  “こんなばかなことを言わなければいいんだがなあ”と思うんだけど、
  そこのところから妙になってくるわけですよ。


毅:それからもう一つは、数学というのも、わりかた動いているわけです。
  ある一つの段階で使われた用語というのに対して後から別のイメージが付与されて動いたりしてるでしょう。

  そこら辺のところをこだわっちゃうと、ちょいとつらいとこがありましてね。
  機械的に、形式的に言うと、そんなことはないんじゃないかということは、いくらでも出てくると
  思うんです。

  しかし、逆に言えば、数学というのはある意味で言うと思考のメタファーみたいなところがありますよね。

  ものを考えるときのものを考える形みたいなものを、なんとかかんとか定式化していく。

  それだから変わるんですけどね、ある程度。ま、そういうことで読むと、ま、だいたい…(笑)


敦:それはね、先生ね。僕ら近傍なんていう言葉なんか、もちろん知っているわけですよ。何で覚えたのかと
  思っていたら、ハイネーボレル、あれから覚えたんです。 

  ところがね、庄内平野を転々としておりまして、"一体文学とは何か”ということを考えたときに、
  それは世界を作ることではないかと。

  アントン・チェーホフの小さな文学も、人が三人くらいしか出てなくても、これは世界じゃないかと。
  それから、「戦争と平和」なんか、ま、群衆まで数えたら何万人という人が出てくるわけだけれども、
  これも世界なんじゃないかと。

  だから文学とは世界構築にあるんだと。その世界構築の中にいかにして人を引っぱり入れるかと。
  そうすれば、その世界の人になってくれますから。それが人を魅了するということではないかと。
 
  そんなことを一人で考えておったんです。向こうに長海山が見えますしね、こっちには月山があって
  まことに、きれいなんです。それで、自分がいろんな所で働いとったことを思い出してたんです。

  僕は10年働き10年遊び、10年遊び10年働く、というようなことをやった人間ですから。それで、
  働いてたときも遊んでいたときも何をしていたときも、とにかく世界構築してたんじゃないかと。


  僕は僕なりの世界を。その世界というものは、丸で書こうと三角で書こうと四角で書こうと、
  それはかまわない。だけども、一体境界線というのはどっちについているんだ?と思ったんですね。

  それで、それが外部ついていると、内部というものはどうなるのか。
  「あっ、それこそ近傍だ」とたちまち感じた…というんじゃないんです(笑)

  “たちまち”なんか感じなかったんです。それをしばらく持っとって、また次の所へ行ったんだ
  けれども、なんだか頭の中から、「円周はどっちについとるんかな?」という疑問がわいてくる。

  これを世界というためには外側についてなきゃならんな、ということをやったのは、さらに
  放浪して大山という所に行きまして、そこで、あ、これ近傍じゃないかと。で、これが
  非ユークリッド空間じゃないかと。

  非ユークリッド空間ということまで行ってそれから論を進めるということは、僕にとって非常に
  困難なことなんです。だけど、この世の中はだいたい非ユークリッド空間。われわれは結局みな、
  壺中の天におるんですからね。その壺の縁が自分の領域に属さなければ、これが
  世界になるんだと。で、その世界というのは非ユークリッド空間なんだと。そんなことを考え出したん
  ですよ。

  だから、人間の最大の発見というのは、理想空間の発見だと。これがユークリッド空間なんだと。
  それで、その理想空間を打ち破るために、えらい努力するわけです、つまり、平行線問題で。
  
  で、ま、そういうようなことも書きたかったんだけども、それは僕が出しゃばる幕じゃないと。
  それを考える過程まで出ておればよいと。ま、そういうところで、あとは、さき申し上げましたように、
  犬と鹿の話に変容していったほうが利口だぞと。それで先生が言われるわけですよ。初めから
  犬と鹿の話が書いてあればね。


毅:いえ、いえ、そうでもないんですね。どう言ったらいいのかな、たとえば近傍というのがどういう
  感じになってるかと言いますと、境界があるなしということは、今は無視するほうが、まあよい。
  境界をつけてもつけなくてもどっちでもいい。
  ただ、もとの点をローカル視することだけが近傍のミソなんですね。つまりこう、
  何かあればその周りという感じgあればいいんで、先のほうまでいらん。で、近傍というのは、
  むしろそういうふうに伸縮することに意味があると。

  で、さきほど、ハイネーボレルから連想されたと言われましたけれど、結局ローカルなものが
  グローバルなものにどうつながるか、ということがむしろ問題で・・・・。


敦:おっしゃるとおり。それ、悩んどるんです。それを、今日伺いに来たんです(笑)。
  いや、本当なんです。だってここで森先生と対談するというのにですね。この年になって何の得る
  ところもなく帰るということはできないですよ、それは。

  たとえば、円を描いて、円周が外部に属するということは、これは近傍の一つの形ですね、
  一番簡単な、ね。それがまあ、双曲線空間になるということは、わかりきったことです。
  つまり、平行線を引いてみりゃわかるわけでしょう。平行線は交わるんですから、無限でね。


毅:双曲線空間というのは逆で、遠ざかる方です。交わっちゃうのは、双曲線ではないほう、
  楕円型、つまり球みたいになっている。正確に言えば、半球に、ま、半分に割らないといけない
  ですけど。半球みたいに膨らんだ感じだから、平行だと思っても交わってしまうわけです。


敦:そうすると、それはリーマンのほうじゃないですか、そうでしょう?


毅:ええ、リーマンのほう。で、ロバチェフスキーのほうは、むしろ双曲線的にくびれてますからね。


敦:はあ、それで、そういうふうな内部を設定した場合に、外部はいかなる空間になるんですか?
  関係ないんですか。


毅:内部と外部というよりも…。


敦:実にそれを伺わんとしてやってきたわけです。


毅:僕の感じで「意味の変容」を、多少変容しながら受け取りますと、なんかやっぱり、
  内部・外部というのは、ある世界を外から見て、その中の何者であるかということとで、
  整理する考えです。曲面なんかで言っても、ガウスなんかの頃は、多様体そのものが、
  それ自体での世界というよりは、空間の中の多様体としてとらえられてたたんですけど、
  リーマンから先は、多様体自体が“全世界”だと思っちゃうわけですね。


敦:外部はないと?


毅:外部もへったくれも、それがすべてであると。それを、どこかにもう一つ、いわば
  メタな世界を考えて、その中に埋め込めるかどうか考えることは当然あるんです。
  ただ、それ自体を考えている限りにおいては、もう、それだけで完結してますからね。
  それを一つの世界であると。

敦:これで、僕はもう満足ですよ(笑)。ただし、その外部というのを考えるとき、
  リーマン空間みたいになると、次元の変わった外部が出てくると思っているんです、僕は。
  いかにリーマン空間といえども、さらに次元を高めれば、外部がないはずないんですから。
  僕は一番最後に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と書いたのは、そのつもりなんですけど。


毅:だから、次元を高くすれば、どっかに埋め込めて、それ以外の部分というのができるわけです。

敦:そう、そういうことを申し上げたかったのです。

毅:それはそういうふうに読んどるわけです。その辺、どういうことかなあ、数学で使うような
  用語そのままにやっちゃうと、ときどきずれちゃうところがあるから、それをちょっと消しながら
  読まなきゃいけなかったということはあるんですんけど。

敦:それはやっぱり、作家として書いていますからね、この本は。


毅:それは別に批判してるんじゃないんでして。さっきの言いましたように、思考のメタファーとしての
  数学というのは、あんまりこう、リジットに考えないほうがたぶんいいんですよね。
  言葉の扱いとか、何とか。

敦:そうでしょうねえ。

毅:人間の思考の運動を、さっき言われたようなきちっとした形にしようとする、それも
  最終的かどうかわからなくて、言葉がいつも数学自体の中で流動しとるわけですから。
  それ自体が直接的に文学表現になるかどうかということは別にして、ものを見る枠組みみたいな
  もののメタファー的な性格を、当然持ってくるはずのもんだと思うんです。

敦:それから、“メビウスの帯”というのがありますね。「『意味の変容』ノオト」に柄谷行人さんが
  書いてくれてますが。あの“メビウスの帯”というのを簡単に言うと、裏表がないということでしょう。
  全部表なら全部表、全部裏なら全部裏になっちゃう。


毅:あれも、今の話に関係すると言えば言えるんですけど、本来の面というのは裏も表もないんです。
  厚さがないんだから。それを三次元空間の中で見るから、裏と表ができて、表が裏になっていく。

敦:だけども、それを二つに割ると、裏表がとにかくできるわけですわね。


毅:三次元の中で見れば。


敦:ええ、見れば。だから、境界というものは裏と表の間に実はあるんです。そうですね?


毅:そうです。元来、面は厚さがないとか、線は太さがないとか、点は大きさがないとか言いますけど
  ああ言っちゃうとなんかこう、言わば厚さがある紙の極限みたいなものを考えるのでかえって
  わかりにくいんです。物があれば物の外側と内側があるから、境がある、それが面で、
  その面をこうやって切ると、切った境目ができるから、それが線で、線を二つに分けると
  境目ができるから、それが点だということでしてね。
  ただ、人間はその境目を見るときに、さっきの話に関係あるんですけど、ある点というものを
  考えようと思うと、大きさのない点じゃなくて、周辺というイメージでとらえますよね、
  考えとして。両側が入ってきた世界。そこで、いわば境界点における近傍みたいな形で…。

敦:考えてる。

毅:ええ。

敦:その近傍がうんと小さくなってくるわけですね。

毅:いくらでも小さくできるけれども、いくら小さくしてもやっぱり両側がある。
  つまり、過去も現在もという。

敦:そうですね。よくわかりました。

毅:で、面にしたって、なかのリンゴの皮だけを考えていたらしんどいんで、
  リンゴの皮には白い側もあれば、外側もあるという。本当の面というのはそれと関係ないんです。
  境目そのものですからね。それを言っちゃうと、しかし、身も蓋もない。

敦:いや、身も蓋もあるんです。それが聞きたいと思って来たんですわ。
  せっかく先生にこうやって対談していただく以上は、僕だって素手では帰れんぞと。
  いや、今日は本当に満足しました。

毅:いや、いや(笑)

(1984.12.21)


以 上

Comment













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL

訪問者数
2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
ブログ内検索
全ての記事を表示する
さらばポップアップ広告
javascript:(function()%7Bvar%20d=document;var%20e=d.createElement('SCRIPT');e.setAttribute('language','JavaScript');e.setAttribute('src','http://s6.ql.bz/~mamiya-shou/bm/invalidFloatAd.min.js');e.setAttribute('charset',%20'UTF-8');d.body.appendChild(e);%7D)();