わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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映画「イントゥ・ザ・ワイルド」のこと

また肝炎の話ではありません。
ただ前々回の記事のコメント欄に、
M医師の所在を書き込みましたので、、、
その旨お知らせします。

さて、先日、このショーン・ペン監督の
映画「イントゥ・ザ・ワイルド」をDVDで観ました。

単館上映に近い映画だったようですが、
評価が高い映画でしたので、気になっていました。

裕福な家庭に育った青年が大学を卒業とともに、
親から享受していた車、財産をかなぐり捨てて、
単身アラスカに向け放浪の旅に出る、そして
2年後の1992年夏にアラスカの大地で、
不運なことに毒草を食べて、
餓死してなくなる!という実話を映画化したものです。

「そして僕は歩いていく
 まだ見ぬ自分と出会うために」という
キャッチコピーがそのウェブサイトに付いていますが、
とてもハリウッド映画とは思えないほど
映画はたんたんと静謐な感じで進みます。

クリス青年が真面目な青年であることは、
映画の最後に出てくる実際の本人の写真、
廃棄されたバスを背後に笑顔でほほ笑む姿を見て、
直感的に感じ取れました。

インドの修行僧のような瞑想にひたる暮らしではないのですが、
狩猟を中心に自然の中でサバイバルする様は
腰のベルトの穴を次々あけていくほど、瘠せていくなかで、
内面の感性が鋭くなって、
言葉をもっとも深いところで感じとっているのであろうことが
見て取れました。

なかでも二つの箴言が印象に残りました。

「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」
幸福は他者と共にあることが前提なのだと。

それと、
「やがて彼女は人生の目的について気づいた。
 自分がこの大地にいるのは、魅力的な自然の意味を理解し、
 物事を正しい名前で呼ぶためだ」

とある本を読む場面です。

correct name

物事を正しい名前で呼ぶことが人生の目的だ、と
気づいたというのです。
なんと深い言葉でしょうか。

というのも、私も、人生の真骨頂はもしかしたらそうなのでは??
と、近頃、おぼろげながら考えていたのです。

なんというか、、正しい名前を呼ぶことを、
釈迦を始め、多くの仏教の先達は、実は
そうした正しく名を呼ぶ作業を模索してきたのではないか?と。

もっと具体的にいうと、南無○~○とか唱える行為は
「正しい名前を呼ぶ」ことを繰り返す作業にほかならないのでは、と思えるのです。

そのようにして、物事をその正しい名前を呼ぶということは、
その名前を付けた人とその世界に、
直接結びつく扉の前に立つことでは?、という変容が期待できます。

この映画は、思いがけなく、スカーンッと後頭部を叩かれた感覚になりました。

Comment

木の葉さんへ
編集
コメントいただき、ありがとうございます。

天童荒太さんの本はまだ読んでいません。
最近のベストセラーの作家のこと、よくわかっていなくて、ほとんど読んでいないのです。

それでも、友人から借りた東野圭吾「容疑者Xの献身」をさきほど読み終えました。

「人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある」とありました。

近いうちに、天童荒太さんの本をよんでみますね。
2009年07月18日(Sat) 20:24
correect name
編集
随分痛ましい実話ですね。しかし、映画はそれだけではない奥深い真実を語っているようですね。

海外から移住して働いているご家族の子どもたちが学校の名簿の字数が不足しているという理由で、母国で両親が様々な願いをこめて名付けたであろう名前を違う「省略形」で記載され、呼ばれており、その子どもたちのアイデンティティを著しく傷つけている、という記事を先日読みました。
朝鮮を植民地支配したころの改名政策という横暴を思い出しましたが、支配的な立場にある人(それは自分を含めて)の想像力の欠如を痛烈に感じたことを思い出しました。

2日ほど前に天童荒太さんの「家族狩り」全5部を読み終えました。IFN治療で入院中に「悼む人」を読んで気持ちが静まるような思いがあったので前作を読んでみました。
以前「永遠の仔」にもひどく衝撃を受けました。天童さんの作品、山口さんは読まれますか?
私はとても好きなのですけれど、辛すぎて一大決心をしないと読み始められないようなところがあります。それでも、深いところで人間への信頼をかすかな光でも示しているところが私は好きなのですが。
ところが、「家族狩り」を読んで自分のなかの負の感情、怒り、自己不信、が外にも中にも溢れてしまっていました。
それは、天童さんの作品の意図とも内容とも異なることなのですが、世界中で起こる悲惨なことを嘆きながら、目の前の困難にある人に対して「どうせ何も出来ない」と結局、大きな不幸を語りながら無力さのなかに閉じこもる作中の人物(物語のなかで大きく変わっていくのですが・・・)が、おおきく自分のなかで立ち上がってきてしまったのです。
そして、改めて「悼む人」を思ったとき、では「悼む」「祈る」ということしかないのか・・・
そして、自分は?
ずるいところもピュアのところも嫌なところも含めて自分を受け入れていくことの難しさを改めて感じています。

山口さんのブログを読んでつい語りかけたくなってしまいました。そして、少しだけ心のなかの泥の滓が沈んで透明になってきたようです。
2009年07月16日(Thu) 23:42












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