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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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「暇と退屈の倫理学」を読んで

だいぶ前に、100分で名著で「スピノザ」が取り上げられた。話の進行役は國分功一郎という東工大の教授だった。

おぉ、いよいよスピノザが俎上にか、と思いながら、國分氏の話を聴いていたが、、
彼の声はやや高く、薄っぺらい感じがして、なんだかな、、とその100分を眺めていた。

ただ、スピノザの「エチカ」は後半から読むといい、という指摘は、なるほどそうかもしれない。それで、岩波文庫で下巻を購入した。が、積ん読で、いまだ読んではいない。

過去の哲学者のそれぞれが、わたしたち一人ひとりの、「思考のOSなのだ」と指摘された。そう、その通りだと深くうなずいた次第。

つまり國分功一郎さんの第一印象はかんばしくなかったが、、

今は、ハマっている。なんというか、思考の回路がいい。一人悦にひたってなんかないところや、自分が関心をもっていることの近くを歩いている感じがして、いいのだ。

國分さんは「スピノザの方法」や「中動態の世界」とか出されていて、いつも通り図書館借り、かつ中途の読書だが、これまた二つともいい。ヒントが横溢している。たが、みすず書房の本なので、高くて買えない。

近頃の、哲学者を標榜する若い学者には、単純な自前の、言葉のレッテル貼りすぎないのに、哲学していると悦にひたっている学者が、数人おられる。そう人が自己を「哲学者」と呼んでいる。恥ずかしくないのかな、例えば「無痛文明」の某氏とかは無痛文明というレッテル貼りに悦んでいるにすぎない。

ところが、國分功一郎さんは、痛みを伴いながら、ご自分が考えてきた足跡をしめしてくれている。

ちなみに、だが、思考そのものは、言葉によるけれど、肝心なところを文に表すにはかなり難しいものではないか、文は思考の外側をかろうじて表すにとどまるのでは、と思っている。

もとより私なんぞは、思考するなんてものはなく、さまざま連想しているだけだが、

あえていうと、明け方に目覚めた「無所属の時間」(山本七平)は、みな、いい感じで哲学しているのではないか。それを書き表せないところが、まさに哲学している現象を示している。


さて、さきほど國分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読了したが、、これがまた、思いあたることが多く、いいのだ。




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