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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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身体の司令塔としての「求道心」

ときおり、拍手のクリックを押してくださる方がおられる。病気の話は遠退き、つたない日々の断想にもかかわらず、、その一つが、不思議と励みに。感謝します。

昨夜は雨降るなか、近所の温泉銭湯·久松湯にいった。受付で、前に外国人三人がいて、帰り客の中年男性が、間に入って通訳をかって出ていた。

その三人はバックパッカーぽく、露天風呂に入りながら、30分以上、各国の旅行で感じたことなどを、ゆったりした英語で話し合っていた。英語圏でない人もいる感じだったが、なんとなくBGM的にしか、聞き耳を立てなかった。わたしの英語力はお粗末だし。

いつもそうだが、ここの温泉の露天風呂でよくしゃべっている若者たちが多い。特別な気分になるからだろう、外国人も例外ではないんだなと感じた。

前から予感していたが、
いよいよインバウンドが温泉銭湯にも押し寄せてきたな、、という感慨。
「もの」から「こと」へシフトしている。
大勢の中国人がこの銭湯に押し寄せて来はしないか、正直言って、懸念する。

たしかに日本の良さの一つに銭湯があると、世界は分かってきてるんだろうな。

三人は、借りた茶色のバスタオルを持ち込んできた。違うなと気づいたようで、ロッカーに戻しに行った。逆に、タオルは借りなかったようだ。英語の案内が必要なのでは、、

ここの温泉は、わたしの乾癬にはいい。毎日入れれば、かなりよくなるのだろが、、
わたしの乾癬は夏場はすこし悪化する。油断大敵なのだ。

さて、温泉につかりながら、掲題のことを考えていた。

下世話だが、オシャレ系ではない身体全体に刺青のある若い人を見ていると、あれはきっと「求道心」をかたちにしようとしているのだ、、見かけるたびに、そう思えてしまう。

とりわけ背中に龍とか、観音とかを見かけると一段と、そう思う。

ところが、だ。
刺青による刻印は、作家森敦の考えを踏まえると、身体の内と外の「境界」の外部に刻まれているだけで、内部には、残念だが生成しないんだよな、、とそう素朴に思えるのだ。まして心身の司令塔にはなんのヨスガにも、ならない。キズに過ぎない。

万人の内部にあるのは、南無妙法蓮華経のご本尊だけなのだという日蓮(尊称略)の確信を信じるわたしとしては、刺青青年を見ると、痛々しく感じる。いつも、そう感じる。

2010年5月に大腸がん手術後、高熱で苦しんでいたとき、たしかに南無妙法蓮華経のご本尊は、わが内部にあると実感する瞬間が何度か、あった。しかも、松果体とか、丹田とかいった特定部位ではなく、皮膚の内側に満遍なく、行き渡って存在し生成しているという感じかただった。

言葉はうまく言い尽くせないが、そうした感じるかたがあったのは、、事実だ。

大腸がん手術によって得た冥益(みょうやく:目には見えないが、知らないうちに得ている利益)かもしれない。たとえどん底にあっても、その感じから、はじめればいいのだ、、という気持ちになる。病によって得たわたしの求道心。

このことは、これからも、なんども書く。

1998年8月、66歳でガンでなくなられた福島源次郎さんは、そのような道心が現れだろうか、、

福島さんとの面識はなかった。二回見ただけだが、その印象は近いうちに書くことにしよう。その人生は、決して他人事ではないからだ。

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