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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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「創価学会秘史」から

6月17日の日曜、創価学会の教学任用試験に会員・会友を合わせて12万人の方々が挑戦されたと知った。その試験範囲の中に、必ず学会の歴史を知ることが入っている。

実は、私個人としても初代会長の牧口常三郎という人の思想遍歴に関心が強い。なぜ日蓮正宗という一宗門に入信したのだろう。牧口常三郎は青年期は北海道におられたのだから、キリスト教の影響は少なからずあっただろうに、そしてもしキリスト教徒になっていたら価値創造の団体はどうなっていただろうか、、とか想像を巡らせたりする。ただ、その遍歴は分からないことが多い。

今、板橋区図書館から二つの本を借りて読んでいる。
高橋篤史「創価学会秘史」(講談社 2018/2)
鶴見太郎「ある邂逅 柳田国男と牧口常三郎」(潮出版社  )

後者は学会系の出版社で論調は柔和だが、前者は学会に対して冷ややか、批判的な論調(最初は、今日標ぼうするものとは違う、例えば平和思想なんてなかった。戦後に現れた論調だとか)になっている。

が一向に構わない、無名の学会人の私から見れば、どちらも面白く、飽きずに読める。ひとます「創価学会秘史」から面白いと感じた事実を箇条書きで、以下にメモしておきたい。敬称、尊称は略す。

人のふるまいとして最期は獄死した牧口常三郎という人がどれだけ偉大だったか、そのことを確認したい、、「創価学会は小学校長をしていた人が実験証明を旗印にはじめた教育団体から日蓮仏法に直結する宗教団体に飛躍した、というわが認識」(私の学会定義はここからはじまる)は揺るがない。その内在的な歴史をわが身の中心軸にしたいのだ。


1.北海道から東京に来られた牧口常三郎はその初著「人生地理学」は1000頁に及ぶ大著ながら増刷を重ね、多くの知友を得た。志賀重昂(しげたか)、講道館の加納治五郎、民俗学の柳田国男、など。

2.とりわけ牧口より4歳下の柳田国男とは1909年5月2日に知り合い、やがて親しくなっていった。柳田は戦前の創価教育学会の顧問を引き受けて時期もあったが、牧口が宗教の話に及ぶと柳田はすぐ拒否し、シャットアウトしていた。

3.牧口は、東京に出て最初は、社団法人茗渓会で書記の働き口を得た。また弘文学院、東亜学校で地理学の講師をした。その後富士見尋常小学校、文部省図書局に職を得ていた。

4.1905年5月から3年間、経済的に恵まれない女子に対して通信教育を施す大日本高等女学会の主幹を務めた。しかし経営は厳しかった。

5.柳田国男が幹事となった郷土会に牧口も加わった。郷土会は毎月、会員が小日向の新渡戸稲造邸などに集まり、各各自由な立場で各地の風習や民間伝承などの研究成果を発表する場であった。会員はエリート官僚が中心で、毎回50銭の会費を出す代わりに新渡戸から2円程度の御馳走をふるまわれていた。

6.1910年、牧口は農商務省の嘱託として九州の中央に位置する津江村、小国村の生活実態調査に赴いている。

7.柳田国男は牧口の性格を
 「温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命していた」
 「口が下手で、余り物が言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことを云う人であると判ってきた」
 
8.1911年5月、柳田と牧口は、甲州の谷村から道志谷、月夜野、相模にかけて旅行をした。柳田は「非常に気持ち良い旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出される程、印象深いものがあった」と二人の親交の深さを語った。

9.小学校長の牧口は、地元の有力者の子弟を特別扱いすることに反対し、立場危うくなることが多々あった。

10.墨田区亀沢の三笠尋常小学校では、貧しい家庭が多い地域であり、多くの児童は昼食抜きで、事業が終わると副業に汗を流していた。見かねた牧口はペニーランチ、パン1個に汁椀2杯を無料で配る制度を導入した。その後1922年4月、裕福な家庭の子弟が通う白金尋常小学校の校長に転任した。

11.牧口の生家である渡辺家は禅宗、養家の牧口家は「法華の家」だったが、幼少期の牧口に信仰の念はなかった。札幌の生活でキリスト教に深入りすることはなかった。

12.上京後、牧口は禅に参加したり、深呼吸法を試してみたり、田中智学の国柱会に1916年頃、接近した。田中の講演を数回聴きに行った。牧口の岳父である牧口熊太郎が国柱会の会員だった。

13.牧口は、1920年頃から十数年間、古神道の禊に長く親しんだ。滝に打たれたり、厳寒の海に入っていく。財団法人稜威(みいづ)会の主催の禊だった。牧口は自宅でも毎朝冷水浴を欠かさなかった。しかし「心からの信仰に入ることは出来なかった」と。

14.牧口を折伏した三谷素啓は日蓮正宗の有力信徒で、牧口より7歳上、目白商業学校の初代校長であった。ただしその在任期間1年にすぎなかった。柳田国男は三谷に対して「どうも正体の判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。ところが、いくつかの妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議と良く効いた」と。そもそも牧口が三谷を紹介したのも「面白い薬がありますよ」と言ったのがきっかけだった。

15.1922年、牧口と戸田城聖(当時は城外)は三田の慶應義塾に行き、来日していたアインシュタインの講演を聞いた。また牧口はアメリカのプラグマティズムのジョン・デューイにも関心をもっていた。

16.柳田国男は後年、牧口が日蓮正宗に入信した動機について二つの原因を推測して書いている。それは「貧苦と病苦」であると。
「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供(四男四女)が患ったり、死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた」と。

以上、ひとまず、ここまで。

私見だが、小林秀雄は晩年よく柳田国男の評論をされた。「山の人生」の録音もある。おそらく小林秀雄は膨大な柳田国男の著作を読んでいただろうし、その中に「故郷七十年拾遺」もあったはず。そこに牧口常三郎のことが出てくる。小林秀雄は1910年頃、港区白金尋常小学校に通っていたわけで、時期は異なり出会ってはいないだろうが、牧口を自分の母校の校長を務めた人と知っていたかもしれない。

1970年代の前半、小林秀雄は、中村光男などを伴って、日蓮正宗大石寺に桜を見に訪れている。応対したのはわが母校創立者の池田先生であり、互いに微笑みながら歩かれている姿を聖教新聞で見たことがある。言論問題と重なる時期だった。単なる物見遊山ではあるまい、池田大作という40歳代前半の人に直接会いにきたのだ。小林秀雄は、しっかり、池田大作という人の目を見つめたに違いない。私も70年代何度か、先生の眼を見たが、洞察と真剣と奥深さと、人生でそのような眼をした人を、他に見たことがない。

おそらく小林秀雄はその歓談の際も、学会草創の牧口常三郎のことがよぎったのではないか、、その小林秀雄の、2008年に載った聖教新聞の記事は、また後日書き込むことにする。

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