わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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プラトン第七書簡の断簡

繰り返しになるが、ブログは、自分本位に書く場として、位置づけている。なので、なんのこっちゃ?となるだろうが、ご容赦を。

大学の最終学年の終わり頃、学生文集「草創」に投稿した。タイトルは『プラトン第七書簡」の一文に託して』だった、と記憶している。というのも、その文集を栃原氏に貸したまま、戻らず久しく、全文はわからなく、おぼろげになってしまったからだ。

先日、同期の石戸氏と話していて、俄に想い出した。うまく言えないが、師弟不二への批判論でもあった。

石戸氏がわたしの言動として、御書(日蓮の遺文集)に師弟不二の四文字なんてないよ、とわたしは言っていたと。

そうだ、たしかに私はそう主張していたのだ。つまり、その背景には、創立者のもとに集まってきたのに、創立者はそばにいるわけじゃ、ないじゃん、という感覚が、強くあったのだ。

例えば、草創期の慶應義塾は福沢諭吉が三田の学内に居住していたように、、そんな甘えた感覚が4年間、ずっとあったのだ。

ともあれ、掲題の第七書簡の引用は、つぎの通り、、

すなわちそれは、これらの人々が、私の見解によれば、その事柄について何ものかを理解していることは、ありえないということなのです。

その事柄については、私の書物というものは決してありません。

また今後あることもないでしょう。

というのは、その事柄は、その他の学科と違って語ることのできるものではなくて、

事柄そのものに関してなされる多くの共同研究と共同生活とから、いわば飛び火によって焚き付けられた光のように、突如として、魂のうちに生じてきて、やがて自分で、自分を養うものなのです。
と。

ふと、、ちょうどその頃、1970年代後半、
創立者は、この第七書簡の断簡を、慶應の大学会の席上で、引用されていたことを想い出した。あぁ、やはり、プラトンと創立者は響きあうものがあるのだと感じたものだった。

で、最初に戻ると、常住給仕はもとより、共同研究も共同生活もないわけだから、飛び火も、師弟不二もないじゃないか、、という主旨で作文したわけだったが、、

四十年の歳月がたって、いま、あらためて断簡を読むと、面目ない、なんとまぁ、浅はかな読解だったことかと、、いささか慨嘆した。

飛び火とは、、
オイゲン·ヘリゲル著『弓と禅』の驚くべき出来事、「いま、それがおりてきました」という弓の師範のコトバと通じる。

もっというと、創立者の次のコトバはわたしへの解であったのだ。。

「私たちにはご本尊さまがあるではないか」であり、私に対しては直接「勤行してないな」というコトバであった。

ほんのわずかだが、当時でも、学会員ではない学生もいて、いつの間にか、そうした風情でいようとしていた自分だが、そんな殻など、通用しない、静かな叱責であった。ずっと残っている。

つまり、飛び火は、ご本尊に向かって唱える題目の持続の中にある。そうして題目を唱えるという行為は、数量という空間ではなく、持続という感覚で時間の中に入ることになる。だから日蓮は一遍でも唱えることが大事と言われたのだろう。

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