わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
TOP影響を受けた人々 ≫ 西部邁の年表を作る

西部邁の年表を作る

西部 邁 (すすむ)さんの年表を徐々に書き込むことにする。まずはウィキペディアのものをベースに。

1939年3月、北海道山越郡長万部町に生まれる。
父親は西部深諦(じんたい)。浄土真宗派の末寺の末男。母は農家の末女。兄と妹4人の6人きょうだい。邁は次男。

札幌郡厚別の信濃小学校
札幌市の柏中学校、作家の保阪正康氏は1年後輩。一緒に通学していた。

吃音癖と空腹感で苦しむ。

中学2年のとき、札幌市内の書店「富貴堂」で参考書数十冊、万引きを繰り返す「万引き常習少年」だった。父親ゆずりの気質、敷かれた軌道からはずれたかった、それが動機だった。

クリスチャンだった富貴堂の店主は知っていたようだが、捕まらなかった。その参考書のおかげで、道内で一番の成績になった。

中学校で、やさぐれていたが優秀な海野治夫氏と出会う。45年のつきあいとなり「もっとも感動に値する人物の一人だった」と言わしめた。

札幌南高校に海野治夫とともに進学。

南高2年、16歳のときに、同年1月生まれの
岡田満智子(医者の娘)と知り合う。

高校卒業までは、マルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリの重症の吃音少年だった。

1957年東京大学の受験に落ちる。
1958年4月、東京大学教養学部(駒場)に入学、三鷹寮に入る。
1588年12月に結成されたブント(共産主義者同盟)に加盟する。

「六十年安保闘争」で指導的役割を果たすが、羽田事件(60年1月16日)で逮捕、起訴され2月末に保釈。

新安保条約が自然成立した(6月19日)のちの7月初め、全学連大会の途中で逮捕、未決勾留で東京拘置所に収監されるが、11月末に保釈で出所。

そのとき既にブントは解散しており、翌1961年3月、左翼過激派と決別する。

それから7年、三つの裁判所に通い、その間1964年3月、東京大学経済学部を卒業。
同年5月、半年の同棲にピリオドをうち、岡田満智子と結婚(のち一男一女をもうける)

1971年東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。
1972年「六・一五事件」で執行猶予判決、そして検察控訴。

横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を経て、
1986年東京大学(社会経済学専攻)に就任するも
1988年3月、人事問題のもつれをめぐり、辞任。

評論家を続けるとともに、鈴鹿国際大学客員授、秀明大学教授、学頭を歴任。

旧来の経済学を批判して経済行為の象徴的意味の
解釈を指向する「ソシオエコノミクス」で注目され、社会経済学の構築をめざした。

また高度大衆社会・アメリカニズム批判と西洋流保守思想の提唱を基軸にした評論活動を活発に行った。

2006年10月、妻満智子の大腸がんが判明、手術。
2008年1月、転移が判明。10時間におよぶ大手術を受ける。

16歳で知り合ってから、3年余のブランクを挟み、現在までの二人の「関係」はまもなく半世紀を超える。

Comment













非公開コメントにする
Trackback

Trackback URL

訪問者数
2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
ブログ内検索
全ての記事を表示する
さらばポップアップ広告
javascript:(function()%7Bvar%20d=document;var%20e=d.createElement('SCRIPT');e.setAttribute('language','JavaScript');e.setAttribute('src','http://s6.ql.bz/~mamiya-shou/bm/invalidFloatAd.min.js');e.setAttribute('charset',%20'UTF-8');d.body.appendChild(e);%7D)();