わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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高校時代を遠くに望む

1.今図書館から借りている本で、返却期限が来ると、「次の予約がなければまた貸してください」といい、また借りる。そうしてかれこれ半年借りてる本は次の二冊だ。

メルロ・ポンティ「眼と精神」(みすず書房) この出版社は高価な本ばかりだが、リスペクトしている。

河合隼雄「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)

なぜ、買わないか、買ってしまえば、積ん読で終わってしまうのが必定だから。なので、返すまでに一つの章、一編の論文を読んでいれば、ヨシとしている。人気のない本だから、継続は可能なのだ。

練馬区にあったらしい小室直樹の自宅には、蔵書はほとんどなかったという。書店で立ち読みして、記憶にとどめたようだ。真似たい、、家におく本はできるだけ少なくする。その代わりノートにとっておくようにしよう。

2.このところ、高校時代のことを振り返りたくなる。同級生は学年430人ほどいた。100周年の同窓会名簿をみると、すでに15人、亡くなっていることがわかっている。今はもう20人くらいいるのかもしれない。

3.同級生だった?らしい群ようこ「都立桃耳高校」を読んでいて、さまざまな光景が思い浮かび、突如、そういえば現国の選択授業で、安部公房「砂の女」を読んだ、そのことを思い出しだし、借りることにした。群さんの本は、彼女が書いていない、その当時のことを思い出させてくれる。激動する社会の中にいた。安田講堂、三島由紀夫の楯の会、連合赤軍、ビートルズの解散と、断片的に浮かび上がってくる。

そういえば、一つ下の学年に、作家檀一雄の娘がいたな、、壇ふみさんの妹にあたる。が、顔はあまり似ていなかったと記憶する。

4.もう少し、安部公房が生きておられたら、ナレーターの垂木勉氏は安部公房スタジオで芝居を続けられていたことだろう。紙一重の運命。知り合いではないが、リアルタイムで、役者山本龍二からきいて知った。人生の機微を感じさせた出来事だった。もしかしたら安部公房はノーベル文学賞もとれたのでは、と思う。ただ、気になるのは「砂の女」だけで、ファンではない。1970年代の心象風景の一つなのだ。

5.高校時代、総じて、教師には恵まれなかった。それでも影響を受けたのは3人。

①倫社の佐々木先生、全科目の中で唯一「10」の評価をくださった。
②現国の北上先生、選択授業で日本の小説を教えてくださった。
③そして漢文の本多啓二先生、但し教わってはいない。

6.本多先生は2009年の晩秋に、胃がんで亡くなられた。その年の2月1日のとき、西新宿で本多先生のがんの話を全身で受け止めた。そのおかげで、侮らずに、直腸がんを克服することができた、、そう思っている。今年が8回忌になる。

7.毎日新聞の切り抜きが出てきた。私たちの高校で15年間、本多先生がいかに活躍されていたかを証明してくれている。今、先生が尽力された庭園、植栽は跡形もない。白亜の校舎に変貌してしまった。私たちの時代の、美しい花の学舎が雲散霧消したことと、1年上の先輩二人が立ち上げた伝説的ロックバンド「四人囃子」の、彗星のような去就と、重なるものがある。もっとも四人囃子は音源が残っているが、、せめてもの思いで、その記事を以下に、、


昭和50年6月30日 毎日新聞夕刊

「東京ムツゴロウ」大奮闘 、、
北海道から上京5年、校内緑あふれる

「東京ムツゴロウ」と生徒は呼ぶ。東京都中野区の都立鷺宮高校(原晋校長、1300人)の漢文教師、本多啓二さん(33)。麦わら帽子とペンキのついたよれよれの作業服がユニホーム。スコップやノコギリをにぎり、リヤカーを引いて同校の緑化に挑戦して5年。校内にはいま、緑があふれている。

ムツゴロウこと畑正憲氏(動物作家)は、大都会を捨てて北海道の無人島に渡ったが、東京ムツゴロウ氏は北海道から東京のコンクリートジャングルに踏み込んできた。二人のムツゴロウに共通しているのは、「人間にとってもっとも大切なものは自然だ」という信念である。

本多さんは北海道釧路支庁標茶町の生まれ。果てしなく続く根釧平野の中で生まれ、育った。遊び相手は牧場の四、五十頭の馬。山や緑も小川も仲間だった。北大卒業後、偶然受けた東京の教員試験に合格。昭和45年4月、同校に赴任した。

「緑が少ない。学校がすさんでいる」本多さんにとって同校の初印象はショックだった。

「潤いがまるでない。殺風景すぎる。なんとかしなくては」
さっそく緑化への挑戦が始まった。

本多さんの父親、本多三郎さん(66)は戦前東京から北海道へ渡り、原野を切り開いた。その父親ゆずりの「フロンティアスピリット」(開拓者精神)が燃えた。

校内は3ヘクタール。手始めは中庭の花壇づくりと植樹。「授業はそっちのけ」(本多さん)で、カンカン照りでも、北風が吹きすさぶ中でも、仕事は続いた。春休みや夏休みも、もちろん棒に振った。

以来5年。植樹はツツジ、サクラ、リンゴ、サルスベリ、ケヤキなど。三十種類を超える。タケの柵つきの花壇は鉄筋三階建ての校舎の周りにいくつもできた。花は季節ごとに変える。春はチューリップ、クロッカス、キンセンカ、夏はケイトウ、サルビヤ。秋はコスモス、キク。

木や花代や道具等の経費ははじめ、PTAが援助していたが、いまは学校が負担している。

仕事は「グリーンづくり」に限らない。時には「便利屋」に早変わりする。校内にころがる使い古しのイスを集め、修繕してペンキを塗り、まとめてベンチを作る。ペンキがハゲれば、いつでもハケをとり、コンクリートがくずれ落ちれば、さっそくコテを持ち出す。

赴任後間もなく、生徒が子犬を抱いてきた。あまりかわいいので、バスケットに入れ、当時住んでいた保谷市のアパートと学校を往復した。みんなで「太郎」と名づけ、かわいがった。この太郎が六匹の子を生んだ。失踪したり、ゆずってやったりして、残ったのが、いまいる「小太郎」。職員室の前に小屋を作ってやった。いま、生徒や職員が代わる代わるエサを運ぶ。

本多さんは言う。
「取り立てていうことでもないですよ。木が生い茂り、花が咲き、動物がたわむれる。これはごくこく当たり前のこと。そのことがわかったら、実践に移すまで」   
本多さんの仕事ぶりを見て「何か手伝いましょうか」と馳せ参じた生徒グループが二つある。園芸部と「土建会社」と名乗る二、三十人の有志の集まり。

「本多先生と働くのが楽しい。先生というより先輩という感じ」というのは、前園芸部長の相羽きよみさん(17)。土建会社の「社員」の一人、東条容行君(17)は「地道にコツコツやる先生の人柄にひかれた。サラリーマン教師と違って、どことなく味がある」

最近では卒業生もときおり、手伝いに顔をみせる。

本田さんはいつか、校内に馬も飼い、生徒を乗せてやりたい、と考えている。


以上、、私は本多先生と同じ年に鷺高に入ったので、学校の変容ぶりをリアルタイムで見ていたことになる。お隣の武蔵丘高校は学園紛争でバリケードがはりめぐらされていた、過激派もあれば大阪万博もあった1970年という、その年だった。殺伐としていても、ちっともおかしくない。

一人の教師によって高校の環境が徐々に変わって行った、、私の場合、毎年、春になると木々の受粉の匂いとともに、その頃よく聴いたフランクの交響曲ニ短調を思い出す。

8.今朝、2歳6ヶ月になる次女は、保育園に行く途中、わたしが「シロ、ジャンジャン、はんぶんこ」と口ずさむと、「ウルサイ」と言った。「アーサイ」とは言わなくなった。ささやかな成長、、である。

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