わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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「背教者ユリアヌス」から抜粋

この記事は、20160809に書いている。
平成天皇の退位のお言葉、イチローの大リーグ3000本安打達成の翌日だ。家庭内は家内が腹を立てている。わたしは、その影響で、自分が不機嫌に陥る。自分の不機嫌に対して無関心で行こう、、と決めている。アランの知恵だ。

高校の頃、鷺ノ宮駅北口の小さな本屋で、辻邦生「背教者ユリアヌス」の大きな本が目にとまった。実際に読んだのは、中公文庫で三巻になってからだ。

その上巻に、「太陽の、巨大な無関心」という言葉があったのだが、その後、再読しようとしても、なかなか見つからない、という現象が起きる。これは「月と六ペンス」でも、起きた。わたしの勘違いか、、

ところ、昔の手帳が出てきて、その抜粋が出てきた。あらためて、俯瞰する目、その力強いユリアヌスの言葉に、衝撃を受けた。還暦をすぎた今でも感動を覚える。以下に掲げておきたい。

なんという荘厳な生命の充実であろう。この自然の永遠の動きのなかで、人間の営みは、なんとみじめでちっぽけなのだろう。高い崖の上から谷間の小さな部落を見おろすと、人々は畑に出たり、垣根ごしに口論したり、馬に乗ったり、駆けたり、話したりしている。まるで、豆粒のような姿が、無意味に家のなかから出たり、入ったりしている。だが、本当はそうじゃない。人々は、そこで愛し合ったり、憎みあったり、傷つけあったりしているのだ。

だが、そんな崖の高みからは、何一つ判らない。ただ、豆粒ほどの人間が蟻のように右往左往しているのが見えるだけだ。ぼくらにしたって事情は同じだ。太陽の高みから見おろせば、ぼくらも蟻のように右往左往しているだけなのだ。ぼくらの重大事だって永遠の高みからみれば、こうした出来事の一つにすぎないのだ。

だが、これが人間の実際の姿ではらないだろうか。自分にとっての重大事が全く取るに足らぬ蟻の右往左往と結局は同じものである、という事実、、、この事実ほどに苦い真実はあるだろうか。永遠の時の流れから見れば、なんと人間の存在はみじめで、ちっぽけなものであろう。

それにひきかえ、太陽の、あの豊かな、高貴な白熱した輝きは、なんという崇高な生命にみちていることか。泣きごともない。歯ぎしりもない。叫ぶもない。退屈もない。それは果てしない充溢あり、巨大な無関心なのだ。すべてを与えつくし、自己ことにかまわない。


もし、人間がこのみじめさ、この矮小さから逃れることができるとすれば、それは、ただこの太陽のように、自らに無関心となり、自らを全く放棄して、すべてを与えつくす以外にない。歯ぎしりも、泣きごとも、絶望もなく、ただ果てしなく働きつづける。自己にとどまることなく、無限の力に促されて前進する。それ以外に、ありえない。


2010年6月のある日、大腸がん術後だった、早朝、太陽凝視をはじめたとき、わたしもまた、巨大な無関心を感じた。

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