折れない心=レジリエンス日記「これからが今までを決める」1991年から25年にわたるC型肝炎と乾癬の闘病を、そして2010年の直腸がんをと、その三病を完治させた楽観主義者の自立ノート

身体「毎日1兆が生滅する60兆の細胞」の司令塔こそ、究極の主治医と見なして、アッパレ!100歳をめざし三病息災・健康長寿をもくろむ、具体の内部生命論です★
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井筒俊彦と司馬遼太郎の対談

最近とみに気になるのは井筒俊彦(1914-1993)だ。そこで、井筒俊彦が司馬遼太郎に語ったことを転載しておきたい。とりあえずコピペだが、いずれ原典から全て転記するつもりだ。

司馬遼太郎は、まさに「知の巨人」に遭遇した、、そう直観したはずた。なのでさすがに、他の対談者とは平気でよくやる我田引水をひかえておられる。気持ちの上で、正座していたのではないか?

〔井筒〕
少なくとも大乗仏教では普通は絶対者は真如、つまり「空」と同定され、「縁起」と同定されるようないわば抽象的なメタフィジカルな絶対的実在原理ですね。それが空海においてはメタフィジカルなままで大日如来(永遠の光の如来)という特異な姿をとって現れてくる。
それと反対のプロセスが、イスラームで起こるんです。イスラームではご承知のよう初めは素朴そのものといっていいほどの人格主義で生きた神の宗教ですね。それがモンゴル後、「真如」的な理念として思想的に働き始めるんです。
(中略)
真如という形で絶対者が表象されるようになる。
それからもうひとつは、光という形で表象されてくる。全存在世界は光の世界、神はこの宇宙的光の太源としての「光の光」。華厳経みたいなものです。


井筒俊彦は、イスラム帝国がモンゴル帝国との衝突の後、イスラーム哲学が大きく変化し、その結果、イスラム教は仏教と同質に語ることができると言う。

アッラーは普通言われている神ではなく、イスラム教が最も深いところで理解しているアッラーというのは、仏教がいう真如と同じだと言い切る。

別途腹に落ちたらぜひ取り上げてみたいが、井筒俊彦は、大乗起信論(意識の形而上学)において、仏教もイスラム教もユダヤ教もキリスト教もありとあらゆる宗教が合流した、それぞれの歴史で単独ではなし得なかった、新しい夢のようなもの、宗教なき宗教、宗教の先にある宗教を立ち上らせようとしている。
その立ち上る為には、それぞれの宗教がメタ宗教の観点として仏教のような思想形態がどうしても必要だと言う。

ここまででも相当深いが、二人の対談はさらに唯識にまで広がる。

〔井筒〕
阿頼耶(アラヤ)識のどん底というか、西田哲学では「無底」といっていますけれども、「無底の底」という世界を考えてみると、どろどろした本当のカオス的な世界で、無じゃない。無じゃなくて有なんだけれども、何ひとつものが形をなしていない。そういう全体が無定形の言語的意味志向性のみ渦巻く世界で、神がそこに君臨している。
(中略)
私に言わせれば、阿頼耶識とは、第一義的には、意味が生まれてくる世界なんです。意味というのは存在じゃない。存在じゃなくて、「記号」なんですね。つまり、記号が生まれてくる場所。それが言葉と結びつくと、言語阿頼耶識になる。
(中略)
つまり、結局すべてコトバだということですね。まだ言語そのものではないんだけれども、言語化されるべきものである。
言語すなわち名称性を志向している浮動的流動的な意味単位の群れが自己顕現しようとして、いつも動いている内的場所。
自己顕現して、たまたま因縁があえば経験的な存在の世界になってあらわれてくる。それを、外的な世界だと思ったら、間違いになる。というのが、ごく簡単にいえば唯識の哲学的立場ですね。


ここまで、そして以下は被コピペ者の言葉だが、、

非常に明快に、簡潔に唯識のいう阿頼耶識を表現している。
阿頼耶識とは意味が生まれる世界。ラズロー博士はCOSMOSの中で、アカシックフィールド(アーフィールド)と表現し、情報の染み渡った宇宙全体と表現している。情報の源泉であるが、意識上の情報ではもちろんなく、全ての源となる物質やイメージの元型が存在する、「心」そのものであり、「宇宙」そのもの。

華厳でいう帝釈天では、玉が網の目ように張りめぐらされ玉の1つ1つはお互いにお互いの姿を映し合うことで全体像をつくりだす。それぞれが影響しあい、「私」はすべてのものとの関係の総和によって規定される。

華厳の世界観が、最新の量子論であり、唯識は最新の深層心理学とリンクしている。井筒俊彦は、仏教が生きる為の知恵であり、かつ普遍的な宗教の導き手として仏教、諸宗教にとってのメタ宗教としての仏教を語られているが、現代の最先端の物理学は実験実証プロセスでようやくおいつきつつあるように思える。

追記、たぶん若松英輔さんが書かれた(By Padova - 2011/4/28)のでは?と思う
井筒俊彦著「神秘哲学」のコメントを掲げておきたい。

井筒俊彦自らが、後年「無垢なる原点」と呼んだ『神秘哲学』(1949)のオリジナル版である。
著作集版にくらべて、術語、文体ともに、若き井筒俊彦独特の風合いを備えている。この本を、一度で理解したいと思う、せっかちな読者には、著作集版の方がよい。しかし、井筒俊彦の思想的遍歴を垣間見たいと思う読者には、ぜひ、本書を薦めたい。

ことに、本書の序文は、著作集版にはない、執筆当時、井筒が直面していた実存的危機と、それを打ち破ろうする熱情に満ちている。序文を読むだけでも、本を買う意味はある。

こうした本は、数年かけて読んでもよい。『意識と本質』そして、この初版『神秘哲学』を繰り返し読むだけで、
ほかの著作を手にしなかったとしても、井筒俊彦を誤認することはないだろう。

また、ギリシア神秘思想史を論じた著作としても秀逸で、日本は、この著作を超える同質の論考を有していない。

通読する時間的余裕を持たない読者は、索引を頼りに、関心のあるところだけに触れても、これまで見たこともない思想世界へいざなわれるに違いない。

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