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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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大熊信行先生の不思議

わたしが出た創価大学は、もうじき創立50年になる。よくぞ50年、、しかも、あの小さな白亜の学舎から大きな発展を遂げ、続けていて、世間の偏差値ではわからないだろうが、在学生の質は、格段に上がった。

わたしはその三期生で、しかも斜に構えて、窓際族のように、生息していた。

現に、クラスに一人、学会とは無縁の奴がいて、そうか、俺も彼のような立ち位置で行こう、1年の終わりに決めていた、気がする。

ちなみに、彼は一人で山の縦走したりするのを好み、野ウサギを食べたり、一クラス53人の中にあって、ボサッとした風貌で屹立していて、不思議な男だった。

さらに思い出すと、1973年の滝山祭で創立者に遭遇したその彼は、創立者から「わたしの仇をとってくれ」と直接言われた、と教えてくれた。それを聞き、なぜか、わたしは「面白い!」と声をあげて喝采した。創立者に対して、当時、様々な思いがあったのだろう。例えば、三田にいた福沢諭吉のように、学内に住んていただけたらいいのに、思ったりしていたのだ。

つまり、わたしは場違いな学生だったし、逆に「甘えの構造」(懐かしい本のタイトルだ、、)にどっぷり浸かっていたのだ。

はっきり覚えている。わたしは大学に、夢心地で、甘えていたのだ。生協での不始末とか、、

70年代、創立者は一段と激しく目まぐるしい、疾風怒濤の中で戦っておられた。

当時、創立者の振る舞いは、戦艦ポチョムキンのモンタージュ映画ように、動きが速くに見えたし、その醸し出す空気感が違って見えた。この感覚は、カルト教徒的な、潜在的心理傾斜に起因するものではない、素の事実感覚だった。

大學草創期、やや高齢ではあったが個性的な教授が何人か、おられた。哲学の刈田喜一郎先生、経済の大野信三、刑法の久礼田益喜、社会学の樺俊雄(樺美智子の父)、、そしてわがゼミ、民法、農業法の宮崎俊行先生(ただ先生は創立者と同年てお若かった)とか、、

大熊信行先生はその筆頭で、常に書いている人、というイメージがあった。入学式の壇上の左側最前列におられ、創立者の講演「スコラ哲学と現代文明」だったか、を身体を傾けて、手帳に何か筆記していて、この老教授は、何か違うなと感じさせた。

創立者自ら一人で、高輪の大熊先生のお住まいまで赴き、教授陣に加わっていただくように、、まさに三顧の礼で招聘された経済学者だったし、国家悪とか、時事論壇の一旗頭でもあった。

左から右へ、思想遍歴の社会学者 清水幾太郎は、大熊先生から指弾を畏れていたようだ。そのことは、またいつか。

大熊先生の経済学は、近代経済学とマルクス経済学の統合にあると表明されていたが、数量経済学ではなく、ひたすら文章で
論理立てされていて、素の学生であった私には、憧れたが、よくわからなかった。

思い出した。1年の経済学単位を落として、
3年のとき、大熊先生の経済学を受けたのだが、、カーライルやエマーソンの文学論みたいな授業で、年間計30回の授業で、数回しか受講しなかった。

さらに、思い出したことが、、
2年のとき、グランドに在校生が
集り、創立者が短いスピーチをされた。

海には、コワいフカが、いる。
フカ、フカ、フカ、、
不可ばっかりだ、、、

それを聞いて、在校生は
ドッと歓声?のような大きな笑いが
起きた。

創立者は、在学生の成績表を一覧されて
惨憺たる状況に、慨嘆されたのだ。

わたしも、大笑いした。
それって、オレのことだ、と。
わが成績表は、大量の不可ばっかりだった。

理由はいったん不可をとり、再履修は好きな教授の講義を受けようと決めていたからでもあった。

でまぁ、大熊先生の経済学を再履修で選択したのだが、最終のテストで、わたしがやらかしたことを、、告白しておこう。
いまさら単位取消には、ならないだろうから、、こうだ。

年度末の単位認定テストで、わたしは設問とは全く異なる答案を、試験教室の隣で書いた。

事前に縦書きの答案用紙をどこかで入手したのだ。カンニングではないが、単位取消になって当然の行為だった。が、わたしは自問自答の案を、やや興奮しながら書いた。結構幸せな気分で、ひたすら大熊先生に見てもらいたい、、そんな気分だった。

それは、古代西洋哲学の田中美知太郎の次の大熊先生への抑制の効いた揶揄?に対して批判する回答、大熊先生の経済学の擁護論を書いたのだ。

田中美知太郎は、昭和34年6月の読売新聞 論壇時評でこう書いていた。今、読み返すと、田中美知太郎は大熊経済学の本質に触れることを見事に指摘していた。

文藝春秋の「政治だけが悪いのか」(田中美知太郎)も、同じような政治論であるが、これは哲学的解釈や文学的解釈の形をとらずに、政治の実際についての平凡な意見をのべたまでのものと見られるだろう。

それは一般市民を相手にするソクラテスの語法を真似たものともいわれるであろうが、かの進歩的俗論家たちから、かえって俗論として軽蔑されることは間違いないようだ。

岩波書店、世界の「経済学における人間」(大熊信行)も、経済では引き受けきれないような問題を取り扱っている点で、やはり政治論と関係があるともいえるだろう。

しかしこれは、つづきものの長篇論文の一部分たけを読まされるような感じで、ほかに論者の著書や論文を読んでいない者にとっては、いろいろ不明の点がのこるのではないかと思う。

家族の問題を、国家社会との関係から取り扱うのは、むしろ政治学の伝統的課題ではなかったかと思われるのであるが、

論者は財物と生命の両方にまたがる生産概念の拡大、あるいは統一的使用によって、きこれを経済学のうちに取り入れようとしている。

なかなか面白い試みだと思われる。しかしそれが単なる同語異議の使用にならないためには、もっと厳密な概念規定が必要ではないかと思われるし、

また逆に、概念の同義性だけを確保しようとすれば、得られるものは全く異なる領域の単なる抽象的統一にすぎなくなるのではたいかと恐れられる。

また家族を生命や労働力の再生産の場としてのみ理解することは、経済学として最大限の努力であろうと思われるが、

それはしかし、経済学的理解の限界を示しているようにも思われる。

家族や国家社会の成立を理解するためには、単なる生存のためというだけでなく、よりよい生活のためにという見地が取られなければならないというのが、むかしからの古典的政治学の教えなのである。

以上であった。わたしが尊敬する碩学、田中美知太郎は自分に対する軽いボケを書いたあとに、深いツッコミを大熊経済学にいれた。不覚にも同調の頷きをしながら、後半部分は、それは少し違うと反駁する気分がつのり、大熊経済学の擁護文を書いた。ただ詳細は忘れた、稚拙な文章だったに違いない。

試験終了のチャイムがなり、本来の教室に答案を持ち込み、出す段に、ギョッとした。答案の形式が横書きのものだったのだ、、でも、ままよ、と出してしまった。試験官に指摘されず、受け付けられ、助かったが、、、まてよ、これって厳正な処分になるかな、、と頭の中をよぎりつつ、、

結果は、大熊先生の評価は「優」だった。
なんだか気持ちが通じた気分がしたものだ。

ある時、大熊先生は遠くを見つめるように、こう言われた。

「君たちは、創立者のもとに、ひたすら集まって来た。だがしかし、創立者の本当の偉大さを、まだまだ、何もわかっていない」と。
そう聞いたとき、不思議な気持ちになったことを、、覚えている。

大熊先生は1977年6月、劇症肝炎で逝去された。享年84歳だった。
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2006年11月2日から
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