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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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満64歳10か月で次の就業が決定

今日は、わたしがC型肝炎に罹患していると判明した日から、丁度満28年になった。既に完治してから3年になるが、めでたしめでたしということで、忘れないように、わが記念日としている。

一昨日、26日に外国人技能実習監理団体の採用が決まった。じき65歳になるわたしだが、理事長は採用を即決してくださった。拍子抜けするくらいの決定だった。間に入っていただいた加藤さんのおかげた。ありがたい、、感謝。

安心せず、見習いとして来年3月までわが態勢、カタチを整えることにしよう。土休をやめて、出勤するのだ。

おまけに昨日はバタバタと予定がピッタリはまり、その出来すぎ観に、いささか驚いた。こんな具合。

今上天皇のこと

昨日の武道館、令和に改元され最初の「全国戦没者追悼式」のお言葉は、上皇ではなく、今上天皇であった。短いお言葉だったが、上皇の思い、平成の平和を堅持、持続させるという意志(意思ではない)を感じさせた。特に次の言葉

多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります

過去を顧み、深い反省の上に立って

と言われた。ご本人の言葉であろう。

実は、皇太子のときに、数メートル近くで2時間近く、今上天皇を見つめる機会があった。2006年7月9日のことだった。

学習院大学 学内ホール(呼び名不明)
指揮 福田一雄
桜友会創立85周年記念(岩城宏之追悼演奏会)今上天皇陛下はビオラ
ワーグナー/歌劇「タンホイザー」序曲
ベートーヴェン/交響曲第9番「合唱付き」 (ソプラノ:大島洋子、アルト:寺谷千枝子、テノール:井ノ上了吏、バリトン:黒木純、学習院OB合唱団)


以上のコンサートに行ったのだ。
どうやってチケットを手に入れたのかは覚えていない。

ただ、岩城宏之指揮に関心があって手に入れた気がする。そして、会場に入ると岩城宏之氏の遺影が指揮台の近くに置かれていた。わたしのチケットは最前列で指揮台に向かって左側だった。

小澤征爾氏の指揮のコンサートは3回くらい見ていたが、岩城さんの指揮、その生演奏?は観たことがなかったので、、とても残念だった。

それから気づいたのた。皇太子がごく自然にステージに現れる楽団員の流れにのって、普通の一人のビオラ奏者として最前列にすわられ、隣の奏者に微笑まれていた。

ナルホドここはそうか、とその時気づいた次第だったが、そこからは、ずっと皇太子の立ち居振る舞いを、観ていた。

皇太子は、指揮者を他の奏者よりも多く注視し、周りの音を落ち着いた表情ながらよく聴き、さらに配慮しながら、楽しんでおられてた。

たぶん、日頃から怒ったり、嫌な表情を微塵を表さない人ではないか、、と感じた。華厳経に「心はさながら絵師のごとく」とあるが、皇太子は感情をうまく淘汰されていて、内面の機微を統御できる人なのだなと感じた。

それにしても、またなぜ、ビオラを選んだのだろうとか、この人の内面を知りたくなったのだ。

ビオラが主旋律を奏でることは少ないが、
アンサンブル、調和の鍵をにぎるパートにある。指揮者と同じように全体を俯瞰して、聴こえ、心地よいのだ。

わたしには、あの演奏会の中で、そうしたビオラのポジショニングが、令和の天皇のあり方、和をもって令(いい空気感)とする、といようなポスト象徴天皇制を、自ら選ばれていくように思えた。

検索すると、今上天皇のご学友がこう語っていた。

白石都志雄氏
「ビオラというポジションはオーケストラの中でいくとバイオリンの下にあって、チェロとコントラバスの上にあるという、ちょうど真ん中、中間部の音域を作る楽器になります。
全体のハーモニーの中心に当然いますし、オーケストラの中でもほぼセンターの方で弾くわけで、上を見ながら、逆に下にも気を配りながら弾くポジションでもありますので、本当に全体を俯瞰(ふかん)するような位置の楽器を自ら選ばれたのかな、という印象を持ちます」


わたしも、あの時感じていたのも、そういうことだ。

引き続き日本は、良い君主に恵まれたのだ。今上天皇は、一段と、この国の人々の中に入ってきて、国民を深く広く、寿ぐだろう。

エアコンが効いていて、やや肌寒かったが、いいコンサートだった。

NHK受信料の解約

今月のクレジットの引き落としの中に、NHK受信料13990円があり、違和感があった。ある事情で、テレビを全く見てなかったからだ。ただ、テレビ自体は今もある。

けれどテレビは、わたしが買ったものではなかった。その具体は避けるが、そうした「特段の事情」をNHKに相談したところ、解約の手続きをする旨、回答をもらった。

なんだ、結構、話は分かるじゃないか、と。

また、
受信契約と受信料支払いとは、別のことのようだと、N国党の主張から知った。

そもそも、テレビがあったら金をとるという法理は、動産税ではあるまいし、、
土台、無理があるのだ。

スクランブル放送にすべし、、

伊庭靖子展は発見だった

不忍池の池から東京都美術館まで、サントリー プレミアム モルツを飲みながら、長女は鰻重だけではもの足りず、菓子パンを食べながら、歩いた。

西洋美術館は常設の松方コレクション展で、やはり混雑していた。それはこれからでも、見れる。

東京都美術館は、長女が夏休みの宿題のために行くことにしたのだ。検索し、伊庭靖子さんは存命の画家と知り、現代絵画の方が、長女になにがしか、インスパイアがあるかも、と思っだけで、掲示版をポスターを観ても、さてさて、どうしたものか、と思いながら入った。大人800円、中学生以下無料とあり、ならいいか、、と。

まなざしのあわい 伊庭靖子展

最初の大きな壁紙のような絵画、ソファの絵画を見て、、すごい!じわじわくるものがあった。静物ばかりだが、これはフェルメールを超えている。

サイトの検索からは、こうあった。

画家の眼とモティーフのあわいにある世界に魅せられた伊庭靖子(1967-)は、触れたくなるようなモティーフの質感やそれがまとう光を描くことで、その景色を表現し続けてきました。

自ら撮影した写真をもとに制作するスタイルは変わりませんが、近年、それまで接近していたモティーフとの距離が少しずつ広がってきました。

空間や風景といったものへの関心が高まり、まわりの風景が広がることで、伊庭の絵画は新たな展開を見せています。


さらに、案内のレジュメにこうあった。

伊庭は、物の表面には「質感」が現れる場があると言います。
クッションの模様は、カンヴァスに貼りついた装飾のように見えてくると、画面から浮かび上がってきます。
見る人の視覚を揺さぶる模様の描写によって、クッションに反射する光やその周囲を
漂う空気といった、目に見えない「質感」が際立たされています。


私見だが、描かれた物に質感がある、はその通りだと思う。

「質感」を「空気感」「気」と置き換えると鮮明になる。
2Dから3Dへの変容が、観る側の内部に起きる。だまし絵とは違うのは、そうした錯覚ねらいではなく、質感を感じさせる力が、その絵画には、あるのだ。触らないのに、視覚だけで、その気を感じた。

そして多分、その気は、絵画にあるのではなく、わたしの内部にあるものが呼び起こされ、現れる。

ともあれ、カンヴァスの油彩画なのに、そう感じさせた質感は、いささか驚いた次第。

ただし、その質感には「風の流体」はなかった。写真がベースにあるからかも知れない。

流体力学を感じさせたのは長谷川等伯の「少林図屏風」だけだ。図屏風は動いていた。

伊庭靖子展を観る前に、鰻屋へ

8日、上野の東京都美術館で開催中の伊庭靖子展に、中2の長女を連れて、観に行った。

大江戸線の上野御徒町駅から不忍池をめざして歩くと、

いつもだが、ここに来ると、わたしはどうも、たった一日の出来事、明治維新の官軍の薩摩藩と彰義隊の激突を想像してしまう。
南から攻める官軍の大将は、大村益次郎の采配で、西郷隆盛が担った。西郷さんの銅像がその場所から近い公園の一角にあるのも、むべなるかな。

結局は、大村益次郎が用意したアームストロング砲が、東大病院の辺りから数発はなたれ、彰義隊はあっけなく壊滅、敗走する。

その不忍池の前に、老舗、鰻屋伊豆栄がある。遠い昔に入った気がする。先週、長女が鰻が食べたいというので、入ることにした。

職人さんは見えない、焼きは奥で、なのだろう。和服の、女将さんと目が会い7階に。
蓮の葉の緑におおわれた不忍池の池が見渡せ、心地良かった。

鰻重の「竹」を2つ、注文したのだが、20分、30分待てども、鰻重が来ない。どうして、、と和服姿の仲居さんに尋ねたら、まだ注文が通ってなく、静かに、切れた。
なら、はやくできるのが「松」ならば、それをはやく、、と告げた。
けれど、怒りが次第たかまり、たまたま隣のテーブルの片付けに来た、さっきの女将さんに、ことの次第を伝え、「詫びの気持ちを示して」と伝えた。

甘さ控えめの鰻重を食べ終え、会計の際、鰻重のお代を女将さんは「いただかない」と言われた。いささか恐縮したが、「また来ます」と伝えて、、美術館へ。

そうだ、見ため、女将は和服姿の「湯ばあば」のようだった。ただし、女将は優しかった。さすが、老舗の女将だった。

伊庭靖子展は次回に。

真夏の断想、場所から思い出すこと

今朝、広島の平和記念式典で原爆ドームのレンガが映し出され、安倍総理のスピーチが流れていた。ほんの数秒見て、テレビをOFFにした。見入ることはもうない、すっかり、脱テレビ人間になっている。

日本の夏は、不思議と昔の、ふとした言葉や光景がよみがえる。ささやかな回帰、、

一つ目、、
安倍さんの声を聴いていて、彼の父、安倍晋太郎外務大臣の婚外子のことを思い出した。

大学の同じクラスに内城という男が、どういうわけか、八王子から遠く離れた駒込の古い木造アパートの2階に住んていた。

なぜ会いに行ったのかは、覚えていない。男は、文学青年で同人誌のようなものに加わっていた気がする。

雑談する中で、向かいの部屋に、誰か入っていく音がした。
「あっ、帰ってきたな。向かいの奴は安倍晋太郎の子さ、、愛人との間にうまれた、近くの大学に通っているようだ。会ってみるか?」と言われたが、
「別に、、いいよ」と応えた。

二つ目、、
荻窪駅の北口近く、杉並公会堂に向かう方に映画館があった。1972年頃か、「幸せパリで」という、カトリーヌ・ドヌーヴとジャック レモンの映画やっていて、バート バカラックの「エイプリルフール」という名曲が流れていた。

そうなのだ、わたしの高校時代は映画に目覚めた頃で、、「卒業」「明日に向かって撃て」とか見たものだが、、その音楽はサイモンとガーファンクルであり、バカラックだっだ。チェ・ゲバラと同じ1928年生まれ、91歳になっている。

そして、その時思った。映画は、見終わってすぐ、感想など、いわなくていい。「面白かった」は、要らない。にわか感想など、けっとばせ!
そうでなく、寝かせるのだ、、澱がたまるのを淡々と待てばいい、、そう決めたのだ。

三つ目は、
板橋区大山の母子寮があったところ。
今は、駐車場になっているが、その正門前の四つ角は、さまざまなことを考えた所だった。もう一つは大山保育園の滑り台の下で仰向けになったときのこと。

5歳か、6歳だった。理解しがたいだろうが、こう考えた、、

1.また、、この、人生を、やるのか、、

2.ここは、ほんとの居場所じゃ、ない、、
母親も、本当の母ではなく、という妄想。

3.すごく、まわりの出来事が、冴えざえとした青の世界で、みえて来る感覚。コトバはわからないが、わかるという感覚。

4.こう、考えていることを、心のどこかに入れてフタをして、そっとしておき、いつか、あけることにしよう、、

このブログを始めたころから、そのフタは開けていることに。

次の仕事になるかも

きのう、平和台の焼き鳥屋で、外国人技能実習監理団体の加藤さんと、二人宴をした。

先月までいた塗装工事会社のときの、ベトナム人実習生を監理する団体の人で、お会いしたのは2度目だったが、、

正直言って、塗装工事会社の人との対話は、通常の知識レベルが合わず、フラストレーションがつのっていたので、

その吐き出しを、加藤さんの対話で、したかったのだ。

加藤さんは早稲田を出ているが、履歴書には書かないで、監理団体に入ったと教えてくれた。賢い。なので、話が伝わりやすいと思えたのだ。

お会いして早々、加藤さんは、ベトナムコーヒーをプレゼントしてくださった。

その上、、加藤さんは私を団体に入らないかと、勧誘してくださった。ありがたい。

ただ、わたしはじき65歳に、そこがハードルだろうな、、



大熊信行先生の不思議

わたしが出た創価大学は、もうじき創立50年になる。よくぞ50年、、しかも、あの小さな白亜の学舎から大きな発展を遂げ、続けていて、世間の偏差値ではわからないだろうが、在学生の質は、格段に上がった。

わたしはその三期生で、しかも斜に構えて、窓際族のように、生息していた。

現に、クラスに一人、学会とは無縁の奴がいて、そうか、俺も彼のような立ち位置で行こう、1年の終わりに決めていた、気がする。

ちなみに、彼は一人で山の縦走したりするのを好み、野ウサギを食べたり、一クラス53人の中にあって、ボサッとした風貌で屹立していて、不思議な男だった。

さらに思い出すと、1973年の滝山祭で創立者に遭遇したその彼は、創立者から「わたしの仇をとってくれ」と直接言われた、と教えてくれた。それを聞き、なぜか、わたしは「面白い!」と声をあげて喝采した。創立者に対して、当時、様々な思いがあったのだろう。例えば、三田にいた福沢諭吉のように、学内に住んていただけたらいいのに、思ったりしていたのだ。

つまり、わたしは場違いな学生だったし、逆に「甘えの構造」(懐かしい本のタイトルだ、、)にどっぷり浸かっていたのだ。

はっきり覚えている。わたしは大学に、夢心地で、甘えていたのだ。生協での不始末とか、、

70年代、創立者は一段と激しく目まぐるしい、疾風怒濤の中で戦っておられた。

当時、創立者の振る舞いは、戦艦ポチョムキンのモンタージュ映画ように、動きが速くに見えたし、その醸し出す空気感が違って見えた。この感覚は、カルト教徒的な、潜在的心理傾斜に起因するものではない、素の事実感覚だった。

大學草創期、やや高齢ではあったが個性的な教授が何人か、おられた。哲学の刈田喜一郎先生、経済の大野信三、刑法の久礼田益喜、社会学の樺俊雄(樺美智子の父)、、そしてわがゼミ、民法、農業法の宮崎俊行先生(ただ先生は創立者と同年てお若かった)とか、、

大熊信行先生はその筆頭で、常に書いている人、というイメージがあった。入学式の壇上の左側最前列におられ、創立者の講演「スコラ哲学と現代文明」だったか、を身体を傾けて、手帳に何か筆記していて、この老教授は、何か違うなと感じさせた。

創立者自ら一人で、高輪の大熊先生のお住まいまで赴き、教授陣に加わっていただくように、、まさに三顧の礼で招聘された経済学者だったし、国家悪とか、時事論壇の一旗頭でもあった。

左から右へ、思想遍歴の社会学者 清水幾太郎は、大熊先生から指弾を畏れていたようだ。そのことは、またいつか。

大熊先生の経済学は、近代経済学とマルクス経済学の統合にあると表明されていたが、数量経済学ではなく、ひたすら文章で
論理立てされていて、素の学生であった私には、憧れたが、よくわからなかった。

思い出した。1年の経済学単位を落として、
3年のとき、大熊先生の経済学を受けたのだが、、カーライルやエマーソンの文学論みたいな授業で、年間計30回の授業で、数回しか受講しなかった。

さらに、思い出したことが、、
2年のとき、グランドに在校生が
集り、創立者が短いスピーチをされた。

海には、コワいフカが、いる。
フカ、フカ、フカ、、
不可ばっかりだ、、、

それを聞いて、在校生は
ドッと歓声?のような大きな笑いが
起きた。

創立者は、在学生の成績表を一覧されて
惨憺たる状況に、慨嘆されたのだ。

わたしも、大笑いした。
それって、オレのことだ、と。
わが成績表は、大量の不可ばっかりだった。

理由はいったん不可をとり、再履修は好きな教授の講義を受けようと決めていたからでもあった。

でまぁ、大熊先生の経済学を再履修で選択したのだが、最終のテストで、わたしがやらかしたことを、、告白しておこう。
いまさら単位取消には、ならないだろうから、、こうだ。

年度末の単位認定テストで、わたしは設問とは全く異なる答案を、試験教室の隣で書いた。

事前に縦書きの答案用紙をどこかで入手したのだ。カンニングではないが、単位取消になって当然の行為だった。が、わたしは自問自答の案を、やや興奮しながら書いた。結構幸せな気分で、ひたすら大熊先生に見てもらいたい、、そんな気分だった。

それは、古代西洋哲学の田中美知太郎の次の大熊先生への抑制の効いた揶揄?に対して批判する回答、大熊先生の経済学の擁護論を書いたのだ。

田中美知太郎は、昭和34年6月の読売新聞 論壇時評でこう書いていた。今、読み返すと、田中美知太郎は大熊経済学の本質に触れることを見事に指摘していた。

文藝春秋の「政治だけが悪いのか」(田中美知太郎)も、同じような政治論であるが、これは哲学的解釈や文学的解釈の形をとらずに、政治の実際についての平凡な意見をのべたまでのものと見られるだろう。

それは一般市民を相手にするソクラテスの語法を真似たものともいわれるであろうが、かの進歩的俗論家たちから、かえって俗論として軽蔑されることは間違いないようだ。

岩波書店、世界の「経済学における人間」(大熊信行)も、経済では引き受けきれないような問題を取り扱っている点で、やはり政治論と関係があるともいえるだろう。

しかしこれは、つづきものの長篇論文の一部分たけを読まされるような感じで、ほかに論者の著書や論文を読んでいない者にとっては、いろいろ不明の点がのこるのではないかと思う。

家族の問題を、国家社会との関係から取り扱うのは、むしろ政治学の伝統的課題ではなかったかと思われるのであるが、

論者は財物と生命の両方にまたがる生産概念の拡大、あるいは統一的使用によって、きこれを経済学のうちに取り入れようとしている。

なかなか面白い試みだと思われる。しかしそれが単なる同語異議の使用にならないためには、もっと厳密な概念規定が必要ではないかと思われるし、

また逆に、概念の同義性だけを確保しようとすれば、得られるものは全く異なる領域の単なる抽象的統一にすぎなくなるのではたいかと恐れられる。

また家族を生命や労働力の再生産の場としてのみ理解することは、経済学として最大限の努力であろうと思われるが、

それはしかし、経済学的理解の限界を示しているようにも思われる。

家族や国家社会の成立を理解するためには、単なる生存のためというだけでなく、よりよい生活のためにという見地が取られなければならないというのが、むかしからの古典的政治学の教えなのである。

以上であった。わたしが尊敬する碩学、田中美知太郎は自分に対する軽いボケを書いたあとに、深いツッコミを大熊経済学にいれた。不覚にも同調の頷きをしながら、後半部分は、それは少し違うと反駁する気分がつのり、大熊経済学の擁護文を書いた。ただ詳細は忘れた、稚拙な文章だったに違いない。

試験終了のチャイムがなり、本来の教室に答案を持ち込み、出す段に、ギョッとした。答案の形式が横書きのものだったのだ、、でも、ままよ、と出してしまった。試験官に指摘されず、受け付けられ、助かったが、、、まてよ、これって厳正な処分になるかな、、と頭の中をよぎりつつ、、

結果は、大熊先生の評価は「優」だった。
なんだか気持ちが通じた気分がしたものだ。

ある時、大熊先生は遠くを見つめるように、こう言われた。

「君たちは、創立者のもとに、ひたすら集まって来た。だがしかし、創立者の本当の偉大さを、まだまだ、何もわかっていない」と。
そう聞いたとき、不思議な気持ちになったことを、、覚えている。

大熊先生は1977年6月、劇症肝炎で逝去された。享年84歳だった。
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