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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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信心の断想、我見と言われて

このブログは備忘録というネライのみで、書いているのだが、どうやら作家森敦の「意識の変容」のような意味合いも、求めて書いている、、のかもしれない。

心の中に、橋頭堡(キョウトウホ)を作ろうとする作業なのだと。

21日の土曜日の夜、稲葉ショウイチさんという一歳上の人と、約二時間対話した。

いわゆる学会の幹部指導という機会で、ある切迫した事情から、強いすすめがあり、ならば迫力のある「稲葉さんを」と指名して来ていただいたのだが、、

稲葉さんは、関西の名門高校の出で、重篤な脳梗塞を克服した人、昭和の学会人の空気を漂わせた人だったので、一度さしで対話したいと思っていたからだ。

ひょっとしたら鎌倉時代にも、烏帽子姿で、おられたかも知れない。

さて、私の身の上をお話すること45分くらいか、都度確認されながら聞いていただいたが、その後、私を「我見の人」と評価された。

ひとまず、その通りとうなずいて見せた。

だが徐々に、はぁ、という気持ちも強まって行った。私はかなりニュートラルな人間と位置づけていた、からだ。

おまけに、うまく言えないが、落としどころ、筋書きの結末が見えてしまった。ライターは私に指導をすすめてきた人、、だった。なんだかな、、

それにしても、いったい、我見のどこが悪いという歯向かう表情をしていた、、と思う。もう、この類いの指導はご遠慮しよう。

対話を終え、丁重にお礼を申し上げた。
常不軽菩薩をイメージしながら。

牧口常三郎という学会創設者にしても、価値論という我見をきわめて、日蓮仏法に到達したわけだし。

戦後、戸田先生は価値論に蓋をするようにされたが、牧口先生の思想遍歴の努力があったからこそ、今日の礎が築かれたのだ、、と思っている。これって大事な視点なはずだ。いわば牧口先生の思考の橋頭堡の積み重ねか、、

話は飛ぶ。私見だが、
創価学会の信心は、PCのOSように、ご本尊というOS への働きかけであり、各人が自由に心を鍛え上げていけば、いいものであるに違いない。

映画「コラテラル」の対話

ずいぶん前に、ユナイテッドシネマで見たトム・クルーズ「コラテラル」(巻きぞいという意味)を、Amazonプライムで、あらためて見た。

トム・クルーズの映画で、彼は白髪の殺し屋の役。これほど抑制を効かせた演技はない。その表情の変容ぶりがいい。娯楽映画ではない。

第一印象、この映画のLAは、空撮とか、街の夜景、空気感が美しい。

その夜に5件の連続殺人を依頼された殺し屋と、たまたま出会って『巻きぞい』をくらうタクシードライバーとの壮絶な闘いの話なのだが、

トム・クルーズが扮する殺し屋のヴィンセントは、タクシードライバーのマックスを、簡単には殺そうとしなかった。

良質な対話があり、事の展開とともに影響しあって行く。そこで、グサッときたやり取り(1時間29分後あたり)を以下に。

ヴィンセン(V)「こっちも仕事だ」

マックス(M)「俺を殺して別のをひろえ」

V「お前は腕がいい。これも運命の巡り合わせだろう」

M 「やめろ、そんなたわごと」

V「たわごとだって、、」

(中略)

M「そんな理由、、」

V「そんなもこんなもない。生き死に、いいも悪いもない」

M「平気なのか、、」

V「無関心だ。広大な宇宙に比べたら、人間なんてチリみたいなもんさ。まばたきする間に消える。俺もお前も、、だれが気にする」

M「どうかしている」

V「何が、、」

M「人が何を考えているかなんて、あんたにはは到底わかりっこないだろうな。
あんたは殺されるね。人の気持ちなんかわかりっこしないんだから。
あんたは、そういう冷たい人間だよ、
どこで、どう育てば、そんなふうになるんだろう。心はないのか、人間なら誰でも持っているはずのものを、あんたは持っていない」

V「タクシーの運転手がフロイトみたいな分析をする。」

M「質問に答えろよ」

V「自分はどうだ? タクシーをこぎれいにしていて、夢はリムジンか?いくらためた? 」

M「あんたに関係ない。」

V「きっといつか夢がかなうって、、そうして、ある日、ふと気づくのさ、夢はかなわないまま、いつの間にか年をとった自分に。

かなわないのは、自分が何もやろうとしなかったからだ。
夢は記憶のかなたにおしやられ、ひじ掛け椅子にゆられ、一日中ぼんやりテレビを見て過ごす。
自分を殺しているのと同然だ。

リムジンなんか、頭金を作って踏み出せばよかったんだ。女のことにしてもそうだ。
なぜ、いつまでも、タクシーに乗っている? 」

M「なんとなく、流されて、、ちゃんと人生を考えてなかった。ギャンブルで金を作ろうとしたこともあるけど、あまりにも無謀だったし、失敗したくなかったんだ。完璧にしたかった。

始めようと思えば、いつからでも、始められると。

けど、そんなこと、何だっていうんだ。どうだっていいだろう。

そんなこと、一度も考えたことなかった。あんたのおかげだ。そうなんだ。ちっぽけことだ。」


ヴィンセントは「お前は本気でやろうとしていない」と、マックスの心の奥底にある確信へと突き刺したのだ。

これは他人事(ひとごと)ではない。

それと、ヴィンセントの最期のセリフ

I do this for living
(これが、俺の仕事なんだ、、)と呼応している。本気で仕事をしてきたと。マックスへの、贈る言葉だ。


今日は、いろいろやらねばならないことがあるのに、「コラテラル」以外にも、
「ノーカントリー」と「ミリオンダラーベイビー」もみた。

いづれも名作らしいが、心に残る言葉は、上記の対話だった。

続、柳田國男が創価学会を語る

前回に続いて、柳田國男「故郷七十年拾遺」から、牧口常三郎と創価学会について書かれていたものを、以下に転載する。

温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命にしていた牧口常三郎君が、あんな一つの哲理(注:おそらく価値論のこと)を発見して、新興宗教の開祖のようになったわけは、牧口君の個人的事情が元であったかと思う。

創価学会の人たちには気に入らない臆測かもしれないが、牧口は人のことを心配する性質で、自分が苦しんでいても他人の世話をするといった気持ちをもっていた。
それにもともと自分一家が貧苦と病苦とに悩まされたので、仏教のうちでも、殊に特殊な法華教(ママ)に入ったのだろうと、私は実はその点に対して大変な興味をもった。

私見だが、
1.柳田國男は牧口初代会長を、、『山の人生』の炭焼き男に関心をもったように、つまり民俗学の調査対象者のように牧口先生を見ていたのかもしれない。

2.苦学はもとより貧苦と病苦と家庭の災難の中に、牧口常三郎初代会長もおられたこと。
今日の創価学会がどんなに華々しく、にぎやかな本部幹部会を行い、≪職業としての組織人≫によって官僚的なstatementが繰り広げられたとしても、、大事なことは、ひとりひとりの、人間の苦悩から転換、人間革命というレジリエンスが「個人的事情」から始まることを、はからずも柳田の文章は気づかせてくれている。これは永遠に変わって欲しくない原点だと、強く思っている。

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牧口君がうまく働いてくれさえすれば、色々の事が明らかになるだろうという希望から、彼の立場に同情を寄せていた。

後に彼の著書「価値論」に私が序文を書いたのも、そんな因縁からである。

ところが先方は、私が信仰までを一緒にやってくれるものと誤算した。

今度の戦争に入って間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話に来て、泊まり込んで行ったが、私は大した印象も受けなかった。

それにあれの哲学のシステムが少し違っていると思ったので、深入りしても役にたたないと思いながら、一緒に話して泊まったのが最後であった。

若い者をつかって熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが、抵抗しつづけた為、牢の中か、出されて直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。

その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、三十人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。

そして元気に人を説得、設伏することに努めていた。

戸田城聖のことは縷々牧口から聞いたが、一二度会っただけである。大井かどっかに中学校をやって成功したが、宗祖となる牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思う。本も沢山読んでいたわけではなかった。

私はこの宗派はどうも宗教ではなく、マジック(魔術)だと思っている。マジックとレリジオン(宗教)とを区別する一番主な点はアフタア·ライフ(来世生命)を考えるかどうかにある。

「郷土会記録」
牧口君もむろんその仲間に入っているが、もうそのころ既に五十歳に近く、余り無口だったから人から愛せられなかった。

然し実にいい人で一緒に田舎などを歩いていても気持ちがよかった。

宗教の方の人はどう思うか判らないが、私の見るところでは、やはり家庭の不幸がその方へ走らせたものと見ている。

創価学会も牧口君から戸田城聖君を中心にしていたが、今は誰が主になっているのであろうか。『聖教新聞』というのがあの派の機関誌になっているらしい。

「牧口君入信の動機」
郷土会は段々会員が増えて一番多い時は十人位の人が私の処へ集まった。

早稲田大学の小田内通敏が熱心な分子であったが、今度の戦争後に創価学会で世間に知られている牧口常三郎などもよくやって来た。

経済地理学であったか、人文地理学であったか、何でもそういう標題の大きな本をそのころ既に出して居た。細々した処では議論の余地があろうが、プランがいかにも大きく面白いものであった。農商務省の嘱託をしているという話をきいたが、よくあんなものを書く暇があると感心に思った。

越後柏崎の人で、早く北海道に移住し、向こうの師範学校を出、それ以後は独習であった。

口が下手で余り物を言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことをいう人であることが判って来た。

北海道には札幌農学校があるだけであったが、それ以外にも後々に本当に学者になった人も大分あって、みな多少は牧口君の影響をうけたり世話をうけたりしていた。

つまり彼は師範学校を出てから附属学校の教師か何かをして後進の世話をしていたわけであろう。

独習の社会学者で田辺寿利君という東京のどっかの教授をしていた人があるが、あれなどは北海道時代から特に眼をかけて貰っていたらしい。牧口君自身もその人に非常に望みを託していたようだ。 

創価学会の二代目で最近、病気でなくなった戸田城聖なども北海道以来のお弟子で東京に連れて来たものだから、宗教に入る前からの師弟であった。

牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供が患ったり死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた。

貧苦と病苦とこの二つが原因となって信仰に入ったのかと思う。

以前は決して宗教人ではなかった。

創価学会というものも自分の経済学の方の意見から来た名前で、それを新興宗教の名にしたのは、戸田城聖の仕業か、そうでないまでも、ずうっと後の考えから来ていると思う。

富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口はそのうちの本門寺というのに参り出した。

その原因として三谷という一人の面白い人間が介在していた。どうも正体が判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。

処がいくつかの珍しい妙薬を持っていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議に良く効いた。

それで私はいつか聞きに行ったことがある。貴方はどうしてそんなに沢山いろんな薬の秘密を知っているのかといったところ、やはり嘘の返事をした。

シナの牛荘から何十里とか何百里とか入った処に旧いお寺があって、色んな珍しいものが伝わっているのみならず、大変な書物を持っていた。

そんないかにも私の喜びそうな話をしてから、三谷はそこに暫くいて、そこで覚えて来たというのだが、聞いているうちに出鱈目が判るような話ばかりであった。

それが本門寺の信徒だったわけである。

牧口君とは早くから知りあっていた間柄らしく、牧口が私に「一度三谷君に会って御覧なさい、三谷君の処に面白い薬がありますよ」といって紹介してくれたのが最初であった。

私もその薬の恩恵だけは受けているが、その成分は少しも知らせてくれなかった。

その男が牧口君を仏教の方へ導いて行った。

ところが、ある時、牧口がやって来て、「私はこの度深く考える処があって三谷君とは絶交致しました」といったのには驚いた。

それっ切り三谷は私の前に現れなくなって、消息を絶ってしまった。

私より大分年上だったから、もう生きていないと思うが、法華の信者としては、牧口君の指導者であったわけである。


以上、
三谷素啓は目白学園の草創期、学園長を務めていた。

ずいぶん昔、神田の古本屋で、三谷素啓の箱入り著作集を、その背表紙を見たことがある。手にとって中身を見たりしなかった。てっきり学者だと思っていたが、柳田の眼では怪しい人物と映っていたようだ。

創価学会の歴史の中でも、三谷素啓の名前は牧口先生を折伏した人として出てくるが、その内実を示すものを読んだことはなかったので、柳田の評価は、新鮮に驚いた。

ある本によると牧口先生は自らすすんで創価学会の会長となろうとはされず、大分時間がたってから担われた。学者肌の方だったのではないか。
俯瞰してみて、カリスマ性のある宗教者は戸田先生からだった、、と素朴に思う、、

お二人は共通して、厳しい指導、しかし人に対してあたたかい心を持った師匠であったことは、確かだ。

柳田國男は、とてもじゃないが、お二人に及ばない。今、日蓮大聖人の「草木成仏口決」にある一文が浮かんだ。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼陀羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり

仏法の眼からみれば、柳田國男は『習い損ないの学者』なのだと、この「故郷七十年」の牧口常三郎論から感じた。全然、わかってない。柳田は、ただ他人の「人間苦」を読むのが好きなだけだ。。解決方法は「マジック」と、遠ざけている。

話はかわり、、伝聞だが、
牧口、戸田両先生は、会員にとどまらず、さまざまな人たちに接する中で、その身の上におきたことを聞いて、ぐっと抑えながら目に涙を浮かべられることが、多々あったという。

『心こそ大切なり』、、これこそ
牧口、戸田、そして池田という三人の創価学会の会長に共通する、奥底の姿勢、本地である、、と私は、、そう信じている。

柳田國男、創価学会を語る

柳田國男の「故郷七十年」は青空文庫の中で、まだ作業中とあり、気に入った文章をコピペできない。

仕方ないので、紙の文庫から手で入力し、以下に載せておきたい。

民俗学の創始者は、創価学会の草創のころ、外から学会に対してどんな印象を持っていたか、、が書かれている。内からでも外からでも、感じとれる何かは、確実にあるに違いない。

大きく分けて二ヶ所から、牧口常三郎初代会長と創価学会のことを触れている。

一つは「私の学問」の中の「郷土研究会」の文章。もう一つは「故郷七十年拾遺」の「真字本曽我物語」あたりからの文章。

私見だが、柳田國男は牧口常三郎と「前からなかなか関係は深かった」しその接し方は暖かい。なので「同情はする。されど私は、そもそも創価学会とは何か?それはわからないし関心もない」というスタンスにつきるのではないか。

実際、柳田國男が会ったのは二代会長までだったし、三代池田会長に会おうとはしなかった。

郷土研究会
明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった。そのときのことは、私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。

石黒忠篤君は、今では政治家になってしまったが、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれたらしい。

「郷土会」のもととなったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。

そこへ新渡戸稲造博士が西洋から帰って来られたので、後には新渡戸稲造先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。

話題のもとは、会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは、早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいている。ことによると牧口君が連れて来たのかもしれない。

小田内君の関係の一人、二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが、全部新渡戸先生の方へ移ったのである。

新渡戸邸へ移ってから初めて加わったのは三宅驥一(きいち)君であった。那須○君もそのころから来たが、この人はどちらかというと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だった。

先生のお宅では毎回会費五十銭をおさめて、そのころとして二円か二円五十銭くらうのごちそうをして下さった。

名ばかりの会費をとって、来客の面目を害しないように心づかいをして下さったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て、楽しい会であった。

明治四十四年の五月、私は牧口君を誘って、甲州の谷村から道志谷をぬけ、月夜野を経て相模に出たことがある。

そのころ電報が三日もかかるという山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であった。

非常に気持ちのよい旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出されるほど、印象深いものがあった。

この牧口君は創価学会の創始者であり、最近後継者の戸田城聖君も亡くなったので、世間の関心もあるかと思う。

牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範学校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だったらしい。

私は前からなかなか関係が深かったから、『価値論』という本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよくわからない。

若い者を引き立てることが好きで、師範学校で教えたお弟子たちを大変可愛がったりするのが、一つの特徴であった。


北海道出身の社会学者田辺寿利という人も、お弟子の一人だったと思う。

牧口君はどういうわけか文部省に入って、私のところへ来たのは、文部省の嘱託をしていたころであった。

郷土会はやがて郷土研究を出す母胎となり、今日の民俗学会の基礎となって来たが、そのころはまだ民俗学という言葉は一般化されなかった。


以上である。創価学会は若い人を引き立てるという柳田國男の見立ては正しい。

今日、学会は世界に拡大したが、柳田國男の印象の通り、世界中の青年を引き立てている。たとえば「青年よ広布の山を登れ」という歌がある。



もう一つは、次回とする。

「山の人生」から

前にも取り上げたが、あらためて柳田國男の「山の人生」の中から、一番記憶に残る二つの話、おそらく裁判記録だろうが、、「人間苦の記録」その全文を掲げておきたい。わたしは、その語り口が好きだ。

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。

何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。

阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。

それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。

私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。

ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。

すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

尋常性乾癬の現状

二週続けて金曜日は、近所の温泉銭湯「久松湯」に入っている。翌日肌の状態が良好なのは、たしかで、さらに毎週続ければ、乾癬はだいぶ沈静化する気がする。

乾癬は、毎年夏になると暴れだし、悪化する、その繰り返しだったが、それはなくなった。

13日の金曜日、久松湯は比較的すいていた。オーナーは「東京盆だから」と話してくれた。その言葉、知らなかった。

温泉の露天風呂に入っていて、ふと40だい後半っぽい、アトピー系の人がいた。前にも見た気がする。私と同じ湯治が目的なのだろう。460円の銭湯料金、いわば「コンビニ湯治」といえる。その人は、改善しているのだろうか。

最近、久しぶりに、白いグンゼの丸首とVネックの下着を6枚買った。それまではグレイのTシャツばかり、だったから、感慨深い。

乾癬のせいで、背中もおなかも、血がにじみだし、白い下着はじきにくすんでしまうから、数年近く、白を着るのはやめていた。

今年に入ってから、その血がにじみ出す状態は抜け出すことができたわけで、改善傾向はたしかだろう。

まだ、塗り薬はやめられないし、背中がかゆくなるのは変わらないが。

長女に、綿棒で薬を塗ってもらうと、あぁそこそこと、声をだす。心地よいのだ。

そうだ、背中をかく棒が欲しくて、Amazonで検索していたら、300円程度の手ごろなものがあったのだが、そのほか2000円になるまでのものを買わないとダメなので、グンゼ下着を6つ買うことにしたのだ。たいした話しではないが、思い出せるように、書いておこう。


私のなかの創価学会

今週、小茂根図書館で「宮本輝 叱責」で検索をかけていて、下記のエッセイに出会った。最初の文章は可笑しくワッと小声を出したが、しまいに涙が出た。とんと忘れていたが、嗚咽に近かい涙、だった。実は、このところ、さまざま艱難辛苦がおしよせてきていることも影響して、泣きの涙だったのだろうが、、

されど宮本輝、実語の人、なんてまあ、ご自分の五臓六腑を見せる作家なのだろう。その勇気に、、感服した。

この信心を「内在的」にとらえて持続しているならば、輝先生の言葉はしみてくる、、自分の場合も、そうであるに違いないのだと。

タイトル 「私のなかの創価学会」.
サブタイトル 「人間を幸福にする闘いを文学に」.
作家 宮本輝(みやもとてる)

私が創価学会に入信したのは昭和47年の秋だから、信仰して、かれこれ17年が過ぎようとしている。
強度の不安神経症の発作に苦しみながら、私は、創価学会という善意のかたまりみたいな人間群像に飛び込んだのだが、いま、私は「飛び込ませてくれた多くの人々」に、言葉に尽くせない感謝の念を抱いている。

入信してまもなく、私は座談会で扇子を持たされ、学会歌の指揮をとらされて、すぐにでも創価学会から足を洗いたいと思ったくせに、その半年後には中等部の担当者となって、部員さんの家々を自転車で廻っていた。

私が担当した中等部員たちも、いまは立派な社会人となり、中にはもう4人の子供の父となっている人もいる。勤行なんか大嫌いだと言う中学生たちに、ずいぶんてこずったのだが、振り返って思い起こせば、てこずらされることで、私は中学生たちに磨いてもらっていたのだ。

中等部を担当していたとき、私は、中等部総会のために、生まれて初めて、短い戯曲を書いた。これは評判が良くて、次には尼崎の男子部幹部会のための劇を書かないかと言われた。

私は、張り切って書いたのだが、出来上がったシナリオを読んだある幹部の、「やっぱり尼崎は花笠音頭にかぎるで」というひとことでボツになった。 私は憤慨したが、いまになれば、なんだか楽しい思い出である。

けれども、その短い戯曲を書いているときも、私は将来作家になろうなどとは夢寐にも思っていなかった。私が、作家をこころざしたのは、入信して3年が過ぎたころである。

池田先生が、講演のなかでサルトルの言葉を引用して指導された箇所を読みながら、私は、こんなにもたくさんの創価学会員がいるのに、なぜ世間に通用する作家が一人もいないのだろうと思った。

そして突然、「よし、俺が作家になろう」と決めた。

本来、ケンカ早くて短絡的で、根は明るい性格なので、決めた翌日に会社勤めを辞めてしまった。(このような性格は、じつは作家に向いていないのではないかと、ときおり不安になる)

私は、作家になろうという夢を叶えるために入信したのではない。
入信してから、作家をこころざした。

日蓮大聖人の無尽蔵な御指南が、池田先生の多くの指導が、少しずつ少しずつ私の内部で眠っていたものを揺り動かして、 私を作家への道に走らせたとも言える。

なぜなら、私が小説の中で書いているものは、すべて大聖人様の仏法から御教示されたものであり、池田先生の指導から学んだものであり、ひいては、創価学会の、人間を幸福にする闘いから教えられたものばかりなのだ。

それらは、いったん私の中に染み込み、私という人間を通過して、私という世界における体験やら思考やらをまな板として、別の皿に移されていく。

だから、いささかでも私の作品を評価する人は、日蓮大聖人の仏法を、池田先生という指導者を、創価学会という奇蹟的な団体を評価しなければならない。そして、私の作品を否定する人は、この私の眼高手低(がんこうしゅてい)を笑うべきである。

創価学会への入信、それによる幾つかの信仰体験、池田先生の激励がなければ、宮本輝などという作家は存在しなかっただろう。それどころか、ノイローゼが昂じて廃人となるか、生来の作り話のうまさを生かして詐欺師となるかがおちだったに違いない。これは、本人が言うのだから、ほとんど間違いのないところである。

この少ない紙面において、創価学会の、戦後の日本に果たした巨大な役割について書くのは、どだい無理といえる。

いったい、どれほどの貧しい無名の庶民が、創価学会の中で、生きる希望を見いだしていったことだろう。どれほど多くの病人たちが、蘇生の力を与えられたことだろう。どれほどたくさんの青年たちが、日本の教育制度が忘れた「人間の道」を学んだことだろう。

それらをなおざりにして、創価学会や池田先生に関する低俗な記事を書く、売らんかな主義の三流ジャーナリストも、読んで騒ぎたてる人も、それでは、自分たちは他社の幸福に対してどのような労苦を費やしたと言うのであろう。

彼らはいつも傍観者で、隙あらば他人をだしにして何らかのおこぼれをかすめ盗ろうとしている恥知らずたちにすぎない。

彼等は永遠に傍観者だが、自分たちの立っている場所が、決して安全地帯ではないことに恐れを抱いている。

だが、彼等は眼低手高(がんていしゅこう)なのだ。我々が、眼高手低である限り、彼等の手の高さは、ときに巧妙に翻弄するだろう。

大聖人様の仏法を学び、池田先生の薫陶を受けている我々は、おのずと眼高となっていくが、それを社会の中で具現化する手が低いあいだは、眼低手高の輩を打ち負かすことは出来ない。

思想は低劣だが技に長けている。そんな連中に負けるのは恥だから、作家としていまだ「手低」の私は、絶えず創価学会という原点に立って、自分を磨きつづけなければならないのである。


眼高手低(がんこうしゅてい):理想は高いが実行力が伴わないこと。特に、批評する力はあるが創作力がないこと。
眼低手高(がんていしゅこう):理想は低く技術だけが高いこと。中身がなく、創作力のみが長けていること。宮本輝の造語。

酒の常習は、毎日少量でも、やめた

わたしは、人の目を見るのが好きだ。とりわけ中年以降の人の目は、その人の人生が表れた作品、と思っている。

西郷隆盛は、人を魅了する黒々と輝く目をしていたようだ。司馬遼太郎の小説の中に、そういう表現があったと記憶する。

そういう目の存在を現実に知ったのは、わが大学の創立者、40だいの池田大作という人の目を見てからだ。それと、わが大学の理事長だった岡安という人の目も、それに近いものが、あった。そう感じた自分がいたのは、たしかだ。

少し前に、テレビで、石田純一の目を見たが、あたまの芯がボケ始めたな、と感じさせた。ワインを常習的に飲んでいるのでは、、

一方、80歳の加山雄三の目はボケてないな、と気付き、、調べたら2004年、66歳の
ときに、酒を飲むのをやめた、とあった。

また、ジブリの鈴木敏夫は酒はやらない。わが大学の創立者も、飲まない。

で、ひょっとすると、、
たとえ少量でも、毎日飲んでいると、脳はやられるのではないか、と気づいたのだ。

当たりだった。検索するとこういう記事が見つかったからだ。

ニューズウィーク日本版
ほどほどでも飲酒を続けると脳には有害?
2017年10月26日(木)10時30分
ハナ・オズボーン
ニューズウィーク日本版
<適量なら飲酒は健康にいい――という常識を覆して、少量でも長期に渡って飲酒を続けると脳がダメージを受けるという酒好きにはショッキングな研究結果が>

ほどほどの量でも、長期間にわたって飲酒を続けると脳がダメージを受けるかもしれない――酒飲みにはショッキングな研究結果が明らかになった。

2017年6月にブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)で発表されたオックスフォード大学とロンドン大学ユニバーシティーカレッジ(UCL)の最新研究によれば、週当たり14~21単位のアルコールを摂取していた人は、記憶や空間認知をつかさどる脳の部位である海馬が萎縮する確率が、飲まない人の3倍も高かったという。

ちなみにイギリス政府の定めたガイドラインでは、飲酒は週に14単位以内にすべきとされている。1単位は純アルコール量で10ミリリットルとされ、度数4%のビールなら250ミリリットル、13%のワインなら76ミリリットルに相当する。

研究チームが分析対象としたのは、健康でアルコール依存症でない男女550人の30年間にわたる追跡データだ。調査開始時点での平均年齢は43歳で、被験者に対しては定期的に認知能力の検査が行われた。飲酒や喫煙の習慣、病歴や教育、身体的活動といった点についても並行して調査が行われた。

分析によれば、最もリスクが大きかったのは週に30単位以上飲む人。14~21単位の人も、あまり飲まない人や全く飲まない人と比べると海馬が萎縮する兆候はずっと多く見られた。

( 中 略 )

だが、常識に疑問符を突き付けたという点で意義は大きい。英王立エジンバラ病院神経精神科のキリアン・ウェルチはBMJに寄せた論説でこう述べている。「多くの人が普通だと思っている飲酒習慣が健康に悪影響をもたらす、という主張を補強する重要なものだ。私たちは何かと理由をつけて、長期的には利益にならない行動にしがみつくことを正当化しがちだ」

少なくとも、飲酒習慣を見直すきっかけにはなりそうだ。


思い返すと、前職の会社の人々は、飲酒癖が多く、いた。

すぐに浮かぶのは、為国さんという取締役までなった人だ。昼間はしゃんとしていて判断も明快なのだが、夜になると、会社の金で、毎日、相当飲んでいた、、というイメージしかない。役員退職金は出ずに辞めたのではないか、、老いてなお常習化した酒飲みは、人格が卑しくなる、そういう気がする。

それより気になるのは、同時期に会社をやめた川瀬である。今も、毎日ワインを飲んでいるのではないか。海馬の萎縮は進んでなければいいが。

それと、がんサバイバーの経験知だが、
飲み過ぎは、松果体にも影響するだろう。

わたしは、この一年、ほぼ毎日、金麦250ミリを飲んできた。微量だが、常習化すると、脳は萎縮する予感する。なので、今週から、徐々にやめていくことにする。

当面の目標は、週に二回程度にすること。
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