わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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若松英輔と岩崎航

宮本輝公式サイトBTCのお仲間の康さんが、西部邁さんのことを次にようにコメントされていた。

西部邁さんの入水自死のことは、現役の時にわが社の広報誌に度々ご登場いただいたので、
驚きとともに大変残念に思っております。
しかし、西部さんは、終始一貫して、自分のことは自ら処するという生き方を訴えられ、
国家においても外国に依存したり、ポピュリズム〈大衆迎合主義)に与したりしないことの
大切さを常に考えていらっしゃいました。
したがって、今日の社会の現状を見て、自死は必然であったようにも思えます。

稀な知識人であったことは間違いないでしょう。


その通りだ。康さんの正視眼にリスペクト。西部邁『友情』も読んでみると仰っておられた。

本題。2月26日の月曜日の午前中、解体会社の事務作業をしながらNHKインターネットラジオ「らじるらじる」を聞いていた。CMがある民放とちがい落ち着いて聴いていられる。

その中の『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが岩崎航(わたる)という五行歌の詩人を取り上げていて、おぉ、と驚き、懐かしさを感じながら、聴いていた。

その《 第8回 『いのち』の詩~岩崎航がつかんだ人生の光 》 であり、←をクリックすれば2018年4月20日までは聴ける。

わたしは、若松さんにも、岩崎さんにも、そういえば関心を持っていたわけで、、二人は交流があるのか、という驚きでもあった。

若松さんの『岩崎航論』で、腹に響いたのは、次の五行歌

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚


「点滴ポール
生き抜くという旗印」(ナナロク社,
,2013年7月3日発行)51頁


若松さんは、
岩崎航の言葉の強度を感じて欲しい、、
その歌は「命と心とは違うんだ」と教えてくれている。そう航が考えたのではない。そう生きて来たんだということ、、そのことに深い敬意と、、
信頼に値する、同時代を代表する詩人に、「やっと、めぐり会えた」と評した。

そして
岩崎航を、筋ジストロフィーの病気から視ないほうがいい。
病を背負う人間がいるだけであり、これを勘違いすると、岩崎航という詩人を見誤る、、

と評して、、偉大な詩人がいることに、私たちは誇りに思っていいとまで、言われた。

若松英輔という人は、言葉が立っている人、悪く言えば感情移入の強い人、というのが私の第一印象だった。

「100分で名著」で内村鑑三「代表的日本人」の説明を若松さんがされていて、その声と表情がなんとも不思議だった。

うまく言えないが伊集院さんたちと対話していても、茫然とした表情をしていて、50センチ先にある透明なテロップに浮かぶ言葉を音読している、そんな感じがしたのだ。

だが、その言葉が、なんとも胸をうつ。内奥に刻まれている言葉を発している感じ。

その上で、
五行歌をつづる岩崎航さんを、
筋ジストロフィーとALSの違いもわからない
わたしごときが、、
どう思うかということだが、、それは次回。。

わたしの一番の御書

日蓮の遺文のなかで、いつも見開くのは「日蓮大聖人御書全集」(創価学会版)892頁の「義浄房御書」である。51歳、竜の口の後、清澄寺の兄弟子におくられたもので、後代の人が「己心仏界抄」と名付けてもいる。

その中に、私にとって、決定的な珠玉の一文がある、引用ではなく日蓮独自の一文であった。。

ある種弁証法でもあり、いやいや違うな、、世阿弥の「離見の見」のような感じに近い、その対面によるスパイラルな現象論に思えてならなかったのだ。

発見したとき、なんだこれは、スゴいぞと身体が震え、一人勇躍歓喜したのだが、、こうある。

一心に仏を見る心を一つにして仏を見る一心を見れば仏なり

私見では、、
一心に「命の鏡」である御本尊に祈る、
大願をいだいて御本尊に直結する題目を唱える、
その一心は、俯瞰すると、仏になっている、、

(ちなみに、御本尊は「命の鏡だ」と話してくれたのは、ナイツの土屋氏だ。いい定義だと感心した次第。さすれば、わたしたち一人ひとり「命の器」になる)

そう読み解いている。難信難解はもとよりのことで、誤読はよしとしよう。。
 
ただ、デカルトの「われ思う 故にわれあり」をはるかに凌駕する言葉ではないか、、と思っている。

その上で、この一文をどう区切ったらよいのか、、問い続けて来た。

ふと、五行歌の詩人岩崎航(わたる)さんのことが浮かんだ。いや違うな、きのう、若松英輔氏がNHK ラジオで、岩崎さんのことをリスペクトする講演をされていた。それを「らじるらじる」で聴いたのが、きっかけになった。

で、いまの私は、次のような五行にしたいと思った。


一心に 仏を見る

心を一つにして 仏を見る

一心を

見れば 

仏なり



実際に、書画以上に毎日見つめ、長い歳月をかけて、題目を唱え続ける対象、御本尊を持つということは、なんとも不思議な動的平衡を醸成することか、、、

さらに、ベルグソンの「哲学の方法」緒論第1部の一文を引用すると、、

題目を唱える、その「持続は本来の姿を取って現れ、連続的な創造新しいものの断えざる湧出になる」と。さらにベルグソンの言う『湧出』はプロティノスのえエネアデス(一者)に語源がある、、そう思っている。

追記、上記の御書について、わが母校創立者、池田先生は、次の述べられていた。発見したのだ。2011年1月21日の聖教新聞
「随筆 我らの勝利の大道」にこうある、、

不自惜身命の心こそ仏

私たちが日々、読誦している法華経寿量品の自我偈に「一心欲見仏 不自惜身命」とある。

日蓮大聖人は「義浄房御書」の中で、この経文によって御自身の仏界を成就されたと仰せである。


乾癬と豊富温泉

去年の夏から利用するようになった板橋区小茂根図書館で、たまたま「豊富温泉ミライノトウジへ行こう」(子ども未来社 2017年2月発行)という本を知り借りることにした。

豊富温泉のことはどなたかの乾癬ブログを見て、知っていましたが、本があるのを知ったのは、これが初めてで、なんだか豊富温泉にいきたくなってしまった。内容の大半はアトピーの方向けになっていましたが、それでも新鮮に思えたことを掲げると、、

1.乾癬の患者は全国で20万人くらいいる、ということ。思ったより少ないんだな。

2.乾癬の会(北海道)、豊富温泉湯治ツアーを毎年秋に開催していること。

3.乾癬の会(北海道)は300人のメンバーがおられ、会報を年3回出されていること

4.水上勉さんの子息、作家の窪島誠一郎氏が『かいかい日記ー「乾癬」と「無言館」と「私」』(平凡社)というエッセーを書かれていること。12年にわたる乾癬との闘いと戦没画学生慰霊美術館「無言館」の設立、著者の生き様と重いを綴ったエッセーとあった。借りて読むことにしよう。

5.豊富町が経営する温泉入浴施設 ふれあいセンターがあり、アトピーや乾癬患者にやさいい対応がなされていること。

6.湯治の効能はずっと続くわけではなく、何ヶ月かたつとふたたび乾癬が現れるとという症例の話。滞在期間が短いと効果は薄くなる、、ようだ。

以上だが、私の場合、右手首と右足の指の痛みを、自然治癒の兆しはないが、これは乾癬性の関節炎と見定めている。2014年の春にその関連性を体験的に実感したからだが、あの腫れ上がった右手は乾癬性関節炎としか思えないし、、そう見定めている次第。もし、豊富温泉の湯治に行けたら、関節炎の変化をチェックしてみたいと思っている。

西部邁の年表を作る

西部 邁 (すすむ)さんの年表を徐々に書き込むことにする。まずはウィキペディアのものをベースに。

1939年3月、北海道山越郡長万部町に生まれる。
父親は西部深諦(じんたい)。浄土真宗派の末寺の末男。母は農家の末女。兄と妹4人の6人きょうだい。邁は次男。

札幌郡厚別の信濃小学校
札幌市の柏中学校、作家の保阪正康氏は1年後輩。一緒に通学していた。

吃音癖と空腹感で苦しむ。

中学2年のとき、札幌市内の書店「富貴堂」で参考書数十冊、万引きを繰り返す「万引き常習少年」だった。父親ゆずりの気質、敷かれた軌道からはずれたかった、それが動機だった。

クリスチャンだった富貴堂の店主は知っていたようだが、捕まらなかった。その参考書のおかげで、道内で一番の成績になった。

中学校で、やさぐれていたが優秀な海野治夫氏と出会う。45年のつきあいとなり「もっとも感動に値する人物の一人だった」と言わしめた。

札幌南高校に海野治夫とともに進学。

南高2年、16歳のときに、同年1月生まれの
岡田満智子(医者の娘)と知り合う。

高校卒業までは、マルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリの重症の吃音少年だった。

1957年東京大学の受験に落ちる。
1958年4月、東京大学教養学部(駒場)に入学、三鷹寮に入る。
1588年12月に結成されたブント(共産主義者同盟)に加盟する。

「六十年安保闘争」で指導的役割を果たすが、羽田事件(60年1月16日)で逮捕、起訴され2月末に保釈。

新安保条約が自然成立した(6月19日)のちの7月初め、全学連大会の途中で逮捕、未決勾留で東京拘置所に収監されるが、11月末に保釈で出所。

そのとき既にブントは解散しており、翌1961年3月、左翼過激派と決別する。

それから7年、三つの裁判所に通い、その間1964年3月、東京大学経済学部を卒業。
同年5月、半年の同棲にピリオドをうち、岡田満智子と結婚(のち一男一女をもうける)

1971年東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。
1972年「六・一五事件」で執行猶予判決、そして検察控訴。

横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を経て、
1986年東京大学(社会経済学専攻)に就任するも
1988年3月、人事問題のもつれをめぐり、辞任。

評論家を続けるとともに、鈴鹿国際大学客員授、秀明大学教授、学頭を歴任。

旧来の経済学を批判して経済行為の象徴的意味の
解釈を指向する「ソシオエコノミクス」で注目され、社会経済学の構築をめざした。

また高度大衆社会・アメリカニズム批判と西洋流保守思想の提唱を基軸にした評論活動を活発に行った。

2006年10月、妻満智子の大腸がんが判明、手術。
2008年1月、転移が判明。10時間におよぶ大手術を受ける。

16歳で知り合ってから、3年余のブランクを挟み、現在までの二人の「関係」はまもなく半世紀を超える。

長女は区立中学へ

今朝の俳優、大杉漣(66)さんの死は驚いた。急性心不全らしい。わたしの高校仲間が、大杉漣さんとサッカーをしていたことを思い出した。突然すぎるな、、66歳は直ぐやって来る年齢だ。

本題、小学6年の都立中高一貫校の受験は不合格に終わった。壁は高かった。その試験前にトレーニングとして受けた私立中学は合格したが、すぐ区立中学へ進学することを決めた。

悔しいだろうが、高校受験の覚悟ができ、本人がよし思えれば、それで、いいのだ。

受験指導をした塾は、不合格で公立中学に通う生徒に対して1年間授業料をただにする決まりなので、引き続き通うことになった。

そういう生徒が多いのかと思いきや、長女を含め3人ほどしかいないらしい。都立中を不合格になった児童の多くは、長女も受けた私立に通うようだ。なんと、制服がかわいいということも、選択する理由の一つらしい。

思い返せば、模擬試験で一度だけ付き添ったが、そこは中野区の佼成学園で、感慨深い見学だった。

環七沿いにあるその地は、昔から通るたびに異様な建物に、ややギョッとした気持ちになるところで、そこを、初めて歩いたわけだが、、長女の付き添いでもなければ、まずは行かなかっただろう。

ただ全体として寂れていて、閑散としていて、1960年代の活気はなかった。長い間、高校吹奏楽部の甲子園といわれた普門館は老朽化のため、利用されてないらしい。たぶんここの建物群の維持費が大変だろうに。中央集権的な建物の大型化の時代は、終わっているんだなぁ、と感じた。

そして、あずき色の殿堂?の中を覗いた。内部の空間は想像したより小さかった。椅子席で500くらいかな、、エントランスの中央に賽銭箱があり、中に、金色の仏像が立っていて、これが本尊なのかと、すこし唖然とし、思わず微笑んでしまい、「こりゃ、もう終了だな。もとよりここには何もない」とつぶやいた。

すると、3人の若者が入っきて、賽銭して合掌し、今は亡き教祖の名前を呼んでいた。真剣な表情で、、

佐高信の貧乏物語

評論家佐高信の話は、ほとんど耳を傾けたりしないが、、彼の思い出話で、次のような出来事があったようだ。オムニバスの「私の貧乏物語」(岩波書店 2016/9)

貧乏ということを考える時、もう一つ忘れられないのが中学時代の一場面である。

同級生に成績のいい小柄な女生徒がいた。家庭が裕福ではないので、就職することが決まっていた。その後、いわゆる集団就職で上京したのだと思われるが、ある時、担任の教師が、進路志望の調査だということで、進学か就職かのどちらかに手をあげさせた。

その時、彼女は進学に挙手したのである。
驚いた担任が、
「キミは?」と問い返す。

「だって希望でしょう」と
彼女は手を挙げ続けた。

そう言って担任を見返した彼女のキッとした表情が私は忘れられない。

当時、高校への進学率はどのくらいだったか?
たぶん、その先の大学へは10%くらいだったのではないか?

私は魯迅の「故郷」などを読むたびに彼女のことを思い出す。道と同じように希望も、もともとあるものだとも言えないないし、ないものだとでも言えないのである。

時代の貧困と格差の体験が、いまの私の思想の基底となっている。
 


佐高氏は1945年生まれなので、この出来事は1960年頃だろう。上野駅に到着した集団就職の中学卒業生のニュース映像を思い出させた。

ところで、、佐高氏に思想なんて、あるのかな、、

西部邁著「友情」

1月21日に「自裁」した西部邁さんのことが、今なお、気になっている。私と似たような思いの人は、少くないようで、図書館にある「生と死」という著書は貸出中で、待たなければならない。

今まで西部さんの著書は一つも読んだことはなかったが、西部さんの動画を見続けていて、「友情」という、ヤクザの友人のことを書いた本があることを知り、、図書館で借りることができた。

感動した。西部さんの誠実な人柄が染み入るのだ。少し、涙した。

そうか、、私にとって西部邁さんはフランスの哲学者アランのような存在だったのだ。動的な平衡感覚をもって言葉を定義する人という意味だ。

たしかに日本の核保有とか、賛同できない主張もあるが、西部さんのように、黒板を使い、言葉の淵原を丁寧に話される論者は、もう、いないのではないか、、そう思えるのだ。
  
「友情」の副題は「ある半チョッパリとの四十五年」とある。説明書きには、こうある。

BC級戦犯として処刑された朝鮮人の父と、家族のため苦界に身を沈めた母との間に生まれた彼は、最も感動に値する男だった。ところが、著者との交友が45年余りに及んだとき、彼は著者に厖大な手記を遺して自裁する。敗戦期からバブル崩壊以後に至る時代の激変の中で、変わることのなかった「友情」の歴史とその終焉を、痛切な哀歓を交えて描き切った自伝的長編評論。と、、なんか決定的言葉が欠けている。

友人と西部さんは、全くフラットな関係であり、ご自分で精神的同性愛と何度か評されているが、、最期までそうだったのではないかな、、

今しがた、新たに借りた西部邁著「福沢諭吉」の冒頭を読んで、「友情」の通奏低音がわかった。

二人、海野という友人も西部邁さんも、属性をもたない人生、境界人間(マージナルマン)のまま、境界の稜線をひたすら最期まで、走り続けて、今生から去って行ったのだ、、とわたしは思った。


追記、Amazonのレビューの中に、海野さんの娘さんらしき方がコメントされていた。いわゆる「なりすまし」とは思えなかった。
我が身にひきよせ、おきかえて思ったが、、
子どもにできることは、親の、親たちの苦しみを、一心に受けとめる、それしかできない。
仮に「なりすまし」をしたして、何の意味があるのか、、なので、以下に掲げておきたい。

カスタマーレビュー 5つ星のうち1.0
私の父、海野治夫・・・
投稿者k2006年1月20日

この本の評価はできません。でも評価をしないとレビューに載せられないので・・・。0と解釈してくださいね。私は海野の一人娘ですから・・・。父が幼少から悲惨だった事は母から聞いていましたが、本を読み、ここまで・・・と、未だに涙します。この本は父が獄中から親友の西部先生に送った原稿を先生がかなりの日数をかけ、まとめてくれたものです。先生は母と私をずーっと探し続けてくれていたそうです。そしてこの本を一番に送ってくださいました。父は本当に頭のいい人で大学へ行き、ハエの研究をしたかったらしいです。運命って悲しいですね・・・。読んでくださった方の評価は人それぞれなので気にはなりません。父のルーツ探し、自分は何者なのか?それは私のルーツでもあり、朝鮮の血が混じってる事に戸惑いを感じましたが、それを否定したいという事は父やおじいちゃんを否定する事にも。おばあちゃんが娼婦だった事も同じで、かなり私を悩ませました。が、何度も読み、今でも涙が止まらないおばあちゃんの苦しみ。父の人生、受け止められるようになりました。そんな時代でもあったんですね。父が自殺したとしり、対面した時には、私を置いてなんで!!!と責めていました。事務所の方には遺書があったのに、私には何もなかったから余計です。愛されていなかったのか・・・と。でも、獄中で死を決意した父は私への遺書として書いていてくれたんですね。嬉しかった!誰がどう思おうと、私は父を尊敬し、愛してます。いつまでもいつまでも・・・。本を読んでくださった方、ありがとうございました。娘Kより


この感想を読んでいて、芥川龍之介の短編小説「おぎん」を連想した。江戸時代のキリシタン禁制下、ひたすら親を思う童女の話だ。

このあと今一度、読み終えたら、「友情」の中で心に響いた文章を徐々に掲げておきたい。

西部さんは
自分自身についてゆるぎなく思うことがある、として、、
1.感情の核心は、幼少期に創られる。

2.感情の核心が論理のあり方を定める。
論理には前提(出発点)、枠組(構成をまとめる)、方向(発表を促す)からなり、感情の核心に呼応することで、納得が生まれる。

3.繰り返し想起される記憶は、安定した論理によって再表現される。

コーヒーに麦焼酎

2010年5月に大腸がん手術をして、その秋から酒かす豆乳を頻繁に飲んだ。大腸に染み入るようにうまく、常習化していった。

今も、一日に一回は酒かす豆乳に、ココアを混ぜて飲んでいる。冬にはこれがいいし、夏はゴーヤがいい。

だが、今のメインの飲み物は、ドリップコーヒーのブラックだ。肝臓がん予防になると知ってから拍車がかかってきて、1日に3杯くらい飲んでいる。

最近、ふとコーヒーに麦焼酎を混ぜたら、どうなるか試してみたくなった。すると、かなり旨いのだ。

たぶん自分以外にも、そういう飲み方をされている人がいるに違いない。で、検索してみると、かなりおられることを知り、深くうなづいた。

芋焼酎よりも麦焼酎の方がうまいよ、と教えてくれる記事があったが、なんとなく分かる気がした。

わたしはワインより焼酎の方が、体にしっくりくる。

続、街並みの変容

ひと月ブログをしないと、広告が冒頭に現れることは、ひとのブログを見て知っていたが、、何だかその光景は自分が死んだみたいに見えてしまい、まだまだ、という気に。

今さらだが、本地を名乗り上げることに、、しよう。二つの大病を克服した63歳の今が、「まことの時、」と見定めた次第。

本題。仕事から自転車で帰ってくるとき、長女が通う小学校の前の道路をはしり、左にカーブすると、4本の高い杉木が見えていた。300坪はある林邸の杉の遠景が目に入るのだが、それが昨年暮れに、消えた。所有者の林さんはそこを売却されたのだ。

林邸はこの地域の創価学会の座談会場として、半世紀以上の長きに渡って、提供してくださっていたご夫婦の家だった。草創の学会人。 

ともあれ、創価とは価値創造の意味で、なんだか不思議な名称の、第二次大戦前、1930年11月18日に始まる在野仏教の団体のことだ。もうじき90年になる。

林さんのご主人は、大手百貨店に衣類系の納品を代行する仕組みを構築し、事業化して高度成長の波に乗った人だった。

去年8月、仕事のお客さんで、林さんの会社に勤務していた人と会食をした。知らなかったことが多々あった。

栄枯盛衰、どうやら会社は大手の運輸系の会社に吸収されたらしく、、おそらく自宅の売却も、それと関連性があるのだろうが、、地域の方たちにたずねたりはしていない。それは、無礼だろう。

ただ、思い返せば、林さんの表情を何度かお見かけしたときに、たそがれた感じがしていた。お話しをしたことはないが、何度か目があい、その境涯を感じとっていた。

一瞬のアイコンタクトが、無言の対話を形成する場合も、時にはあるものなのだ。いずれにせよ、人生の始末は、難儀なこっちゃな、、

わたしの、学会の中での立ち位置は、うまくいえないが、「無冠のシンガリでいく」と決めている。

政治へのコミットメントは好きではないし、学会歌も正直言って、苦手だ。ただしこれは批判ではない。

よく言えば高揚感、揶揄すればお花畑のような論調とはいささか距離のある語りかたしか、できない。それが、わたしの本地なのだ。

さらに言えば、大勢を前に話したりするようなマス志向ではなく、目の前の人とのパーソナル志向でいくと決めている。まぁ、妙な人間なのだが、こうした態度であっても、その地が変容していけるものと信じている。

そのうちに「内から見た創価学会」というカテゴリーを置くことにしよう、、

街並みの変容

12 日に、昔仲間の陽一さんから「義理の母Yが亡くなった」と連絡が入った。1年前にYさんの公正証書遺言の作成をお手伝いしたのだ。既に不動産は売却してあったが、預貯金で5千万円くらいあったと思う。

もし、公正証書遺言を作っていなかったら、遺産分割協議書を作らなければならなくなっていた。すると、Yさんとは疎遠になっていた代襲相続人と協議しなければならない。それは、Yさんが希望しないことだったので、、これで丸く収まるだろう。陽一さんが告知しなければ、遺留分の請求などには、起きないだろう。

本題、今月16歳になるコーギーの散歩をしていると、街並みの変化が気になってならない。大邸宅が売却され、細かく分筆された建て売り住宅が目立つのだ。

散歩をはじめると二分くらいすると、「山田直」という表札のある200坪くらいの邸宅があった。

どうやらご主人は、数年前に亡くなられた感じで、老齢の未亡人が、主の蔵書を廃棄していて、門前に本の山が積まれていることが、何度もあった。

その廃棄本を抜き取りはしなかったが、珍しい本もあったりした。ご主人は文系の学者ではないか、、と気になり、検索すると慶應の仏文学の教授をなさっていたようであり、詩人でもあった。その詩集本はAmazonで高額表示されていたが、、

この国の最高学府の名誉教授だった自分の叔父もそうだったが、肩書きや物というものは、死と共に、引き潮のように跡形もなく、消え去っていく現実を見せられている感じがして、、遺族には蔵書は無用なものでしかなく、、これを無常と言わずして、なんであろう。

市井の蔵書家は、本は生前のうちに処分する方がまだいいのかもしれない。

冒頭の陽一さんは、雑談の最後に、こう言った。
「建て直した自宅に愛着はない。残債もある。これからは子どもたちのことを踏まえ、不動産の始末をつけておこうと思う」

不動産の処分、これは、他人事(ひとごと)ではないな、、

種々雑感

2018年はじめての記事になる。

1.今朝は、3歳になる次女が、発熱があり、一日私が看ることに。1月下旬にインフルエンザA型に罹患したので、今度はインフルエンザB型かもしれない。よく指しゃぶりをするので、かかりやすいのでは、と思っている。

(追記)2月13日、次女はやはりインフルエンザB型にかかっていた。

二人だけになっても、私は、ほとんど感情をあらげたりしないので、次女は安心しているようだ。

溺愛で向かいあっている。次女にとって安心感は大事だと見切る。ただし、長女のときと同じように、大人と変わらない話しかけ方を、意識している。

2.先月21日の日曜日、多摩川で自死した西部邁(すすむ)氏のことが気になっている。影響力ある知識人?として、1970年11月25日の三島由紀夫の割腹自殺以来の出来事と思っている。

半年くらい前から、何気なく、土曜日朝の西部さんの番組の録画を、ときおり漠然と眺めていたので、、ある種の感慨がおしよせてくるのかもしれない。

左から右へのシフトしていった人、日本の核保有を当然のこととしていた人として、くくっていたが、同じように左から右に旋回した清水幾太郎のようなアジテーターではなかったと思う。とりわけ対話を大切にされていたことに共感していた。さらけ出す人で、語るにあたいする人だ。対話しながら若い言論人を育ているんだなとも、感じていた。

3.西部さんは、もうこんな国はイヤだ、じきに自裁する、と幾度となく発言していた。なので、有言実行したんだな、と。

第二のふるさとは奥さんとも、言っていた。4、5年前に、その奥さんが先立つことがなければ、生き続けておられたかもしれない。すでに何がしかのがんで、病んでおられ、病院で死ぬことを忌避されていたので、たぶん、その自死は公憤ではなかったのだとも、感じている。

4.その出来事の少し前に、山本七平のすい臓がんの最後が綴られた家族と共著の本を読了していたので、宗教的なものの有無、家族とのことなど、対称的な感じがしてならなかった。やはり、自死は、尋常でないし、、幸いなことではない。

宗教そのものを「一秒たりとも」信じたことはないと、西部さんは繰り返し言っていたが、、人体60憶の細胞が流転する量子力学的な視座からみると、サムシンググレートを信じない理性はなんと表層的な捉え方なのだろう。がんを内部から知ろうとすれば、また違う人生観があらわれてきたのにな、、
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