折れない心=レジリエンス日記「これからが今までを決める」1991年から25年にわたるC型肝炎と乾癬の闘病を、そして2010年の直腸がんをと、その三病を完治させた楽観主義者の自立ノート

身体「毎日1兆が生滅する60兆の細胞」の司令塔こそ、究極の主治医と見なして、アッパレ!100歳をめざし三病息災・健康長寿をもくろむ、具体の内部生命論です★
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再び、小人の話

1.さきほど、NHK「こころの時代」で、栃木県、益子にある真言宗の西明寺の住職であり、医師の田中雅博さんの話を見聞きした。田中さんは1946年生まれ、2017年03月21日に膵臓がんで亡くなられた。2014年10月に末期のステージ4bの膵臓がんが見つかり、おそらくは手術不能で、2年5ヶ月生きられたことになる。NHKの映像で見る限りだが、痩せてない、血色の良いその顔は末期患者には見えなかった。多くの進行がん患者によりそってきたことと、その人相は深い関係がある、とわたしは見ている。宗派にとらわれてはならないなと自分に言い聞かせた。その人の立ち居ふるまいが大事、、人として立派な相をされていた。

2.さて本題、このところ、25年前の出来事か脳裏をかすめる。あれは何だったのか?が気になるのだ。以前、このブログに書いたにので、くりかえしになるが、ふたたび書いておきたい。

まず、ある掲示板の記事を以下に貼付する。わたしの体験とよく似ていて、いささか驚いた。

投稿日時:09年 07月 20日 19:46
3ヶ月くらい前に50歳代の上司より似たような話を聞きました。
朝方、腰のあたりに違和感(重さ・人の声)を感じ目を開けたところ・・・
身長約15cmでス-ツを着ている60歳くらいのおじさんが、『ヨイショ!ヨイシヨ!』と叫びながら上司の掛け布団を剥がそうと一生懸命引っ張っていたというのです。
一瞬何が起こっているのか理解できず、数秒程(身動きできないまま)見とれていたところ、そのおじさんと一瞬目が合ってしまったそうです。(不思議と恐怖感はまったく感じなかったそうです)さすがにびっくりして思わず目を瞑ってしまったら、あっという間に消えてしまったとのことでした・・・

そんな経験は生まれて初めてだそうで、『霊感も全くないのに、あれは一体なんだったんだろう?不思議だ・・』と言ってました。
とても真面目な方なので冗談を言っているとは思えませんでしたし、『夢』では絶対無い そうです。 (毎日夜10時に寝て、朝5時に起きる生活を続けている方です)


3.上記の体験を「09体験」と呼ぶことにしよう。09体験は私の場合と、とてもよく似ていた。自分一人だけでないことがわかり、妙にうれしかった。赤い字が私の体験と同じで、青い字が異なる。比較として、わたしの体験は「92体験」と呼ぶことにする。思いつくままに、箇条書きで、表すとこうだ。

1.いつのことか、、1992年春頃からか初夏にかけてだと思う。当時、蝸牛社の三年日記をつけていたが、その月日を特定できていない。日記の字が小さく汚く、読むのが煩わしいのだ。

けれど、C型肝炎治療として、1991年11月2日からインターフェロンαを筋肉注射を始め、いっこうに改善の見込みがなので、半年後か・インターフェロンβという静脈注射に切り替えて、その後の出来事だった。ちなみにインターフェロンβは1992年8月3日で中止している。ウィルス量は全く減らず、ウンともスンとも言わない、その効果が見込めなかったからだ。忌々しいにもほどがある。

92体験は、夜ではない。昼過ぎから夕方になる前の、陽光がある時間帯に起きた。カーテン越しの日の光ははっきり入っていた。

2.どこで、、私が一人で住んでいた自宅だった。平面積50平方メートルほどの古い(1973年頃の建売)、小さな木造2階建ての2階の部屋だった。そこに布団を、ほぼ敷きっぱなしにして寝ていた。畳部屋で、ふすま2枚分の押し入れがあって、、そこで起きたのだ。

母校47年下の後輩

1.きのう2月ぶりに、三鷹で頭髪のカットとヘナをやった。20年以上前からずっと、オーナー店長にカットしてもらっているが、このところ開口一番、店長の父親の病状たずねるようにしている。大腸がんから肝臓に転移されてから、2年以上過ぎていて、同病だったものとして、気になるのだ。

「父は、今のところ大丈夫です。5月の連休に見舞いに、実家に帰る予定」と店長は言われた。

2.そして、この4月から店長の次女は、都立高に入学したけど、「どこに行ったの?」とたずねたら、「鷺宮高校に入学した」と教えてくれた。ギョッとした。わたしの母校だからだ。次女は47年差の後輩になる。なんだか、愉快な気分になった。善きかな。

3.次女は、府中の試験場に近い自宅からバスに乗り、花小金井駅経由で西武新宿線の都立家政駅まで、土日も含め、毎朝6時に起き1時間の通学、剣道部朝稽古に出ているそうだ。すばらいい精進だ、脱帽。女子剣道部員8人と少ないが、団体戦は強いらしい。

4.鷺宮は昔から偏差値51くらいと高くはなかった。当時の高校入試は群制度で、鷺高は31群と第三学区で、もっとも低い偏差値の普通高校3校の一つであった。おまけに、その3校どこに行くか受験生は選択することができないという不自由さがあった。

5..それなのに、不思議なこと、わたしの同期には東大、千葉大、山形大、都立大とかに進学した人がいた。そのことを卒業してだいぶ経ってから知った。医者もいれば獣医もいたし、美大の教授もいた。勉強する人はひたぶる勉強していた、ということか、解せない。あいつら、いつ勉強していたんだろう。浪人してからか、、

6.鷺高は、軽音楽部とかクラブ活動がさかんで、伝統的に、ブータンのように、「シアワセ度の高い」高校だった。私たちがいた頃は、「恋愛の鷺宮」と言われたが、47年差の次女の鷺高の印象は、校舎は新しいし、私の鷺高観とは全然違うものに違いない。次女は看護師になりたいようだが、3年間、剣道に励むことができるなら、必ず看護師になれるに違いない。

5.私と同期の、作家群ようこの「都立桃耳高校」書き下ろし文庫小説2本立てを次回、持っていくう約束をした。大して参考にはならないだろうが、創立100年超えの都立高校の何かを感じてくれれば、幸甚。ちなみに、群ようこなる女子高生が当時、どんな人だったか、今もって、わからない。

その「都立桃耳高校」の、Amazonのコメントを以下にコピペする。私の1年先輩の方が書かれていて、響いてくるものが多々あるり、不思議な、あたたかい気分になった。先輩に感謝、、

夢のように・・・・・・過ぎ去り。, 2014/4/21 投稿者 taka

1970年前後の都立高校の様子がよみがえりました。

私もリアルタイムに経験できた事を還暦が過ぎた今、ほんとうに楽しい思い出として残っています。実は私、群さんと同じ高校の一年先輩にあたります。そして、都立桃耳高校は創立100年をこえる実在の高校なのです。

群さんは小説としてお書きになっていますが、内容のほとんどが実際のことなのです。登場の犬の太郎は70年に赴任された、漢文の先生がどこからか拾ってきた犬でした。漢文の授業中は、教室の後ろで丸くなっておとなしく眠っていたものでした。

当時の新宿あたりや学校周辺の喫茶店は今でもあるのでしょうか。特にFには毎日のように寄ったっけなぁ~。

ロッカーのオカイくんやモリゾノくんは、のちに日本を代表するプログレッシブグループの中心メンバーとして大活躍しました。オカイくんとは去年の同期会で会いましたが、相変わらず良いやつでした。

私は1969年に入学しましたが、70年安保や大阪万博など毎日がお祭りでした。音楽でも芸術でも、何もかもがアグレッシブで希望に満ちた時代だったように思います。単なるノスタルジーではなく、ほんとうに良い時代の青春でした。


ちなみに、Fとはフジノキというケーキ屋さんのことだろうが、喫茶はなくなった。オバケモない。今も当時のイメージのまま存在するのは、校門に近い「水庭ビリヤード」だけかもしれない。

ともあれ、アキラさん、頑張れ、、

乾癬のその後

昨夜、500mlの第三のビールを1缶だけ、飲んだが、少し多いと感じた。私は、少しでいいのだ。さて、いつもそうだが、この記事も尻切れトンボで終わる。あとで、書き加えるやり方が、性に合っている。

1.乾癬がぶり返して来ている。練馬総合病院の皮膚科に乾癬外来という表示があったので、問い合わせると、乾癬に詳しい皮膚科の医師がいるわけではなかった。いったんは予約を入れたが、担当医師の女医は2005年卒のようで、30代後半か、問診に応えるカタチで、わたしの病歴を語っても、その医師には、理解できないだろうなとみた。皮膚科の医師に、優れた人は、あまりいないのではないか。乾癬の場合、情報の非対称性は、医者と患者との関係はマ逆で、病歴が長ければ長いほど、患者の方が、情報量が優っているのではないか、と見ている。

2.おまけに、そこは予約料540円を別途とる、という。お金を払って、懸命にわが乾癬歴の話をしてあげても、大した治療法は出てくるとは、思えない。乾癬外来の看板の意図は、光線治療でお金をとることにあるのだろう。

3.けれど、乾癬の軟膏がなくなってしまい、身体のかゆみは著しい。わたしの「駆け込み寺」である南町医院に受診することにした。ネット予約の順番は30番以上、今日はまたなんで混んでいるのだろうと思いつつ、これが永田医院長の地域密着医療の力なのかと敬服。19時すぎ、互いに勝手知ったる感じで、血圧とBMIと対話は正味3分、、だがけっこう響く。

「きゅうに4kgも増えれば、乾癬がまた出てきてもおかしくないんじゃないの」

「C型肝炎、ウィルスが消えたからと油断しちゃダメ、、まだエビデンスがないんだから、経過観察することが大事!」

、、笑顔を浮かべながら、そんな風なことを永田医院長は言われた。

処方箋は ドボネックス軟膏とトプシム軟膏の混合(この方が安上がり)ヘパリン類似物質油性クリーム、ロキソプロフェインとドボネックス以外はジェネリック薬である。これで十分、高い医薬品は要らない。ちなみに、診察料1320円、薬代3460円、計4780円。次回は6月に受診しよう。

医院長もだいぶ年をとられた、感じがしたが、やっぱ、徐々に心に刺さってくることを言ってくるなぁ、この先生は、と1991年8月21日の、C型肝炎告知の夜を思い出させてくれた。

その夜「原因がわかったよかったじゃないか」と言われ、、ギョッとして、奈落に落ちる感じを思いっきり味わったなぁ、、

ともあれ26年前と同様に今回も、、情報の対称性、非対称性はどうでもよくなり、イッポン、とられた感じになる。それが心地いい。AB型かな、医院長も?

「春の夢」を読む

1.きのう日曜から、宮本輝「春の夢」を読んでいる。長いこと積ん読のままだったが、春になったしなと、犬の散歩に、読みだし、歩きながら、「しいのみ公園」のベンチでも15分近くは読んで、そしてまた歩きながら読んでみた。散歩に宮本さんの小説はあっている。

犬の散歩で、本を持ち歩いているのは、この辺では、私くらいだろう。昔だったら、歩きながら本を読むのは顰蹙、ヒンシュクものだったが、今は歩きスマホ、歩き電話が跋扈しているので、さして奇異な感じにはなっていない、、とみている。15年間、モモというコーギー犬の散歩をしていると、そうでもしないと、散歩に出る気になれないのだ。

2.その本「春の夢」が、思いあたることがいくつかあった。当初、小説の名は「棲息」だったが、「春の夢」に改題した。断然、その方がいい。棲息という名だと、無機質な、やや下卑た感じがしたからだ。

①偶然、柱に釘を打ち、その串刺しにされた蜥蜴との出会い、その蜥蜴を忽然と「キン」と名付けることによって、縁が生まれる。刺されたまま、キンは死なないのだ。

②40分間の夢、それは明恵の夢日記を思い出させた。

③歎異抄に対する評価




詩人、杉山平一の「夜学生」

1.長いこと、新宿の方で実務講座を主催されていた先輩士業者が、4月の会報を見ると、3月末で退会されていて、少し驚いた。今年64歳かな、情熱家で押し出しの強い人だし、本も出されている。解せない。検索すると、その方の動画があったが、やや痩せられていた。病気を抱えているのかもしれない。動画の内容は、昔と変わらなかった。

2.膵臓がんのMさんも、当面仕事はセーブするといわれたな。

3.詩人、杉山平一さんの「夜学生」という詩がいい。

夜陰ふかい校舎にひびく
師の居ない教室のさんざめき
あゝ 元気な夜学の少年たちよ

昼間の働きにどんなにか疲れたらうに
ひたすら勉学にすすむ
その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ

きみ達より何倍も楽な仕事をしていながら
夜になると酒をくらってほつつき歩く
この僕のごときものを嘲笑へ

小さな肩を並べて帰る夜道はこんなに暗いのに
その声音のなんと明るいことだろう

あゝ僕は信じる
きみ達の希望こそかなえらるべきだ
覚えたばかりの英語読本(リーダー)を
声高からかに暗誦せよ

スプリング ハズ カム

ウインタア イズ オオバア



同じ詩人でこういうのも、身につまされて、いい。

『ぜぴゅろす』
   生
ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある

もどる途中でハタと
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい

身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか

いつの日か思い当るときのある人は
幸福である

思い出せぬまゝ
僕はすごすごあの世へもどる


4.日本人の識字率は高いが、識詩率は低いと知った。
私も、詩は苦手だ。ところが、ユーラシアは違う、詩人に対する評価はすこぶる高い。例えば、アフガンのゲリラの話で、五木寛之はこう言った。

「荒野の山腹に露営して
焚き火をたいて、
夜に見張りを立てて、
泊まったりしていると、
一人が焚き火の周りで
古い詩を朗々と朗誦し始める。そうすると、
みんながそれに一斉に
唱和する。

そうやって国民みんなで詩を大事にするし、
尊敬する。」と。

自己に会う難しさ

平成2年ころの新聞記事の切り抜きが出てきた。たぶん日経新聞だろうが日付は不明だ。自分がC型肝炎にかかったころの新聞記事に違いない。掲題の、哲学者下村寅太郎(1902〜1999)が語ったことを、とっておいたのだ。以下そのまま載せることに。

下村寅太郎の名は知っていたが、その本は読んだことがなかった。それなのに、なぜか切り抜き、、残したいと思ったのか、記憶はない。でも、て今、このテーマは身近な問題として、感じていて、合点がいくのだ。

自分と出会う

今は「自分と出会う」といわれるが、私どもの青少年時代には(「明治は遠くなりにけり」というその「明治」だが)「立志」といわれたものに当たるであろうか。

「立志」には「立志出世」の匂いがあったが、今いう「自分に会う」にはいささか内面性がある。しかし、十年後にはどういう言い方が登場するだろうか。

私の青年時代にーー今もって青年のつもりだがーー数理哲学の勉強から始めた。特別に数学が得意であったわけではない。自分のセンチメンタリズムに腹を立てて、それの克服ための「苦行」としてであった。苦行のための勉強とは奇妙な仕わざだが、青年の理想主義とでもいうべきものであろう。

青年時代は誰でも理想主義者である。無鉄砲の理想主義は青年の心情であり、信条でもある。その理想主義は挫折したり霧消したりするのが常例であるが、動機に嘘はない。苦業をあえてすることは情熱であり、情熱に成敗利鈍に悔いなしの歓喜がある

「数学者」に対する憧憬は今なお残存する。もっともその数学は、当世の専門化した形式的な数学ではなく、数学的神秘主義にもつながる古典的数学である。天才的な数学者の伝記は、今なお魅力があって愛読する。学問は、専門的になると香気を失いやすくなる。

学問が自分に出会う門になったのは、良師に恵まれたことによる。

「自分に会う」とは、自分が未だ必ずしも自分自身でないことによる。奇妙なことだが、事実である。毎日、起床すると顔を洗う。鏡に顔がうつっているが、自分に会っているとは思わない。たまに見つめることがあっても、いつも「嫌なやつ」と思うだけである。

これは自分と会っていながら、会っていないことである。自分は外にいるのではなく、自分の中にしかいない。言いふるされた足下を見るということにすぎない。しかし、それにもかかわらず、この自己に会うことは至難の業といわれるのである。

「億劫(おっこう)相別れて
而(しか)も須臾(しゅゆ)も離れず、
尽日(じんじつ)相対して而も
刹那(せつな)も対せず」
という有名な古語がある。
これは大変なことなのである。しかし、実際には日常不断に経験している事実である。

我々は眼でものを見ながら、見る時、眼を意識しない。聞く時、耳で聞きながら耳を意識しない。考える時、言葉で考えるのだが、言葉を意識しない。我々は日本語で思惟しながら、日本語を意識しない。話でも文章でも必ずしも主語を必要としない。省略しながら、省略に気づかない

アメリカの日本文学の専門家として有名なヴィリエル氏が、田辺元博士の有名な論文「死を忘れるな(メメント・モリ)」を英訳した時、「主語を探す」ことに最も苦労した、と告白したのに驚いた。田辺博士は論理的思惟の厳格で著名な日本の哲学者で、我々の読み慣れた論文であるが、主語を探した経験は殆どない。西洋人が読むとこれに苦心せねばならぬのである。

日本語で読む我々は、日本語を意識しない。これは、毎日自分の顔を見ながら、自分に会っていないのと同様である。

西田幾多郎先生の原稿は清書されたように奇麗である。添削も消し字もない。いつかこのことを先生に言ったら、「わしの論文は一本勝負だ」と言われた。

以上。およそ30年前、「自分と出会う」という言葉が取りざたされていたっけかな、、

少し前だか、「自分探し」という言葉がよく言われた気がする。そういえば、2歳4ヶ月になる次女は「ジブン、ジブン」をよく口にする。 長女はときどき自分の名を、話し言葉の中で、主語にする、、私の子どもの頃には、そういう子はいなかった。あっ、テーマとはそれて行くな。。

このブログにしても、「自分に出会う」ための時間をかけた「仕掛け」なのかも、しれない。
今はわからなくても、10年後、20年後に出会ったことに気づく、、そういうこともありえるだろう。あぁ、そう思ったら合点がいくことが、、

直腸がん手術後の2010年5月27日の夜明け前に、私は、自分に出会っていた、のかもしれないのだ。まったく上手く言葉できないが、深刻な手術の後だっただけに、幽体離脱のような体験ではなかったが、、

不思議な感覚に遭遇した。しいて言えば、離脱ではなく逆で、少し、身体の奥に入るというか、、建物で言えば半地下のようなところような、身体の下というか、自分が沈んでいる自分がいるのだ。そして猛烈な閉所恐怖症に見舞われ、呼吸が一気に苦しくなった。

それは「なんだかんだ、俺って、このくりかえしだったなぁ」という、忸怩たる思いに似た、ネガティブな心象風景だった。

その日を「5.27」と、ひとり名付けることにしよう。名付けることで、ひとは自分に出会うのではないか?


そこはかとなく徐々に、旗を立てよう

100分で名著、4月は三木清の「人生論ノート」で、1回目と2回目を見た。
解説者は岸見一郎氏、1956年生まれで61歳か。アドラーで評判になったが、再びの登場。本来は京大出の西洋古典哲学の研究者と知った。引き出しを複数お持ちのようだ。10年前に心臓病を患い、職を失ったと番組の中で言われた。

1970年代に、十代、二十代だった人は、高野悦子の「二十歳の原点」と同じように、三木清を読む人が少なからず、いたと思う。懐かしいのだ。法政で哲学を教えていて、田中美知太郎さんを講師に招聘されたりしたと記憶する。当時としては、三木清は大きな身体をされていて、若手の哲学リーダーだったとみる。

中断、、




ある相続人の若者のこと

1.以前、相続手続きをした依頼人が、息子のことで、かなり落ち込んでおられた。父親と長男との、かなり凄惨な確執で、、父親は生きる意欲が揺らいでいた。

2.依頼人の父親も、その息子も、相続人であり、ほぼ法定相続分と同じ形で、遺産分割協議書を作成した。資産は金融資産のみで、かなりのピッチでその手続きをした。タンス預金を入れると、相続税は発生するかどうかの境界線にあったので、残高確認に、ハラハラしたのを覚えている。改正された今の相続税制だと、相続税は発生していただろうが、、

3.しかし、その後がいけない。長男がきちんと働き続けることができなくなり、タイだったか、に行き、不労の日本人の若者たちの影響を受け、タトゥーを入れ始め、マリファナもたしなむようになった、、らしい。日本に戻ると、父親に早く財産を寄こせと言い寄ったり、あげくに自宅でマリファナ栽培でもやり始めるのでは、、と父親は不安がっていた。そのときは警察に通報するとも。非行逸脱のスパイラルがとまらない、、そんな気がした。

4.「なまじ、思ってもいない相続の金が落ちてきたばっかりに、こんなことになってしまった」と、嘆く父親の話を1時間近く聞いたわけで、さてどうしたものか、、長男と話してみたいとも思ったが、、父親からの依頼かと勘ぐられるのも、よろしくないしな、、ラインに名はあったが、いつの間にか、写真ははずされていた。

5.若者たちがタトゥーをしたくなる心境は、皆目わからない。神的な何かに守らて強くなりたいという願望からかな?と想像するするが、、

そういえば「ドラコンタトゥーの女」のリスベットも父親に勝つためにタトゥーをしたのかもしれない。

もし、タトゥーや刺青されている方で、動機を教えてくださるなら、、ありがたい、です。

追記、
1980年9月、42歳のトラック運転手が銀座で1億円を拾った。運転手は大貫久男さんというお名前だった。半年たっても、持ち主はあらわれず、1億円は大貫さんのものになった。世間の嫉妬にさいなまれた。その翌年の確定申告で約3千万の所得税を払い、残った金の一部で、マンションを購入された、らしい。

そして、残余の金には手をつけず、引き続きトラック運転手を続け、その稼いだ金だけで、生計を立てていかれた。「遊んでいて、いいことは一つもありませんよ」と大貫さんは言った。

TVでインタビューに応える大貫さんの実直そうな表情を何げに覚えている。2000年に大貫さんは62歳で亡くなられた。今、わたしは、その62歳を生きている。大貫さんとはま逆、少なからぬ負債を抱えながら。。

Amazonレビュー下書き01

わたしは8年くらい前から、作家宮本輝さんの公式サイトに参加しBTCという掲示板に、ときどき書込みをしている。直近の書込みで、その「ひとたびはポプラに臥す」の長いレビューを書く、と宣言していた。10年以上、その本の書込みがなく、それはいかかがなものか、と思ったことと、何がしか、輝先生の恩に報いたいとも思っての宣言でもあった。

それと、この「ひとたびはポプラに臥す」は新宿図書館が廃棄図書としてあったので、そっくそのままいただき、犬の散歩のときなどに読んでいる。決して侮ってはいない。散歩のときの本としては、かなりよく親和する。リズムが合うのだ。アンダーラインもバシバシしているので、読み直しの橋頭堡になり、心地が良い。

そこで、レビューの書き込むにあたり、下書きの場に、このブログを利用することにしよう。以下はその下書き、になる。

1.宮本輝さんたち一行は1995年5月25日から40日間かけて、西域、その南山街道を走破した。輝先生の目的ははただ一点「五十歳で長安に入った鳩摩羅什が、いかなる生活をおくりながら、超人的ともいえる膨大な仏典翻訳活動に邁進したのか、、、」その動機を知りたいという関心にあった。それを北日本新聞社が支援して、始まった旅行記である。したがって写真が秀逸なのは、その新聞社のカメラマンが同行しているから、できた技なのだ。

2.さて6700kmの長旅の間、絶えず不思議な虚しさにあった、と輝先生はいう。そして「まだ正確に分析できないでいる。おそらく、生涯、あの虚しさの理由は言葉にできないような気がする」という。私は、正直な感想と受け止めた。仏塔などの遺跡に、興味を示さない輝先生なのだが、その気持ちは私にもあり、すぐ感情移入できた。はたして22年たった2017年の今、輝先生はあの旅をどう思われているだろうか。

3.こと宮本輝さんの本に限ってだが、わたしは自分の経験に引き寄せて、考えてしまう。この本にしても、感想の前に、まずは自分の体験、1999年の秋、米国の西部1900kmを、1週間かけてバイクで走破したことが重なってしまう。無論、C型肝炎の自分が一人でできたわけではなく、ツァーに参加させられただけ。誘ってくれた先輩は直前になってバイク事故で不参加、、なんだよーという感じで、迎えたバイクツーリングだった。その時の写真を見てもわたしの顔は肝臓病患者そのもだった。そうした辛い長旅を「ひとたびはポプラに臥す」に重ねて、感慨にふけってしまうのだ。

4.まずはじめの感想は、水と食べ物と排便環境の艱難辛苦であり、NHKのシルクロードのドキュメンタリーなど絵空事のように感じた。食べ物に、生活用水の悪臭が醸し出してくるのだ。さもありなん、日本のような流れる水はないのだから。原子炉廃棄物と似て、下水溝のない水洗トイレのような地帯が西域なのだと感じた。清潔は、砂漠の熱さにあるだけだ。

5.便所の話のところで、板橋の花火大会で体験した、ささやかなこの世の地獄、とことん汚れた公園の公衆便所を思い出した。肝臓病患者など西域に行ってはならい不安全地帯にほかならない。「シルクロードというものをロマンチックに伝えやがったのはどこのどいつだと怒鳴りたい気分です。」これは輝先生の本音だ。

6.小林秀雄の徒然草のことや、輝先生の断想がちりばめられ、心に響くものが多々あるが、とりわけある少女の描写が響いてきて、心のおりのように沈殿している。。それを転記して①の感想を綴じたい。74~75頁にある。

「どのくらい尾根と谷を超えたかわからなくなったころ、静まりかえった村に入った。黄色い土壁と瓦屋根の農家には、ニンニクとトウモロコシが干してあり、洗剤で洗ったことは一度もないのではないかと思えるほどに黄ばんだ下着が紐に吊るされ、その下で女の子がひとり遊んでいる。

木の枝で庭の土に何かを描き、ひとりごとを言いながら、ときどき洗濯物を見上げる。そしてまたしゃがみ込み、土に何かを描く。

村には、女の子以外、人の気配はない。

私は車の窓から振り返って、その七、八歳の女の子を見つめた。女の子は洗濯物と話をしていたのだった。

誰もいない村の昼盛りのなかで、洗濯物と会話する少女、、、。」


わたしの心に、映像のように広がり、消えることはない。この本を象徴するポプラととともに、、、


以上、ひとまずAmazonレビューは、これで行こう。。

すい臓がんのMさんのこと

2月に近況のやりとりをした、すい臓がんのMさんの、その後の経過について、より強い抗がん剤を始めておられるのか、知りたくなって、メールを送ると、次の回答があった。

メールありがとう。私も連絡したいと思ってました。(以心伝心)実は、入院してます。でも、おかげさまで金曜日に退院します。

すい臓がんカフェで、強いアブラキサンの話を皆さんから聞いて、私も決心してすっぽり被るウィッグの用意までしたのょ。
リンパ節に転移の疑いありで、PETCTを強く勧めますとの診断だとまでが、前回のメールです。

決心して、用意して臨んだペットの診断結果⇒なんと、光っていたのは、肝臓に転移巣有り。先生が、開口一番手術するか? えっ(?_?)出来るんですか?と私。結果的に、3/29手術できたんですょ。

前日、説明を聞いたとき、すい臓がんの転移肝癌で、手術を選択する人はあまりいない。(先生も、心配だったのでしょう)大抵の場合他にもポツポツと転移があるのがふつうで、もし、開けてみて、他にもあったら、手術はしないからと言われてました。翌日の手術。転移は一個だったので、手術したよ、と、いわれました。

その後は、数日は、具合悪い日もありましたが、管も少なく、一日二日でとれ、月曜日の朝は、お腹がすき、食欲もあり、もう退院できると言われて、金曜日に帰ることにしました。

今日は、退院後のリハで、新橋まで外出し、帰りにカフェラテまで飲んできました。
こんな、うれしいことはありません。少なくとも、来年の3月まで決まっている仕事は無事果たせそうです。有りがたい。けさも、先生とこの先の治療をどうするか?考えようという話をしました。何もしないという手もあるが、今回のように、転移しやすいというのが、すい臓がんだからって。ちょっとは、休んでも、何らかの予防はしなければならないだろうとおもいます。

でも、いきなり、必要ないのに、強い抗がん剤も必要ないとおもいます。プロポリス思い出して、勤先生に聞いて見ようかな?と思ってました。毎日、日に日に力がみなぎってきますよ。不安を感じて、躊躇っていたものも無くなり、少し休んだらゆっくり仕事を再開します。


肝臓に転移していたとは、、ステージ4のど真ん中に、Mさんはおられる。けれど、文章は暗くはない。QOLの意識が高い。それが救いだ。これから先、どう立ち向かうか、エビデンスなんか無視して、グライダー飛行のように自然治癒力の気流をとらえ、滑空する、、そういう闘病も、、ありだろう。

とりいそぎ、肝がん手術をして5年が経ち、再発がないサニーサイドさんのことを伝え、肝臓の転移はもう大丈夫かも、希望がもてますよと書き、そしてプロポリスについては、松野哲也博士のブログを知らせ、飲んでみる価値は十分にあると伝えた。

シンプロポリスをすすめた。もう一つ、別のプロポリスも飲んだ。相性の問題だが、シンプロポリスの方が品質がよかった。

佐藤優「先生と私」を読了した

1.このブログは、長いことコメントをいただけてなかったが、今日、superpesonさん という、初めての方からコメントをいただいたとわかり、素直にうれしかった。C型肝炎治療の、武蔵野赤十字病院から国府台病院へと、最終段階の病歴が、私とよく似ておられた。多くの方々と同じように、superpeson さんもSVRになられている。あらためて、ハーボニーに感謝。

superpeson さん、いつか吉祥寺あたりで、お会いしたいものですね。わたしはいつも、立野町から成蹊大学わきにある半キロくらいの直線の道路を自転車で通り抜けると、吉祥寺に来た感じがします。

2.このところ、Amazonプライムで映画を見ることが多い。DVDで所有するという意味がどんどん希薄になる感じがする。
①「ミレニアム、ドラゴンタトゥーの女」を再び見たが、やはり小説の方がいい、
②「13時間」という、2002年9月11日リビアの米在外公館が襲撃された事件を扱った映画。傭兵の元軍人たちのアラモの砦のような話で、壊滅は免れた。
③「ビューティフル」・・・もう何がなんだか、美しくない映画だ。
④「エクスマキナ」・・・脇役で出ている日本人ハーフの女性が美しい。

3.元外務省主任分析官で、佐藤優さんという作家がおられる。この方のラジオのコメントはネットでチェックして聴くようにしている。そのインテリジェンスを聴きたくなるのだ。惹きつける何かが佐藤氏にはある。今佐藤氏は、曙橋あたり住んでおられるようだ。たしか、肺がんでなくなった戸井十月さんも曙橋に住んでおられたな、、実はわたしも半年ほど住んだことがあるので、その街の空気感はわかる。

4.今朝から、佐藤優氏が書かれた「先生と私」を読んでいる。大宮の公立中学から県立浦和高校に入るまでの話。義務教育時代に佐藤優という人間が、どう出来上がっていくのか?その根っこに、誰がいたのか知りたかった。中学1年の塾の国語教師と数学教師の出会いが決定的だった感じがした。教師の氏名は明らかにしていないが、その指導方法がいいのだ、、自分も受けてみたいと思った次第。

4-1.佐藤優氏と五木寛之の対談本で、その国語の塾教師は、岡部宏という人だった。但し、検索をかけても、あらわれない。市井の人として、無名を貫かれているのかもしれない?

5.追記、、5日に「先生とわたし」を読了した。落ち着き払っていて、もの怖じしない佐藤氏の目の力は、すでに、中学時代にはあらわれていたのではないか、、と思えた。私より6歳下だが、その時代の空気感は同じものだったに違いない。学生運動の最終局面、連合赤軍あさま山荘事件のころに、佐藤さんは中学に入っているわけだし。理系から文系への関心のシフト、、キリスト教とマルクスとロシア語に強い関心を持っていて、向学心はひたぶるなものがあって、こりゃ、脱帽だ。

6.あっ、思い出した。あさま山荘事件で殉職した機動隊員の一人が、わたしの中学の同級生の父親だった。家も覚えている。一度だけだが、挨拶したこともあった。リアルタイムのテレビ報道の画面でその名が出たとき、すぐに彼の父親だとわかった。クレーンで釣り上げたボーリングで、山荘の壁を破壊する様もを見ていて、なんともいえない「やるせなさ」を感じていた。あの過激な人たちを一方的に非難はできない自分がいた。あの異様な光景は、反体制にとって、流血革命の蹉跌だった、、

1990年代に、和美峠近くをツーリングしていて、忽然と、あさま山荘を見えたとき、思わず声を上げた。あそこにあったんだ、、最期の砦にした連合赤軍の心境が、わかる気がした。負の大団円、、騒擾の舞台にふさわしい、屹立した場所だった。

7.戻る。その先生とは、一人の師ではないのだ、両親、叔父、牧師、塾講師、大学教授、中学の担任教師みんなが、佐藤さんにはかけがえないの先生だったとわかった。それと、沖縄や北海道で出会った人、旅そのものもまた、偉大な先生だったとわかる。

8.塾の国語教師は、佐藤さんたち中学1年の塾生に、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」の授業をする。ホワイトボードに現実存在と書いて「実」と「存」に○をつけ、こう解説する。
「実は、“ある”ということは、とてもむずかしい概念だ。私自身の人生は1回しかない。また、いまこうして、みんなと勉強しているこの瞬間も1回しかない。そして繰り返すことができない。この1回、1回を大切にしていくことが実存なのです。島尾敏雄の小説、戦争の特攻のような経験をすると、誰もが実存について考えざる得なくなる。こういうことを中心に考える哲学で、実存哲学というものがあります。サルトルとカミュが中心人物です」と。すると、、ある女子生徒が「島尾敏雄の特攻体験は、ドストエフスキーの体験と重ね合わせて、理解することが適切でしょうか」と質問する、、のだ。P104も、ここのくだりは圧巻だった。

中一の生徒たちがそんな質問、、自分の中学時代を振り返って、、ありえない。
わたしの場合、島尾敏雄の、その小説は、高校出て10年後に母校の国語教師、北上先生を囲んで輪読会をやったときに、課題となった小説だった。28歳のときでさえ、島尾敏雄の文章のリアルさ、きな臭さを感じてはいたが、「実存」という言葉は思いも浮かばなかった、のだから。

そうして今、確信した。できるだけ「正確な質問をすること」、、人生は、いかに正しく問うかが大事になる。これから先、生き方の中心において、意識しよう、、実際そうしてきたわけだし、グーグルの検索にしても、どういうキーワードを入れて尋ねるかによって、結果は千差万別だし。。

するとカルロスゴーンがこういっているのが、検索でわかった。
正確な質問をすれば、正確な答えが返ってくる。
曖昧な質問をすれば、曖昧な答えしか返ってこない。

まぁ、月並み言葉ともいえるが、、それは、わたしの言いたいこととは、微妙に違う。正確な答えが直ちにかえってこなくてもいい、時間がかかってもいいのだ、、質問したことを記憶してさえいれば、、
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2006年11月2日から
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