わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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小室直樹「宗教原論」と凝然大徳「八宗綱要」

1.民進党の代表、蓮舫さんについて、、
なんだかイメージが、毛沢東の江青夫人と重なってしまう。舌鋒鋭く糾弾する声が、日本語でなく北京語なら、江青に似ていると。また、かなりファザコンだろうか?国籍離脱の手続を父親に任せていたとするのは、どうにも野党の第一党代表の答弁としてはいかがなものか、そのうちに野田幹事長のせいにする場面も、あるかもしれない。境界型人間のサガ。それと、今更だが、国際人?の矜恃で、アイデンティティとして二重国籍を強弁した方がジレンマに陥らなかったのではないか?台湾総統選挙の投票に行かれていたようだ。さて、どう抗弁するのか、迷走は続く。

2.先日、宮田家を訪れ、書棚から以下の3冊をお借りした。無論、ご家族の了解はとった。1月に亡くなった宮田さんがマーカーしたところや書き込みしたところを見て、参考にしたい。
①小室直樹「日本人のための宗教原論」(徳間書店 2000/6)
②「小室直樹の資本主義原論」(東洋経済 1997/7)
③西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)

3.「宗教原論」は緻密さはないが、青龍刀を振り回す感じで、面白い。小室直樹さんは、少し井筒俊彦と似ていて、天才肌の洞察力をもった、無冠、孤高の人だ。

4.その中で、日本仏教の解説書は700年前の僧、華厳宗の凝然大徳「八宗綱要」が一番と教えているのだ。全く知らない人で、驚いた。早速、凝然大徳「八宗綱要」(講談社学術文庫)を図書館から借りることに。

検索すると、、
凝然大徳(1240〜1321)は伊予国(いまの愛媛県)の出身で、示観房と号す。

1255年(建長7年)に比叡山で菩薩戒を受け、東大寺戒壇院の円照に師事して通受戒を受けたほか、華厳を宗性に、律を唐招提寺の証玄に、密教と天台教を聖守に、真言教を木幡観音院の真空に、浄土教学を長西に学ぶなど博学であった。

とりわけ華厳教学に通じており各所で講義を行っている。円照のあとを受けて東大寺戒壇院に住し、法隆寺や唐招提寺など南都寺院を管轄した。『八宗綱要』は日本仏教史研究に不可欠の文献である。

八宗とは①倶舎宗、②成実宗、③律宗、④法相宗、⑤三論宗、⑥天台宗、⑦華厳宗、⑧真言宗である。いわゆる南都六宗に平安二宗を加えたもの。日蓮宗はもとより禅と浄土は出てこない。


5.日蓮は1222年の生まれ、凝然大徳は1240年生まれだから、18歳の差。同時代人だが、会ってはいないだろう。凝然大徳を、日蓮の弟子であり日蓮に深い質問を投げかけた最蓮房と重ねて見てしまう。この時期、優秀な学僧が少なからず、日本にはいたわけだ。

ちなみに最蓮房は、京都生まれの天台宗の学僧といわれるが,くわしいことは不明。なんらかの罪で佐渡(新潟県)に配流される。文永9年(1272)流されてきた日蓮に帰依。建治(けんじ)元年、1275年ごろ京都にもどったという。日蓮が佐渡から戻ったあとも、最蓮房は佐渡にいたことになる。極寒の佐渡で、最蓮房は病んでいたのではないか?日蓮から「生死一大事血脈(けちみゃく)鈔」「立正観抄」など13編ほどの文書をかきあたえられている。法名は日浄,日栄。

6.それと、日蓮の御書の中には、おそらくたえず手元においておかれたろう綱領や仏教の体系図が多くある。比叡山で学ばれたときの「まとめノート」と私は思っているが、それと「八宗綱要」とを比べ読みしたくなる。さて、どちらが深いか、、

「ミレニアム1」を読んだ

1.ずいぶん前に話題になったスティーグ ラーソンの「ミレニアム 1 ドラゴンタトゥーの女」を読んだ。作家宮本輝さんがはまっておられたので、いつか読もうと決めていたが、すこし前にDVD映画を見て、さらに原作を読んでみたくなったのだ。やはり、本の方がいい。

主人公のその女は、、
リスベット・サランデル(Lisbeth Salander)
1978年4月30日(ワルプルギスの夜祭りの日)24歳(開始当初)。身長154cm、体重42kg。ミルトン・セキュリティーのフリーの調査員。情報収集能力に長けており、調査対象の人物の秘密を暴き出す能力がずば抜けて高い。感情表現が乏しい。髪を極端に短く刈り、鼻と眉にピアスを付け、左の肩甲骨から腰の当たりにかけてドラゴンのタトゥーを、首には長さ2cmのスズメバチのタトゥーを、左の二の腕と足首の周りに帯状のタトゥーを施している。赤毛の髪を黒に染めている。遠目に見たら痩せぎすの少年と見紛うほど、拒食症のように痩せた青白い肌をしている。カワサキの125ccバイクに乗っている。(いまどき排気量が小さすぎないか?)
中学校を中退し、高校には進学していないが、映像記録能力と文章能力が大変優れている。またコンピューターの知識にも優れ、ハッキング能力も高く、スウェーデン語でスズメバチを意味する“ワスプ”という名ではハッカー仲間から畏敬の念を抱かれているほど。質問されても何も答えずに黙っているため、責任能力がない精神異常者の烙印を押され、後見人を付けられるようになる。過去の虐待のトラウマを負っている影響で、敵とみなした人物には容赦なく制裁を加える攻撃的な面を持つ。)


というパーソナリティをもった女性の不思議さが、話しの根っこにある。日本なら、見た目、このような体つきの女性は少なくないだろうが、推理小説の舞台であるスウェーデンでは珍しい女性に違いない。

2.好きな文章があったので、そのまま載せる。下P26のところ、載せておけば、気づきの糸口になる。

じっとしていられず、彼は台所の窓辺に立って外の闇をうかがった。
それからアルバムに視線を向けた。説明のつかない、なにやら不思議な感じを覚えた。急に何の前触れもなく、ふとある考えが脳裏に浮かんで消えていったのだ。それはたったいま見た何かについての考えであったような気がする。まるで目に見えない生きものから耳に息を吹きかけられたような、後頭部の毛が逆立つような感覚があった。


ちなみに私の場合、話しの展開もさることながら、心象の描写が気になるのだ。思い当たる、閃くとはそういう心象だろう、、

3.断想、、本地に立つと、一切が変わる。。

9200日と田中美知太郎

1.C型肝炎とわかった1991年8月21日より今日が9200日目の日だ。これから10000日まで100日ごとを目じるしにして、記事にしよう。自分なりの節度をたもちながら、包み隠さずに書こうと思う。その節度とは、わたしは、あるところの帰属意識はあるが、ステレオタイプではなく、トンデモ系の人間なので、ご迷惑になってもならないので、という節度だ。

2.さて、昨日、何気に、ギリシア哲学の田中美知太郎の「時代と私」を再読した。40年ぶりかもしれない。文章を読んでいて、やはり自分はこの人の文章が好きだし、気分が落ち着く。もう知る人は少ないだろうかわ、月刊誌の文藝春秋の巻頭言は、長いこと田中さんか書かれていた。

3.評論家の西部邁さんが、たいそうリスペクトされておられるが、その年代の方々が物故されたら、田中美知太郎さんを知る人は少なくなるだろう。田中さんは保守主義者になっているが、ご自身は主義など、問題にされなかったと思う。

4.わたしは、晩年の田中さんの講義を、一回だけ、聴いたことがある。神宮の日本青年館だった。「哲学と技術」についての話だったが、ノートはとったのだが、内容は覚えていない。秋だったと思う。なるべく近づいて見たいとおもったが、席は窓側を選んだ。たしか母も連れてきていたと思う。

5.田中先生は155cmくらいの身長だった。お顔は戦災による火傷でダメージがあったが、目を背くなるようなことはなかった。むしろ、ぎゃくで、全身哲学者というオーラが出ていて、なんとも美しい老人だな、感じ入っていた。わたしの勝手な潜在的な心理傾斜かもしれないが、

6.田中先生は、淡々と平板な、ゆっくりと話された。声は大きくはない。窓の外はパラパラと、イチョウの葉が落ちている。あぁ、悠久な時間の流れを感じていた。辻邦生の「背教者ユリアヌス」の新プラトン主義の学塾の光景が重なってきて、幸せなひとときだった。

7.追記、西部邁さんはエッセイ「清浄な魂」で、田中美知太郎さんのことを、こう書いている。

実際、お会いしたひとならば誰しも認めるところであろうが、田中先生が示される快活はすぐ背後に静寂があるためにいっそう際立つのであり、その諧謔(かいぎゃく)も含羞(がんしゅう)ゆえに彩りゆたかになり、さらにその論理の整合性も感情の自在性に裏打ちされているためにかえって引き立つのである。

難しい言い回しだが、、「静寂」の文字に、その通りだった、と思い当たったのだ。うまく言えないが、張りつめた空気、田中先生の声から、静かな磁気を感じていた。静かな声で、聴衆を引きつけるのだ。

田中先生は最後の著作の中で、たしか「空気中に光りが満ち溢れている」というような言葉を残された。
たぶん、生涯の中で何度か、プロティヌスが謂う「一なるもの」との合一を体験しておられたのではないか、、そういう気がする。ホンモノの哲学者は、体験話しは、まずしないし、書いてもボカしたコトバになる。

髪を切りに行く

1.先日、2ヶ月ぶりに髪を切った。ボサボサなのも嫌だったが、ヘナが落ち、白髪が目立つのが気になったからだ。いつも三鷹駅南口まで、行っている。28年前から、そこに通っている。

2.そういえば25年前、1991年11月だった、一番最初のインターフェロン投与のために、2週間、御茶ノ水の順天堂病院に入院したとき、許可をもらって、三鷹のその店まで切りに行ったことを、思い出した。

3.その頃、全身倦怠感の極致で、秋の枯葉とか、夕陽がセピア色に見えてしかたがなかった。友人が見舞いに来てくれ、待合室で話していると、すこし離れたところにいた同じ階の患者さんも、セピア色に見え、あぁ、俺はどうなっちゃうんだろうとつぶやくと、、友人が「あの人は黄疸が出ているね」と言ったので、あっそうかと納得した。

4,血液型がAB型と判明したのも、その病院だった。昔、日大病院で扁桃腺手術をしたとき、耳から採血されB型と言われた。なので、ずっとB型と思い込んで生きてきたのだ。そのことを順天堂の若い担当医に告げると、「それは、日大の医師がAB型と言ったのを『エ〜ッと、B型です』と聞き違えしたのでは?」と切り返された。落語のようで笑ってしまった。

5.当時、その病院に、長谷川労働大臣が入院していた。おかげで、宮沢喜一や福田赳夫 など、偉い政治家をまじかに見た。福田さんは単身でひょいと歩いていて、黒澤の映画に出てきそうな人だった。

6.もう一つ、1階のエレベーターで待っていて、扉が空くと、パジャマ姿の小さな可愛らしい男の子が出てきて、驚いた、頭の左右に緩やかなツノが出ていたのだ、、キケイか、そう生まれて来る子も、と素朴に驚いた、だからなに?だが、そのことを書いておきたい。

7.外出許可は、もう1回とって、東京モーターショーに一人で行った。チケットがあったからだと思うが、、わかったのだ、自分はクルマにはさして関心がないことを。どんな車が出ていたか、全く覚えていない。シーマかな、そんなクルマがあったっけ、、

8.戻る。三鷹の店に行くと、開口一番、いつも「福田さんは来ました?」とオーナー店長にたずねる。次に店長の父親の体調をうかがう。大腸がんステージ4で、肝臓に転移しているが、大丈夫そうで、ひとまず安心する。

9.店長に「前回、ヘナをやっても、すぐとれてしまったんだけど」と尋ねると、
「ヘナは、髪の毛のタンパク質がしっかりしていると、落ちない」と言ってくれた。
そうか、そのタンパク質とは、コレステロールだなと気づき、、

10.「卵とコレステロール」を検索すると、、

卵は髪の毛を健康に保つために必要な4つのミネラル、セレニウム、鉄、亜鉛、硫黄が含まれています。

それだけでなく、タンパク質やビオチンもたっぷりと含まれています。ビオチンとは、髪の毛の成長を促し、頭皮全体を健康に保つ、ビタミン B 群に分類されるビタミンの一種です。

また毛根細胞に酸素を供給するために必要な鉄分も豊富に含まれています。そもそも卵一つで、ひよこができる事を考えれば含まれる栄養素は計り知れないといえますね。「完全栄養食品」と呼ばれるのも納得です。

卵の話になった時に欠かせないのが、コレステロールの話です。私も昔は親から「体に悪いコレステロールがたまるから」と聞かされ、卵の食べすぎに注意していました。しかし、現代の医学では卵を食べてもコレステロール値は上がらないという事が解明されています。

髪のためにも卵は毎日積極的に摂取していきましょう。


一段と意識して、1日3個以上、ゆで卵をたべよう!

1980年の夏の思い出

1.俳優 平幹二朗さんが自宅の浴槽でなくなっていたようだ。82歳。ご長男の岳大さんが発見した、という。健康管理に注意さるていて、よく歩かれているとチラッとテレビで見た気がする。現役であり、今も仕事が入っていたという。大河の「国盗り物語」の斎藤道三が記憶に残っている。

1-2.わたしの姉が、あるとき新宿の方で、平幹二朗さんとエレベーターで一緒になったことがあった。二人だけで、そのがっちり体躯を見上げると、目があい、かるく会釈したら、平さんもそうされたという。そして1階に着き、扉があくとサッと歩きだされ、瞬く間にいなくなった、その速さに驚くばかりだったと言っていた。

2.思い出を一つ、、1980年夏の軽井沢で、レイクニュータウンという場所だったが、佐久間良子さんと二人のお子さんに会ったのだ。たしか双子で、就学前の男の子と女の子だったと思う。男の子が岳大さんだ。夫婦が離婚する4年前の夏だろう。たしか、プロテニスプレイヤーの渡辺功さんもおられた。

3.その頃知り合った、たしか横山さん、野口さん 、平田さん、中一番とか名前が浮かんでくるが、1,2時間、遊びみたいなテニスをやったのだ。渡辺さんが佐久間さんにテニスを教えられているところに加わったのかもしれない。もう定かでない。佐久間さんは、凛とした感じで、大きなサングラスをかけておられていたので、きれいな方だったのだろうが、目をみることができなかった。ただ、そのポッコリしたお腹が記憶に残っている。もう77歳になられているのか、、月ひの流れるのははやいものだ。

4.わたしは25歳だったが、空虚感があって、半年間、無職でいた頃だ、、なぜか、フランス語にこだわり、しばらく日仏学院に行っていて、そこで知った人たちだった。碓氷峠に近い横山さんの別荘に行ったのだ。佐久間さんは横山さんの母親と友人関係ではなかったかな、、とりとめない話になりそうだ。

4-2.フランス語をやろうた思った動機は、大学の第二外国語で仏語2単位を落としてしまい、そのために5年目も通うハメになり、その悔しさが影響していた、のだと思う。が、もうとうに仏語なんて、忘れた。語学の天才、井筒俊彦さんの爪のあかでも飲めていたらなぁ、

5.ただ、その夏、軽井沢のメインストリートの茶店で、6人くらいの仲間たちと、昼間から、よく笑ったものだ。お酒も入ってないのに。なんであんなにおかしかったのか、たしか通りを歩く人たちが笑いの素材になっていたな、、

ともあれ、平さんと佐久間さんの二人のお子さんは、表情が暗かった、そんな印象をもっている。

6.その平岳大さんのマスコミ向けのコメントをそのまま転載しておきたい。三十数年前、あの翳りを抱えていた男の子が、立派な大人になり、こういう言葉を発信する、、長い父子の物語を観るようで、、感慨深いものがある。

この度は、父、平幹二朗の突然の訃報でお騒がせ致しまして誠に申し訳ございません。10月22日より本人と連絡が取れなくなり、翌日自宅を訪ねたところ、浴槽で穏やかに眠っている父を見つけました。

この度の事で番組関係者、舞台制作関係者様に多大なご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。父が俳優として恵まれた人生を送れたのも、偏に皆様との出会いによるものだと感謝致しております。

子供の頃、長い間、父と会わないで居る時間がありました。私が俳優になってからは、その失われた時間を取り戻すように、先輩として、演技の師として、そして父として濃密な時間を過ごすことができました。

生前、親交を持たせて頂いた方々、ファンの皆様、心より御礼を申し上げます。

尚、葬儀、告別式につきましては、詳細が決まり次第ご報告させていただきますが、私の会見等は行わず、この書面にて代えさせていただきますこと、ご理解ください。何卒宜しくお願い申し上げます。

平成28年10月24日 
平岳大


恬淡として、心ねが表れていて、いい文章だと思う。

名優が去っていく、、緒形拳も、平幹二朗もいってしまった、、仲代達矢は足元がおぼつかなくなってしまったし、現役で立ち居振る舞うことができそうなのは、山崎努だけかもしれない。人間の深淵をみせる名優は、その国の宝にほかならない。1950年代以降の生まれの中に、果たして、彼らのような役者がいるのかなぁ、、

いた、1952年生まれの、イッセー尾形は名優だ。お笑いの要素が入っているが、名優だ、と思う。

能の演目一覧

能の演目を五十音順に掲げる。


藍染川 あいそめがわ
葵上 あおいのうえ
阿漕 あこぎ
芦刈 あしかり
安宅 あたか
敦盛 あつもり
海人 あま
嵐山 あらしやま
蟻通 ありどおし
淡路 あわじ


生田 いくた
一角仙人 いっかくせんにん
井筒 いづつ
岩船 いわふね


鵜飼 うかい ⭕️
浮舟 うきふね
雨月 うげつ
歌占 うたうら
善知鳥 うとう
采女 うねめ
鵜祭 うのまつり
梅枝 うめがえ
雲林院 うんりんいん


江口 えぐち
箙 えびら


老松 おいまつ
大江山 おおえやま
翁 おきな
小塩 おしお
大原御幸 おはらごこう
伯母捨 おばすて
女郎花 おみなえし


杜若 かきつばた
景清 かげきよ
花月 かげつ
柏崎 かしわざき
春日竜神 かすがりゅうじん
葛城 かずらき
鉄輪 かなわ
兼平 かねひら
加茂 かも
通小町 かよいこまち
邯鄲 かんたん


砧 きぬた
清経 きよつね
金札 きんさつ


国栖 くず
熊坂 くまさか 2016/10/30
鞍馬天狗 くらまてんぐ
車僧 くるまぞう
呉服 くれは
黒塚 くろづか


源氏供養 げんじくよう
絃上 げんじょう
源太夫 げんだゆう


恋重荷 こいのおもに
項羽 こうう
小鍛冶 こかじ
小督 こごう
小袖曽我 こそでそが
胡蝶 こちょう

さ 以降はないのか?不明

能「熊坂」を読む

1.午後2時、杉並区の「ゆうゆう善福寺」で、能「熊坂を読む」に参加した。
講師は、シテ方金春流能楽師 辻井八郎(重要無形文化財保持者(総合指定))という方で50歳にはなっていない感じの、お若い方だった。30名ほどの受講者は、辻井八郎先生の声に合わせて「熊坂」を音読した。わたしは読み方にルビをふった。こんな機会は最初で最後だろう。辻井先生の声が倍音になっていて、「声仏事をなす」のコトバが思い浮かんだ。先生は逐次説明してくださった。

2.ただ「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」の六波羅蜜経がベースにある、次の地謠のくだりについては仏教の影響程度の話で、辻井先生は端折られていた。

だが断言しよう、、熊坂は、この地謠のくだりが深淵というほかない。
よくぞ、数百年前に、このような能が行われていたのかと新鮮に、驚いた。というか、こちらが知らなかっただけの迂闊が浮かび上がっただけだろうが、、名画の前に立つ素朴な人間と変わらない。

シテ
達多が五逆にすぐれ。方便の殺生は。
菩薩の六度にまされりとか。
これを見かれを聞き。
他を是非しらぬ身のゆくえ。

迷うも悟るも心ぞや。

されば
心の師とはなれ。
心を師とせざれ

と古き言葉に 知られたり。
かようの物語。

申さば夜も 明けなまし。
お休みあれやお僧達。

我もまどろまん さらばと。
眠蔵に入るよと 見えつるが。

形ちもうせて庵室も。
草むらとらなりて松蔭に。
夜を明かしける不思議さよ。
夜を明かしける不思議さよ。

後半は溝口健二監督の「雨月物語」を髣髴とさせた。つづいて、ワキがこういう。

ワキ
牡鹿の角の束の間の
牡鹿の角の束の間の
寝られるものか 秋風の
松の下臥し夜もすがら

声仏事をやなしぬらん
声仏事をやなしぬらん


3,私見、、「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」の意味は、検索すると、
「あなた自身が心の師匠となって、うまく心を諭し導くことがあっても、心そのものを師匠のように大切なものと思って、それに流されたり翻弄されてはいけない。 」という解釈があった。

そもそも、日蓮大聖人(備忘モードのため、ここは尊称する)は、「兄弟抄」(P1088)と「義浄房御書」(P892)の中で、「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」という言葉をそのまま取り上げておられる。大聖人のご内証と合致するコトバだから引用されているのだ、と理解する。

当初、なんで心と心の師と、同じ心なのに、二つの心があるのか?何を言っているのか、さっぱり、わからなかった。

たが、あるとき、わが母校の創立者が、こう言われたことから、徐々に氷解し始めた。
「心の師とは御本尊である。また、常に御本尊に心を向けていこうとする自己自身も、心の師である。惰弱な心に流されるのではなく、常に心の正しい方向に向かわしめる主体者でなくてはならない。決して自己の惰弱な心、弱い心、卑怯な心を師として、それを中心とした行動であってはならない」と。

その上で、わたしの理解は「成仏とは、死んで極楽浄土にいくことでも、神がかった悟りなどでもなく、本地に心の師が常にある状態をさすのではないか」と、質朴に思っている。

4.戻る、、「熊坂」の主題は何か?
それは「迷うも悟るも心ぞや」ではないか、と思う。
終盤の長太刀を持ったシテの舞は、迷いから悟りへの心を表現しているのではないか?
その主題は、は日蓮大聖人の「一生成仏抄」(人は浄土ではなく、この一生のうちに成仏する)と通底するものがあるが、引用は長くなるので、またいつか、、

5.「熊坂」の読みが終わったあと、辻井先生は3つの能面を持ち出され、30名ほどの受講者に対し、能面を体験する時間を作ってくださった。みなさん関心があるようで、それぞれ能面を顔にあて、立ち上がり、姿見の前に立って、堪能していた。私も、1回だけ、「増(ぞう)」という大人の女性の面をかぶって見た。

6.驚いたのは、視野が狭いことだ。直径10cmくらいの円から外を見るようなもので、手足は見えない。ということは、能舞台の上の柱とかの距離感が大事になってきて、想像力を働かせるしかなく、内省、集中が促される。
世阿弥の「離見の見」は奥義は、そうした視野狭窄の中で、唱えられたものなんだな、と感じた。世阿弥は舞台全体を見る眼を体験していたから、そのコトバを残したのだろう。辻井先生に質問すると、そういう境地に入りたいものだと微笑まれていた。

追記、30日の午後6時30分、井草八幡宮の薪能て.「熊坂」を見た。寒かった。気づきは、舞を終えた熊坂長範が、旅の僧に合掌するところがあったこと。合掌は両手の甲の人差し指あたりをくっ付ける、、それが合掌なのだと。供養の礼なのだろう。。ともあれ次回は、能は能楽堂で見たいものだ。

SVR24の確定(7月28日のデータ)

1.今、国府台病院からの帰り、市川駅の大戸屋から、、
7月28日のデータによりSVR24が確定した。村田先生の話では、SVR12のあとに再燃したとしたら、前代未聞で、脚光を浴びることになると言われた。SVR12のときに握手していただき、もう大丈夫といわれたが、SVR24でないと、どうにも腑に落ちなかったわけで、、ようやく納得できそうだ、、今朝は、みぞおちに、やや鈍い痛みがあるせいもあったので再燃かと訝ったが、見当違いのようだ。

2.エコーはいつもと同じ女性の是永先生だったが、ご主人の是永先生が現れた。やはり、お二人は似ている。「広島カープ、おめでとうございます。あとは日本一ですね」と言うと、「高望みはしません、リーグ優勝で、、」と言いながら嬉しそう、、そして、いまからインド、東南アジアのドクター7人が研修で検査を立ち会いたいのだが、了解を求められた。快諾した。

スカーフを巻いた女性が1人、計7人の医師は、みないい眼をしていた、志士の眼だ。JICAの招きだという。この世界は核実験やテロがあっても、いい方向に向かっていると感じた。検査中、英語とヒンディー語で会話していた。f1とか言っていた、軽い慢性肝炎と言っているようだった。雑談したかったが、英語が出て来ない。7人はフィブロスキャンに関心を持っていた。

3.フィブロスキャンは5.2だった。6未満なら問題ない。胆嚢ポリープも3ミリ程度で問題ないと是永先生の判断。すい臓も見えづらいが大丈夫とのことで、目でたし。

4.続いて皮膚科は、ドボペット軟膏30g1個、トプシムローション50g5個を処方してもらい、今回で診察は終わらせた。治癒に向かっていること、担当医に了解いただけた。

5.村田先生とは、骨密度や血管の健康度合いを次回検査をお願いした。腰痛を理由に対応いただけた。ホントは腰痛より肩こりなのだが、、
5-2.そうだ、村田先生に乾癬が治癒してきていることを話した。先生の論文のとおり、やはり、C型肝炎ウィルスと乾癬は、サイトカインとか何かで因果関係はあるのだ。すると、先生は、ハーボニーを始める前に、わたしの乾癬を写真をとっておけばよかったと、右手を頭の後ろに回して、残念がった。

6.すい臓がんの一般論もお聞きした。初期症状が黄疸なら、すい頭のがんだろうが、すい臓全体に飛んでいる場合があるから難しいだろう。自覚症状が出たときは手遅れなことが多い。すい臓がんの早期発見は、自覚症状ではなく、もっと前であり、定期的にエコー検査をやっていて、みつかることが一般的だと。そして、術後2年経過していれば、勝算あるかな、と。すい臓がんサバイバーになるのは至難だな。

7.次回は3ヶ月後の1月19日の診察となった。6ヶ月後の4月だとと、村田先生は苦笑いされた。年度をまたぐと異動もありうる、感じがした。溝上先生もトップから下りられたし、村田先生が次のステップに向かうことになっても、おかしくはないだろう、、ハーボニーの、革命的な薬効は、肝臓系の先生方の潮目をもたらしているのかもしれない。

8.すい臓がん予後のMさんに、昨日の夕方、食事療法など提案をメールしたが、返信がない。必ずリターンされる方だったので、、イヤな予感がする。

夕方、Mさんから次のメールが届いた。大丈夫そうだ、少し安心した。

メールありがとうございます。アドバイス、しかと受け止めましたょ。気功やったんですね。気を感じるということ、何となくわかりますょ。昨日の私は、貧血起きたみたいにふらっとして、その上お腹も痛み、寝てました。発熱は無し。お腹の痛いところに手を当てて、手当て手当てと思いました。そしたら、あなたから手を当てると良いとメールが、来たので、さらに納得しました。

私は、開腹手術でした。
みぞおちからお臍辺りまで、ガーッと切られました。すい臓は、胃の裏のほうにあるので、手術が、大変なようで、私は十二指腸全部となんとかいう腸と胃も少し切ったと思います。すい臓は、患部を切ったけど、残してあります。胆のうは、10年前に全摘出してました。あれば、これも摘出でした。

患部は血管がいりくんでいて、数センチずれていたら、手術は出来なかったらしいです。肝臓に転移があったら、開腹してもそのまま手術をやめますと、いわれました。11/10に黄疸で入院して、胆管に人工的な管を通す手術。これは、内視鏡でした。

12/4の手術までの間、どんどん元気になるので、若いドクターに言うと、それが、この病気の怖い所で、自覚症状がほとんどありません。だから、今回黄疸になったことで、すい臓がんが見つかり、結果的に手術することになったけど、ポジティブに受け止めて下さいねと言われました。

手術迄の間、外出してパソコンも持ち込みできたし、キンコーズで出力してやり残していた補正も済ませ、許可証も出してもらったのです。根性ですね。

手術前に、看護師さんとも話し合いました。患者の生きるモチベーションや、元気に回復するモチベーションをアップさせるために、その人のバックボーン等を聞いておきたいとのことでした。普通のひとなら、子供だったり孫の存在だったりするのでしょうけど、看護師さんには、○○○士という仕事をやっていて、このあと、1月12日に盛岡に行きたいって、言ったの。それに向かって頑張りたいって。

今の治療法や麻酔の進歩も素晴らしいね。開腹手術で管を外に何本も出して、体液管理をする。痛みは脊髄に直接麻酔を点滴で落とし、なお痛い時は、自分自身でボタンを押して投与する。手術が、終わった翌朝ドクターに気分はどうですか?と聞かれ、爽快ですと答えられました。本当に、青空が見えて、悪いところも取れて、スッキリした気分でした。ドクターは、結構、大手術だったんですよと、言ったけど、考えてみたら、結構ポジティブでしたね。

それが良かったのかもしれないし、隣のベッドに私より10日程前に同じ手術をした方がいたのだけど、回復も退院も私のほうが、早かった。

でも早ければ良いと言うもんじゃないとあとから思いしるのですが…
すい臓がんで、千代の富士が亡くなったのは、非常にショックだった。
食事も、本当はもっとコントロールしなければならない。ちょっと食べ過ぎ。栄養指導にも通っています。
今日は、実に、快適な天気ですね。

私もヤクルト飲むようにしています。今受けている抗がん剤は、副作用も少ないほうだそうです。昨日感じた口の中のビリビリがなくなりました。この薬によって、すい臓がんの予後が格段に良くなったとネットにありました。

しかし、わたしの主治医からは、これがどのくらい効くかなどの言葉はありません。発熱もなく、快適に過ごせた前回の2週間は、血液検査の数値も非常に良かった。ちゃんと出るんだね。お陰さまで富山にも金沢にも行って来れました。甥の結婚式にもでて、元気そうだと言われました。

あともう少しで、術後1年です。こうやって、1年1年を積み重ねていくんだね。これが、がんを患った人なんだなぁ。
あなたは、2010年に手術したならば、これは、寛解ですね。情報を集めながら、私も、頑張りますょ。ではでは☺


Mさんは、よくほほ笑む肝っ玉母さんみたいな人だ。
その強靭な生命力、旺盛な生活力のレベルに、自分も追いつかないと。

すい臓がんの報せ

1.先日、Facebookに、よくわからずお悔やみの投稿したおかげで、仕事の上で、お世話になった先輩の方(Mさんと呼ぶ)からメールが届いた。ちなみに、Facebookは、アメリカ的なあざとさを感じてしまい、苦手なので、遠ざけていた。今後もそうする。

2.Mさんは、わたしより一つ上の女性で、とても配慮がゆきとどくリーダー的存在だった。ふくよかな体型をされていた、、だが、昨年末、すい臓がんを発症されていた。以下、メールを抜粋すると、こうだ。ちなみに、たまたまだか、わたしと苗字が同じだったりして、親近感があった。

つとむさんへ、ご無沙汰しております。今日、FBにアップされているのをみて、携帯にメールしてみました。

実は、私も去年の秋に、黄疸になり、入院して検査したところすい臓がんという厄介な病がわかり、12月に手術を受けました。あれから、約1年、今のところ割合?いや、私の中では結構普通に元気にやってます。相変わらず徹夜もしたり、地方出張もしたりしています。治療は、2週間ごとに点滴に行ってます。

今は本当に医学が発達して、まぁまぁ普通に生きて行けるんだなぁと自分自身驚いてます。あなたは、お加減いかがでしょうか?気にしてました。

もし、あのまま、あの業務に忙殺されていたら、自覚症状のない病気ですから、あっという間に死んでいただろうなぁと思います。そこから離れて、まずは、良かった…。と、だらだら長くなりましたが、元気にやってます。

近況などお聞かせ下さると嬉しいです。お子さんたちも大きくなったでしょうね?では、失礼します。


3.スティーブ ジョブズと同じ、すい臓がんという病名には、正直、えっと、声をあげてしまった。がんの中でも、がんサバイバーになることが厳しい病、そのベストスリーに入ることは明らかだ。わたしが患った大腸がんやC型肝炎などとは、レベルが違う、さて、どうしたものかと、自分の病いのように受け止めた。

4.たしか35年くらい前、1981年頃に勤務していた、新橋の、小さな会社のアベ総務部長がすい臓がんで亡くなられたと思う。入院中に、ご子息が会社に見え、社長と懇談していた。たぶん末期だったろう。アベ部長はアリナミンをよく飲んでいたな。因果関係はないだろうが、安田次長とそう会話した記憶が残っている。

5.次に浮かんだのは肝炎臨床の権威、飯野四郎先生だ。先生もすい臓がんだった。2008年9月2日に亡くなられた。その亡くなる1年前に、清河病院に行き、診察していただいた。強力ミノファーゲン(懐かしい薬品名だ)のジェネリック薬はダメだ。ウルソもジェネリック薬はダメだと、お怒りぎみで話されていた。なんて怒りっぽい先生だろうという印象だった。メモリアル的な意味で診察していただいたのだが、今にして思うと、怒りっぽかったのはすい臓がんが影響していたのかもしれない。また先生の逝去は、インターフェロンフリー薬が出てくる直前の、肝炎治療の潮目が変わっていく時期と重なっていて、感慨深いものがある。

6.とりいそぎ返信し、Mさんに「すい臓がんサバイバー」の木下さんのブログを紹介した。患者同士の集合知こそ重要だとお伝えした。それこそが、わたしのC型肝炎体験のキモではないかと。それでも当初は、お仲間になかなかアクセスしなかった。治りっこないと決めこんでいた。ようやく2014年から近づいて行った。それが良かったのだ。akioさん、川西先生に感謝。

ただ、厳しい部位のがんだと、どういう気持ちになるのか、想像できない。

7.すると、再びMさんから次のメールが届いた。抜粋すると、、

メールありがとうございました。すい臓がん患者のブログも教えて頂きありがとうございます。ちょっと覗いてみました。患者の会のようなNPOもあるようで会合やセミナーにも出てみたいと思っています。

私も最初は、飲み薬のTS‐1という抗がん剤でしたが、5~6月に副作用?なのか、苦しんだ上に血糖値が異常になり再入院しました。そして、9月からゲムシタビンという抗がん剤を点滴しています。

その時ドクターは、後で後悔しないために切り替えましょうと指示されました。すい臓がんは、手術できる人も40/100人と少ないけど、さらに生きるひとは、8 /40人と手術前に言われました。その時、長生きしないんだなと思いましたが、抱えていた申請や更新があり、どうしようと思いました。しかし、お客様には、がんだなんて絶対言えないと思って、退院したらちゃんと更新にも行くからと伝えました。

1月2月3月と無事更新に岩手県茨城県福島県とやり遂げたし、新たに始めていた、障害者福祉のサービス事業の山のような書類にも取り組みました。これらがもし私の寿命を縮めたとしても、私は◯◯◯士として生きるモチベーションでした。お仕事の依頼を受けることができるのは、本当に有難いことです。出来る限りは、やろうと思います。

再発したら、半年だって、サバイバーブログにありました。常に覚悟がいるんだね。私は、何より、虎ノ門病院に通院していたことで、救われました。運が良かったです。ではまた。


虎ノ門病院か、たしかに、腹腔鏡手術のメッカだし、、

全くの門外漢だが、病状の推移が気になる。

さぁ、明日は、、わがC型肝炎の千秋楽、国府台病院の診察日だ。

突然の逝去

1.元公認会計士のエミコさんから、Facebookでコメントがあった。10月7日に、母親が急逝したという報せ。前週まで元気だった。心不全と肺炎が死因だったという。

2,阿佐ヶ谷の方に住んでいる。ここ何年も、エミコさんに会っていないが、心痛はいかばかりか、、相方の男性がいるから大丈夫だとは思うが。

3.そのFacebookを見て、井筒俊彦のCDを途中でやめたが、、「存在とはコトバである」が、その講演の結論だ。高野山、真言宗の本拠地で講演された、まことに不思議な人だ。



脳梗塞の人

1.きのう、ある会合でキクチさんにお会いした。67歳くらいだと思う。階段をゆっくりおりて来られた。血色はいいが、口もとに、チックというか、揺れがあった。

2.わたしを見て「おぉ、元気になったな」とキクチさんは言われた。6年前、2010年5月に直腸がん手術した日から5日後の日曜日、デグチさんとお二人で、忙しい中わざわざ、五反田の関東病院まで見舞いに来てくださった。ありがたかったし、恐縮もした。

3.病院の談話コーナーで、キクチさんは、直腸がんとわかった経緯やステージのことなどを細かくたずねられた。がんに対する恐怖心の真っ只中にいたことから、少々、疲れた記憶がある。それでも、たんたんとお応えすると、キクチさんは頭の中で反芻するような眼の動きをされていた。自分に引き寄せて考えているような印象をもった。

4.ちなみに、その日前後して見舞いに来てくれた、大腸がんサバイバーの役者、山本龍二のコトバが一番、こころに響いた。

「いまさらだが、知っての通り、おれはむかしから、おまえが信じる宗教は大ッ嫌いだし、それは今も変わりはない、、だがな、、ここはその、おまえの信じるところのものを真剣に向かい合って、徹底して、やれ、、その気持ちをおれは応援する」と、わたしの顔をマジマジと見ながら、そう言ってくれた。

5.わたしは「このたびは、なんだか不思議なことを言うな、けど、ありがとう、その通りだ。この直腸ガンの災いを、千載一遇の気持ちで、やってみるよ、ありがとう」と応えた。たぶんそれほど、わたしは悲愴な顔を、そのとき、していたのだろう。

そうして、、山本もわたしも、大腸がんは克服した。
幸いにして、二人とも、転移は全くない。

6.戻る。その後、キクチさんは脳梗塞だったと木村さんが教えてくれた。発症したとき、木村さんが面倒をみたようだ。キクチさんは独身なので、緊急連絡先は木村さんになっていて、後見人ではないが、そのような役割り担っていた。

わたしは「キクチさんは、血圧が高いんじゃない?酒も飲むんじゃない?」と木村さんに尋ねると、「そのとおり、血圧が高いし、酒はやめられない。酒がある意味、麻薬になっている、なんか言ってください」と。

アルコール依存と高血圧の、典型的なてん末だな、、

脳梗塞の中でも脳内の細い血管がだんだんと詰まり、その後に機能しなくなった脳組織の一部が小さく空洞化する「ラクナ梗塞」と呼ばれるもの。徐々に進行し、患部が小さいために発症した時点では発見されにくいという病気かもしれない。

以上、上記の人たちは、みな中年男の話で、女性は出てこない。

6年のうちに、人生はさまざまに、変容するものだ。

J ポップの神はコーラスにやどる

1.石原さとみさんが主役の「校閲ガール」を見ている。会社にいた頃、よく「トル」という訂正をやったな、と懐かしい。がドラマではなく、短いオープニングの曲がユーミンの「12月の雨」がかかる。ユーミンの声でなく、カバーでかかる。それがいいのだ。さらにいえば、コーラスが心地よく響いてくることと言ったら、いささか驚いた。



あぁ、おれはユーミンの影響は受けている。昔、バックステージで「四十、五十は鼻垂れ小僧」とユーミンは言っていたな、、

2.ニューミュージックは70年代に始まるが、その先駆けは、間違いなくユーミンだった。「あの日に帰りたい」のイントロのコーラスは強烈な印象をもった。何か違うものが現れたぞ感があった。

3.そうして「12月の雨」のコーラスは、山下達郎と大貫妙子がやっていた。最初の仕事はコーラスだったと山下達郎は、こう言っている。

私は20代、1970年代は、コーラスのスタジオミュージシャンをやっておりましたので、ほんとにたくさん、いろいろな人をやっておりますが、そのコーラスの仕事がたくさん舞い込んでくるような一番最初のきっかけは、ユーミンです。

ユーミンのミスリムというセカンドアルバムのコーラスをやらしてもらいましてですね、そこから”コバルトアワー””14番目の月”という3枚やりました。
そのあとの"流線型”とか、そういうとこで何曲かやらしてもらってます。

このユーミンのレコーディングに参加させてもらったお陰で、そうした当時のニューミュージックなんていう言葉も出始めましたが、日本のフォークとロック、そうしたスタジオ仕事をずいぶんやりました。

クレジットが入ってないものまで含めますと、割と有名なところですと山田パンダさんの"風の街”とか、あとかぐや姫の伊勢正三さんがつくった風のファースト、セカンド。

それから丸山圭子さんとか、そういうところはクレジットが書かれてなかったりしますが、そういう処も含めまして、あとはティン・パン・アレイ系とか。細野さんとか、大瀧詠一さんとか、そういうとこはずいぶんやりました。

でもそういうコーラスのスタジオ仕事が来るようになって、一番、きっかけの仕事、それと自分にとって一番印象に残っているのはユーミンのミスリムというアルバムです。”12月の雨”なんて、ありますが。


3.Jポップの真骨頂は、バックコーラスにあらわれるのだ、、わたしの場合、感動はコーラスの響きから来る。ハイファイセット、杉真理、須藤薫のコーラスが好きだ。

ギリアドのCM

1.最近、ギリアドのCMを見かけるようになった。アッヴィは高畑淳子さんが出ていたが、ギリアドは普通の家族が歩いている光景で、跳ねたり背伸びしたりでなく、たんたんと普通に治る時代の到来を告げていて、好印象をもった。

2.ハーボニーの販売開始から1年後にテレビでCMを流す。薬効のエビデンスがハッキリしてからの広告は、自信のあらわれだろうし、受給バランスを考えた戦略だったろう。まだ数十万人の潜在的な患者はおられるわけで、マーケティングの王道として賢い、、が、これからが本番だろう。

2-1.たぶんだが、、このブログをやらず、akioさんをはじめ肝炎のお仲間のかたがたと交流していないでいたなら、、今回のCMで、ようやく事態の革命的な進展を知ることになったのかも、、だがそれだと、手遅れになっていたかも知れない。

3.Amazonで購入したモートン病 対策のインソールをMBTの靴に入れてみた。歩き出すと、右脚の土踏まずの右上が痛むが、だんだん痛気持ち良くなった。足が喜んでいるのか、ずっと歩いていたくなった。もしかすると、モートン病は克服できるかもしれない。普通の靴用に、もう一つ、そのインソールを買うことにしよう。

4.断想03 思い込みと直観との違いは微妙だが、透明感があり、解像度の高い思い込みは、直観に限りなく近いのではないか、、ただ出来事と直観の間にはタイムラグがあるので、さしあたっては思い込みと片づけてしまっていないか、注意深い眼で、ありたいものだ。

油断大敵のSVR

1.今朝、のどの痛みがつらくなった。風邪だ。体温は36.9だが、祭日も診療する南町医院へ、昼ちょっと前に行った。受付で、猫好き看護師のKさんが、「また終了まぎわね」といわれだ。久々に行ったのに、「また」といわれてしまったが、あいさつと受け止めた。

2.血圧計と体重、身長を測定。数値は正常だが、身長はやっぱり縮んでいる。骨粗鬆症を疑う。

2-1.測定器のそばに簡易ベッドがひとつあった。昔、勤務先から戻った18時ころ、そこに寝ながら強ミノをうってもらったことがあった。けん怠感を払拭するには強ミノが一番だったが、うったあと急激に眠くなるので、そこで30分くらい眠るのだ。目覚めると、スッキリ心地よくなっていた。長い歳月、そうした治療をして、耐え忍んだなぁ、と感慨深いものがあった。ホント、おれはヨク頑張ったな、、

3.永田院長の診察。C型肝炎ウィルスはSVRになったからといって安心してはいけない。また出てくることもあるから、と言われた。検出限界以下でウィルスは生息しているかもしれない、だがら定期検査はぬかりなくやりなさいたと言われた。エビデンスはまだないわけだからと。

4.背だけでなく、眼球も老化で縮む、らしい。街をあるけば、たしかにご老人の方々は小さく、丸まって見える。他人事ではなく、自分に引き寄せて捉えないと、、当面は、今の身長をキープしよう。

井草八幡で、第1回 遅野井薪能

1.能を見た感動は続いている。古典の力か、時間がたつにつれ、通奏低音のように深く響いてくる。国費をかけて、能を守ろうとしているこの国の意志は、わかる気がする。能は日本文化の結晶に違いない。

2.今月30日、「熊坂」を、西荻窪の井草八幡宮の神楽殿で、薪能として行われることを知った。昨日の国立能楽堂で、そのチラシを手にしたのだ。最初は再び行こうとは思わなかったが、今は、行きたくなっている。

3.井草八幡宮は、大学のときの民法ゼミ、宮崎俊行先生の本家だ。なので井草八幡宮に行って、本殿や郷土資料館みたいな建物にも入ったことがある。帰りには、西荻窪駅前のこけし屋でご馳走していただいたな。宮崎先生は88歳になられているはず、ご存命だろうか、、

そういえば、高校の同窓生、大岡夫婦の結婚式は、たしか、井草八幡宮だったな、、

さらに、105歳になられている?と思う安藤久蔵さんのコーヒー豆を売る店は、井草八幡宮の近くだったな、、

4.井草八幡宮は、今、パワースポットになっているらしい。たしかに木々が鬱蒼としていて、いい気が流れているのかもしれない。そこは、昔は遅野井という地名だったようだ。遅野井の名は、源頼朝による奥州藤原氏征伐のときの出来事に由来するらしい。熊坂は義経の話がベースにあるわけだから、因縁浅からず、でいいかもしれない。。たぶん予約する。全席自由で3000円なら、ヨシとしよう。今度は前の方で、見たいものだ。

追記、宮崎俊行先生は、検索すると、2004年3月に、追悼号なる論文集が出ていることから、その前年あたりに鬼籍にはいられたのかもしれない。享年は75歳くらいか、、1970年代に玄米食をとられていたような、かすかな記憶があるが、、まったく、師恩に報いていないな、、俺は。大学の創立者と生年が同じ昭和3年、西暦1928年1月10日のお生まれだったと思う。創立者と同じように、ご存命と決め込んでいた、ということは、ご専門の農業法学者として、TPPのクビキも東日本大震災も、ご存知ないまま逝かれたのか、、

なんだか、ショックだ。風邪をひいたようだ、ノドが痛い。

能を観る

1.今日、これから国立能楽堂に行く。61歳の人生で、初めてだ。小林秀雄は、太平洋戦争の日米が開戦した1941年12月8日に、一人で能楽堂に行った、、そうでもしなければ、いたたまれなかったのかもしれない。まだわからないが、幽玄を堪能したい。

2.能楽堂から帰ってきた。いやぁぁ、じわじわと感動するものがある。狂言は野村万作、練馬区の人だ。かつて狂言は北町中学校の体育館で見た記憶がある。太郎冠者、次郎冠者が出てきていた。そのとき演者は、たぶん野村家の人たちだろう。

3.新鮮な驚きは、能の「熊坂」(喜多流)という演目だった。作者は不明。観阿弥、世阿弥しか知らないが、どちらでもない。誰だか知りたくなる。これは、義経に切られて、63歳で死んだ盗賊、熊坂長範の怨霊の話だった。調べると、あらすじは

都の僧が東国への旅を志し、都を出て美濃国(岐阜県)赤坂まで来たとき、一人の僧に呼びとめられます。そして、今日が命日の者のために回向をしてくれと、草原の中の古墳に伴われ、その僧の庵室に案内されます。みると、その庵には仏の絵像も木像もなく、大長刀や武具が並べられているので、不審に思って尋ねます。すると、この辺りは山賊夜盗が出るので、通行人の危難を救うための用意で、この土地では頼りにされていると答えます。そして、「お休みあれ」と何処ともなく去って行きます。

4.能楽堂は、抑制のきいた倍音の世界だった。歌舞伎の音ではない。観客の年齢層は高いが、演者の声や、笛、太鼓、鼓の音を堪能しているのだ。

5.さらに驚いたのは、座席の前に、iPadサイズの液晶画面があり、地謡8人の歌詞?が表示されるのだが、
「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」
「声仏事をなす」とうたうのだ。わたしの鍵コトバが突然現れたので、画面に近づき、、いや参った、ビックリした。正確にはこうだ、、あとで転載

6.次に、いつか観たいのは、世阿弥の「鵜飼」だ。

今は底にいる。

1.今月20日に国府台病院に行く。前回7月の、ハーボニー終了後24週のHCVの検査結果を知ることが、一番の関心事だ。12週目でSVR12になったことで、村田先生に祝福の握手をしていただいたが、、25年にわたる肝臓病の重さ、引きずるような心持ちから、SVR24でないと、納得できないものが、どうしても、、あるのだ。

2.このところ、振り返って、茫然としてしまうことが、たびたびある。つくづく思うのだ、25年間は、実に、長かった、、と。

季節変動に呼応し周期的にやってくる全身倦怠感、会社の中でのやり甲斐の揺らぎ、年々、バツ評価が上書きされていった。

とりわけ、人事権を握るフジバヤシ氏との戦いは熾烈だった。大勢の前で罵倒されたこともある。同氏の不正を糾弾したからだ。互助会の金を怪しい運用に回し、8百万円という大きな損失を生む可能性がある仕事を課され、事務局として、その尻拭いをすることになった。確認作業で、彼は怒り出した。わたしは驚き、沈黙した。わたしはヒラだったが、従順でなかったので、さぞかし、疎ましかったのだろう。運用方法をどうにか損失を数万円に決着させた。妙な嫉妬も感じた。

だが、ささやかなショーシャンクの世界がおとずれた。同氏が出向元に戻されたのだ。その翌朝、それを差配する豊田社長と、会社のトイレの鏡の前、互いに万感の笑みだった。釣りバカ日誌のような関係で、「今日は、空がすみわたって、いい天気ですね」とわたしはごあいさつをした。全て分かっていただいていた。まことに、奢れるもの久からずだ。その朝のことは一生、忘れない。社長に深く感謝。もう記憶のなかだけだが、、豊田さんは達者にされておられるだろうか。その会社のことは、人もふくめ、音信はないから、わからないでいる。

その、映画「ショーシャンクの空に」で、仮釈放を何回も却下された男(モーガン フリーマン)が老境になって赦され、出所するが、シャバに馴染めず、虚無感にとらわれるシーンがあった。とりわけ、先に仮出所した仲間が、部屋で首をつっているのを知ったときの、どん底の感じが、記憶に残る。

3.わたしの場合は、そのモーガン フリーマンの虚無感と重なるものがある、と感じている。。たしかに、SVRは目出度いが、失われた25年間は、いったい何だったのだろうと。ハーボニーは、病歴を短く、サッと治ることを可能にしたが、一方で、こうした機会損失のような、喪失感があるのは、わたしだけだろうか、贅沢な憤りなのか、、

4,ペットロスのような、、HCVロスがあるのか、病気快癒なのに、、いま、わたしは、どん底にいる感じだ。家内は、わたしの病歴など眼中になく、痛烈に、理詰めで攻め立ててくるし、、

5.別件、実家が全焼になった人の話、、不思議なこと、つぎの揮毫だけが、焼けずに残っていたと言われた。

この一年
太陽浴びつつ
朗らかに
巌窟王の
如き舞台を


巌窟王は、たしか出獄後、牢獄で出会った老人の話によって財宝を手にするが、SVRを手にした私に、財宝にあたるものは何か?

健康という宝か、、それ以外にも、何かあるはずだが、、

6.断想02 リマインダーを工夫して、使い込もう。脳の一部にするのだ。

天才と瞑想と呪文と

先般の井筒俊彦全集記念講演会で尋ねたかったことが、ようやく思い浮かんだ。

1.どうして井筒俊彦は30カ国の言語を短期間にトップレベルまでに身につけることができたのだろうか。中東の言語以外は独学で、しかも原書を読みこむために学習したわけで、会話は二の次。しかも、英語やフランス語は簡単で面白くない。サンスクリット語は興味深い、、等々、ごく自然に、そう言われたのだ。

2.先日、井筒の声を聴いたが、キーの高い明るい声で、倍音?のような、響かせる声ではなかったのは意外だった。上手く言えないか、「哲人の声」には思えなかった。

井筒俊彦の声はこんな感じだ、、

3.私見だが、その天才的な言語修得能力は、井筒の父親によって培われた瞑想法と深い関係があるのではないか?若松英輔さんは、井筒邸を訪ねた際、奥様に2階の部屋を案内され「ここが生前、井筒が瞑想していた部屋だ」と話したという、、そんなエピソードを話された若松英輔さんに尋ねてみたかった。井筒さんに本として残して欲しかったのは、際立った能力を産んだ方法論であり、こころの機微だ。でも、あの三田の会場では浮かばなかった。

4.井筒の主著「神秘哲学」を踏まえ、こういう話が検索できた。上記の方法のヒントはこの本だけだろう。

井筒俊彦「瞑想の核心部分の構造」

私(井筒俊彦)はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。

彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。

 しかしながら私(井筒俊彦)は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

《もっとも彼(井筒俊彦)は、その後に父から学んだ修養法からの脱却を図ってもいる。》

西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。

《ここまでが井筒俊彦のコトバ、以下は被検索者の言葉だと私は思うが》

井筒俊彦にとっては父から学んだこの修養法は克服すべきものだったのかもしれないが、
それはそれとして、この修養法が彼の脳の力を飛躍的に高めた可能性は否定出来ない。

同じく日本史上の最高の天才といわれる空海もまた、「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれる独自の方法で能力開発を行なったことで知られている。

「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を1,000,000遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができるというもの。ちなみにその間に異性のことを考えてもいけないし、食事にも細かな制限がある。

どちらにしても、ある一点に集中するという訓練を一定期間、必死になって行うことで、記憶力が飛躍的にたかまることを示唆している。もっとも、この方法は大変苦しいもので、一説によれば死亡率が5割にもなるという。ほとんどが狂死してしまうらしい。


以上だ。
つまり、井筒俊彦は、父親の瞑想の方法を、なんだかんだ、晩年まで続けていたことになる。懐かしの「巨人の星」のような話だ。普通の人間には、そうそうマネできそうな芸当ではない。真言宗の開祖空海と井筒さんくらいの、限られた人にしかできないのではないか?ちなみに私は、空海を日本史上の最高の天才とは思わない。ほかにおられる。

5.井筒さんは瞑想だけで、呪文は唱えなかったようだが、その瞑想を通じて、脳が変容していったのでは?

6.スティーブ ジョブズは、禅に傾倒していたが、さらに晩年は念仏のような呪文、マントラを唱えていたと武田鉄矢さんが「今朝の三枚おろし」で話していた。その呪文はなんだったのだろう。

7.そこで、、念仏にせよ、題目にせよ、なぜ日本の二大仏教は短い言葉をくりかえし唱えることを修行の方法としたのか?という素朴な疑問を、実は、わたしはずっと抱いていた。チベットはマニ車を回し、日本は何かを唱え続ける。瞑想か唱えるか、、あとは比叡山の回峯行とかの荒行があるが、そんな行は、もとより庶民には出来っこないし、女性はなおさらだ。

8.柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の「念仏」の章だけ、読んだ。そのあとは気分が悪くなり、図書館に返した。まれにある身体感覚だ。10年くらい前に、練馬駅北口近くの浄土真宗の寺で、養老孟司さんの話をきいたが、その前にプロフィールを話された寺の関係者を見たとき、真っ黒な相で、相当、念仏修行された感じがして、ガクッと気分が悪くなった、、そのことを今、思い出した。

9.ちなみに晩年の親鸞の木像の写真を見たが、左右の目がアンバランスで脳に障害があったのではないか?
親鸞は90歳まで生きたが、その死は、阿鼻叫喚の形相だったという。親鸞の奥さんはその様があまりにひどいので、周囲のものには見せなかったという文献が残っている。四箇の格言の、念仏無限と断じた日蓮の言葉とおりだった。

10.さらに、、日蓮の遺文集、いわゆる御書は1619頁あるが、不思議なことに、親鸞の名前は一つも出てこない、、全くの私見だが、親鸞は比叡山の天台宗の、天台沙門になっておらず、途中で下野、還俗、妻帯したので、「卒業名簿」にはなかったからではないかと、、わたしはそう思っている。

11.戻る。井筒俊彦に対する関心は、わたしのような凡人にも、何がしか非凡へのチャンスがあるのではないかという角度から、にある。だれでも、そうなるようでなければ、ホンモノの思想ではないからだ。

変化のとき

1.日曜は長女の小学校の運動会だった。長女は応援団の一員になって青のハチマキをつけ、声を出していた。

2.夏休みが終わってから、小学5年の長女は、少女雑誌をさかんにながめ、顔にソバカスがあることを気にしだしている。

3.武田鉄矢さんの「風の又三郎」の読み解きで、小学5年と6年との違いに触れ、性の目覚めが背後にあると指摘していた。たしかに、変化はその頃だったかもしれない。

4.午後2時すぎ、叔父の相続のことで、いとこの病院へ。わたしの姉に対する贈与の件で、、懸案はまとまる。わが母にも贈与したいと言われたが、その分も姉へということで落ち着く。わたしの請求額も了解された、感謝。いとこは人間として立派だな、、姉の場合、「贈与契約書」より受贈の意思の確認書の方が、妥当と気づいた。その金額などを要求する気はない姉だったからだ。

5.それはおいといて、、叔父の肝不全について確認した。
①東大病院の担当医は、データを見るだけだったが、いとこの病院の、大先輩にあたる医師は叔父の肝臓あたりを触診してくれていたので、叔父は信頼できると思ったようだ。その気持ちは、よくわかる。
①-2.初期のインターフェロンはやったが、無効。2003年頃にペグリバをやったが4週目くらいで中止。やってもきかなかっただろう。わたしもそう思った。
②最期はアルブミンは2.0以下だった。典型的な肝不全と。
③肝硬変になると、肉類など食べてもタンパク質など分解できなくなる。その分、錠剤を与えても、まずいと言って廃棄してしまっていた。やがて骨粗鬆症にもなる。叔父は骨折もしていた。
④小さな肝がんも見つかっていた。カテーテル系の、名前はメモできず、治療で消えたが、肝硬変は回復できなかった。

6.内部に働きかける断想01として、、「もう、ねらいを定めたら、前提条件の志向やめて、直線的に動こう。恥ずかしさのハレーションは神棚に上げよう。直結とは、迂回系をうっちゃることだ!」

乾癬のこと

昨夜からDHCのビタミン剤を飲み始めた。
・ビタミンBミックス(B1.B2,B6.B12.ナイアシン、パントデン酸、ビオチン、葉酸、イノシトール)
・ブルーベリーエキス
・グルコサミン
・カルシウム

である。ビタミンCは、前からナトリウムフリーのものを飲んでいる。そのビタミンCはコーギーのモモにも朝晩、フードに混ぜて食べさせていて、、もう1年になる。おかげで白内障になるスピードは鈍化している。三石巌博士のカスケード理論が、モモに飲ませる根拠になっていて、、確信できたので私も飲むようにした。


さて、乾癬について、山梨大医学部助教 佐野信也さんの話の中で、関心がある点を以下に。

1.正常な表皮のターンノーバー40日前後に対して、乾癬は4〜7日である。、

2.結果、過剰に生産された表皮細胞が堆積し、鱗屑(りんせつ)というフケのようなものがボロボロ落ちてくる。

3.原因としては、真皮に浸潤してきているリンパ球が出す「IL17」「IL23」「TFNα」といった免疫機能に関わるサイトカインという物質が関与する。

4.サイトカインは、細胞から細胞へ情報を伝達する役割がある。これが異常に増えることで炎症を引き起こす。サイトカインが増える原因は不明。

5.内服療法として、シクロスポリンはTリンパ球を抑制する薬。エトレチナートは表皮の増殖抑制に働くビタミンAの誘導体がある。ほかに生物学的製剤が保険適用になっているものがあるが、副作用が現れる可能性あり。

以上だ。ここからは私見。

リンパ球がキーワードだと2014年に見切っていたが、今は確信になった。

あらためて私の場合は、
①インターフェロンの過剰投与でサイトカインが増大した。

②また、①ほどの確信はないが、C型ウィルスがリンパ球と共生し始め、サイトカインの増殖が恒常化した。

③2014年にシメプレ三剤投与をしたとき、乾癬の症状は①と②では異なっていて、パラレルに現れた。
①は新たな赤い紅斑が主に胸に散らばって出たが、②は前からある乾癬が広がり、鱗屑が両足、うなじ、腰から臀部に広がって、見えた。パラレル現象は皮膚科医に伝わらなかったが、わたしの認識には自信があった。

結論は、インターフェロンをやめ、またC型肝炎ウィルスが消えれば、徐々にサイトカインの増大は沈静化し、わたしの乾癬は、治癒する。今、そうした治癒の7合目あたりにいる。

わるく考えても、現状のままが続くだけで、悪化はないだろう。

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