わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
TOP ≫ ARCHIVE ≫ 2014年03月
ARCHIVE ≫ 2014年03月
      

≪ 前月 |  2014年03月  | 翌月 ≫

C型肝炎のワクチン

おとといの新聞で知ったことを
以下にコピペする。

森下仁丹は、
神戸大学大学院医学研究科感染症センターの
白川利朗准教授と共同で特許を出願している
「ビフィズス菌を応用した経口ワクチン」の
技術をもとに、C型肝炎の経口治療ワクチン候補を
開発したと発表した。

同成果の一部は、
ワクチン専門科学誌「Vaccine」
オンライン速報版で公開されるという。

慢性C型肝炎症例は、
有効な治療法の開発に向け、
さまざまな治療薬の開発が進められているが、
いずれもウイルス増殖を標的にした方法で、
患者自身のC型肝炎ウイルスに対する
特異的な免疫力を高めて治癒率の向上を図る
治療法の開発はほとんど無かった。

今回、研究グループは、
ビフィズス菌を利用した経口内服という
簡便な投与方法で、C型肝炎ウイルスに対する
免疫力を高める経口治療ワクチン候補を開発。

実際にマウスに経口投与したところ、
ウイルスに対する免疫力が高まることが確認され、
今後、治癒率の向上をもたらす併用治療薬として
実証されれば、C型肝炎の治療に役立つことが
期待されると説明している。

なお、今後、神戸大学と森下仁丹は、
動物実験により薬効・薬理試験や安全性試験などの
前臨床試験を行う予定だとしており、
独自の腸溶性シームレスカプセルに内包することで
腸への到達性を向上させ、経口ワクチンとしての効果、
利便性や保存性を高めることも検討していくとしている。

本よりノート

昨日は、武蔵野赤十字病院に行く日だったが、
すっぽかした。ある理由で、
まだ、C型肝炎治療できないとわかって
いたからだ。

このところ、Amazonで古本を買い求めている。
大根田勝美さんの二冊は手元に置くことにした。

たかが古本、チマチマした話だが、自分の回りには、
できるだけ自分の内部に直結させたいもの、
それだけを置いておきたい。
文庫本、新書本、単行本のそれぞれ
ベスト100冊をリスト化して
座右におき、適宜、入れ替えようと決めたのだ。

昔、入院見舞いでいただいた本は、
結局、読むことはなかった。
手にはとっても、一向に引き寄せられないのだ。
わが内部に火がつかないのだ。

本を読むより、前に自分が書いたものを
後で見かえすことによって、
さまざな気づきがあることがわかった。

問題解決の糸口は、わがノートの
行間にあるとわかってきた。

ノートは、日記ではない、
聞き書きとか、新聞記事の要約であったり
心をよぎる脈絡のない言葉の羅列にすぎないが、

たとえば、

百田尚樹とハイデガーは似ている、
レベルは違うが、
人となりの軽さにひきかえ
その著作は影響力をもっている、
そんなところが似ている気がする。

邂逅の歓び

家内の医療保険の引き落としの件で
今朝、電話があった。

その会社は、私が最後にいた部署を
母体とする保険代理店の会社だった。

自分が退職してから、
グループ内で、事業の身売りがあって、
自分にはもうわけのわからない組織体制に
なっているようだった。

用件が終わったあと、
どんな人がおられるか尋ねると
樋口さんの名前が出てきた。

嘱託契約で、その会社におられたのだ。
早速電話を代わってもらうことにした。

お元気な声が聞こえてきて
とても嬉しかった。

10年ぶりに聞く声、あらためて、
その声に温かみを感じた。

在籍者の異動をたずねたら
もう樋口さんしか、
知る人はいなかった。

激動の人事異動が繰り広げられたのだ
と察しがついた。

仮に私がその会社にしがみついていたら
モチベーションは保てず、
大腸がんの進行をいっそう早くさせ、
還暦まで生きていることはなかっただろう。

樋口さんもまた、安倍首相と同じ病いを
患っていたが、どうやら健康を取り戻されていた。

自分も、大腸がんを患ったが転移もなく
4年目を迎えたこと、C型肝炎は未だ
治癒できていないことを話した。

樋口さんはこういってくださった。
「キンさんがこの火災保険の儲かる仕組みを
創ってくれたのだ」と。たしかにそう言われた。

ほぼ、忘れかけていたことが、にわかに蘇り、
腹なのかを温かいものがスーっとおりていった。
感動した。

そう言っていただき、ありがたかった。

この春、10年ぶりに会うことにした。
ほかに二人を誘い、4人で邂逅するのだ。

電話して声を聞く、ただそれだけで、

縁が起きる。

挑戦は、まだまだこれからだ、、



にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

大瀧詠一さんのこと

2013年12月30日に
亡くなった大滝詠一さんのこと。。

1981年頃か、新宿ルイードで
大滝詠一さんを初めてみた。

その存在の大きさは
そのとき、知らなかったし、
実は今も、わかっているわけではない。

その夜はナイアガラトライアングル2の
佐野元春と杉真理のライブが行われていて、
その終わりの方で突如現れ、
会場は一気に盛り上がり、
いっしょに3人で歌われたのだ。。

いや、

その前に、ひっそり後ろの方で
大瀧さんはたたずんで、
じっと二人を見守るような
優しい表情で見ていた。
友人が、その存在を教えてくれたのだ。

私はけっこう大瀧さんのそばにいた。

芸能人オーラは感じなかったが、
吸い寄せられるような
ルイード全体を俯瞰する力を感じて、
なぜかジーンとした。

ほとんど何も知らない自分であったが、
ある意味、閾値を超えた人のように見えて、

その立ち居振る舞いが響いたのかもしれない。

自分の中では、なんとなく大滝詠一さんは
方丈記の鴨長明が重なる。


私がもっとも好きな曲は

「夢で逢えたら」だ。珠玉の名曲だと思う。



にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

大根田勝美さんという人

少しブログから遠ざかっていたら
コメントをくださった方がいたことに気づき、
ありがたいな、と思いつつ、最近の断想を。

本はいつも、最初は図書館から借りて
積ん読して、引き寄せられるものが
あるとサクッと読み、
要約とはいえないキーワードをノートし、返す。
しかしほとんどは、積ん読いて、返すだけだ。
それでいい。

けれど、たまに日が経つにつれ、
思い出す本が現れる。そうしたら
その古本を買うことにする、そんな流れに。

そうして今週、蔵書にした本があった。
大根田勝美著
「億万長者になる7つの鉄則」朝日新書 2013年

1937年生の100億円の資産家だ。
たしかに、あざといタイトルだが、
内容は堅実で示唆にとんでいた。

以下検索したものをコピペする。

米国・ニューヨークからほど近いニュージャージー州の高級住宅地に、2000坪の土地を持つ。約33万ドルで1984年に購入し、純和風の庭園と邸宅を完成させた。「米国で日本庭園を造るのは私の夢、誇りでもありました」
大根田勝美は、「個人資産は100億円以上」「米国で一番成功した日本人ビジネスマン」とも言われる。日本に一時帰国する時は、東京都内のマンションに住む。2年前、6億円で現金で購入した。
記者は、半世紀近く前に渡米する前後の写真やエアメールを本人や知人に見せてもらった。ピザにかじりついている26歳の大根田は、まっすぐ前を見つめている。
「ピザなんて、それまで食べたことなくて」
もとはカメラの組立工だった。中学卒業後、オリンパス光学工業(現・オリンパス)の長野県・伊那工場で働きながら定時制高校に通った。胃炎になり、胃の3分の2を切除された。
東京に転勤すると、カメラと顕微鏡の修理部門に配属された。
輸出部の大卒社員が、海外からの研修生を引き連れ、出入りした。黙々と修理し続ける工員を前に、これみよがしに英語で雑談し、大声で笑って去っていく。
「気に入らねえ」。劣等感と嫉妬心。「英語ができれば、自分だって」
一念発起して、社内の英語教室に通い始めた。だが初歩的な内容でも、基礎がないからついていけない。
教室には、優秀な人材を探す人事課員も参加していた。その目を、意識した。
「一度撤退し、1年間密かに独学しよう。みんなを追い抜き、驚かしてやる」
貯金5万円をはたき、英語学習のレコードを買った。毎朝1時間聴き、ノートに書き写して通勤中に暗記。寮の天井や壁を、英語の慣用句を書いた紙で埋め尽くした。
その間、営業部に異動し、胃カメラの販売を担当するようになった。海外駐在員になりたいと思い始めた。
1年後。英語教室に復帰した。人事課員もいる前で、胃カメラについて見違える英語で説明してみせた。”Very good!”。米国人の講師も目を見開いて驚いていた。
新婚旅行から戻った直後、人事部長にニューヨーク駐在員を発令された。
「胃カメラ販売の基盤を作ってこい」
海外駐在の中でも当時、別格だった米国駐在員の座。そこに、中卒の組立工出身として初めて抜擢された。
64年に渡米して最初に住んだ部屋は約3畳。月給は400ドル(当時約14万円)だった。
米国では胃カメラより需要の高い内視鏡に力を入れることになった。
日本人や日本商品への偏見があった時代。しかも初対面で多忙な医師に、短時間で強烈な印象を与えるにはどうすべきか。そう考え、自らの胃の手術跡を見せもした。「若い時にこの内視鏡があれば、僕の体はこうならなかった」と。事業は軌道に乗った。約10人の部下を抱えるようになった。
米国で5年目の春。東京にいる同年齢の大卒組は主任に昇格したが、好成績を残している自分には何もなかった。
「どんなに頑張っても、中卒入社というだけで報われないのか」。絶望し、退社を決めた。

再び頭をもたげた「大卒」へのコンプレックスと反骨心は、幼いころの記憶に根ざしていた。
集団疎開先の伊那で、父親は身寄りも仕事もほとんどなかった。「自分で稼ごう」と小学校の登下校中、道に落ちているガラスや銅線などを拾い、換金した。高校に行けなかったのも経済的理由だった。
終身雇用が当たり前だった時代。慰留されたが、翻意はしなかった。
退社後は販売代理店を立ち上げ、オリンパスと契約。売り上げの10%が報酬の契約だったが、好成績でも報酬率が引き下げられた。5年目で関係は破綻した。
数カ月後。米国への本格的な進出を目指していた医療機器メーカー、町田製作所から声をかけられ、合弁会社を立ち上げた。この合併会社は4年半後、米国の内視鏡販売で出遅れた大手光学メーカーの旭光学工業(後のペンタックス、現・HOYA)の傘下に入り、旭光学とは新たに合弁会社を設立した。
当時、日本ではまだM&A(企業の合併・買収)への関心が低かったころだ。「せっかく立ち上げた会社を、なぜ売ってしまうのか?」と不思議がられた。

「会社とは経営するものではなく、売るものだ」。それが大根田の信念だ。「一つの会社を作り上げる力と、大きくするノウハウは別」なのだという。
そんな中、大根田のその後の人生を決める出会いがあった。75年、ボストンで開かれた内視鏡の学会に190cm、100kgはあるという「岩がそびえ立つような」巨漢が現れ、握手を求めてきたのだ。
ユダヤ人のルイス・ペルと名乗った。ウォール街で名をあげたトレーダーだったが、オイルショックなどで株から足を洗っていた。医療機器界で知られた大根田と組もうと、売り込みに来たのだ。町田との合弁会社の販売員として契約したところ、頭の回転が速く、カリスマ的な話術や先見の明もあった。
「こいつは単なるセールスマンで終わらないな」。ある日、新会社の副社長への昇格を打診した。二人三脚が始まった。
ペルには誕生日に高級車を贈ったこともある。「感謝は言葉だけでなく、ちゃんと形にして示すことが大事」
80年代に入ると、ペルは副業として「起業サポートビジネス」を持ちかけてきた。医療系の新しい機器のアイデアを持つ人物に接触し、資金や人材を集めて起業させる。出資の見返りに株式を安く取得。事業が順調にいけば、大手企業に買収され、大金が転がりこむ仕組みだ。
大学の心臓内科医がカテーテルの針状の先端を曲げられる発明をしたという情報をつかむと、大根田とペルはそれぞれ基礎資金として15万ドルを出資し、商品化のための会社を立ち上げた。4年後には500万ドルの売り上げを記録。大手会社に買収され、投資した15万ドルは40倍の600万ドルで戻ってきた。
別の会社には設立時に25万ドルを出資し、その後、米最大手のジョンソン・エンド・ジョンソンに吸収合併された。3500万ドル超の持ち株売却益を得て、元手が140倍になった。
いずれもペルが見つけてきた話だった。ペルの人や商品の情報網と、大根田の資金収集力や会社を立ち上げる技量。その相乗効果が、巨富につながった。
今も日米の医療系の企業に、1億円単位で分散投資している。「小さくてもいい物を見つけて育てている。収穫は大きいと思う」
妻が4年前に体調を崩したのを機に、会社組織からはすべて退いた。「心労をかけ続けた罪滅ぼしに、これからは一緒にゆっくり過ごそう」。庭園の一部を有機農園にしてキュウリやトマトなどを栽培し、料理している。

以上、、わたしは億万長者に関心はない。
時流がよかったこと、
自由診療の米国だからこそ
巨富の端緒がつかめたのだろう。

そのことより、
ストリートスマートという言葉を知ったことが
大きい。それは、

自分の置かれた環境を徹底的に観察しつつ
具体的に変えていく方法を見つけていく力、
実人生の知恵をさす。

その反対概念はアカデミックスマートだ。
学者の知識ともいえよう。

すごく合点がいった。
ジブリの鈴木敏夫氏は、大学4年のとき
そのまま学者の道を選ぶか 迷ったときに
友人から「おまえは実人生をすてるのか」と
言われ、ハタと気づき、
徳間書店の入社試験を受けたという。

その後鈴木さんの仕事は
ストリートスマートそのもの、
生きる羅針盤は加藤周一だった。

これは、マイ100冊新書の一つにする。

さっき木村拓哉の宮本武蔵の前半を観た。
大根田さんはある意味、武蔵に似ている。
けど大事なのは、対極にいる「又八」という男であり、
多くの男の人生は武蔵より又八に近い。

読み手の心が、又八から武蔵に、
振り子のように、右往左往する心の機微を
原作者吉川英治は意識していたに違いない。



にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村

不妊治療の名誉院長の逝去

昨日、ふと新聞で、
67歳で亡くなられた新宿にある不妊治療の
第一人者であったK名誉院長の訃報記事が目に入った。

長期療養しているらしいことは聞いていたが、若い死だ。

8歳になる長女のことで、2005年2月
お世話になったお医者さんだった。

一見違う世界の人のようで、、
ドスのきいた声、恐い人相をした人だった。

採精室で30分以上悪戦苦闘して、
ようやくの思いで出てきたところを
「よくがんばったな」と笑顔で
声をかけていただいたことを、今パッと思い出した。
そのあと院長は西新宿の美しい夕陽を見つめていたが、

存外、この人はいいひとだなと感じた。感謝

あらためて思う、、
生と死は、潮の満ち引きようなものなのかもしれない、と。



にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村
訪問者数
2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
ブログ内検索
全ての記事を表示する
さらばポップアップ広告
javascript:(function()%7Bvar%20d=document;var%20e=d.createElement('SCRIPT');e.setAttribute('language','JavaScript');e.setAttribute('src','http://s6.ql.bz/~mamiya-shou/bm/invalidFloatAd.min.js');e.setAttribute('charset',%20'UTF-8');d.body.appendChild(e);%7D)();