わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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最小不幸社会

ログ入力2012/06/07

作家宮本輝は「真夜中の手紙」の中で、最小不幸社会のことを
次のように言及しておられる。


最小不幸社会」・・・。
いったい何を不幸の最小とするのか、訊いてみたいけど、
ろくな答えが返ってくるはずはないですね。

軽薄な言葉しか持たない人は、その根底に軽薄な思想が潜んでいるからです。
深く相手の身になって考える人は、ひとことの言葉が人生を左右することを知っていますから、
しちむつかしい熟語の組み合わせなんかしないのです。
ならばなぜ「最大幸福社会」を作り上げようと言わないのか。

きっと、人間にとって何が幸福で何が不幸かを考えたことがないんでしょう。



そしてこのあとに続いて語られたエピソードが心に残る

シルクロードを延々と旅していたとき、人はいったい何を幸福と感じて生きるのであろう、
というある映画評論家の随筆の一節をよく思い出しました。

タシュクルガンという辺境の町は中国とパキスタンとの国境の町でもあるのですが、
もともとはタジク族の地です。標高3700メートル。
富士山のてっぺんと同じ高さのところに、いまはタジク族だけの集落が造られています。
タジク族は遊牧民で、ラクダに乗って移動をつづけながら生活をつづけて来ました。
気質は烈しくて、いつでも刀を抜いて敵と戦うことに躊躇しないと言われています。
金髪の少女もいれば、目の青い少年もいます。
標高3700メートルの集落には夜は夏でも冷たい強風が吹き付けて、
たった一軒きりのホテルに暖房はなく、ぼくはセーターを2枚重ねてベッドに横になっていました。

すると風のなかから人間の泣き声が聞こえてきました。時計を見ると2時でした。
タジク族の女が泣きながら歩いていました。そのあとを7,8歳の男の子が追って来て、
女にしがみつきました。
母と子だなとぼくは思いました。
そして、男の子は母親の手を引いて集落へ帰ろうと促すのですが、
母親は泣きながら歩を停めようとはしません。
どこへ行くというのだ。ここから先は何もない。風の吹く大平原しかないではないか。
そう思って見ていると、母と子はともに泣きながら星のかたまりのなかに消えて行きました。
手の届くようなところに無数の星が光っていて、
まるで親子がそのなかに溶け込んでしまったように見えたのです。
しかし、20分ほどたつと母と子は手をつないで帰って来て、
自分たちの家がある集落のほうへと戻って行きました。
通りにひとつだけ灯っている裸電球の光で母親の顔がかすかに見えました。
小さな子と何か話しながら笑っていました。
男の子も30半ばくらいのその母親にまといつくようにして笑い返しました。
闇の中の、土を固めて作った家々が並ぶタジク族の居留地に消えていく母と子は、
じゃれあっている子犬のようでした。

運命の閾値

今日の国会中継をチョコっとみていて、

この国の宰相がまたも「最小不幸社会の実現」と口にしたとき
この国難という、この期におよんで、まだそのような言葉を使うかと
愕然とした。

「最小不幸社会」の定義は、それなりの理屈があるのだろが、
その言葉が国民に与える印象がいかに悪いものか、
その感受性が宰相には欠如している。

おまけに宰相は、今日の事態は自分の「宿命」だとまで言われた。

松岡正剛氏は、
生の哲学のジンメルは、決定的な「運命の閾値」という
コンセプトを持ち出し、
「個体的な主観」による認識の形成のプロセスと
「外的な出来事」による体験の形成のプロセスとの
重なりぐあいの、そのどこかに運命の閾値があると推断したと
書かれている。

これは、最小不幸社会と大震災とは運命の閾値があるとも読み取れ、
してみると宰相の宿命をあながちはずれておらず、、

言葉がもたらす因果は厳然とあるように思えてならない。

暗い宰相と対照にあるのは、

55歳、乳がんの他臓器転移により先日亡くなった
田中好子さんの、最後の言葉だ。

死してなお周囲を明るくさせようとする振る舞いに、
ただただ敬服する。

「被災された皆さまのことを思うと、心が破裂するような。
 ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです」

「私も一生懸命病気と闘ってきましたが、
 もしかすると負けてしまうかもしれません。
 幸せな、幸せな人生でした。ランさん、ミキさん、ありがとう。
 もっともっと女優を続けたかった。
 お礼の言葉をいつまでも皆さまに伝えたいのですが、息苦しくなってきました」

「天国から社会に恩返しがしたい」

・・・合掌

本多啓二先生を囲む会から2年を過ぎ、、

2009年2月1日に鷺宮高校の漢文教師であった
本多啓二先生を囲む会が西新宿で行われた。

結果的に、生前葬であった。

既に胃がんの末期で、抗がん剤を拒否し
自力で免疫力を高める努力されていたが、、

その年の暮に本多先生は亡くなられた。


昨年秋、大腸がん予後をどうするか、
思いめぐらせていたとき、
本多先生が亡くなるまでの間どんなだったか
先生と親しくしていた高校仲間Sから
聞く機会があった。

・本多先生は亡くなる半年前までは
 ジョギングしたり、
 一日何回もお風呂に入ったりして
 血色もよくお元気だったという。

・その後ものが食べられなくなっていったけど
 血色のよさは亡くなるまで変わらなかった。

・囲む会には、別の先生も見えていて
 その方もがんに罹っていたようで、
 抗がん剤をうちつづけ、
 本多先生の亡くなられた半年後に亡くなられたが、
 抗がん剤の副作用が顔に出ていて痛ましいものがあった。

・本田先生は免疫療法に関心をもっていた。

そんなことをSは話してくれた。
これを聞いた頃は、
まだミトコンドリア活性に気付いてはいなかったけれど、、

本多先生の全身細胞のミトコンドリアは増えはじめ、
体調が良くなり、がん細胞と折り合いながら、最後まで
先生のいう「グライダー飛行」をしていかれたのだ、とみる。

「囲む会」で見た本多先生の明るい表情、
それにSの話を踏まえると、
先生の体内のミトコンドリア物語がうかがい知れ、
すこぶる納得がいくのだ。

実は「囲む会」の一週間前、私は階段からすべり落ち
尻もちをつき、火花が出るほど尾てい骨を打撲した。
なので会に出たとき、おぼつかない歩き方をし
痛みをこらえながら参加していた。

打撲は、そのときすでに相当成長していたであろう
直腸がんの部位に相当な圧力がかかり、
がん細胞が破裂し、浸潤を促進させたのではないか、、
という気がしてならない。

その頃から、便秘、残便感、血便が現われはじめだした
気がするからだ。

本多先生が「囲む会」で話してくださったがん対処法は
まさに私のために話してくださったと、
縁起を感じる。

感想「体が若くなる技術」

2011年1月18日にNHK「爆笑問題のニッポンの教養」のテーマは
「ミトコンドリアで若かえれ」であった。

そこでミトコンドリア学の太田成男氏を知った。
還暦なのに、太田氏の黒髪なのには驚く。

曰く、すべての細胞に存在しエネルギーを作り出しているミトコンドリアは
「命の本質」であり、日常の心がけ次第で増強することが可能だとクイズ形式で展開する内容だった。

それとほぼ同じ内容の本が、この「体が若くなる技術」(サンマーク出版、2010年10月)だ。

体が若くなる技術体が若くなる技術
(2010/10/19)
太田成男

商品詳細を見る
 

キモになる言葉は
「がんの原因と老化の原因は同じ」

「マイルド・カップリングが活性酸素の発生を防止する」
 ミトコンドリアを包む膜の上をこぼれ落ちる電子が活性酸素を生む。そのこぼれ落ちる電子を防ぐには
 エネルギー生産を低下させて(少食)、電子のスピードを遅くするればいい。
 その電圧を下げる状態をマイルド・カップリングとい

「ミトコンドリアの量が質をつくり出す」
  ミトコンドリアの量を増やせば、マイルドカップリングの状態をつくり出せる。
 その方法は
 1マグロトレーニングをする。
 2姿勢を保つ。
 3寒さを感じる。
 4空腹を感じる。

いずれも体に「エネルギー不足」のシグナルを発することで、ミトコンドリアは増加するのだと。

ナルホド、、そこで新たに決めたことは・・・
 ・銭湯に週1回は行き、熱い風呂と水風呂を交互に入ること。
 ・立川の気圧ルームに、月に1回一日ががりで入室することだ。

エリック・ホッファーのこと

森敦のことを、日本のホッファーといってしまったので、
ホッファーの人となりを掲げておくことにしよう。

1902年ニューヨーク生まれで、7歳のときに
母親を失い、本人も失明してしまい、
15歳のときに目がみえるようになる。
その間正規の学校教育は受けていないし、
その後も図書館に通い、独学で、
数学、物理、化学等の理系の知識を身につけてしまう。

仕事は、カリフォルニアで、
農業労働に近い仕事を転々としながら、
読書に没入していった。

あるとき砂金掘りに出掛けるときに
モンテーニュをかばんの中に持って行ったのが、
ホッファーを変えた。
「モンテーニュは俺のことを書いている!」と思った。

つまり、単位とか、どこどこ大学とかなんて関係なく
ひたすら研鑽した人。

スタインベックと生年が同じなので、
あの「怒りの葡萄」の社会を生き抜き、
1964年には、カリフォルニア大学のバークレー校で、
一週間一度の学生たちとの放談講義も担当するようになったという。

ホンモノの人物だと感じる。
そのアフォリズム、警句が腹に落ちてくる。

著作の中で、一番思想的なのは「大衆運動」という本。
しかし、この翻訳のタイトルは副題であって、
原題はたしか「True Beliver」なのです。

「マジで信じてしまう人たち」とも読める。
あらゆる集団が含まれていく、、どう捉えるか、、
すごく考えさせられる本だ。

話は変わるが、今、1902年生まれが気になる。
ホッファー、スタインベック、サン・デグジュペリ、
白州次郎、小林秀雄そして田中美知太郎は
いずれも1902年生まれ、、

私の尊敬する人たちです。

森敦の言葉から導きだされた想い

作家森敦の代表作は「月山」だが、
私の場合、20年くらい前に、岩波ホールで観た映画「月山」だけで、
肝心の小説はまだ読んでいない。

雪深い山寺にこもって、狭い障子部屋の中で暮らす映像を思い出す。
当時、だから何なのコレと思って観ていた。

このときだったか、岩波ホールのロビーで、晩年の手塚治虫を見た。
数秒間、一人静かに屹立する手塚先生を見ていて、
偉大な歴史を創った人と、痛く感じ入る自分がいた。

さて、わからないながらも直観的に、森敦はただものではないと見ていた。
放浪と独学と見識の深さという点で、日本のエリック・ホッファーといえる。

そして「意味の変容」という哲学的小説は、
私小説のコペルニクス的転回を図っている。

「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。
 そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。
 境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。
 このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、
 境界がそれに属するところの領域を外部という」


世界は「世界」と言った瞬間に内部と外部に分かれてしまう。
世界を「世界」と区切った瞬間に世界は内部と外部に分かたれるが、
世界を「世界」と区切ったものにはその「世界」を世界と区切っている「境界」が見えない。
その境界線を見るためには、「世界」の外部に立たないとならないとなる。

(むむ、、やはり難しい)
そこで森敦の「生と死の境界」という随筆にうつる。以下、ほぼ書き写しだ。

・・・・
わたしは、光学工場、ダムの工事現場、下町の印刷工場など
大中小の様々な会社に勤めたが、

「ひとたび中にはいって勤めれば、
 いずれもなんら変わらぬ大きさを持っていることに気づいた。
 いずれもこの世と同じ大きさを持っていたのである。」
「これは内部と外部を分かつところの境界が内部には属せず、
 外部に属しているからである。」

「内部は、境界がそれに属しないところの領域であるから無限であり、
 無限であることにおいて同等であるものの、
 境界が属するところの領域から眺めれば大中小とそれぞれ異なった
 相貌を呈して来るのである。」 


(スゴイ、三度の転職した自分のサラリーマン生活を振り返り、強い共感を覚える)

「わたしたちの認識は、このようにしてわたしという内部に、
 外部を創造することだと言える。
 いや、このようにしてわたしは、わたしであることを証明し、
 からくもわたしであるということができるのだ」

「なぜなら、わたしたちがこの生をいきていると言い得るためには、
 わたしたちがこの生の内部にあって、まさに生の内部にあることを
 証明することでなければならない。」

「しかも、それみずからをもってみずからを証明することはできないから、
 それを証明するためには、外部をなすところの死をもってしなければならないが、
 境界は外部をなすところの死に属し、内部をなすところの生には属しない。」

「死とはわたしの生から、いずこへかと去るものではなく、
 生のほうからわたしが去られるものである。
 すなわち、境界の属せざるところの領域としてのこの生なる内部が、
 はじめてまったき世界をなすと知りながらも、この生をいきるかぎり
 死を窺い知ることはできない。」
 
「ここにおいて、わたしたちのあらゆる認識がそうしなければならぬように、
 境界がそれに属するところの領域、すなわち死なる外部を
 境界がそれに属せざるところの領域、すなわちこの生なる内部を創造し、
 まさに生の生なる内部に創造し、まさに生の生たるゆえんを証明しようとする
 試みとしての、さまざまな生死なるものが出てくるのだ。」


但し、
「いかなる生死観もたんなる生死観なるにすぎず、
 真実はただ真実らしく現われるあいだ真実であり、
 これを真実とすればすでに真実ではないということにおいて、
 哲学しようという考え方に、わたしを次第に追い込んでいったのだ。」


としめくくる。まさにソクラテスのいう「哲学は死の練習」とはこのことだ。
 
森敦の本地は華厳経であり、
同門の明恵上人が一生を通じて「夢記」を綴ったことの意義が出てくる。

夢は、限りなく死と同じ「境界の属するところの領域」にあるとともに、
夢と気づかぬ限り「生のほうからわたしが去られる」状態にほかならない。


日々の夢に立ち現われる生死観を侮ってならず、
できるだけ記録する、、その価値があると判断している。

1日1ページ記入していた闘病日誌がこのところ白紙になっている。
何を食べて、どう排泄しているとかを書いていたが、
中道治療を充実させるために、変容させたい。
そう、、夢記を入れよう。、、あぁ長い

がん術後に食べる肉について

2月末にガラッとを変えた西新宿のラーメン屋で、ひさびさ塩ラーメンを食べた。
スープは申し分ないのだが、麺の細さとチャーシューが
大腸がん予後の自分には合わないと感じた。

チャーシューは「ポニョ」に出てくるラーメンのチャーシューとソックリだった。
(こりゃ、二度は食べたくないな、、やっちゃったな、残念だ、、)

いろいろフォームをいじられた挙句、ダメになる野球選手のようになるのでは・・・
もっとも私には合わないだけで、このまま繁盛を持続してくれればいい。

斉陽先生の食事療法を踏まえ
牛肉・豚肉は2010年5月の術後から11月まで、全く食べなかった。
ただ鶏肉はときどき少し食べた。

2011年になってから豚カツを食べたくなり、
ときどきランチで食べるが、
未だに牛肉は食べたくならない。においがダメなのだ。

日々、何を食べるか意識することは大切で、
玄米菜食と納豆を食べる生活が一番体にいい。

昨日、ひさびさ納豆が食べられ、満足している。

今朝の体重は62.2キログラム、
体形は程よくスリムになり、満足している。

がん治療中に食べても食べても、ガリガリに痩せてしまう現象を「悪液質」と呼ぶらしいが、
私はそうなっていないし、そうはさせない。

華厳経が気になる

交換神経より副交感神経の方が、
日々の生活リズムを支配しているせいかもしれない、、
このところ自分の見る夢が気になっている。

死により夢がリアルにと、逆転するのではないか。

鎌倉時代の明恵上人という僧侶は「夢記」を残している。
先日、放送大の特別講義で、ユング心理学の河合隼雄先生が、 
明恵上人を熱っぽく語っているのを、たまたま見ていて、、感動した。

あぁ「箱庭療法」は華厳経だなと感じた。
明恵上人は華厳経を本地とする人だ。

韓国仏教の大勢は華厳宗でることも、
今日、五木寛之のBSアーカイブで知った。

華厳経のエッセンスである華厳経唯心偈は次の通り
次の通り。

心如工畫師  畫種種五陰  一切世界中  無法而不造。
如心佛亦爾  如佛衆生然  心佛及衆生  是三無差別
諸佛悉了知  一切從心轉  若能如是解  彼人見眞佛
心亦非是身  身亦非是心  作一切佛事  自在未曾有
若人欲求知  三世一切佛  應當如是觀  心造諸如來

 
心は工みなる画師の、
種々の五陰を画くが如く
一切の世界の中に、法として造らざる無し。

心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。
心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。

諸仏は、悉く一切は心より転ずと了知したもう。
若し能く是の如く解せば、彼の人は真の仏を見ん。

心も亦た是れ身に非ず、身も亦た是れ心に非ざるも、
一切の仏事を作すに、自在なること未曾有なり。

若し人、三世の一切の仏を求知せんと欲せば、
応当に是の如く観ずべし、心は諸の如来を造る、と。


これを現代訳にすると、、

心は、巧みな画家が、〔物質・感受・想念・意思・認識という〕さまざまの五陰〔から成る人〕を
描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。

心のように、仏もそうであり、仏のように、衆生もそうである。
心と仏と衆生との三者には、区別はない。

仏たちは、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っておられる。
もしもこのように理解することができれば、その人は真の仏を見るだろう。

〔だが、その〕心は身ではなく、身も心ではない。
〔しかも両者は、かかわりあって〕いまだかつてなかったほど自在に、一切の仏事を行う。

もしも人が、三世の一切の仏を知りたいと思うなら、このように観察すべきである。
心がもろもろの仏を造る、と。

そして、、

池の蓮の葉にころがる丸い水滴ひとつにも、外部の全世界が映し出されている、
とその経典は説く。


今、イメージしていることが茫漠としている。
だから一瞬の気になる言葉をメモしておきたいのだ。

現代では、作家森敦の「意味の変容」は華厳を敷衍した話にほかならない。
「内部と外部に分かつところの境界が、
 内部には属せず、外部に属している。

 内部とは境界がそれに属せざるところの領域であり、
 外部とは境界がそれに属するところの領域であある」と。

「私たちの認識は、わたしという内部に外部を創造することだと言える」

そこで、次回は森敦の思考を追跡してみたい。

ところで、われわれ多細胞生物の、細胞とその細胞内ミトコンドリアは互いに
内部と外部をどのように認識して共生、進化してきたのだろうか?
 
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