折れない心=レジリエンス日記「これからが今までを決める」1991年から25年にわたるC型肝炎と乾癬の闘病を、そして2010年の直腸がんをと、その三病を完治させた楽観主義者の自立ノート

身体「毎日1兆が生滅する60兆の細胞」の司令塔こそ、究極の主治医と見なして、アッパレ!100歳をめざし三病息災・健康長寿をもくろむ、具体の内部生命論です★
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司馬遼太郎と梅原猛の対談その1

二人は1970年1月に対談をした。それをそのまま全文を載せておきたい。ちなみに、
司馬遼太郎 1923年8月7日生〜1996年2月12日死
梅原猛 1925年3月20日生〜

対談のタイトルは「西洋が東洋に学ぶ時代」とある。文春文庫の「司馬遼太郎対談集 日本人を考える」に収められている。

司馬遼太郎
坊さんの話、今日はひとつ、それをいかがですか。仏教とか宗教というと、あまりわれわれの生活に関係がないようにみえますけれども、実は大ありかもしれません、創価学会といったふうな思想なり勢力なりの問題もありますし、、、


梅原猛 ええ、ええ。

司馬遼太郎
なんですか日本も含めて世界的に原始仏教の研究が始まっている、つまりサンスクリット語の仏典は残っていないにしても、それに近いチベット語の教典に当たって原始仏教をきわめようという動きが始まっているそうですけれども、そういう動きはいったいどこからきているのでしょうか。


梅原猛
やはり新しい価値体系というか、新しい原理が世界的に模索されているということでしょうね。日本の場合でいうと、明治百年の間、西洋文明の輸入に全力をあげてきた。けれども、ここへきて西洋文明そのものに行き詰まりができている。私、最近ハワイでおこなわれた学会に出席して、何人かの西洋の思想家と話す機会をもったんですが、西洋人自身が西洋文明の行き詰まりをつよく感じているんですね。近代合理主義でもやっていけないし、キリスト教でもやっていけない、、二重の懐疑に襲われているんです。

私の研究発表のとき、西洋人から、キリスト教の神はクルーエル(残酷)な神ではないか、という質問があった。私もそう思うが遠慮して黙っていた、といったら大笑いになったんですよ。

いまは日本を含めて世界的に新しい文明の原理が求められつつある時代だと思うんです。この前の、(司馬遼太郎さんと)と梅棹さんとの対談では、無思想時代がやってくるとおっしゃっていたけれども、無思想時代になるとぼくら哲学者の商売があがたりになって困っちゃうわけで、、(笑)

水平思考は逆輸入

司馬遼太郎
うん、あれは付帯説明が要ります。



以上、その1。つづきは明日。
1970年は、大阪万博があり、三島由紀夫が割腹自殺した年だ。11月25日の昼頃か、私は自分の高校の図書室にいて、突如校内放送で、「いま三島由紀夫が自決しました」という声を聴いた。隣にいた生徒が「あぁ、やっちゃったか」とつぶやいたのを覚えている。

司馬遼太郎と梅原猛 対談その2

水平思考は逆輸入

司馬遼太郎
うん、あれは付帯説明が要ります。いままでのさまざまな着色レンズ、、思想というかイデオロギーというか、、をいったん蹴飛ばして複眼で見なければ、いまの文明の段階はわからないという意味です。本当にわかりません。しかし複眼でみるといまの文明は地獄であったりする。

この地獄は複眼で直視しなければいけません。しかし直視しただけでは問題はどうにもならない。極楽をどう幻想するかという問題がつぎにはじまらなければならない。極楽というのは、この文明を救済する原理もしくは思想の意味です。


梅原猛
西洋でも、これまでの自分たちの原理に不十分なものを感じて、いままで無視していた他の文明の原理を考え直してみようじゃないか、という動きが強い。そこから仏教やヒンズー教に盛んな興味をもつ人が多くなった。いまや逆に西洋の方が東洋の遺産を吸収しようと真剣ですよ。たとえばいま流行のデボノ博士の水平思考法なんていうのも、もとはといえば鈴木大拙さんの書物からヒントを得ている。それが逆輸入されて日本人は喜んでいるわけで、、

司馬遼太郎 ほう、それは面白い。

梅原猛
日本はいま文化的に、非常に有利な条件にあると思うんです。つまり、日本は西洋文明を百年の努力によってかなり理解できる。
と同時に東洋文明も、聖徳太子以来の先人の努力によって、これまたかなりの程度理解できる。

二つの文明を支えてきた原理を土台に、人類が新しい文明の原理を模索して行こうとしている時代に、両方かなり理解できる日本は非常な文化的チャンスに恵まれていると思うんです。

司馬遼太郎
なるほど。そのチャンスを生かすためには、既成の仏教団にここらで一度、店を閉めてもらわないといけませんな(笑)

たとえば私、どう考えてみても禅というのは天才のための道だと思うんです。十万人が禅をやって一人ぐらいが悟りに入れるように思うんで、やたらと禅をやれやれと宣伝すべきものではない。あとの普通の人間はもとの木阿弥、それどころか、もとより悪い人間になるんじゃないか。なにかそういう毒素みたいなものを、禅というのはもっているように思います。

新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶん会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないかと思うことが多かったです。禅宗に多少関係したことのある友人の作家に、禅をやって悟っているの十万人に一人ぐらいじゃないかと聞いてみたら、いやそれより少ないんじゃないかといっていましたが(笑)、禅というものを、きわめて毒性の強い、天才のための道だという風に覚悟をきめて見直す、それには既成のお寺さんにはいったん店を閉めていただく、そうしないといけないんじゃないか。

禅だけでなくお念仏ならお念仏で、だいたい仏恩報謝、お念仏を唱えさえすれば救われるなんて、僧侶のほとんどが信じちゃいませんでしょう。これは本願寺でもどこでもそうですけれども。


梅原猛
よく坊さんに頼まれて講演にいくんですが、坊さんよりも信者の方がずっと熱心にこちらの話を聞き入れてくれる。子どものころからお寺の裏を見ているとああいうことになるのかどうか。頭のいい坊さんになればなるほど割り切っていて、「どうせ仏教はもうダメですよ」なんていっている。ダメなら坊主をやめればいいと思うけれども、、、(笑)



司馬遼太郎と梅原猛 対談その3

坊さんは柄が悪い

司馬遼太郎
日本人の伝統的な精神生活が、そういう職業人の手に握られていることは、さっきおっしゃった新しい原理の模索という上で、非常な障害になりますね。



梅原猛
坊主の子が坊主になるという世襲制が最大の悪をなしているんです。この間東本願寺の騒動(大谷光紹神門の管長就任をめぐる紛争)も結局それですよ。血の原理だというけれども、親鸞が説いた原理にそんなものはない。野垂れ死にしてもかまわんというのが親鸞の考え方ですからね。

坊主の子でイヤイヤ坊主になっているのが多い。おまけにその世襲制が人材の流出を阻んでいる。ぼくのところへ来る若い人で宗教的情熱に燃えているのは沢山いるんだけれども、そういう人材をはじき出しているんですね。とにかく坊主の子が坊主になるという世襲制をやめない限り、まずダメですな。

司馬遼太郎
ダメでしょうなあ。坊さんがテレビに出ているのを見ても、どうも品が無いというか、柄が悪い感じですなあ(笑)

本願寺あたりの宗会議員の選挙帳簿なんかの顔写真の羅列をずっと見ていくと、どうもいい顔が少ない。警察の手配写真みたいな(笑)そんなことをいうと叱られますけれど。世襲寺では無気力な子どもできると、これなら飛び出さずに寺を継いでくれるだろうといって、家族もよろこび、檀家もよろこぶ。気力ある若い人は外へ飛び出したがる。たまに気力あるのが寺を継ぐと、エネルギー のはけ口にこまって、教団内の宗政の方に興味をもつ。現状はそうじゃないでしょうか。


梅原猛
小さな寺を継いだら一生そこの坊さんでいるわけで、宗政でもやらんことには他にエネルギーのはけ口がないんですよ。陰の政治家になったりしているのをみると、才能の浪費、もったいないと思いますね。

司馬遼太郎
新聞の見出し式でいえば、「法灯ゆらぐ」といったふうのお寺騒動がありますけれども、あれに首をつっこんだら四十すぎて道楽と同じでおもしろくてやめられんそうです。だから東本願寺の騒動みたいなことが起きるわけだし、いったん起きると精力的につづいちゃうんです。

話はかわりますけれど、ときどき変だなと思いますのは、たとえば金閣寺なら、金閣寺というのはだれのものだろうということです。そこへ見物にいくと、何百円かの奉納をっせられるでしょう。銀閣寺などは写真をとっても金をとられる。

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2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
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