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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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Negative Capabilityと中動態と

時間に追われ、ここに書き込むことが億劫になっているが、放置もしたくない。

掲題の最初の英字とちょっと前に知った中動態は、重要な結びつきがあると思い、メルクマールとして、そう書いておきたかった、、だけだ。

4月16日か、パリのノートルダム寺院の火災は衝撃的で、、日本なら法隆寺が燃えるようなもので、なんとも、、人は茫然とするばかり、だろう。

「遥かなノートルダム」を書いた森有正が、塔の崩壊を知ったとしたら、
彼の「経験」はどう「変貌」したのだろう。上っ面な悲しみではないのでは、、

大聖堂の火災で森有正を想起する人は、何人いるのだろう。キリスト教徒だけは思い浮かべて欲しい、、なと。

森有正のキーワードは「経験」だが、今あらためて、わたしは「体験」が性に合っているとわかる。経験か体験か、あの頃よく自問していたな、

中動態は、長く時間のかかる体験といっていい。それはNegative Capabilityと通底する。

不治の長患いの場合は、とくに、
やり場のない混沌に、、
宙ぶらりんの状態に、
ひたすら耐えるしか、ない。

ただし、だ。
耐えることに深い意味を感じ取り、臨む

それしか、普通であるわたしたちには
できない、、のだ。

きっと、それが、人間性の究極のあり方、、なのだろう。掲題の二つの言葉はそう暗示させてくれる。

能動態でもなく受動態でもなく、
中動態という言語表現があったことを知った今、なるほどサンスクリット語は中動態
が主軸になっていたのだと、合点がいった。


ともあれこんな感じで、さらに一層、断片的に書くことになる。

ここを見にこられても、おそらく、全く意味不明だろう。もともとの主旨が備忘録なのだから、ご容赦あれ、、



作家ハハキギホウセイは、
「答えの出ない事態に耐える力」とNegative Capabilityを説明する。そのエッセンスを、作家はこう書いている。


追記、いや驚いた。
ノートルダム大聖堂、再建=修復に、莫大な寄付に暴動が起きているというのだ。以下、時事通信のコピペ。

【パリ時事】大火災に見舞われたフランスのパリ中心部にある観光名所、ノートルダム大聖堂の再建のため、大富豪らから多額の寄付金の申し出が相次いでいることに対し、マクロン大統領の政策に反対し昨年11月からデモを続けている抗議運動参加者らは「不公平だ」と不満を募らせている。

抗議運動の中心となっている女性は17日、「社会的な惨状には何もしないのに、わずか一晩で膨大な金を拠出できることを見せつけた」と高額な寄付を批判。インターネット交流サイト(SNS)上では「人間より石が優先されるのか」などと反発する投稿が相次いだ。
 有力紙フィガロは、20日に予定されているデモについて「怒りを募らせたデモ隊が結集する可能性がある」と指摘。再び破壊行動が起きる恐れがあると報じた。(2019/04/19-08:06)

我が断想

形あるものは、千年スパンでみれば、いづれ崩れる。

そして究極の「宝塔」とは、大聖堂でも法隆寺でもなく、

生身の、普通であるわたしたちの
人生の中ににある、、そうわたしは信じている。

宿命は確かに転換できる

19日の聖教新聞の投稿欄に、上田八郎さんという相模原市に住む66歳の男性の記事があった。

たしか上田さんは大学の一期上の先輩で、同期の大井氏を通じて、二度ほど会ったことを、かすかに記憶していた。上田さんも大井氏も、青森県の人だった。

あるいはその名が「春日八郎」みたいで、覚え安かったことで、よみがえったのかもしれない。

当時、上田さんは色白で、どことなく表情が津軽から出た作家、太宰治に似てるな、という印象をもっていたからかも知れない。

そこでLINEで大井氏に尋ねると「そうだ」と教えてくれた。

以下に、その投稿記事を載せよう。

「私が入会を決めた時」

小学生の頃、わが家は困窮を極め、電気·ガス·水道が止められていて、夜は真っ暗でした。電灯代わりの大きなろうそくを買いに行く時、恥ずかしかったのを覚えています。

その上、幼い頃から私には吃音があり、そのことを級友からからかわれて、将来が不安でした。

中学生の時、学会の婦人の方が真剣に話してくださいました。

「私は字が読めないので、経本のふりがなを見て、字を覚えたのよ」と自分の弱みをさらけ出しながら、
「宿命転換するには、この仏法しかないのよ」と。

「貧乏から、吃音から抜け出したい。宿命転換したいんだ!」と心の底から思いました。

人前で話す教師にだけは絶対になるまいと固く決めて、大学に進学しましたが、その後、なんと小学校の教員になったのです。

「吃音で苦しんでいた私が」と自分でも驚きです。

宿命は確かに転換できるのです。

以上。私は素朴に、創価学会は永遠に病人と貧乏人のための、レジリエンス宗教(造語)である、、と思っている。学会がどんなに隆盛をきわめ、世界宗教になっていくとしても、、変わってほしくないと。

で、大井氏とのLINEはこんなだった、、

「よく気がつきましたね。相模原市にお住まいなんですね。すっかり失念してました。年令的にも、またあまり無い名前ですから、上田さんですね。」

森敦「生と死の境界」

作家 森敦は、私にとって「認識の師」である。他者に、コトバだけで説明できる稀有な文人ではないか、と思う。

掲題の文章は「わが青春 わが放浪」(福武書店 1982/7)に所収。

その肝心なところを、最初に載せる。
死とは、わたしが自分の生から、いずこへかと去るものではなく、生のほうからわたしが去られるものである。

すなわち、境界の属せざるところの領域としての この生なる内部が、いつしか境界の属するところの領域としての死なる外部になるのであって、それによってはじめてまったき世界をなすと知りながらも、この生を窺い知ることはできない。

ここにおいて、わたしたちのあらゆる認識がそうしなければならぬように、境界がそれに属するところの領域、すなわち死なる外部を、境界がそれに属せざるところの領域、すなわちこの生なる内部に創造し、まさに生の生たるゆえんを証明しようとする試みとしての、さまざまな生死観なるものが出てくるのだ。


なんのこっちゃ、と思われるだろう。

こんな死の定義を読んだことなんて、一度もなく、、難解。

「生のほうからわたしが去られるものが死」だというが、、意味不明。動きがわかない。

けれど、文章の全体を繰り返し、時間をおいて何度も読みかえすと、内部と外部そして境界という言葉が、徐々に、浸透してくるはず。

余談だが、
ずいぶん前に膀胱ガンで亡くなった松田優作は、生前、香川照之に、
「何でもいい。毎日何か一つ、同じことをやり続けろ」と言った。香川は事あるごとに、その言葉を周りに話している。

さらに余談。
紀伊國屋劇場のロビーで、青年座の定期公演だったか、高校時代の役者をしている友人、山本龍二に、香川照之さんは帽子をとり鄭重に挨拶されていた、それを間近に見たのだ。役者オーラを抑え、真摯な目で山本を見つめ、挨拶されていた。とてもいい印象をもった次第。

戻る。
ならば、冒頭の跋文を、毎日読むという作業も、アリではないか。いや、待て、それよりか、わたしの場合は日蓮仏法の唱題行こそが、松田優作さんへの応答となる。

それはさておき、掲題の文章を最初からコピペして、今後の、私見の深化に備えることにしたい。長いが、載せる。

「生と死の境界」

いまはもう記憶も定かでないが、法華経の「譬喩品」にこんな話があったと思う。

突然の出火に気づいて、高齢な長者は身ひとつで、ただ一つしかない門から逃れた。家はすでに猛火に包まれている。しかも、家には子どもたちが残っている。高齢な長者はあわてて引き返したが、子どもたちはまったく気づかず、身にどんな危険が迫っているかを叫んでも、遊びほうけて聞き入れようともしない。

そこで高齢な長者はいつわって子どもたちに、家の外にはお前たちの欲しがっている鹿の車がある、早くおいでと言うと、子どもたちはたちまち歓声を上げて走り出て来た。むろん、そこにはそんな鹿の車のあるべきはずもない。子どもたちが声を上げて不平を鳴らすと、高齢な長者は子どもたちをなだめて、それぞれ七宝で飾られた、象を与えたという。

救われて来たあの世に対して、いまだ衆生の執着するこの世を火宅と称するのも、おそらくこれに由来するもので、方便といえども衆生を小乗から大乗へ導くことにおいて、悖(もと)ることなきを教えたというよりも、衆生を小乗から大乗へと導くには、むしろ方便を用いざるを得ないことを教えたものである。

いまはしばらく子どもたちが中にいて、どうして家がすでに猛火に包まれていたかに気づかずにいたかに目を向けよう。それはただ子どもたちが遊びほうけていたというばかりではない。

じつは高齢な長者そのひとも、ただひとつしかない門から逃れるまでは、家がこれほどの猛火に包まれているとは思っていなかったから、子どもたちを残して来たとも言えるのだ。


わたしはよく放浪の人などといわれるが、じつは大中小の会社に勤めてはやめ、やめては勤めして来たのである。

しかも、その会社の大中小はただ外から眺めて言うことで、ひとだび中にはいって勤めてみれば、いずれも何ら変わらぬ大きさを持っていることに気がついた。
すなわち、いずれもこの世と同じ大きさを持っていたのである。「譬喩品」には、たしかこの火宅に百、二百ないし三百の人が住み、十、二十ないし三十人の子どもがいると仮定するという不思議な表現があるが、わたしの言わんとすることを暗示しているのではないかと思う。

外部から見れば、大中小とそれぞれ異なる大きさを持ちながら、ひとたび内部にはいれば同じ大きさを持つ。

これは内部と外部を分かつところの境界が、内部に属せず外部に属しているからではないだろうか。

さらに言葉を換えて言えば、内部とは境界がそれに属せざるところの領域であり、外部とは境界がそれに属するところのの領域であるからではあるまいか。

内部は、境界がそれに属しないところの領域であるから無限であり、無限であることにおいて同等であるものの、境界がそれに属するところの領域(外部)からこれを眺めれば大中小それぞれ異なった相貌を呈して来るのである。

こうした境界の所属による領域の分類は、すでに数学等にあっては、なんら疑いもしない普遍した考えであって、このようにして境界によって内部と外部を接続させ、はじめてまったき世界をなすということができるのだ。ちょうど、わたしがいまここにあるコップを手にとって、このコップとコップ以外のものというとき、すでにまったき世界をなすように。




続、柳田國男が創価学会を語る

前回に続いて、柳田國男「故郷七十年拾遺」から、牧口常三郎と創価学会について書かれていたものを、以下に転載する。

温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命にしていた牧口常三郎君が、あんな一つの哲理(注:おそらく価値論のこと)を発見して、新興宗教の開祖のようになったわけは、牧口君の個人的事情が元であったかと思う。

創価学会の人たちには気に入らない臆測かもしれないが、牧口は人のことを心配する性質で、自分が苦しんでいても他人の世話をするといった気持ちをもっていた。
それにもともと自分一家が貧苦と病苦とに悩まされたので、仏教のうちでも、殊に特殊な法華教(ママ)に入ったのだろうと、私は実はその点に対して大変な興味をもった。

私見だが、
1.柳田國男は牧口初代会長を、、『山の人生』の炭焼き男に関心をもったように、つまり民俗学の調査対象者のように牧口先生を見ていたのかもしれない。

2.苦学はもとより貧苦と病苦と家庭の災難の中に、牧口常三郎初代会長もおられたこと。
今日の創価学会がどんなに華々しく、にぎやかな本部幹部会を行い、≪職業としての組織人≫によって官僚的なstatementが繰り広げられたとしても、、大事なことは、ひとりひとりの、人間の苦悩から転換、人間革命というレジリエンスが「個人的事情」から始まることを、はからずも柳田の文章は気づかせてくれている。これは永遠に変わって欲しくない原点だと、強く思っている。

戻る

牧口君がうまく働いてくれさえすれば、色々の事が明らかになるだろうという希望から、彼の立場に同情を寄せていた。

後に彼の著書「価値論」に私が序文を書いたのも、そんな因縁からである。

ところが先方は、私が信仰までを一緒にやってくれるものと誤算した。

今度の戦争に入って間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話に来て、泊まり込んで行ったが、私は大した印象も受けなかった。

それにあれの哲学のシステムが少し違っていると思ったので、深入りしても役にたたないと思いながら、一緒に話して泊まったのが最後であった。

若い者をつかって熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが、抵抗しつづけた為、牢の中か、出されて直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。

その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、三十人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。

そして元気に人を説得、設伏することに努めていた。

戸田城聖のことは縷々牧口から聞いたが、一二度会っただけである。大井かどっかに中学校をやって成功したが、宗祖となる牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思う。本も沢山読んでいたわけではなかった。

私はこの宗派はどうも宗教ではなく、マジック(魔術)だと思っている。マジックとレリジオン(宗教)とを区別する一番主な点はアフタア·ライフ(来世生命)を考えるかどうかにある。

「郷土会記録」
牧口君もむろんその仲間に入っているが、もうそのころ既に五十歳に近く、余り無口だったから人から愛せられなかった。

然し実にいい人で一緒に田舎などを歩いていても気持ちがよかった。

宗教の方の人はどう思うか判らないが、私の見るところでは、やはり家庭の不幸がその方へ走らせたものと見ている。

創価学会も牧口君から戸田城聖君を中心にしていたが、今は誰が主になっているのであろうか。『聖教新聞』というのがあの派の機関誌になっているらしい。

「牧口君入信の動機」
郷土会は段々会員が増えて一番多い時は十人位の人が私の処へ集まった。

早稲田大学の小田内通敏が熱心な分子であったが、今度の戦争後に創価学会で世間に知られている牧口常三郎などもよくやって来た。

経済地理学であったか、人文地理学であったか、何でもそういう標題の大きな本をそのころ既に出して居た。細々した処では議論の余地があろうが、プランがいかにも大きく面白いものであった。農商務省の嘱託をしているという話をきいたが、よくあんなものを書く暇があると感心に思った。

越後柏崎の人で、早く北海道に移住し、向こうの師範学校を出、それ以後は独習であった。

口が下手で余り物を言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことをいう人であることが判って来た。

北海道には札幌農学校があるだけであったが、それ以外にも後々に本当に学者になった人も大分あって、みな多少は牧口君の影響をうけたり世話をうけたりしていた。

つまり彼は師範学校を出てから附属学校の教師か何かをして後進の世話をしていたわけであろう。

独習の社会学者で田辺寿利君という東京のどっかの教授をしていた人があるが、あれなどは北海道時代から特に眼をかけて貰っていたらしい。牧口君自身もその人に非常に望みを託していたようだ。 

創価学会の二代目で最近、病気でなくなった戸田城聖なども北海道以来のお弟子で東京に連れて来たものだから、宗教に入る前からの師弟であった。

牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供が患ったり死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた。

貧苦と病苦とこの二つが原因となって信仰に入ったのかと思う。

以前は決して宗教人ではなかった。

創価学会というものも自分の経済学の方の意見から来た名前で、それを新興宗教の名にしたのは、戸田城聖の仕業か、そうでないまでも、ずうっと後の考えから来ていると思う。

富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口はそのうちの本門寺というのに参り出した。

その原因として三谷という一人の面白い人間が介在していた。どうも正体が判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。

処がいくつかの珍しい妙薬を持っていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議に良く効いた。

それで私はいつか聞きに行ったことがある。貴方はどうしてそんなに沢山いろんな薬の秘密を知っているのかといったところ、やはり嘘の返事をした。

シナの牛荘から何十里とか何百里とか入った処に旧いお寺があって、色んな珍しいものが伝わっているのみならず、大変な書物を持っていた。

そんないかにも私の喜びそうな話をしてから、三谷はそこに暫くいて、そこで覚えて来たというのだが、聞いているうちに出鱈目が判るような話ばかりであった。

それが本門寺の信徒だったわけである。

牧口君とは早くから知りあっていた間柄らしく、牧口が私に「一度三谷君に会って御覧なさい、三谷君の処に面白い薬がありますよ」といって紹介してくれたのが最初であった。

私もその薬の恩恵だけは受けているが、その成分は少しも知らせてくれなかった。

その男が牧口君を仏教の方へ導いて行った。

ところが、ある時、牧口がやって来て、「私はこの度深く考える処があって三谷君とは絶交致しました」といったのには驚いた。

それっ切り三谷は私の前に現れなくなって、消息を絶ってしまった。

私より大分年上だったから、もう生きていないと思うが、法華の信者としては、牧口君の指導者であったわけである。


以上、
三谷素啓は目白学園の草創期、学園長を務めていた。

ずいぶん昔、神田の古本屋で、三谷素啓の箱入り著作集を、その背表紙を見たことがある。手にとって中身を見たりしなかった。てっきり学者だと思っていたが、柳田の眼では怪しい人物と映っていたようだ。

創価学会の歴史の中でも、三谷素啓の名前は牧口先生を折伏した人として出てくるが、その内実を示すものを読んだことはなかったので、柳田の評価は、新鮮に驚いた。

ある本によると牧口先生は自らすすんで創価学会の会長となろうとはされず、大分時間がたってから担われた。学者肌の方だったのではないか。
俯瞰してみて、カリスマ性のある宗教者は戸田先生からだった、、と素朴に思う、、

お二人は共通して、厳しい指導、しかし人に対してあたたかい心を持った師匠であったことは、確かだ。

柳田國男は、とてもじゃないが、お二人に及ばない。今、日蓮大聖人の「草木成仏口決」にある一文が浮かんだ。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼陀羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり

仏法の眼からみれば、柳田國男は『習い損ないの学者』なのだと、この「故郷七十年」の牧口常三郎論から感じた。全然、わかってない。柳田は、ただ他人の「人間苦」を読むのが好きなだけだ。。解決方法は「マジック」と、遠ざけている。

話はかわり、、伝聞だが、
牧口、戸田両先生は、会員にとどまらず、さまざまな人たちに接する中で、その身の上におきたことを聞いて、ぐっと抑えながら目に涙を浮かべられることが、多々あったという。

『心こそ大切なり』、、これこそ
牧口、戸田、そして池田という三人の創価学会の会長に共通する、奥底の姿勢、本地である、、と私は、、そう信じている。

柳田國男、創価学会を語る

柳田國男の「故郷七十年」は青空文庫の中で、まだ作業中とあり、気に入った文章をコピペできない。

仕方ないので、紙の文庫から手で入力し、以下に載せておきたい。

民俗学の創始者は、創価学会の草創のころ、外から学会に対してどんな印象を持っていたか、、が書かれている。内からでも外からでも、感じとれる何かは、確実にあるに違いない。

大きく分けて二ヶ所から、牧口常三郎初代会長と創価学会のことを触れている。

一つは「私の学問」の中の「郷土研究会」の文章。もう一つは「故郷七十年拾遺」の「真字本曽我物語」あたりからの文章。

私見だが、柳田國男は牧口常三郎と「前からなかなか関係は深かった」しその接し方は暖かい。なので「同情はする。されど私は、そもそも創価学会とは何か?それはわからないし関心もない」というスタンスにつきるのではないか。

実際、柳田國男が会ったのは二代会長までだったし、三代池田会長に会おうとはしなかった。

郷土研究会
明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった。そのときのことは、私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。

石黒忠篤君は、今では政治家になってしまったが、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれたらしい。

「郷土会」のもととなったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。

そこへ新渡戸稲造博士が西洋から帰って来られたので、後には新渡戸稲造先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。

話題のもとは、会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは、早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいている。ことによると牧口君が連れて来たのかもしれない。

小田内君の関係の一人、二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが、全部新渡戸先生の方へ移ったのである。

新渡戸邸へ移ってから初めて加わったのは三宅驥一(きいち)君であった。那須○君もそのころから来たが、この人はどちらかというと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だった。

先生のお宅では毎回会費五十銭をおさめて、そのころとして二円か二円五十銭くらうのごちそうをして下さった。

名ばかりの会費をとって、来客の面目を害しないように心づかいをして下さったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て、楽しい会であった。

明治四十四年の五月、私は牧口君を誘って、甲州の谷村から道志谷をぬけ、月夜野を経て相模に出たことがある。

そのころ電報が三日もかかるという山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であった。

非常に気持ちのよい旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出されるほど、印象深いものがあった。

この牧口君は創価学会の創始者であり、最近後継者の戸田城聖君も亡くなったので、世間の関心もあるかと思う。

牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範学校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だったらしい。

私は前からなかなか関係が深かったから、『価値論』という本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよくわからない。

若い者を引き立てることが好きで、師範学校で教えたお弟子たちを大変可愛がったりするのが、一つの特徴であった。


北海道出身の社会学者田辺寿利という人も、お弟子の一人だったと思う。

牧口君はどういうわけか文部省に入って、私のところへ来たのは、文部省の嘱託をしていたころであった。

郷土会はやがて郷土研究を出す母胎となり、今日の民俗学会の基礎となって来たが、そのころはまだ民俗学という言葉は一般化されなかった。


以上である。創価学会は若い人を引き立てるという柳田國男の見立ては正しい。

今日、学会は世界に拡大したが、柳田國男の印象の通り、世界中の青年を引き立てている。たとえば「青年よ広布の山を登れ」という歌がある。



もう一つは、次回とする。

「山の人生」から

前にも取り上げたが、あらためて柳田國男の「山の人生」の中から、一番記憶に残る二つの話、おそらく裁判記録だろうが、、「人間苦の記録」その全文を掲げておきたい。わたしは、その語り口が好きだ。

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。

何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。

阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。

それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。

私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。

ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。

すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

漫画家 横山隆一の言葉

何気に読んでいて、はたと泣けた文章に出会った。フクちゃんという漫画をかいた横山隆一(1909/5/17~2001/11/8,92歳没)さんの文章だった。小林秀雄全集の付録をひとまとめにしたもので、小林秀雄と交流があった方たちの思い出みたいなものが集められた単行本「この人を見よ」の、186頁にある文章だった。

そのまま、以下に掲げておきたい。たぶん、話の場所は鎌倉であったろう。

それとは別に、僕が小林(秀雄)さんの親切について忘れられないことがある。
戦後のことだが、僕の娘が亡くなった。生まれて一か月もたたなかったので、誰にも知らさなかった。

会葬者は永井龍男氏と小林さんの二人だった。リヤカーに棺を乗せて僕が後から押していった。
桜が道路一杯に散っていて、それを踏みながら坂道を登った。登っている内、なんともよい音が聞こえてきた。

カロンコロンという妙なる音である。はっとして考えた。子供の棺の中から聞こえてくるのは、僕が放り込んであった玩具のオルゴールだった。

僕は、車を押すのをやめて、小林さんの方に走っていった。僕は笑い話のつもりで面白そうに話している内、小林さんの顔を見て、急に泣けて来た。

どうと云う訳でもない。小林さんと永井さんが、どんな事を云ったのか、どんな表情をしていたのかも、忘れてしまったが、其時の僕の心には二人が助け神の様に見えた。


自然体の文章だ。読後思った、小林秀雄は、自分の長女を育てて来たこととを重ねて、横山さんの幼女の死を悼んだのではないか、と。なぜって私は、すぐ3歳の次女が赤ちゃんだった頃のことを連想したからだ。

どんなに医療技術が進んでも、生まれて間もない幼子の夭折は他人事(ひとごと)ではない。

ちなみに、小林秀雄の娘は、成長し、白洲次郎、白洲正子夫妻の長男と結婚したわけだが、、

永井龍男の短編「蜜柑」を読んだ。宮本輝の編集「魂がふるえるとき」(文春文庫)におさめられいる短編小説だった。
永井龍男(1904/5/20~1990/10/12、86歳没)の学歴は中等教育だけだ。しかし、菊池寛に認めらるほどの、文章の力をもった作家なのだろう。

岡潔と小林秀雄の対談

小林秀雄の文章を「ドーダ」偉いだろう文と評し、遠ざけようとする知識人がいる。例えば、鹿島茂さんはそういう批判本を書かれている。曰く、小林秀雄の文章を英訳か仏訳かするのは難しい、文章になっていないのだと。

私見だが、小林秀雄は隋自意の人であって、隋他意の人ではないのだ。それでいて、経済的にも自立していた稀有の文人だった。イザヤベンタサンこと、山本七平氏が羨望していた人だった。山本七平は小林秀雄に会おうと思い切れば、会えただろうが、結局、会わなかった人なのだ。仮に、会った後の印象のズレが怖かったのかもしれない。

昨日から、偉大な数学者(らしい)岡潔と小林秀雄の対談本「人間の建設」(新潮文庫)を読んでいる。その中で、岡潔がしきりと「世界も知力は低下してきている。」「水爆なんかできているから、人類が滅亡するまであと長くて200年くらいじゃないか」と言っている。

たしかに、2018年のイランや北朝鮮の核開発は脅威だし、残された時間は少ないとみる知識人は世界にいいっぱいいるに違いない。だからアイキャンがノーベル平和賞を受賞したのだろうし、、

二人の対談は真剣が飛び交う感じがして、司馬遼太郎のときような、うがった空気はない。
賢者の対話は快感をもたらす。小林秀雄の聞き方は的確であり、全くドーダではない。岡潔という賢者との対話で、逆に、小林秀雄の尋常でない個性があぶり出されてくる。

小林秀雄から遠ざかってはもったいないことだ。この対談本だけからでも、揶揄してはいけない人とわかる。各自各様に、小林秀雄の文章の中に、自分だけの問いに対するヒントを見出すことが、できる。

まだ途中読みだが、拾い掲げてみると、、

・ベルグソンとアインシュタインとの論争とは何だったのかを、小林秀雄は教えてくれている。
・デカルトは「神様を信じておりました。しかもそれは、哲学史家がばかばかしいと思うほど平俗な形式の信仰を通じて信じていたのです」(全くそうに違いない。うまく言えないが小林秀雄らしい洞察と感じた次第)
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2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
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