わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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佐高信の貧乏物語

評論家佐高信の話は、ほとんど耳を傾けたりしないが、、彼の思い出話で、次のような出来事があったようだ。オムニバスの「私の貧乏物語」(岩波書店 2016/9)

貧乏ということを考える時、もう一つ忘れられないのが中学時代の一場面である。

同級生に成績のいい小柄な女生徒がいた。家庭が裕福ではないので、就職することが決まっていた。その後、いわゆる集団就職で上京したのだと思われるが、ある時、担任の教師が、進路志望の調査だということで、進学か就職かのどちらかに手をあげさせた。

その時、彼女は進学に挙手したのである。
驚いた担任が、
「キミは?」と問い返す。

「だって希望でしょう」と
彼女は手を挙げ続けた。

そう言って担任を見返した彼女のキッとした表情が私は忘れられない。

当時、高校への進学率はどのくらいだったか?
たぶん、その先の大学へは10%くらいだったのではないか?

私は魯迅の「故郷」などを読むたびに彼女のことを思い出す。道と同じように希望も、もともとあるものだとも言えないないし、ないものだとでも言えないのである。

時代の貧困と格差の体験が、いまの私の思想の基底となっている。
 


佐高氏は1945年生まれなので、この出来事は1960年頃だろう。上野駅に到着した集団就職の中学卒業生のニュース映像を思い出させた。

ところで、、佐高氏に思想なんて、あるのかな、、

西部邁著「友情」

1月21日に「自裁」した西部邁さんのことが、今なお、気になっている。私と似たような思いの人は、少くないようで、図書館にある「生と死」という著書は貸出中で、待たなければならない。

今まで西部さんの著書は一つも読んだことはなかったが、西部さんの動画を見続けていて、「友情」という、ヤクザの友人のことを書いた本があることを知り、、図書館で借りることができた。

感動した。西部さんの誠実な人柄が染み入るのだ。少し、涙した。

そうか、、私にとって西部邁さんはフランスの哲学者アランのような存在だったのだ。動的な平衡感覚をもって言葉を定義する人という意味だ。

たしかに日本の核保有とか、賛同できない主張もあるが、西部さんのように、黒板を使い、言葉の淵原を丁寧に話される論者は、もう、いないのではないか、、そう思えるのだ。
  
「友情」の副題は「ある半チョッパリとの四十五年」とある。説明書きには、こうある。

BC級戦犯として処刑された朝鮮人の父と、家族のため苦界に身を沈めた母との間に生まれた彼は、最も感動に値する男だった。ところが、著者との交友が45年余りに及んだとき、彼は著者に厖大な手記を遺して自裁する。敗戦期からバブル崩壊以後に至る時代の激変の中で、変わることのなかった「友情」の歴史とその終焉を、痛切な哀歓を交えて描き切った自伝的長編評論。と、、なんか決定的言葉が欠けている。

友人と西部さんは、全くフラットな関係であり、ご自分で精神的同性愛と何度か評されているが、、最期までそうだったのではないかな、、

今しがた、新たに借りた西部邁著「福沢諭吉」の冒頭を読んで、「友情」の通奏低音がわかった。

二人、海野という友人も西部邁さんも、属性をもたない人生、境界人間(マージナルマン)のまま、境界の稜線をひたすら最期まで、走り続けて、今生から去って行ったのだ、、と。

このあと再読し終えたら、「友情」の中で心に響いた文章を徐々に掲げておきたい。

1.

詩人、杉山平一の「夜学生」

1.長いこと、新宿の方で実務講座を主催されていた先輩士業者が、4月の会報を見ると、3月末で退会されていて、少し驚いた。今年64歳かな、情熱家で押し出しの強い人だし、本も出されている。解せない。検索すると、その方の動画があったが、やや痩せられていた。病気を抱えているのかもしれない。動画の内容は、昔と変わらなかった。

2.膵臓がんのMさんも、当面仕事はセーブするといわれたな。

3.詩人、杉山平一さんの「夜学生」という詩がいい。

夜陰ふかい校舎にひびく
師の居ない教室のさんざめき
あゝ 元気な夜学の少年たちよ

昼間の働きにどんなにか疲れたらうに
ひたすら勉学にすすむ
その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ

きみ達より何倍も楽な仕事をしていながら
夜になると酒をくらってほつつき歩く
この僕のごときものを嘲笑へ

小さな肩を並べて帰る夜道はこんなに暗いのに
その声音のなんと明るいことだろう

あゝ僕は信じる
きみ達の希望こそかなえらるべきだ
覚えたばかりの英語読本(リーダー)を
声高からかに暗誦せよ

スプリング ハズ カム

ウインタア イズ オオバア



同じ詩人でこういうのも、身につまされて、いい。

『ぜぴゅろす』
   生
ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある

もどる途中でハタと
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい

身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったか

いつの日か思い当るときのある人は
幸福である

思い出せぬまゝ
僕はすごすごあの世へもどる


4.日本人の識字率は高いが、識詩率は低いと知った。
私も、詩は苦手だ。ところが、ユーラシアは違う、詩人に対する評価はすこぶる高い。例えば、アフガンのゲリラの話で、五木寛之はこう言った。

「荒野の山腹に露営して
焚き火をたいて、
夜に見張りを立てて、
泊まったりしていると、
一人が焚き火の周りで
古い詩を朗々と朗誦し始める。そうすると、
みんながそれに一斉に
唱和する。

そうやって国民みんなで詩を大事にするし、
尊敬する。」と。

自己に会う難しさ

平成2年ころの新聞記事の切り抜きが出てきた。たぶん日経新聞だろうが日付は不明だ。自分がC型肝炎にかかったころの新聞記事に違いない。掲題の、哲学者下村寅太郎(1902〜1999)が語ったことを、とっておいたのだ。以下そのまま載せることに。

下村寅太郎の名は知っていたが、その本は読んだことがなかった。それなのに、なぜか切り抜き、、残したいと思ったのか、記憶はない。でも、て今、このテーマは身近な問題として、感じていて、合点がいくのだ。

自分と出会う

今は「自分と出会う」といわれるが、私どもの青少年時代には(「明治は遠くなりにけり」というその「明治」だが)「立志」といわれたものに当たるであろうか。

「立志」には「立志出世」の匂いがあったが、今いう「自分に会う」にはいささか内面性がある。しかし、十年後にはどういう言い方が登場するだろうか。

私の青年時代にーー今もって青年のつもりだがーー数理哲学の勉強から始めた。特別に数学が得意であったわけではない。自分のセンチメンタリズムに腹を立てて、それの克服ための「苦行」としてであった。苦行のための勉強とは奇妙な仕わざだが、青年の理想主義とでもいうべきものであろう。

青年時代は誰でも理想主義者である。無鉄砲の理想主義は青年の心情であり、信条でもある。その理想主義は挫折したり霧消したりするのが常例であるが、動機に嘘はない。苦業をあえてすることは情熱であり、情熱に成敗利鈍に悔いなしの歓喜がある

「数学者」に対する憧憬は今なお残存する。もっともその数学は、当世の専門化した形式的な数学ではなく、数学的神秘主義にもつながる古典的数学である。天才的な数学者の伝記は、今なお魅力があって愛読する。学問は、専門的になると香気を失いやすくなる。

学問が自分に出会う門になったのは、良師に恵まれたことによる。

「自分に会う」とは、自分が未だ必ずしも自分自身でないことによる。奇妙なことだが、事実である。毎日、起床すると顔を洗う。鏡に顔がうつっているが、自分に会っているとは思わない。たまに見つめることがあっても、いつも「嫌なやつ」と思うだけである。

これは自分と会っていながら、会っていないことである。自分は外にいるのではなく、自分の中にしかいない。言いふるされた足下を見るということにすぎない。しかし、それにもかかわらず、この自己に会うことは至難の業といわれるのである。

「億劫(おっこう)相別れて
而(しか)も須臾(しゅゆ)も離れず、
尽日(じんじつ)相対して而も
刹那(せつな)も対せず」
という有名な古語がある。
これは大変なことなのである。しかし、実際には日常不断に経験している事実である。

我々は眼でものを見ながら、見る時、眼を意識しない。聞く時、耳で聞きながら耳を意識しない。考える時、言葉で考えるのだが、言葉を意識しない。我々は日本語で思惟しながら、日本語を意識しない。話でも文章でも必ずしも主語を必要としない。省略しながら、省略に気づかない

アメリカの日本文学の専門家として有名なヴィリエル氏が、田辺元博士の有名な論文「死を忘れるな(メメント・モリ)」を英訳した時、「主語を探す」ことに最も苦労した、と告白したのに驚いた。田辺博士は論理的思惟の厳格で著名な日本の哲学者で、我々の読み慣れた論文であるが、主語を探した経験は殆どない。西洋人が読むとこれに苦心せねばならぬのである。

日本語で読む我々は、日本語を意識しない。これは、毎日自分の顔を見ながら、自分に会っていないのと同様である。

西田幾多郎先生の原稿は清書されたように奇麗である。添削も消し字もない。いつかこのことを先生に言ったら、「わしの論文は一本勝負だ」と言われた。

以上。およそ30年前、「自分と出会う」という言葉が取りざたされていたっけかな、、

少し前だか、「自分探し」という言葉がよく言われた気がする。そういえば、2歳4ヶ月になる次女は「ジブン、ジブン」をよく口にする。 長女はときどき自分の名を、話し言葉の中で、主語にする、、私の子どもの頃には、そういう子はいなかった。あっ、テーマとはそれて行くな。。

このブログにしても、「自分に出会う」ための時間をかけた「仕掛け」なのかも、しれない。
今はわからなくても、10年後、20年後に出会ったことに気づく、、そういうこともありえるだろう。あぁ、そう思ったら合点がいくことが、、

直腸がん手術後の2010年5月27日の夜明け前に、私は、自分に出会っていた、のかもしれないのだ。まったく上手く言葉できないが、深刻な手術の後だっただけに、幽体離脱のような体験ではなかったが、、

不思議な感覚に遭遇した。しいて言えば、離脱ではなく逆で、少し、身体の奥に入るというか、、建物で言えば半地下のようなところような、身体の下というか、自分が沈んでいる自分がいるのだ。そして猛烈な閉所恐怖症に見舞われ、呼吸が一気に苦しくなった。

それは「なんだかんだ、俺って、このくりかえしだったなぁ」という、忸怩たる思いに似た、ネガティブな心象風景だった。

その日を「5.27」と、ひとり名付けることにしよう。名付けることで、ひとは自分に出会うのではないか?


Amazonレビュー下書き01

わたしは8年くらい前から、作家宮本輝さんの公式サイトに参加しBTCという掲示板に、ときどき書込みをしている。直近の書込みで、その「ひとたびはポプラに臥す」の長いレビューを書く、と宣言していた。10年以上、その本の書込みがなく、それはいかかがなものか、と思ったことと、何がしか、輝先生の恩に報いたいとも思っての宣言でもあった。

それと、この「ひとたびはポプラに臥す」は新宿図書館が廃棄図書としてあったので、そっくそのままいただき、犬の散歩のときなどに読んでいる。決して侮ってはいない。散歩のときの本としては、かなりよく親和する。リズムが合うのだ。アンダーラインもバシバシしているので、読み直しの橋頭堡になり、心地が良い。

そこで、レビューの書き込むにあたり、下書きの場に、このブログを利用することにしよう。以下はその下書き、になる。

1.宮本輝さんたち一行は1995年5月25日から40日間かけて、西域、その南山街道を走破した。輝先生の目的ははただ一点「五十歳で長安に入った鳩摩羅什が、いかなる生活をおくりながら、超人的ともいえる膨大な仏典翻訳活動に邁進したのか、、、」その動機を知りたいという関心にあった。それを北日本新聞社が支援して、始まった旅行記である。したがって写真が秀逸なのは、その新聞社のカメラマンが同行しているから、できた技なのだ。

2.さて6700kmの長旅の間、絶えず不思議な虚しさにあった、と輝先生はいう。そして「まだ正確に分析できないでいる。おそらく、生涯、あの虚しさの理由は言葉にできないような気がする」という。私は、正直な感想と受け止めた。仏塔などの遺跡に、興味を示さない輝先生なのだが、その気持ちは私にもあり、すぐ感情移入できた。はたして22年たった2017年の今、輝先生はあの旅をどう思われているだろうか。

3.こと宮本輝さんの本に限ってだが、わたしは自分の経験に引き寄せて、考えてしまう。この本にしても、感想の前に、まずは自分の体験、1999年の秋、米国の西部1900kmを、1週間かけてバイクで走破したことが重なってしまう。無論、C型肝炎の自分が一人でできたわけではなく、ツァーに参加させられただけ。誘ってくれた先輩は直前になってバイク事故で不参加、、なんだよーという感じで、迎えたバイクツーリングだった。その時の写真を見てもわたしの顔は肝臓病患者そのもだった。そうした辛い長旅を「ひとたびはポプラに臥す」に重ねて、感慨にふけってしまうのだ。

4.まずはじめの感想は、水と食べ物と排便環境の艱難辛苦であり、NHKのシルクロードのドキュメンタリーなど絵空事のように感じた。食べ物に、生活用水の悪臭が醸し出してくるのだ。さもありなん、日本のような流れる水はないのだから。原子炉廃棄物と似て、下水溝のない水洗トイレのような地帯が西域なのだと感じた。清潔は、砂漠の熱さにあるだけだ。

5.便所の話のところで、板橋の花火大会で体験した、ささやかなこの世の地獄、とことん汚れた公園の公衆便所を思い出した。肝臓病患者など西域に行ってはならい不安全地帯にほかならない。「シルクロードというものをロマンチックに伝えやがったのはどこのどいつだと怒鳴りたい気分です。」これは輝先生の本音だ。

6.小林秀雄の徒然草のことや、輝先生の断想がちりばめられ、心に響くものが多々あるが、とりわけある少女の描写が響いてきて、心のおりのように沈殿している。。それを転記して①の感想を綴じたい。74~75頁にある。

「どのくらい尾根と谷を超えたかわからなくなったころ、静まりかえった村に入った。黄色い土壁と瓦屋根の農家には、ニンニクとトウモロコシが干してあり、洗剤で洗ったことは一度もないのではないかと思えるほどに黄ばんだ下着が紐に吊るされ、その下で女の子がひとり遊んでいる。

木の枝で庭の土に何かを描き、ひとりごとを言いながら、ときどき洗濯物を見上げる。そしてまたしゃがみ込み、土に何かを描く。

村には、女の子以外、人の気配はない。

私は車の窓から振り返って、その七、八歳の女の子を見つめた。女の子は洗濯物と話をしていたのだった。

誰もいない村の昼盛りのなかで、洗濯物と会話する少女、、、。」


わたしの心に、映像のように広がり、消えることはない。この本を象徴するポプラととともに、、、


以上、ひとまずAmazonレビューは、これで行こう。。

心は「言葉の森」とみる

1.2015年、国連70周年のスローガンとして「誰も置き去りにしない」という言葉を掲げた。2年後、これに反し、トランプ氏の大統領令は国籍、宗教による差別、シリア難民の置き去りを明言したわけで、、嘆かわしい。

しかしながら、日本は難民支援をお金で解決しようとして、その受け入れは超消極的で、10世帯もないわけで、トランプ政策を批判ができる立場にない。それほど、難民鎖国政策は徹底している。私見では、その理由に、この国には表層上は象徴天皇制、社会心理として国体思想があるからでは?と思っている。その是非を問うことがないように、ネグレクトが共通感覚になっていると見切る。これは批判ではない。

2.最近になって、朝、保育園に行く道すがら、2歳1ヶ月の次女は、駐車場のPマークを見ると「ピー、ピー」を連発する。
ほかに「ちがう、ちがう」や「じぶんで、じぶんで」、さらに「アンパンマン、食パンマン、カレ-パンマン、バイキンマン、どきんちゃん」などアニメキャラクターの名前を四六時中、口にする。気にいっているキャラクターの固有名詞を覚えようとすることに、なんだか、さきざき、生きる上でのヒントが内在しているような気がし始めている。

3.名詞の重要性を、作家のドリアン助川さんは「プチ革命 言葉の森を育てよう」(岩波ジュニア新書)で展開している。

「風の影」の切り抜き

「風の影」のラストは、こう書かれている。

書店の商売は食べていくのに精いっぱいだが、ほかのことをしている自分なんて想像もできない。売り上げは年々へっている。とはいえ、ぼくは楽観主義だから、上がれば下がるし、下がっているものは、いつかきっと上がるさと自分に言いきかせている。ベアは、本を読むという行為がすこしずつ、だが確実に消滅しつつあるんじゃないかと言う。読書は個人的な儀式だ、鏡を見るのとおなじで、ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない、本を読むとき、人は自己の精神と魂を全開にする、そんな読書という宝が、日に日に稀少になっているのではないか、とベアは言う。

風の影を読了した人がいて、きのう、年始メールのやりとりをした。わたしが本の紹介したのを忘れていて、逆にすすめられた、、
どうやらその人は、昨年末10年勤めた大きな法律事務所をやめた。そう余儀なくされたのだが、次のステージがあるわけだから、潮時だったのだ、とみていることだろう。13日からオーストラリアに1ヶ月行っていると。あっちは真夏だ。

ボブ・ディランの言葉

ボブ・ディランのノーベル文学賞、その受賞の言葉を、以下に載せておきたい。

皆さん、こんばんは。スウェーデン・アカデミーのメンバーとご来賓の皆さまにご挨拶申し上げます。

本日は出席できず残念に思います。しかし私の気持ちは皆さまと共にあり、この栄誉ある賞を受賞できることはとても光栄です。ノーベル文学賞が私に授与されることなど、夢にも思っていませんでした。私は幼い頃から、(ラドヤード)キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、(アーネスト)ヘミングウェイなど素晴らしい作家の作品に触れ、夢中になってのめり込みました。いつも深い感銘を与えてくれる文学の巨匠の作品は、学校の授業で取り上げられ、世界中の図書室に並び、賞賛されています。それらの偉大な人々と共に私が名を連ねることは、言葉では言い表せないほど光栄なことです。

その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。

ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。

ノーベル賞受賞の知らせを受けた時、私はツアーに出ている最中でした。そして暫くの間、私は状況をよく飲み込めませんでした。その時私の頭に浮かんだのは、偉大なる文学の巨匠ウィリアム・シェイクスピアでした。彼は自分自身のことを劇作家だと考え、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかったはずです。彼の言葉は舞台上で表現するためのものでした。つまり読みものではなく語られるものです。彼がハムレットを執筆中は、「ふさわしい配役は? 舞台演出は? デンマークが舞台でよいのだろうか?」などさまざまな考えが頭に浮かんだと思います。もちろん、彼にはクリエイティヴなヴィジョンと大いなる志がまず念頭にあったのは間違いないでしょうが、同時に「資金は足りているか? スポンサーのためのよい席は用意できているか? (舞台で使う)人間の頭蓋骨はどこで手配しようか?」といったもっと現実的な問題も抱えていたと思います。それでも「自分のやっていることは文学か否か」という自問はシェイクスピアの中には微塵もなかったと言えるでしょう。

ティーンエイジャーで曲を書き始めた頃や、その後名前が売れ始めた頃でさえ、「自分の曲は喫茶店かバーで流れる程度のもので、あわよくばカーネギー・ホールやロンドン・パラディアムで演奏されるようになればいいな」、という程度の希望しか持っていませんでした。もしも私がもっと大胆な野望を抱いていたなら、「アルバムを制作して、ラジオでオンエアされるようになりたい」と思っていたでしょう。それが私の考えうる最も大きな栄誉でした。レコードを作ってラジオで自分の曲が流された時、それは大観衆の前に立ち、自分のやり始めたことを続けられるという夢に近づいた瞬間でした。

そうして私は自分のやり始めたことを、ここまで長きに渡って続けてきました。何枚ものレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを行いました。しかし何をするにしても常に中心にあるのは私の楽曲です。多種多様な文化の多くの人々の間で私の作品が生き続けていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。

ぜひお伝えしておきたいことがあります。ミュージシャンとして私は5万人の前でプレイしたこともありますが、50人の前でプレイする方がもっと難しいのです。5万人の観衆はひとつの人格として扱うことができますが、50人の場合はそうはいきません。個々人が独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、こちらの物事に向き合う態度や才能の高さ低さを見抜かれてしまうのです。ノーベル委員会が少人数で構成されている意義を、私はよく理解できます。

私もシェイクスピアのようにクリエイティヴな試みを追求しながらも、「この曲にはどのミュージシャンが合っているか? レコーディングはこのスタジオでいいのか? この曲はこのキーでいいのか?」などという、避けて通れぬ人生のあらゆる俗的な問題と向き合っています。400年経っても変わらないものはあるのです。

「私の楽曲は文学なのか?」と何度も自問しました。

この難題に時間をかけて取り組み、最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに本当に感謝しています。

ありがとうございました。
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2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
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