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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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オリヴァー・サックスの最期

「レナードの朝」の著者オリヴァー・サックスの「サックス先生、最期の言葉」を読了した。

中はエッセイ4篇で、すぐ読み終えた。その内の一遍「わが人生」は、サックス先生が亡くなったときに載った朝日新聞の記事を読んで、知っていた。それはこのブログに転載した。

そこで、ほかのエッセイで気になった点を掲げると、、

1.目にできたメラノーマが転移し、肝臓がんで、亡くなった。享年82歳。

ロンドン生まれ。リトアニア系ユダヤ人、正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれた。ただ生涯独身で男性の恋人がいて、そのことで少年期、母親との確執があったようだ。

2.仏教とは全く無縁の脳神経科医であるサックス先生だが、「水銀」の中の文章で、一生成仏抄に通底するものを感じた。主語が、、神の外在ではなく、「人生」にあるからだ。

私は人生をまっとうしようと努力すべきだと思う。

私は死後の存在について何も信じていない(あるいは望んでもいない)。自分が死んだあと、友人たちの記憶のなかで生き続け、私の書いた本が人々に「語りかける」ことを望むだけである。
(中略)
94歳まで生きた私の父は、80代は人生のなかでもとくに楽しい100年だったとよく言っていた。

精神生活や物の見方が縮むどころか、広がるのを感じたそうで、私もいまそう感じはじめている。

人は自分自身の人生だけでなく、他人の人生も長いあいだ経験している。


勝利と惨事、好況と不況、革命と戦争、偉大な功績と不可解なあいまいさを目の当たりする。

結局は頑固な事実に覆されるのを目の当たりにする。そしてはかなさと、おそらく美しさを強く意識するようになる。

80歳になると、若いときにはなかなか到達できない達観の境地に達したり、歴史をまざまざと感じたりすることができる。

いまでは一世紀という年月がどんなものかを想像できるし、肌で感じることができるが、、

老年期は、自由に好きなことを探求し、生涯をとおして考えてきたこととを感じてきたこととを結び合わせることができる時間だと思う。


ほかに、
将来、すでに原子物理学が達しているレベルの精度と多様性に「原子核物理学」が到達するという話。

どうして脳が意識を生むかという難問は、2030年までに解決されるという友人の予想に対して、サックス先生は「そもそも問題としてとらえていない」と、、それって、わかる気がした。

ふと、想像だが、サックス先生は小さいころ旧約聖書を徹底的に覚え、暗唱もさせられたのではないかな、、

今、人生において偉大なる文章の暗唱は、大事だな、と思い始めている。

このあと、サックス先生の自伝「道程」を読むことに、、しよう。

楽天主義、楽観主義、悲観主義

楽天主義とは、どんなことがあっても、何とかなると根拠無く思っている状態で、自分で何とかしようとはしません。一方、楽観主義とは、どんなことがあっても何とかしようと行動することです。
 天にまかせて何もしないか、可能性にかけて行動するかの違いです。
 岸見一郎『アドラー心理学入門~よりよい人間関係のために~』(KKベストセラーズ)に、次の話が紹介されています。

 二匹の蛙がミルクの入った壺のふちのところで飛び跳ねていました。突然、ミルク壺に落ちてしまいました。一匹の蛙は、ああもう駄目だ、と叫んで諦めてしまいました。そしてガーガー泣いて何もしないでじっとしているうちに結局溺れて死んでしまいました。
 もう一匹の蛙も同じように落ちたのですが、しかし何とかしようと思ってもがいて足を蹴って一生懸命泳ぎました。すると足の下が固まりました。ミルクがチーズになったのです。それでピョンとその上に乗って外に飛び出せました。
 溺れた蛙は悲観主義です。悲観主義と楽天主義は、結局は同じなのです。
 現実を見て諦めるか、現実を見ないで何とかなると妄想するかです。
 楽観主義は、現実を見据えて、なお、自分に何ができるかをかんがえて、希望を持って、行動することなのです。

(2014.12.3

『意味の変容』の感想が消えていた

このブログを始めた頃から、地上波でもの言う人々、本を書き売ろうとする人々、、などよりも、真に一家言のある人は、お金目当てでない普通のブログを書く人、あるいはAmazonなどのレビューを書く人の方に、あるのではないか?と感じさせることが、多くなっている。

10年前から、そうしたリスペクトの対象であった「文学の遠吠え」サイトは、以前触れたが、コメントをしたところリコメントをいただけたので、、そのやりとりを以下に。
まずわたしのコメントから、、

前略、ずいぶん前に、旧ホームページサイトにおいて、コメントしたことがあるものです。
がん闘病、お見舞い申し上げます。
私も2010年5月に大腸がん手術(ステージ3b)をやりましたが、完治しました。がん患者だったことを忘れるほど、今は普通に暮らしています。

あなた(田中さんでしたっけ?)の森敦『意味の変容』の感想をまた読もうとして、、検索でくなかったので、もしや、このブログが続編ではないか、と思いコメントした次第です。違っていたら、ごめんなさい。



ありがとうございます (田中)
2020-06-08 16:36:52
コメントをありがとうございます。

先日、無事に退院することができました。
まだ、しばらくは自宅療養が続きます。右手機能の回復や転移の有無とか、不安はありますが、まあ、のんびりとやっていこうと思います。

以前にやっていた『文学の遠吠え』は、数年前にプロバイダのホームページサービスの終了に伴い消えてしまいました。ここは、続きとしてやっていこうかと思い、始めましたが、なかなか書くことが出来ずにいます。
こちらものんびりとやっていこうと思います。

森敦『意味の変容』感想文を自分のPC内で探したのですが、見つかりませんでした。ううむ、ちょっとショックでした。

バックアップがなかったとなると、、
それはしんどいな、、わたしもショックだった。
それほど田中さんの感想『意味の変容』は秀逸だったからだ。今、検索できる感想はそれに及ばない、、

ローマ教皇の言葉

2019年の暮れ、東京カテドラルで行なわれたアルゼンチン出身のローマ教皇フランシス氏のスピーチを以下に。お〜と響くものがあったからだ。

ちなみに、彼は歴代教皇の誰よりも、創価学会インターナショナル(SGI)の存在を知っていて、法王庁の中で、イタリアSGIの代表と会われている。その際、代表は教皇にお数珠をプレゼントしていた。

映画で知ったが、近年、聖職者による児童への性的虐待問題でカトリック教会は揺れているらしい。そうした中で、フランシス教皇は人としての振舞いをどうされていくのか、、注目している。


「私たちは『魂のセルフィー』を撮ることはできない」

自分の姿を鏡で見ていても、成長し、自分のアイデンティティや良さ、内面の美しさを発見することはできない。

われわれはあらゆる種類のガジェット(道具)を発明したが、「魂のセルフィー」を撮ることはできない。

なぜなら、幸せになるためには、私たちはほかの誰かに自分の写真を撮ってくれ、と頼む必要があるからだ。

私たちは自分の殻から抜け出て、他人に心を向けなければならない。特に助けが必要な人に。自分の姿にばかりとらわれないことだ。鏡の中の自分を見つめていれば、鏡は壊れてしまうのだ。

(中略)
賢人はこう言った。知恵を蓄えるカギは正しい答えを見つけることではない。尋ねるべき正しい質問を見つけることだ。誰もが、「どう答えるべきかをわかっているだろうか」「正しい答え方ができるだろうか」を考えるべきだ。

そして、その後には、「私は正しい質問の仕方を知っているだろうか」を問わなければならない。正しい答えで、試験は受かるかもしれないが、正しい質問なしで人生の試験に受かることはできないのである。

(中略)
私はあなたのために祈りましょう。あなたが正しい質問をし、鏡を忘れ、相手の目をのぞき込むことができるような精神的英知を得て、成長していけるようにと。


相手の眼をきちんと見て、正しい質問をすることが大切とするフランシス教皇の指導は、その通りだ。

その上で、あえて言おう、、

私たちは、一心欲見仏で、だれでも一生の内に、わが御本尊を通じて『魂のセルフィー』を、ごく自然に「胸中の肉団」に見ることになる。それは壊れない。
しかも以信代慧であり、賢さは要らない、、と。

腹感覚と辻邦生の文学

今しがた、久米宏さんの『ラジオなんですけど』で、相澤冬樹記者が「肌感覚」という言葉を口にされていた。ちなみに二人の対話には「森友問題の改ざん事実を素朴に知りたい」という論点に話が向かう見事な集合知があった。

「肌感覚」で受けいれること、
これは、人生のキーワードだと、
わたしは思う。。

加島祥造さんは「腹意識」と言われた。

さらに言えば、二つの言葉を止揚し、勝手な造語になるが、「腹感覚」の方が、しっくりくると思えた。

検索すると、「腹感覚」を同義で定義するものはないから、言いだしっぺの特権で、、同じような、あいまいなものとする。

ふと思い出しこと。わが師、母校創立者である、池田大作先生から初めて聞いた言葉として「満腔(まんこう)」という言葉が、浮かんだ。

それこそが腹感覚であり、満々と響き受けいれる感覚を表す稀少の言葉ではないかと。「万感」はこれに近いが、一過性でなく、その受けいれる深さ広さにおいて、満腔は尋常でない。

その「満腔(まんこう)」は、その語音から、世間、メディアは一切使わない、と。

半世紀前の創価学会の本部幹部会で、その言葉を先生が発したとき、わたしはギョッとしたことを、ハッキリ、覚えている。

たとえば、それを叙事的に表現するのは
さらに難しくなる。たとえば、、

辻邦生「安土往還記」は叙事詩のような小説だった。織田信長の立ち居振る舞いをイエズス会士が語り部となっている。

大学時代に初めてこれを読んだとき、
腹感覚で、イエズス会士が見た織田信長像。それが伝わってきた。


「安土往還記」のその一文を、、
別れのシーン、映像が見事に浮かぶ。万感に響きわたる肌感覚、腹感覚があるのだ。

 夏の一夜、城下の人々は大殿(シニョーレ)の命により、すべての灯(あか)りを消し、息を潜めていた。やがて烽火(のろし)が上がると、一斉に火が掲げられ、城郭の全貌(ぜんぼう)が照らし出された。同時に黒装束の騎馬武者たちがたいまつを点(とも)し、竜がうねるように宣教師館へと走り寄る。その中には、日本を離れる巡察使ヴァリニャーノに別れを告げる、大殿自身の姿があった。

回向と中野孝次の「あとがき」

鎌倉散歩から戻り、あらためて思った。
尊敬する人たちの命日には、感謝をこめて祈ること、回向することにしよう、、決めた。

陰暦かどうかは気にしない。ひとまずは西暦でいく。

北条泰時  1242.6.15 (59歳)
日法(熊王)1341.1.22(82歳)
阿仏坊日得 1279.3.21 (91歳)
四条金吾頼基1300.3.15

スピノザ 1677.2.21(44歳)
ベルクソン1941.1.4 (81歳)
アラン  1951.6.2 (83歳)
ブーバー 1965.6.13(87歳)

プラトン    前347年 (80歳)
プロティノス   270 年(66歳)
プロクロス   485.4.17 (73歳)

田中美知太郎 1985.12.18(83歳)
小林秀雄   1983.3.1(80歳)
辻邦生  1999.7.29 (73歳)仏文学
中野孝次 2004.7.16(79歳)独文学
加島祥造 2015.12.25(92歳)英文学

ギリシャの哲人たちを除けば、たかだか800年の間の生死にすぎないのか、、宇宙の光年からみれば須臾の出来事なのだろうが、、

さて掲題のこと。今日手に入れた初版本、中野孝次『ブリューゲルへの旅』(文春文庫)のあとがきの文章を載せておきたい。これは、中野さんが亡くなる4ヶ月前に書かれた。遺書のようだ、万感の思いが伝わってくる。

文春文庫版「あとがき」

今度この『ブリューゲルへの旅』が文春文庫に収まることくらい、わたしにとってうれしいことはない。

なぜならこれこそわたしの文筆活動すべての根源、出発点だからだ。わたしはこれまてに百冊以上の本を書いてきたが、それはみなこの『ブリューゲルへの旅』で辿りついた思想が育って生みだしたものと言っていい。そういう意味でこれはわたしの記念碑であり、それが人生の終りにのぞんで文庫として生きかえるのは、わたしにとって蘇生を意味する。 

わたしが当時衝き当たった問題はしかし、今日でもまだ解決せられていないというか、むしろ二元思考的西洋文明の破綻がいよいよ明らかになった現在こそ、いよいよ切実になって来ていると信ずる。

主客、相対、対抗、二元をこえた不ニのところ、絶対的な一を求めねばならない。

この本を復活させてくれた文春文庫の諸君に感謝する。
2004年3月3日       79歳著者識

英語学習 上達の秘訣

1981年3月18日(水)朝日新聞記事に國廣哲彌さんという東大名誉教授が書かれた、
「辞書好きになること」
を以下に転載する。なにぶん、40年前の、セピア色に変色した新聞記事で、活字が小さく読みにくい。

その文章には力がある。長くなるが今後も読みかたえしたいので、手入力する。が面倒くさいな、、最後まで転記できるか、、風邪っぴきの私にその根性が果たしてあるか?

当然、本の辞書が話の前提にある。その記事は、犬の散歩で拾ったジーニアス英和辞典第4版に貼っておいた。また、なんでこんな記事が出てきたのだろう。。

外国語に上達する秘訣の一つは「辞書好き」になることであると思う。

辞書好きというのは、辞書を引くのをおっくうがらないだけでなく、書いてあることを丹念に読むのが好きな人のことである。

ふつうはここまでで十分であるが、もう一段進むと、辞書の簡にして要を得た記述の美しさに惚れこむようになる。

「辞書を読むのが趣味」という人はこの段階に達しているのである。

私も辞書好きでは人後に落ちないつもりであるが、若いころ新しい辞書を手に入れると、毎晩必ず何ページか読まないと寝付きが悪いという時期があった。

新学年が始まると、中学一年生は英語という外国語の学習を始めることになる。

英語の学習に英和辞典は付き物であるが、中学一年生のうちは必要なことは全て教科書や先生から与えられるはずであるから、辞書を引く必要はまずない。

辞書が本当に引けるには、ある程度分かっていなければならないから、一年生にすぐ引くことを要求するのは無理である。

しかし二年生になれば、教科書の巻末の単語リストに頼らずに、自力で辞書を使って原文と直接に格闘する心構えを持つのがよいと思う。

「天は自ら助けるものを助ける」のである。ここで辞書に取り付き損なう人、つまり巻末の単語リストで満足したり、アンチョコに頼る人は、まず先の望みはないと考えた方がよい。そういう人を私は身辺に山と見てきている。

高校生など「豆単」と称する簡単な単語帳を辞書代わりに使う人が少なくないが、これもあまり望みがない。

英語を身につけようとする人は、最初からしっかりした辞書によらなければならない。

辞書をいちいち引いて予習するのは確かに時間にかかることである。たくさん並べてある意味の中から原文に合う意味を探し出さなければならないからである。

しかしそのことが取りも直さず言葉の学習の本質につながっているのである。ある語が用いられている場面の状況、その語の前後にどのような語が来ているかをにらみ合わせて、そこにうまく当てはまるような意味を選び出すこと、そういう作業を通じて私たちはことばの学習を進めて行くのである。

辞書を引くことを盛んに勧めたけれども、現存の辞書はどんなに大きなものでも決して万能ではない。いろんなところに不十分な点が残されている。

ことばの使い方は千変万化するものであり、どこまで追って行っても切りがないという性質のものであるのに対して、現実の辞書にはスペースが限られているという、どうにもならない制約がある。

最近ある英和辞典を編纂した者として辞書作りの内情の一端を述べるならば、スペースがないために、分かっていても書けないことがたくさんあるのである。

訳語にしても、考えられる全てのものを列挙するわけにいかず、英語の意味が正しくとらえられる程度でやめておくことがある。

また、単語によっては、どの訳語も原語の意味を正確に伝えていないけれども、そのことを説明するスペースがないので、やむを得ず不正確のままで妥協するということも起こる。

もし書きたいことを存分に書いたならば、現代英語だけに限っても、おそらく二十巻
ぐらいの英和辞典ができ上がるのではなかろうか。そうなれば扱うのも大変だし、個人で買うことも難しくなり、結局はないに等しいことになってしまう。

辞書を使う人はこのような辞書の限界をわきまえた上で、適宜に自分の言語感覚を働かせて足りない部分を補いながら利用していただきたいと思う。

高校の教室などで先生が辞書にない訳語を使って適訳をしようとすると、生徒から「そういう訳語は辞書に出ていません」と文句が出ることがある。

こういうときは辞書の限界を説く絶好の機会なのであるが、あまり薬がききすぎると
生徒の勉強のよりどころを奪ってしまうことになりかねないので、なかなか難しいところである。

辞書をあまり引かないで、英語をどんどん読んでいるうちに次第に分かってくると説く人が時折あるが、それは学力が相当に付いてからの話してある。

辞書は適宜引きながら、多量に読むことにより、私たちは辞書の限界を乗り越えて、英語の真の理解に近づけることができるのである。

中動態レヴュー

今後の思考の糧として、以下に中動態のコピペを。

ちなみに、わが高校時代に、みなよく使っていた決め台詞(セリフ)に

「それは、言える」と頷く、というのがあったが、、

これなんぞは、まさに中動態だったんだ、
と今更ながら気づいた次第。

中動態はサンスクリット、ギリシャ語、ラテン語において見出される態で、能動でも受動でない態。

もともとは受動態は中動態から派生したとされる。中動態は端的に言えば主語のない、術語のみの態といえる。

普通主語は、それに続く行為の所有者・行為者として機能する。しかし中動態においてはその出来語の起きている場は自分であっても、その出来事の由来は自分自身の所有に属さないようなことについて表している。

日本語でも中動態表現が存在し、「見る」を例にするなら「見る」は能動態表現、「見られる」は受動態表現、そして「見える」は中動態表現と言える。「見える」は例えば「山が見える」といった時に、その表現からは自分の意思で山を「見る」という能動のニュアンスはないし、山が「見られる」という一方的な受動のニュアンスもない。山という風景が自らの内に入ってきた、現れてきたという出来事的で、自らの意志とも言えない中間的なニュアンスを持つ。中動態における主語はこのように「行為主体者」ではなく、出来事が起きている「居場所」というニュアンスを持っており、日本語はこのような表現が多く見られる。

例えばデカルトにおいても、長井、アンリから中動態表現が実は多く使われているということが指摘されており、例えば「videre videor(私は見ているように思える)」という表現があるが、この時のvideorはvidere(見る)という動詞の中動態の活用である。デカルトは思惟する主体という能動的な行為主体を見出し、それを「疑い得ない」と自らの有名な格言、Cogito ergo sum(我思う故に我あり)と主張しているとされているが、アンリ、長井から言わせれば、実はそうではなく、
デカルトは自らの内に、その意思に関係なく起きているように見える、能動でも受動てもない中動的な「現われ」に対して”疑い得ない”というまったく逆のことを主張しているのではないかと指摘している。

本書はこの中動態を手がかりに主に芸術を論じていく。芸術作品はよく芸術家の意図の具象化としばしば考えられているが、それは工業だと森田は一蹴する。実際芸術家の多くも、自分が何をつくりたいのか最初はわからず、創っていく過程においておのずと現れ、完成した時にむしろ事後的にわかってくると主張するように、森田は芸術行為は芸術家の能動的な営みではなく、むしろ素材、また芸術家を取り巻く環境との「あいだ」で起きる中動態的な営みであると主張する。その中動態を語るために、メルロ・ポンティ、木村敏、ミシェル・アンリ、デリダ、カッシーラなど多くの人間から参照し、まとめていくが、これが木村敏並に明快・明晰でスマート。森田を通して、それらの思想にも触れられるところが素晴らしい。久しぶりに素晴らしい本に遭ったと思える(videor)。


能動態でも受動態でもない「中動態」を知ると少し生きやすくなる
『暇と退屈の倫理学』で“暇人"の効用を説き、世に衝撃を与えた哲学者の國分功一郎さん。

新刊『中動態の世界』は、雑誌「精神看護」での連載が元になっている。英文法で教えられるのが「能動態(~する)」と「受動態(~される)」の区別だが、本書のタイトル「中動態」はそれら二つの起源にある、古典ギリシア語など嘗てのインド=ヨーロッパ語に広く存在した動詞の態を指す。
「大学生の頃その存在を知り、自分の専門であるスピノザ哲学と深いところでつながっている、という感覚はずっとありました」

『暇と退屈の倫理学』で人間には“ぼんやりとした退屈に浸っている"状態が大切だ、と主張した点が、アルコールや薬物などへの依存症の回復に有効なアプローチたり得る、と専門家や当事者から指摘され続け、とうとう本格的「中動態」研究に乗り出す。

「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志"の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志"の存在を前提とした“常識"が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」

國分さんの著作はしばしば「ミステリー的」と評される。ギリシア語最古の文法書『テクネー』の解読から「中動態」探しの旅は始まり、20世紀フランスの言語学者バンヴェニストの「能動態」再定義に力を得、捜索過程でハイデッガーの弟子ハンナ・アレントに「つきまとわれ」、哲学的言語探究は核心へと向かう。

「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」
そこに“こうなったから、どうしていこうかな"という中動態的カテゴリーを持ってくると、少し生き易くなる。第8章「中動態と自由の哲学 スピノザ」で本書は山場を迎える。

「『エチカ』を今回、ラテン語で暗誦するほど読み込み、分かってきた部分がある。過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない。逃れようのない状況に自分らしく対処していくこと、それが中動態的に生きることであり、スピノザの言う“自由"に近付くこと。僕はこの本で自由という言葉を強調したかった」

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