わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への機微

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
TOP ≫ CATEGORY ≫ 心にのこる文章
CATEGORY ≫ 心にのこる文章
       次ページ ≫

続、柳田國男が創価学会を語る

前回に続いて、柳田國男「故郷七十年拾遺」から、牧口常三郎と創価学会について書かれていたものを、以下に転載する。

温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命にしていた牧口常三郎君が、あんな一つの哲理(注:おそらく価値論のこと)を発見して、新興宗教の開祖のようになったわけは、牧口君の個人的事情が元であったかと思う。

創価学会の人たちには気に入らない臆測かもしれないが、牧口は人のことを心配する性質で、自分が苦しんでいても他人の世話をするといった気持ちをもっていた。
それにもともと自分一家が貧苦と病苦とに悩まされたので、仏教のうちでも、殊に特殊な法華教(ママ)に入ったのだろうと、私は実はその点に対して大変な興味をもった。

私見だが、
1.柳田國男は牧口初代会長を、、『山の人生』の炭焼き男に関心をもったように、つまり民俗学の調査対象者のように牧口先生を見ていたのかもしれない。

2.苦学はもとより貧苦と病苦と家庭の災難の中に、牧口常三郎初代会長もおられたこと。
今日の創価学会がどんなに華々しく、にぎやかな本部幹部会を行い、≪職業としての組織人≫によって官僚的なstatementが繰り広げられたとしても、、大事なことは、ひとりひとりの、人間の苦悩から転換、人間革命というレジリエンスが「個人的事情」から始まることを、はからずも柳田の文章は気づかせてくれている。これは永遠に変わって欲しくない原点だと、強く思っている。

戻る

牧口君がうまく働いてくれさえすれば、色々の事が明らかになるだろうという希望から、彼の立場に同情を寄せついた。

後に彼の著書「価値論」に私が序文を書いたのも、そんな因縁からである。

ところが先方は、私が信仰までを一緒にやってくれるものと誤算した。

今度の戦争に入って間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話に来て、泊まり込んで行ったが、私は大した印象も受けなかった。

それにあれの哲学のシステムが少し違っていると思ったので、深入りしても役にたたないと思いながら、一緒に話して泊まったのが最後であった。

若い者をつかって熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが、抵抗しつづけた為、牢の中か、出されて直ぐかに死んでしまった。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。

その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、三十人ばかりの青年が法華を信じつつ愛国運動を続けている程度であった。

そして元気に人を説得、設伏することに努めていた。

戸田城聖のことは縷々牧口から聞いたが、一二度会っただけである。大井かどっかに中学校をやって成功したが、宗祖となる牧口君は少し不適当で、それほど深い信仰ではなかったから、物足りなかったと思う。本も沢山読んでいたわけではなかった。

私はこの宗派はどうも宗教ではなく、マジック(魔術)だと思っている。マジックとレリジオン(宗教)とを区別する一番主な点はアフタア·ライフ(来世生命)を考えるかどうかにある。

「郷土会記録」
牧口君もむろんその仲間に入っているが、もうそのころ既に五十歳に近く、余り無口だったから人から愛せられなかった。

然し実にいい人で一緒に田舎などを歩いていても気持ちがよかった。

宗教の方の人はどう思うか判らないが、私の見るところでは、やはり家庭の不幸がその方へ走らせたものと見ている。

創価学会も牧口君から戸田城聖君を中心にしていたが、今は誰が主になっているのであろうか。『聖教新聞』というのがあの派の機関誌になっているらしい。

「牧口君入信の動機」

柳田國男、創価学会を語る

柳田國男の「故郷七十年」は青空文庫の中で、まだ作業中とあり、気に入った文章をコピペできない。

仕方ないので、紙の文庫から手で入力し、以下に載せておきたい。

民俗学の創始者は、創価学会の草創のころ、外から学会に対してどんな印象を持っていたか、、が書かれている。内からでも外からでも、感じとれる何かは、確実にあるに違いない。

大きく分けて二ヶ所から、牧口常三郎初代会長と創価学会のことを触れている。

一つは「私の学問」の中の「郷土研究会」の文章。もう一つは「故郷七十年拾遺」の「真字本曽我物語」あたりからの文章。

私見だが、柳田國男は牧口常三郎と「前からなかなか関係は深かった」しその接し方は暖かい。なので「同情はする。されど私は、そもそも創価学会とは何か?それはわからないし関心もない」というスタンスにつきるのではないか。

実際、柳田國男が会ったのは二代会長までだったし、三代池田会長に会おうとはしなかった。

郷土研究会
明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった。そのときのことは、私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。

石黒忠篤君は、今では政治家になってしまったが、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれたらしい。

「郷土会」のもととなったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。

そこへ新渡戸稲造博士が西洋から帰って来られたので、後には新渡戸稲造先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。

話題のもとは、会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは、早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいている。ことによると牧口君が連れて来たのかもしれない。

小田内君の関係の一人、二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが、全部新渡戸先生の方へ移ったのである。

新渡戸邸へ移ってから初めて加わったのは三宅驥一(きいち)君であった。那須○君もそのころから来たが、この人はどちらかというと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だった。

先生のお宅では毎回会費五十銭をおさめて、そのころとして二円か二円五十銭くらうのごちそうをして下さった。

名ばかりの会費をとって、来客の面目を害しないように心づかいをして下さったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て、楽しい会であった。

明治四十四年の五月、私は牧口君を誘って、甲州の谷村から道志谷をぬけ、月夜野を経て相模に出たことがある。

そのころ電報が三日もかかるという山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であった。

非常に気持ちのよい旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出されるほど、印象深いものがあった。

この牧口君は創価学会の創始者であり、最近後継者の戸田城聖君も亡くなったので、世間の関心もあるかと思う。

牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範学校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だったらしい。

私は前からなかなか関係が深かったから、『価値論』という本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよくわからない。

若い者を引き立てることが好きで、師範学校で教えたお弟子たちを大変可愛がったりするのが、一つの特徴であった。


北海道出身の社会学者田辺寿利という人も、お弟子の一人だったと思う。

牧口君はどういうわけか文部省に入って、私のところへ来たのは、文部省の嘱託をしていたころであった。

郷土会はやがて郷土研究を出す母胎となり、今日の民俗学会の基礎となって来たが、そのころはまだ民俗学という言葉は一般化されなかった。


以上である。創価学会は若い人を引き立てるという柳田國男の見立ては正しい。

今日、学会は世界に拡大したが、柳田國男の印象の通り、世界中の青年を引き立てている。たとえば「青年よ広布の山を登れ」という歌がある。



もう一つは、次回とする。

「山の人生」から

前にも取り上げたが、あらためて柳田國男の「山の人生」の中から、一番記憶に残る二つの話、おそらく裁判記録だろうが、、「人間苦の記録」その全文を掲げておきたい。わたしは、その語り口が好きだ。

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。

何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。

阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。

それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。

私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。

ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。

すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

漫画家 横山隆一の言葉

何気に読んでいて、はたと泣けた文章に出会った。フクちゃんという漫画をかいた横山隆一(1909/5/17~2001/11/8,92歳没)さんの文章だった。小林秀雄全集の付録をひとまとめにしたもので、小林秀雄と交流があった方たちの思い出みたいなものが集められた単行本「この人を見よ」の、186頁にある文章だった。

そのまま、以下に掲げておきたい。たぶん、話の場所は鎌倉であったろう。

それとは別に、僕が小林(秀雄)さんの親切について忘れられないことがある。
戦後のことだが、僕の娘が亡くなった。生まれて一か月もたたなかったので、誰にも知らさなかった。

会葬者は永井龍男氏と小林さんの二人だった。リヤカーに棺を乗せて僕が後から押していった。
桜が道路一杯に散っていて、それを踏みながら坂道を登った。登っている内、なんともよい音が聞こえてきた。

カロンコロンという妙なる音である。はっとして考えた。子供の棺の中から聞こえてくるのは、僕が放り込んであった玩具のオルゴールだった。

僕は、車を押すのをやめて、小林さんの方に走っていった。僕は笑い話のつもりで面白そうに話している内、小林さんの顔を見て、急に泣けて来た。

どうと云う訳でもない。小林さんと永井さんが、どんな事を云ったのか、どんな表情をしていたのかも、忘れてしまったが、其時の僕の心には二人が助け神の様に見えた。


自然体の文章だ。読後思った、小林秀雄は、自分の長女を育てて来たこととを重ねて、横山さんの幼女の死を悼んだのではないか、と。なぜって私は、すぐ3歳の次女が赤ちゃんだった頃のことを連想したからだ。

どんなに医療技術が進んでも、生まれて間もない幼子の夭折は他人事(ひとごと)ではない。

ちなみに、小林秀雄の娘は、成長し、白洲次郎、白洲正子夫妻の長男と結婚したわけだが、、

永井龍男の短編「蜜柑」を読んだ。宮本輝の編集「魂がふるえるとき」(文春文庫)におさめられいる短編小説だった。
永井龍男(1904/5/20~1990/10/12、86歳没)の学歴は中等教育だけだ。しかし、菊池寛に認めらるほどの、文章の力をもった作家なのだろう。

岡潔と小林秀雄の対談

小林秀雄の文章を「ドーダ」偉いだろう文と評し、遠ざけようとする知識人がいる。例えば、鹿島茂さんはそういう批判本を書かれている。曰く、小林秀雄の文章を英訳か仏訳かするのは難しい、文章になっていないのだと。

私見だが、小林秀雄は隋自意の人であって、隋他意の人ではないのだ。それでいて、経済的にも自立していた稀有の文人だった。イザヤベンタサンこと、山本七平氏が羨望していた人だった。山本七平は小林秀雄に会おうと思い切れば、会えただろうが、結局、会わなかった人なのだ。仮に、会った後の印象のズレが怖かったのかもしれない。

昨日から、偉大な数学者(らしい)岡潔と小林秀雄の対談本「人間の建設」(新潮文庫)を読んでいる。その中で、岡潔がしきりと「世界も知力は低下してきている。」「水爆なんかできているから、人類が滅亡するまであと長くて200年くらいじゃないか」と言っている。

たしかに、2018年のイランや北朝鮮の核開発は脅威だし、残された時間は少ないとみる知識人は世界にいいっぱいいるに違いない。だからアイキャンがノーベル平和賞を受賞したのだろうし、、

二人の対談は真剣が飛び交う感じがして、司馬遼太郎のときような、うがった空気はない。
賢者の対話は快感をもたらす。小林秀雄の聞き方は的確であり、全くドーダではない。岡潔という賢者との対話で、逆に、小林秀雄の尋常でない個性があぶり出されてくる。

小林秀雄から遠ざかってはもったいないことだ。この対談本だけからでも、揶揄してはいけない人とわかる。各自各様に、小林秀雄の文章の中に、自分だけの問いに対するヒントを見出すことが、できる。

まだ途中読みだが、拾い掲げてみると、、

・ベルグソンとアインシュタインとの論争とは何だったのかを、小林秀雄は教えてくれている。
・デカルトは「神様を信じておりました。しかもそれは、哲学史家がばかばかしいと思うほど平俗な形式の信仰を通じて信じていたのです」(全くそうに違いない。うまく言えないが小林秀雄らしい洞察と感じた次第)

プラトン第七書簡の断簡

繰り返しになるが、ブログは、自分本位に書く場として、位置づけている。なので、なんのこっちゃ?となるだろうが、ご容赦を。

大学の最終学年の終わり頃、学生文集「草創」に投稿した。タイトルは『プラトン第七書簡」の一文に託して』だった、と記憶している。というのも、その文集を栃原氏に貸したまま、戻らず久しく、全文はわからなく、おぼろげになってしまったからだ。

先日、同期の石戸氏と話していて、俄に想い出した。うまく言えないが、師弟不二への批判論でもあった。

石戸氏がわたしの言動として、御書(日蓮の遺文集)に師弟不二の四文字なんてないよ、とわたしは言っていたと。

そうだ、たしかに私はそう主張していたのだ。つまり、その背景には、創立者のもとに集まってきたのに、創立者はそばにいるわけじゃ、ないじゃん、という感覚が、強くあったのだ。

例えば、草創期の慶應義塾は福沢諭吉が三田の学内に居住していたように、、そんな甘えた感覚が4年間、ずっとあったのだ。

ともあれ、掲題の第七書簡の引用は、つぎの通り、、

すなわちそれは、これらの人々が、私の見解によれば、その事柄について何ものかを理解していることは、ありえないということなのです。

その事柄については、私の書物というものは決してありません。

また今後あることもないでしょう。

というのは、その事柄は、その他の学科と違って語ることのできるものではなくて、

事柄そのものに関してなされる多くの共同研究と共同生活とから、いわば飛び火によって焚き付けられた光のように、突如として、魂のうちに生じてきて、やがて自分で、自分を養うものなのです。
と。

ふと、、ちょうどその頃、1970年代後半、
創立者は、この第七書簡の断簡を、慶應の大学会の席上で、引用されていたことを想い出した。あぁ、やはり、プラトンと創立者は響きあうものがあるのだと感じたものだった。

で、最初に戻ると、常住給仕はもとより、共同研究も共同生活もないわけだから、飛び火も、師弟不二もないじゃないか、、という主旨で作文したわけだったが、、

四十年の歳月がたって、いま、あらためて断簡を読むと、面目ない、なんとまぁ、浅はかな読解だったことかと、、いささか慨嘆した。

飛び火とは、、
オイゲン·ヘリゲル著『弓と禅』の驚くべき出来事、「いま、それがおりてきました」という弓の師範のコトバと通じる。

もっというと、創立者の次のコトバはわたしへの解であったのだ。。

「私たちにはご本尊さまがあるではないか」であり、私に対しては直接「勤行してないな」というコトバであった。

ほんのわずかだが、当時でも、学会員ではない学生もいて、いつの間にか、そうした風情でいようとしていた自分だが、そんな殻など、通用しない、静かな叱責であった。ずっと残っている。

つまり、飛び火は、ご本尊に向かって唱える題目の持続の中にある。そうして題目を唱えるという行為は、数量という空間ではなく、持続という感覚で時間の中に入ることになる。だから日蓮は一遍でも唱えることが大事と言われたのだろう。

佐高信の貧乏物語

評論家佐高信の話は、ほとんど耳を傾けたりしないが、、彼の思い出話で、次のような出来事があったようだ。オムニバスの「私の貧乏物語」(岩波書店 2016/9)

貧乏ということを考える時、もう一つ忘れられないのが中学時代の一場面である。

同級生に成績のいい小柄な女生徒がいた。家庭が裕福ではないので、就職することが決まっていた。その後、いわゆる集団就職で上京したのだと思われるが、ある時、担任の教師が、進路志望の調査だということで、進学か就職かのどちらかに手をあげさせた。

その時、彼女は進学に挙手したのである。
驚いた担任が、
「キミは?」と問い返す。

「だって希望でしょう」と
彼女は手を挙げ続けた。

そう言って担任を見返した彼女のキッとした表情が私は忘れられない。

当時、高校への進学率はどのくらいだったか?
たぶん、その先の大学へは10%くらいだったのではないか?

私は魯迅の「故郷」などを読むたびに彼女のことを思い出す。道と同じように希望も、もともとあるものだとも言えないないし、ないものだとでも言えないのである。

時代の貧困と格差の体験が、いまの私の思想の基底となっている。
 


佐高氏は1945年生まれなので、この出来事は1960年頃だろう。上野駅に到着した集団就職の中学卒業生のニュース映像を思い出させた。

ところで、、佐高氏に思想なんて、あるのかな、、

西部邁著「友情」

1月21日に「自裁」した西部邁さんのことが、今なお、気になっている。私と似たような思いの人は、少くないようで、図書館にある「生と死」という著書は貸出中で、待たなければならない。

今まで西部さんの著書は一つも読んだことはなかったが、西部さんの動画を見続けていて、「友情」という、ヤクザの友人のことを書いた本があることを知り、、図書館で借りることができた。

感動した。西部さんの誠実な人柄が染み入るのだ。少し、涙した。

そうか、、私にとって西部邁さんはフランスの哲学者アランのような存在だったのだ。動的な平衡感覚をもって言葉を定義する人という意味だ。

たしかに日本の核保有とか、賛同できない主張もあるが、西部さんのように、黒板を使い、言葉の淵原を丁寧に話される論者は、もう、いないのではないか、、そう思えるのだ。
  
「友情」の副題は「ある半チョッパリとの四十五年」とある。説明書きには、こうある。

BC級戦犯として処刑された朝鮮人の父と、家族のため苦界に身を沈めた母との間に生まれた彼は、最も感動に値する男だった。ところが、著者との交友が45年余りに及んだとき、彼は著者に厖大な手記を遺して自裁する。敗戦期からバブル崩壊以後に至る時代の激変の中で、変わることのなかった「友情」の歴史とその終焉を、痛切な哀歓を交えて描き切った自伝的長編評論。と、、なんか決定的言葉が欠けている。

友人と西部さんは、全くフラットな関係であり、ご自分で精神的同性愛と何度か評されているが、、最期までそうだったのではないかな、、

今しがた、新たに借りた西部邁著「福沢諭吉」の冒頭を読んで、「友情」の通奏低音がわかった。

二人、海野という友人も西部邁さんも、属性をもたない人生、境界人間(マージナルマン)のまま、境界の稜線をひたすら最期まで、走り続けて、今生から去って行ったのだ、、とわたしは思った。


追記、Amazonのレビューの中に、海野さんの娘さんらしき方がコメントされていた。いわゆる「なりすまし」とは思えなかった。
我が身にひきよせ、おきかえて思ったが、、
子どもにできることは、親の、親たちの苦しみを、一心に受けとめる、それしかできない。
仮に「なりすまし」をしたして、何の意味があるのか、、なので、以下に掲げておきたい。

カスタマーレビュー 5つ星のうち1.0
私の父、海野治夫・・・
投稿者k2006年1月20日

この本の評価はできません。でも評価をしないとレビューに載せられないので・・・。0と解釈してくださいね。私は海野の一人娘ですから・・・。父が幼少から悲惨だった事は母から聞いていましたが、本を読み、ここまで・・・と、未だに涙します。この本は父が獄中から親友の西部先生に送った原稿を先生がかなりの日数をかけ、まとめてくれたものです。先生は母と私をずーっと探し続けてくれていたそうです。そしてこの本を一番に送ってくださいました。父は本当に頭のいい人で大学へ行き、ハエの研究をしたかったらしいです。運命って悲しいですね・・・。読んでくださった方の評価は人それぞれなので気にはなりません。父のルーツ探し、自分は何者なのか?それは私のルーツでもあり、朝鮮の血が混じってる事に戸惑いを感じましたが、それを否定したいという事は父やおじいちゃんを否定する事にも。おばあちゃんが娼婦だった事も同じで、かなり私を悩ませました。が、何度も読み、今でも涙が止まらないおばあちゃんの苦しみ。父の人生、受け止められるようになりました。そんな時代でもあったんですね。父が自殺したとしり、対面した時には、私を置いてなんで!!!と責めていました。事務所の方には遺書があったのに、私には何もなかったから余計です。愛されていなかったのか・・・と。でも、獄中で死を決意した父は私への遺書として書いていてくれたんですね。嬉しかった!誰がどう思おうと、私は父を尊敬し、愛してます。いつまでもいつまでも・・・。本を読んでくださった方、ありがとうございました。娘Kより


この感想を読んでいて、芥川龍之介の短編小説「おぎん」を連想した。江戸時代のキリシタン禁制下、ひたすら親を思う童女の話だ。

このあと今一度、読み終えたら、「友情」の中で心に響いた文章を徐々に掲げておきたい。

西部さんは
自分自身についてゆるぎなく思うことがある、として、、
1.感情の核心は、幼少期に創られる。

2.感情の核心が論理のあり方を定める。
論理には前提(出発点)、枠組(構成をまとめる)、方向(発表を促す)からなり、感情の核心に呼応することで、納得が生まれる。

3.繰り返し想起される記憶は、安定した論理によって再表現される。

訪問者数
2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
ブログ内検索
全ての記事を表示する
さらばポップアップ広告
javascript:(function()%7Bvar%20d=document;var%20e=d.createElement('SCRIPT');e.setAttribute('language','JavaScript');e.setAttribute('src','http://s6.ql.bz/~mamiya-shou/bm/invalidFloatAd.min.js');e.setAttribute('charset',%20'UTF-8');d.body.appendChild(e);%7D)();