わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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三重に読む「一心欲見仏」

今日は12月18日だが、10日前に遡り、書き留めておきたいことがある。

それは、必ずある、信じていた文章との邂逅である。

2013年の春から3カ月、日蓮の遺文である御書を集中して、音読した。60兆細胞を揺り動かす闘病のカタチとして、分からなくてもいいから声を出して読む、と決めた。

御書後半。弟子一門に対するお手紙等は、ほぼ読了した。そうして分かったこととして、

1,釈迦が説いたとされる経文を基本書とされている。
2.歴史的な叙事の引用、比喩が多いこと、ら
3,日蓮は16歳のときに、虚空蔵菩薩に祈っている最中、突如として悟りを得ていて、それを検証するために一切経を習学したこと。
4.四箇の格言は同時に主張ではなく、まず念仏を一凶として断じたこと。
5.お手紙ごと、一期一会で、伝わるように書かれていること。
6.支配階級の武士だけでなく、その女房宛に多く書かれていること。
7.弟子には、農民もいたこと。おそらくは日本全体で僧俗合わせ、最大千人以上の一門になったのではないか?

まだ、あるが、都度書き込むことにする。
そうして、マイ御書を発見したのだ。それは清澄寺の兄弟子であった義浄坊に宛てた手紙だ。義浄坊御書という。1頁に過ぎないので、掲げることにしよう。

秋田に現れた火球から想像すること

1.秋田魁新聞の記事によると、

2016年10月31日午前5時43分(秋田市柳田で佐藤亮真撮影)が確認された。秋田市の上空に現れた「火球」は、青や緑の光放つ強い光を放ちながら流れる火球が目撃された。国立天文台の縣(あがた)秀彦准教授(55)によると、流れ星より大きく明るい「火球」だという。

午前5時43分、東の空に光の固まりが見え始め、だんだん近づきながら横切り15秒ほどで西の空に消えた。途中、砕け散るかのように複数に分離、それぞれ青や緑の光を放つのが見えた。


2.映画「君の名は。」は、大きな火球が落下し、小さな山あいの町を壊滅させてしまいことが、下敷きにある。

3.日蓮が1272年に鎌倉の竜の口で、斬首されそうになったとき、江ノ島の左手の海上に、光もの、火球があらわれ、武士たちは畏怖して、日蓮の首を切なくなってしまった。その火球は、上空を何秒間、通過したのだろうか、という素朴な疑問が、前から私にはあった。「君の名は。」のような落下はしていない。また1266年までの編年体歴史書「吾妻鏡」には、その火球の事績はない。1180年から1272年までの出来事だから、なくて当然なのだ。

4.秋田の、15秒では短い気がする。竜の口は30秒くらいないと、勇猛な鎌倉武士をひるませ、畏縮させられなかったのではないか。日蓮の遺文「種々御振舞御書」では、光もの、火球が1分間くらい、とどまっていたかのように、読めてしまう。あと、日蓮は、あらかじめ火球が現れることをわかっていたかのような文章なのだ。竜の口から、四聖人を凌駕する驚異的な、日蓮の変容が始まる。翌朝、日蓮は越智の本間邸に連行され、そこに1ヶ月留め置かれるが、その間に、もう一度、光ものが現れるのだ、、竜の口の光ものは有名だが、本間邸の光ものの話は知られていない。なので、同御書をそのまま載せておきたい。

P915-5
其の夜は13日・兵士(つわもの)ども数十人・坊の辺り並びに大庭に並居て候いき、9月13日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出て月に向ひ奉りて・自我偈少々よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文あらあら申してありしに

私見、、処刑から免れ、本間邸に据えおかれた日蓮は、たちまち連行してきた武士たちに説法教化をされたわけで、、これは驚き以外何ものではない。僭越だが、竜の口から日蓮はゾーンに入ったというか、確信、声のテンションが変わっていったのではないか?元々、明るく響く声をしていて、聴衆をひきつけずにおかなかっただろうが、自分を殺そうとした武士に対しても、威風堂々とした立ち居振る舞いだった、なんだこの人は?武士たちも魅入っていた、と想像する。さて、このあとが、面白い。




小室直樹「宗教原論」と凝然大徳「八宗綱要」

1.民進党の代表、蓮舫さんについて、、
なんだかイメージが、毛沢東の江青夫人と重なってしまう。舌鋒鋭く糾弾する声が、日本語でなく北京語なら、江青に似ていると。また、かなりファザコンだろうか?国籍離脱の手続を父親に任せていたとするのは、どうにも野党の第一党代表の答弁としてはいかがなものか、そのうちに野田幹事長のせいにする場面も、あるかもしれない。境界型人間のサガ。それと、今更だが、国際人?の矜恃で、アイデンティティとして二重国籍を強弁した方がジレンマに陥らなかったのではないか?台湾総統選挙の投票に行かれていたようだ。さて、どう抗弁するのか、迷走は続く。

2.先日、宮田家を訪れ、書棚から以下の3冊をお借りした。無論、ご家族の了解はとった。1月に亡くなった宮田さんがマーカーしたところや書き込みしたところを見て、参考にしたい。
①小室直樹「日本人のための宗教原論」(徳間書店 2000/6)
②「小室直樹の資本主義原論」(東洋経済 1997/7)
③西田幾多郎「善の研究」(岩波文庫)

3.「宗教原論」は緻密さはないが、青龍刀を振り回す感じで、面白い。小室直樹さんは、少し井筒俊彦と似ていて、天才肌の洞察力をもった、無冠、孤高の人だ。

4.その中で、日本仏教の解説書は700年前の僧、華厳宗の凝然大徳「八宗綱要」が一番と教えているのだ。全く知らない人で、驚いた。早速、凝然大徳「八宗綱要」(講談社学術文庫)を図書館から借りることに。

検索すると、、
凝然大徳(1240〜1321)は伊予国(いまの愛媛県)の出身で、示観房と号す。

1255年(建長7年)に比叡山で菩薩戒を受け、東大寺戒壇院の円照に師事して通受戒を受けたほか、華厳を宗性に、律を唐招提寺の証玄に、密教と天台教を聖守に、真言教を木幡観音院の真空に、浄土教学を長西に学ぶなど博学であった。

とりわけ華厳教学に通じており各所で講義を行っている。円照のあとを受けて東大寺戒壇院に住し、法隆寺や唐招提寺など南都寺院を管轄した。『八宗綱要』は日本仏教史研究に不可欠の文献である。

八宗とは①倶舎宗、②成実宗、③律宗、④法相宗、⑤三論宗、⑥天台宗、⑦華厳宗、⑧真言宗である。いわゆる南都六宗に平安二宗を加えたもの。日蓮宗はもとより禅と浄土は出てこない。


5.日蓮は1222年の生まれ、凝然大徳は1240年生まれだから、18歳の差。同時代人だが、会ってはいないだろう。凝然大徳を、日蓮の弟子であり日蓮に深い質問を投げかけた最蓮房と重ねて見てしまう。この時期、優秀な学僧が少なからず、日本にはいたわけだ。

ちなみに最蓮房は、京都生まれの天台宗の学僧といわれるが,くわしいことは不明。なんらかの罪で佐渡(新潟県)に配流される。文永9年(1272)流されてきた日蓮に帰依。建治(けんじ)元年、1275年ごろ京都にもどったという。日蓮が佐渡から戻ったあとも、最蓮房は佐渡にいたことになる。極寒の佐渡で、最蓮房は病んでいたのではないか?日蓮から「生死一大事血脈(けちみゃく)鈔」「立正観抄」など13編ほどの文書をかきあたえられている。法名は日浄,日栄。

6.それと、日蓮の御書の中には、おそらくたえず手元においておかれたろう綱領や仏教の体系図が多くある。比叡山で学ばれたときの「まとめノート」と私は思っているが、それと「八宗綱要」とを比べ読みしたくなる。さて、どちらが深いか、、

疾走するシールド

なんの脈絡もない
自由詩的断想を書きたくなった。
01
人は疾走すると、
空気の流れからシールドが生まれる。
70代の光景だった、丹木町の丘、、
その人はエントランスで、
俊敏な動きで歩き、
タバコの吸い方も、目まぐるしい。
こころのギア、その回転がうずをなしていて、
天井に拡がっていた、、
だから、わたしは気づいたに違いないのだ。
いま、閑散とした大学にみえたのだと。
遠目に、周囲の人びとと、
動きが違うのだ、、
じっと窓ぎわ学生であったわたしは
茫然、見ていただけだった。
「休みに入ったか、学生は来ていないのか」と、
二階からエントランスへ、足が動かず、、
近づくことができないのだ、、
この固まった身体はどうしたことか
無明の出現、、
鎌倉のときも、同じ自分が、
たぶん、いたことだろう、、
近づくのだ。臨終正念じゃないか、、
「第七書簡」の飛び火、その触発は、ここにしかない、、ぜよ。
題目の持続は、60兆細胞への疾走の促しなのだ、、
「わたしがあなたがたのシールドになるよ」と。

以上、唱題しながら、、メモった。

男は勝て

今日は2015年3月6日であり、
これは、遡及の記事だ。

昔、母校の創立者が語った言葉。

今、諸君に言いたいのは、
「男は勝て」ということです。

負けて泣く、意気地なしではいけない。

人生は、全部、「戦争」です。

勝てば、晴れやかであり、愉快です。
負ければ、みじめだ。

何でもいい。
一つ一つに勝っていくことです。

「勝つ」とは、
ただ金銭的に豊かになったり、
地位を得ることではない。

財産や地位を得ても、悪に染まり、
堕落する人は大勢いる。
それでは、
「人生に勝った」とは言えない。

本当の勝利とは、
「自分自身の心に勝つ」ことです。

世間の評価ではない。
他人と比較するものでもない。

「自分は、自分らしい人生を勝ちとった!」

「私は魂の王者なんだ!」

そう言い切れる人が、
「勝った人間」なんです。

このことを、覚えておいてほしい。


心象の原風景は二つ

60年生きていると、
何度も思い出す心象の原風景が二つある。

わたしのこころの奥底に沈潜する光景であり
何度も反芻する。
一つは人であり、もう一つは場だ、

一つは、自分が出た大学の創立者と
1974年12月に、、
ほんの数秒間に過ぎないが、
互いに目を合わせときの風景。
そのときの創立者は厳しく、
わたしへの一言は決定的だった。
ずっと、こころに刻まれている。

もう一つは、、
2010年5月27日早朝の病室の、、
大地震を体験したかのような
手術直後の風景だ。
直腸がん手術をした
翌々日の個室だった。

二つとも、楽しいとか、
有頂天になるようなものではなく、
むしろ。いずれも、
自分の奥底が包み隠さず、
洗い出されていくような感覚だった。

悟りなんていう
大それたものではないし、、
神秘的なことは何もないが、、
消えない記憶、、

つまらない寒々とした自分の
こころが透けて見える、、
というのに近い心象だった。

二つの心象風景とも、
「な〜んだ、結局自分って、
宿命を切り替えるギアが全然入ってなく、
前世と同じように流転しているだけだな」
と気づかされた。

そして今もなお、
自分の目は、とても清明とはいえない、
澱んでいる、とわかる。ベースは暗い。

ただ、、

自分の奥底にあるものと直結する術は
これしかない、、と確信はできてきた。
怪我の功名でなく、直腸がんの功名といえる。

自我を超えた大我が、間違いなく、
ひとりひとりの人間の根っこにある
という確信。

「心の師とはなるとも
心を師としてならない」と
ある経文の、心の師に直結するのは、、
この方法しかない。

それは瞑想ではない。
検索すれば歴然だが、瞑想は精神が病む。
瞑想は「心を師とする」ことになるからだ。

すべては「心の師」からはじめるのだ。

いったい何を言っているのか
不可解な感じがすることでしょうが、、

まったく自分への楔として、
こころのフックとして、
書きとどめておきたかった、なので

あしからず、、


四季の雁書19750428

作家の井上靖さんと母校創立者との往復書簡をノートをする。今は2016年1月9日だが、書簡の年月日に遡及する。

「友好そして師と弟子」

ゆくりなくも旅の間に邂逅したひとびの面影が鮮やかに脳裏に浮かんできます。

ひとりの人間と人間との一期一会の出会いが、尊くもまた深い味わいをらともなって、なつかしく思い出さずにはいられません。

カンボジアのシアヌーク殿下の微笑
「私は闘争に慣れている。どんな困難も私を疲れさせることは出来ない」

武漢大学の呉月娥女史

一人ひとりの人間同士の自然な接触が積み重なり、それがあたかも山頂をささえる広い裾野のようになって、はじめて国と国との真実の友好の山頂が確立されるものである。

魯迅と藤野先生

革命や変革の根底にも、実は人間としての交流が不可欠の要素になっている。

交流による交感は、人間のもつ永遠の尊貴さに基礎をおかない限り、永遠の友好は確立されないと信じます。これは仏法者としての私の信念であります。

御書 一生成仏抄

夫れ無始の生死を留めて
此の度決定して無上菩提を証せんと思はば
すべからく衆生本有の妙理を観ずべし、
 
衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり
故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば 
衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり、


20150627土曜
・選択ではなく決定なんだ。決定は2度出てくる。
・理生は、衆生本有の妙理を観ずべし、からの二文字だ。
・唱えるとあるが、唱え続けることについては何も言及はない。
たしか一回の題目だけでも、という御書があった。
わたしの知りたいのは、題目を何千回、何万回と唱える意味だ。推論しかない。
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