わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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高校時代を遠くに望む

1.今図書館から借りている本で、返却期限が来ると、「次の予約がなければまた貸してください」といい、また借りる。そうしてかれこれ半年借りてる本は次の二冊だ。

メルロ・ポンティ「眼と精神」(みすず書房) この出版社は高価な本ばかりだが、リスペクトしている。

河合隼雄「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)

なぜ、買わないか、買ってしまえば、積ん読で終わってしまうのが必定だから。なので、返すまでに一つの章、一編の論文を読んでいれば、ヨシとしている。人気のない本だから、継続は可能なのだ。

練馬区にあったらしい小室直樹の自宅には、蔵書はほとんどなかったという。書店で立ち読みして、記憶にとどめたようだ。真似たい、、家におく本はできるだけ少なくする。その代わりノートにとっておくようにしよう。

2.このところ、高校時代のことを振り返りたくなる。同級生は学年430人ほどいた。100周年の同窓会名簿をみると、すでに15人、亡くなっていることがわかっている。今はもう20人くらいいるのかもしれない。

3.同級生だった?らしい群ようこ「都立桃耳高校」を読んでいて、さまざまな光景が思い浮かび、突如、そういえば現国の選択授業で、安部公房「砂の女」を読んだ、そのことを思い出しだし、借りることにした。群さんの本は、彼女が書いていない、その当時のことを思い出させてくれる。激動する社会の中にいた。安田講堂、三島由紀夫の楯の会、連合赤軍、ビートルズの解散と、断片的に浮かび上がってくる。

そういえば、一つ下の学年に、作家檀一雄の娘がいたな、、壇ふみさんの妹にあたる。が、顔はあまり似ていなかったと記憶する。

4.もう少し、安部公房が生きておられたら、ナレーターの垂木勉氏は安部公房スタジオで芝居を続けられていたことだろう。紙一重の運命。知り合いではないが、リアルタイムで、役者山本龍二からきいて知った。人生の機微を感じさせた出来事だった。もしかしたら安部公房はノーベル文学賞もとれたのでは、と思う。ただ、気になるのは「砂の女」だけで、ファンではない。1970年代の心象風景の一つなのだ。

5.高校時代、総じて、教師には恵まれなかった。それでも影響を受けたのは3人。

①倫社の佐々木先生、全科目の中で唯一「10」の評価をくださった。
②現国の北上先生、選択授業で日本の小説を教えてくださった。
③そして漢文の本多啓二先生、但し教わってはいない。

6.本多先生は2009年の晩秋に、胃がんで亡くなられた。その年の2月1日のとき、西新宿で本多先生のがんの話を全身で受け止めた。そのおかげで、侮らずに、直腸がんを克服することができた、、そう思っている。今年が8回忌になる。

7.毎日新聞の切り抜きが出てきた。私たちの高校で15年間、本多先生がいかに活躍されていたかを証明してくれている。今、先生が尽力された庭園、植栽は跡形もない。白亜の校舎に変貌してしまった。私たちの時代の、美しい花の学舎が雲散霧消したことと、1年上の先輩二人が立ち上げた伝説的ロックバンド「四人囃子」の、彗星のような去就と、重なるものがある。もっとも四人囃子は音源が残っているが、、せめてもの思いで、その記事を以下に、、


昭和50年6月30日 毎日新聞夕刊

「東京ムツゴロウ」大奮闘 、、
北海道から上京5年、校内緑あふれる

「東京ムツゴロウ」と生徒は呼ぶ。東京都中野区の都立鷺宮高校(原晋校長、1300人)の漢文教師、本多啓二さん(33)。麦わら帽子とペンキのついたよれよれの作業服がユニホーム。スコップやノコギリをにぎり、リヤカーを引いて同校の緑化に挑戦して5年。校内にはいま、緑があふれている。

ムツゴロウこと畑正憲氏(動物作家)は、大都会を捨てて北海道の無人島に渡ったが、東京ムツゴロウ氏は北海道から東京のコンクリートジャングルに踏み込んできた。二人のムツゴロウに共通しているのは、「人間にとってもっとも大切なものは自然だ」という信念である。

本多さんは北海道釧路支庁標茶町の生まれ。果てしなく続く根釧平野の中で生まれ、育った。遊び相手は牧場の四、五十頭の馬。山や緑も小川も仲間だった。北大卒業後、偶然受けた東京の教員試験に合格。昭和45年4月、同校に赴任した。

「緑が少ない。学校がすさんでいる」本多さんにとって同校の初印象はショックだった。

「潤いがまるでない。殺風景すぎる。なんとかしなくては」
さっそく緑化への挑戦が始まった。

本多さんの父親、本多三郎さん(66)は戦前東京から北海道へ渡り、原野を切り開いた。その父親ゆずりの「フロンティアスピリット」(開拓者精神)が燃えた。

校内は3ヘクタール。手始めは中庭の花壇づくりと植樹。「授業はそっちのけ」(本多さん)で、カンカン照りでも、北風が吹きすさぶ中でも、仕事は続いた。春休みや夏休みも、もちろん棒に振った。

以来5年。植樹はツツジ、サクラ、リンゴ、サルスベリ、ケヤキなど。三十種類を超える。タケの柵つきの花壇は鉄筋三階建ての校舎の周りにいくつもできた。花は季節ごとに変える。春はチューリップ、クロッカス、キンセンカ、夏はケイトウ、サルビヤ。秋はコスモス、キク。

木や花代や道具等の経費ははじめ、PTAが援助していたが、いまは学校が負担している。

仕事は「グリーンづくり」に限らない。時には「便利屋」に早変わりする。校内にころがる使い古しのイスを集め、修繕してペンキを塗り、まとめてベンチを作る。ペンキがハゲれば、いつでもハケをとり、コンクリートがくずれ落ちれば、さっそくコテを持ち出す。

赴任後間もなく、生徒が子犬を抱いてきた。あまりかわいいので、バスケットに入れ、当時住んでいた保谷市のアパートと学校を往復した。みんなで「太郎」と名づけ、かわいがった。この太郎が六匹の子を生んだ。失踪したり、ゆずってやったりして、残ったのが、いまいる「小太郎」。職員室の前に小屋を作ってやった。いま、生徒や職員が代わる代わるエサを運ぶ。

本多さんは言う。
「取り立てていうことでもないですよ。木が生い茂り、花が咲き、動物がたわむれる。これはごくこく当たり前のこと。そのことがわかったら、実践に移すまで」   
本多さんの仕事ぶりを見て「何か手伝いましょうか」と馳せ参じた生徒グループが二つある。園芸部と「土建会社」と名乗る二、三十人の有志の集まり。

「本多先生と働くのが楽しい。先生というより先輩という感じ」というのは、前園芸部長の相羽きよみさん(17)。土建会社の「社員」の一人、東条容行君(17)は「地道にコツコツやる先生の人柄にひかれた。サラリーマン教師と違って、どことなく味がある」

最近では卒業生もときおり、手伝いに顔をみせる。

本田さんはいつか、校内に馬も飼い、生徒を乗せてやりたい、と考えている。


以上、、私は本多先生と同じ年に鷺高に入ったので、学校の変容ぶりをリアルタイムで見ていたことになる。お隣の武蔵丘高校は学園紛争でバリケードがはりめぐらされていた、過激派もあれば大阪万博もあった1970年という、その年だった。殺伐としていても、ちっともおかしくない。

一人の教師によって高校の環境が徐々に変わって行った、、私の場合、毎年、春になると木々の受粉の匂いとともに、その頃よく聴いたフランクの交響曲ニ短調を思い出す。

8.今朝、2歳6ヶ月になる次女は、保育園に行く途中、わたしが「シロ、ジャンジャン、はんぶんこ」と口ずさむと、「ウルサイ」と言った。「アーサイ」とは言わなくなった。ささやかな成長、、である。

再び、小人の話

さきほど、NHK「こころの時代」で、栃木県、益子にある真言宗の西明寺の住職であり、医師の田中雅博さんの話を見聞きした。田中さんは1946年生まれ、2017年03月21日に膵臓がんで亡くなられた。2014年10月に末期のステージ4bの膵臓がんが見つかり、おそらくは手術不能で、2年5ヶ月生きられたことになる。NHKの映像で見る限りだが、痩せてない、血色の良いその顔は末期患者には見えなかった。多くの進行がん患者によりそってきたことと、その人相は深い関係がある、とわたしは見ている。宗派にとらわれてはならないなと自分に言い聞かせた。その人の立ち居ふるまいが大事、、人として立派な相をされていた。

さて本題、このところ、25年前の出来事か脳裏をかすめる。あれは何だったのか?が気になるのだ。以前、このブログに書いたにので、くりかえしになるが、ふたたび、具体的に、細かい機微を書いておきたい。

まず、ある掲示板の記事を以下に貼付する。わたしの体験とよく似ていて、いささか驚いた。

投稿日時:09年 07月 20日 19:46
3ヶ月くらい前に50歳代の上司より似たような話を聞きました。
朝方、腰のあたりに違和感(重さ・人の声)を感じ目を開けたところ・・・
身長約15cmでス-ツを着ている60歳くらいのおじさんが、『ヨイショ!ヨイシヨ!』と叫びながら上司の掛け布団を剥がそうと一生懸命引っ張っていたというのです。
一瞬何が起こっているのか理解できず、数秒程(身動きできないまま)見とれていたところ、そのおじさんと一瞬目が合ってしまったそうです。(不思議と恐怖感はまったく感じなかったそうです)さすがにびっくりして思わず目を瞑ってしまったら、あっという間に消えてしまったとのことでした・・・

そんな経験は生まれて初めてだそうで、『霊感も全くないのに、あれは一体なんだったんだろう?不思議だ・・』と言ってました。
とても真面目な方なので冗談を言っているとは思えませんでしたし、『夢』では絶対無い そうです。 (毎日夜10時に寝て、朝5時に起きる生活を続けている方です)


上記の体験を「09体験」と呼ぶことにしよう。09体験は私の場合と、とてもよく似ていた。自分一人だけでないことがわかり、妙にうれしかった。赤い字が私の体験と同じで、青い字が異なる。比較として、わたしの体験は「92体験」と呼ぶことにする。思いつくままに、箇条書きで、表すとこうだ。

1.いつのことか、、1992年秋頃からか93年冬にかけてだと思う。当時、蝸牛社の三年日記をつけていたが、その月日を特定できていない。日記の字が小さく汚く、読むのが煩わしいのだ。

けれど、C型肝炎治療として、1991年11月2日からインターフェロンαを筋肉注射を始め、いっこうに改善の見込みがないので、半年後か・インターフェロンβという静脈注射に切り替えて、その後の出来事だった。ちなみにインターフェロンβは1993年3月くらいで中止している。ウィルス量は全く減らず、ウンともスンとも言わない、その効果が見込めなかったからだ。忌々しいにもほどがある。

92体験は、夜ではない。昼過ぎから夕方になる前の、陽光がある時間帯に起きた。カーテン越しの日の光ははっきり入っていた。

2.どこで、、私が一人で住んでいた自宅だった。平面積50平方メートルほどの古い(1971年頃の建売)、小さな木造2階建ての2階の部屋だった。そこに布団を、ほぼ敷きっぱなしにして寝ていた。畳部屋で、ふすま2枚分の押し入れがあって、、そこで起きたのだ。

3.あらためて日記を見返しても、やはり、その日は出てこない。その日は、晴れで、週3回のインターフェロンβの注射をうちにバイクで御茶ノ水の順天堂病院に出かけたのだ。目白通りをまっすぐ、高田馬場をつきぬけ、飯田橋方面に向かい、途中左折して後楽園に抜けて病院に到着、所要時間は約30分。受け付けてもらってからが長い、1時間以上待つ。よくみかける肝炎患者が何人かおられた。そして、毎回、β注射は静脈注射なので、渡辺純夫先生に射っていただいていた。サッと注射され、ひと呼吸するとジワジワと身体のなかで騒乱が起き、今日も1時間以内に高熱が出ると予感させた。会計を済ませると、一目散に自宅へ逃走する、2階に上がり、布団に入ると、ドバっと熱が出始め、まいったなと、、こんなこといつまでやるのかとつぶやきながら、カラダを横にして眠る。

4.頭は窓の方に、足元は押し入れの方にあった。北枕の逆ならいいだろうと思ってそうしていた。眠り始めたのは14時頃、カーテンをしていたが、部屋は暗くなかった。うとうとしていると、ふと、足元を踏まれた感じがしたのだ、それも数度、ぴょんぴょん飛び跳ねるように踏まれたのだ。痛いじゃないかと寝ぼけ眼で、足元をのぞくと、二人の小人がいたのだ。正確にいうと、足元をみたとき、二人目は押入れから出て来るところだったと思う。そして同じようにぴょんぴょんはねたのだ。二人目は女性のように思えた。二人とも服は白っぽかった。向かって右側が老いた男の小人、左側が老いた女の小人が立っていたのだ。夫婦だろう。

5.小人の身長は80cmくらいはあったと思う。ネットで見かけるような15cmような、小ささではなかった。現在、2歳5ヶ月になる次女くらいの身長は、あった。あの二人は他者だった。夢ではなかった。私の幻覚が作り出したものではなく、私の外に実存する人たちだった。そう、実感していたのだ。おそらく、彼らもなんだか訳が分からずに、私を異界の人間として見ていたと思う。押し入れの麩が、異界との境目、そのドアノブだったのだろう

6.わたしとハッキリ目があったのは老女ではなく、男の老人の方だった。老女の目線は下向いていた感じがする
老人と見つめ合うこと1秒以上か、眼は驚きと恥じらいとが、ないまぜになっていた。上から目線ではなかったし、威嚇するような感じもなかったし、まして守護霊のような感じもなかった。フラットな関係で、「あぁ、みっかちゃったね」という、鳩の豆鉄砲のような表情をしていた。善人の眼をしていた。鼻のあたり赤かったかもしれない、白い服とは対照的に、顔の皮膚は浅黒く、カサカサしていたかもしれない。

7.知り合いでもないのに、全く、怖くはなかった。理性は遠のいていたのかもしれないが、実にリアルだった。

くりかえしになるが、、
最初は視覚でなく、触覚だった。足元の掛ふとんを踏まれて、数度ぴょんぴょんと踏まれて、痛かったのだ。踏まれた感じでは、二人は、よく、旅先のベットで飛び跳ねて喜ぶ幼児の心境に近いものだったかもしれない。一瞬、二人が楽しんでいる感じが伝わってきて、金縛りになるような恐怖感はなかったのだ。

なので直情的に、腹がたった。怒り声で「オイ、何やってんだ、いきなりやって来て足を踏みやがって、、ちょっと痛いんだよ!!オイ、聞こえてるか、」と大声をあげたのだ。わたしの声に、二人は、きょとんとした表情、驚きから次第に困惑したような顔になっていった。

後になって、どう思い返しても、彼らは他者だ、私の脳が勝手に創った人たちではない。それと、ドアとか、引き戸とか、ふすまとかはパラレルワールドとの「仕切り線?」という意味で、必要な装置だったかもしれない。

09体験のように、スーツ姿ではなかった。白っぽかったし、ラフな感じの服で、日常街で見かけるような服でではなかった。

「あのさ、今、悪寒のような熱でまいっているんだ、だから、あなたたちの事情はわかんないけど、そっとしておいてもらえない?」と、わたしは告げたのだ。

「とにかく、あんたがたが、掛ふとんをぴょんぴょんしなければ、こっちは、煩わされず、気づくこともなく、寝れたのに、余計なことをしてくんなよ」と告げたが、そう言う前に、二人はぴょんぴょん跳ねるのをやめていた。

「あ、ごめん」という顔を、男の小人はした。そこであらためて横になってみると、男の小人が布団の右のはじから回り込んで、わたしの背中部分の掛ふとんをトントンして、背中に冷たい空気が入らないようにしてくれた。となると、この出来事の季節は、秋が深くなった頃、初冬の頃かな?

「わるいわるい、気つかってくれて、ありがとう、大丈夫、これでよく眠れそうだから」とわたしは言った。そしてもう一度老人をみると、うなづくようように顔をたてに振り、じゃぁな、右手を上げた。その眼は「あなたは、大丈夫だから」と言ってくれているように見えた

そうして、老女を押し入れの上にあげ、続いて老人が這い上がり、消えていった。

8.少し眠ったが、、まてよ、この家には俺しかいない。近所に、あの二人が住んではいるとは思えない。それに今日は母親が世話をしに家に来る日ではない、、となると、あの二人は不法侵入者か、、とガバっと起き、押し入れのふすまを全開にしたが、何の気配もなかった。

以上が、わたしの92体験だった。出来事から25年の歳月がかかって、C型肝炎は完治したが、直観で、92体験とC型肝炎は関係があると思っている。

何故か、またいつの日か、ふたたび二人があらわれる気がする。わたしの最期のときに、ひょこっと、、そんな気がしている。そのときは何か小物の物物交換をするように、今から記憶のフックをかけておきたい。

追記、その後、家は建て替えて、今、二人がぴょんぴょん跳ねていたあたりで、寝ている。現れそうな押入れは、もうない。

母校47年下の後輩

1.きのう2月ぶりに、三鷹で頭髪のカットとヘナをやった。20年以上前からずっと、オーナー店長にカットしてもらっているが、このところ開口一番、店長の父親の病状たずねるようにしている。大腸がんから肝臓に転移されてから、2年以上過ぎていて、同病だったものとして、気になるのだ。

「父は、今のところ大丈夫です。5月の連休に見舞いに、実家に帰る予定」と店長は言われた。

2.そして、この4月から店長の次女は、都立高に入学したけど、「どこに行ったの?」とたずねたら、「鷺宮高校に入学した」と教えてくれた。ギョッとした。わたしの母校だからだ。次女は47年差の後輩になる。なんだか、愉快な気分になった。善きかな。

3.次女は、府中の試験場に近い自宅からバスに乗り、花小金井駅経由で西武新宿線の都立家政駅まで、土日も含め、毎朝6時に起き1時間の通学、剣道部朝稽古に出ているそうだ。すばらいい精進だ、脱帽。女子剣道部員8人と少ないが、団体戦は強いらしい。

4.鷺宮は昔から偏差値51くらいと高くはなかった。当時の高校入試は群制度で、鷺高は31群と第三学区で、もっとも低い偏差値の普通高校3校の一つであった。おまけに、その3校どこに行くか受験生は選択することができないという不自由さがあった。

5..それなのに、不思議なこと、わたしの同期には東大、千葉大、山形大、都立大とかに進学した人がいた。そのことを卒業してだいぶ経ってから知った。医者もいれば獣医もいたし、美大の教授もいた。勉強する人はひたぶる勉強していた、ということか、解せない。あいつら、いつ勉強していたんだろう。浪人してからか、、

6.鷺高は、軽音楽部とかクラブ活動がさかんで、伝統的に、ブータンのように、「シアワセ度の高い」高校だった。私たちがいた頃は、「恋愛の鷺宮」と言われたが、47年差の次女の鷺高の印象は、校舎は新しいし、私の鷺高観とは全然違うものに違いない。次女は看護師になりたいようだが、3年間、剣道に励むことができるなら、必ず看護師になれるに違いない。

5.私と同期の、作家群ようこの「都立桃耳高校」書き下ろし文庫小説2本立てを次回、持っていくう約束をした。大して参考にはならないだろうが、創立100年超えの都立高校の何かを感じてくれれば、幸甚。ちなみに、群ようこなる女子高生が当時、どんな人だったか、今もって、わからない。

その「都立桃耳高校」の、Amazonのコメントを以下にコピペする。私の1年先輩の方が書かれていて、響いてくるものが多々あるり、不思議な、あたたかい気分になった。先輩に感謝、、

夢のように・・・・・・過ぎ去り。
2014/4/21 投稿者 taka

1970年前後の都立高校の様子がよみがえりました。

私もリアルタイムに経験できた事を還暦が過ぎた今、ほんとうに楽しい思い出として残っています。実は私、群さんと同じ高校の一年先輩にあたります。そして、都立桃耳高校は創立100年をこえる実在の高校なのです。

群さんは小説としてお書きになっていますが、内容のほとんどが実際のことなのです。登場の犬の太郎は70年に赴任された、漢文の先生がどこからか拾ってきた犬でした。漢文の授業中は、教室の後ろで丸くなっておとなしく眠っていたものでした。

当時の新宿あたりや学校周辺の喫茶店は今でもあるのでしょうか。特にFには毎日のように寄ったっけなぁ~。

ロッカーのオカイくんやモリゾノくんは、のちに日本を代表するプログレッシブグループの中心メンバーとして大活躍しました。オカイくんとは去年の同期会で会いましたが、相変わらず良いやつでした。

私は1969年に入学しましたが、70年安保や大阪万博など毎日がお祭りでした。音楽でも芸術でも、何もかもがアグレッシブで希望に満ちた時代だったように思います。単なるノスタルジーではなく、ほんとうに良い時代の青春でした。


ちなみに、Fとはフジノキというケーキ屋さんのことだろうが、喫茶はなくなった。オバケモない。今も当時のイメージのまま存在するのは、校門に近い「水庭ビリヤード」だけかもしれない。

ともあれ、47年後輩のアキラさん、貴女の未来は明るい、頑張れ、、

髪を切りに行く

1.先日、2ヶ月ぶりに髪を切った。ボサボサなのも嫌だったが、ヘナが落ち、白髪が目立つのが気になったからだ。いつも三鷹駅南口まで、行っている。28年前から、そこに通っている。

2.そういえば25年前、1991年11月だった、一番最初のインターフェロン投与のために、2週間、御茶ノ水の順天堂病院に入院したとき、許可をもらって、三鷹のその店まで切りに行ったことを、思い出した。

3.その頃、全身倦怠感の極致で、秋の枯葉とか、夕陽がセピア色に見えてしかたがなかった。友人が見舞いに来てくれ、待合室で話していると、すこし離れたところにいた同じ階の患者さんも、セピア色に見え、あぁ、俺はどうなっちゃうんだろうとつぶやくと、、友人が「あの人は黄疸が出ているね」と言ったので、あっそうかと納得した。

4,血液型がAB型と判明したのも、その病院だった。昔、日大病院で扁桃腺手術をしたとき、耳から採血されB型と言われた。なので、ずっとB型と思い込んで生きてきたのだ。そのことを順天堂の若い担当医に告げると、「それは、日大の医師がAB型と言ったのを『エ〜ッと、B型です』と聞き違えしたのでは?」と切り返された。落語のようで笑ってしまった。

5.当時、その病院に、長谷川労働大臣が入院していた。おかげで、宮沢喜一や福田赳夫 など、偉い政治家をまじかに見た。福田さんは単身でひょいと歩いていて、黒澤の映画に出てきそうな人だった。

6.もう一つ、1階のエレベーターで待っていて、扉が空くと、パジャマ姿の小さな可愛らしい男の子が出てきて、驚いた、頭の左右に緩やかなツノが出ていたのだ、、キケイか、そう生まれて来る子も、と素朴に驚いた、だからなに?だが、そのことを書いておきたい。

7.外出許可は、もう1回とって、東京モーターショーに一人で行った。チケットがあったからだと思うが、、わかったのだ、自分はクルマにはさして関心がないことを。どんな車が出ていたか、全く覚えていない。シーマかな、そんなクルマがあったっけ、、

8.戻る。三鷹の店に行くと、開口一番、いつも「福田さんは来ました?」とオーナー店長にたずねる。次に店長の父親の体調をうかがう。大腸がんステージ4で、肝臓に転移しているが、大丈夫そうで、ひとまず安心する。

9.店長に「前回、ヘナをやっても、すぐとれてしまったんだけど」と尋ねると、
「ヘナは、髪の毛のタンパク質がしっかりしていると、落ちない」と言ってくれた。
そうか、そのタンパク質とは、コレステロールだなと気づき、、

10.「卵とコレステロール」を検索すると、、

卵は髪の毛を健康に保つために必要な4つのミネラル、セレニウム、鉄、亜鉛、硫黄が含まれています。

それだけでなく、タンパク質やビオチンもたっぷりと含まれています。ビオチンとは、髪の毛の成長を促し、頭皮全体を健康に保つ、ビタミン B 群に分類されるビタミンの一種です。

また毛根細胞に酸素を供給するために必要な鉄分も豊富に含まれています。そもそも卵一つで、ひよこができる事を考えれば含まれる栄養素は計り知れないといえますね。「完全栄養食品」と呼ばれるのも納得です。

卵の話になった時に欠かせないのが、コレステロールの話です。私も昔は親から「体に悪いコレステロールがたまるから」と聞かされ、卵の食べすぎに注意していました。しかし、現代の医学では卵を食べてもコレステロール値は上がらないという事が解明されています。

髪のためにも卵は毎日積極的に摂取していきましょう。


一段と意識して、1日3個以上、ゆで卵をたべよう!

1980年の夏の思い出

1.俳優 平幹二朗さんが自宅の浴槽でなくなっていたようだ。82歳。ご長男の岳大さんが発見した、という。健康管理に注意さるていて、よく歩かれているとチラッとテレビで見た気がする。現役であり、今も仕事が入っていたという。大河の「国盗り物語」の斎藤道三が記憶に残っている。

1-2.わたしの姉が、あるとき新宿の方で、平幹二朗さんとエレベーターで一緒になったことがあった。二人だけで、そのがっちり体躯を見上げると、目があい、かるく会釈したら、平さんもそうされたという。そして1階に着き、扉があくとサッと歩きだされ、瞬く間にいなくなった、その速さに驚くばかりだったと言っていた。

2.思い出を一つ、、1980年夏の軽井沢で、レイクニュータウンという場所だったが、佐久間良子さんと二人のお子さんに会ったのだ。たしか双子で、就学前の男の子と女の子だったと思う。男の子が岳大さんだ。夫婦が離婚する4年前の夏だろう。たしか、プロテニスプレイヤーの渡辺功さんもおられた。

3.その頃知り合った、たしか横山さん、野口さん 、平田さん、中一番とか名前が浮かんでくるが、1,2時間、遊びみたいなテニスをやったのだ。渡辺さんが佐久間さんにテニスを教えられているところに加わったのかもしれない。もう定かでない。佐久間さんは、凛とした感じで、大きなサングラスをかけておられていたので、きれいな方だったのだろうが、目をみることができなかった。ただ、そのポッコリしたお腹が記憶に残っている。もう77歳になられているのか、、月ひの流れるのははやいものだ。

4.わたしは25歳だったが、空虚感があって、半年間、無職でいた頃だ、、なぜか、フランス語にこだわり、しばらく日仏学院に行っていて、そこで知った人たちだった。碓氷峠に近い横山さんの別荘に行ったのだ。佐久間さんは横山さんの母親と友人関係ではなかったかな、、とりとめない話になりそうだ。

4-2.フランス語をやろうた思った動機は、大学の第二外国語で仏語2単位を落としてしまい、そのために5年目も通うハメになり、その悔しさが影響していた、のだと思う。が、もうとうに仏語なんて、忘れた。語学の天才、井筒俊彦さんの爪のあかでも飲めていたらなぁ、

5.ただ、その夏、軽井沢のメインストリートの茶店で、6人くらいの仲間たちと、昼間から、よく笑ったものだ。お酒も入ってないのに。なんであんなにおかしかったのか、たしか通りを歩く人たちが笑いの素材になっていたな、、

ともあれ、平さんと佐久間さんの二人のお子さんは、表情が暗かった、そんな印象をもっている。

6.その平岳大さんのマスコミ向けのコメントをそのまま転載しておきたい。三十数年前、あの翳りを抱えていた男の子が、立派な大人になり、こういう言葉を発信する、、長い父子の物語を観るようで、、感慨深いものがある。

この度は、父、平幹二朗の突然の訃報でお騒がせ致しまして誠に申し訳ございません。10月22日より本人と連絡が取れなくなり、翌日自宅を訪ねたところ、浴槽で穏やかに眠っている父を見つけました。

この度の事で番組関係者、舞台制作関係者様に多大なご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。父が俳優として恵まれた人生を送れたのも、偏に皆様との出会いによるものだと感謝致しております。

子供の頃、長い間、父と会わないで居る時間がありました。私が俳優になってからは、その失われた時間を取り戻すように、先輩として、演技の師として、そして父として濃密な時間を過ごすことができました。

生前、親交を持たせて頂いた方々、ファンの皆様、心より御礼を申し上げます。

尚、葬儀、告別式につきましては、詳細が決まり次第ご報告させていただきますが、私の会見等は行わず、この書面にて代えさせていただきますこと、ご理解ください。何卒宜しくお願い申し上げます。

平成28年10月24日 
平岳大


恬淡として、心ねが表れていて、いい文章だと思う。

名優が去っていく、、緒形拳も、平幹二朗もいってしまった、、仲代達矢は足元がおぼつかなくなってしまったし、現役で立ち居振る舞うことができそうなのは、山崎努だけかもしれない。人間の深淵をみせる名優は、その国の宝にほかならない。1950年代以降の生まれの中に、果たして、彼らのような役者がいるのかなぁ、、

いた、1952年生まれの、イッセー尾形は名優だ。お笑いの要素が入っているが、名優だ、と思う。

アッピア街道

1.昨夜は小学5年の長女を連れて、池袋の東京芸術劇場で、レスピーギ作曲「交響詩ローマの松」を聴いた。その曲の生演奏は初めてだったが、この曲は生だと、こうも違うのかと、、感動した。最後のアッピア街道は、パイプオルガンが超低音をかなで、ホール最上階の右から、それぞれ3本のトランペットがファンファーレを響かせる。ローマに凱旋する帝国の軍隊を連想したが、、

1-2.レスピーギは1926年1月15日に、みずからフィラデルフィア管弦楽団を指揮してこの曲を演奏するにあたり、プログラムに次のように記している。
『ローマの松』では、私は、記憶と幻想を呼び起こすために出発点として自然を用いた。極めて特徴をおびてローマの風景を支配している何世紀にもわたる樹木は、ローマの生活での主要な事件の証人となっている。

2.わたしの場合は、この曲の前半は黒澤の映画を想い起こしたが、最後のアッピア街道はミレニアムの2000年の秋、ローマで実際に観たアッピア街道の遠景を思い出した。

3.松の木が、均等に並んで見えた。日本の松と違い、すっと屹立していて、枝葉は木の上にしかないので、これが松なの?と思いつつ「来たぞ、アッピア街道!」と叫んだものだ。街道に足を踏み入れ、2000年の時空を感じた。黒い石が敷き詰められていた。古代キリスト教徒が眠るカタコンベは閉まっていて入れなかった。また、帝国時代の水飲み場のところで老人に話しかけられたが、イタリア語が分からず、微笑むばかりだったな、、

4.街道を歩きながら、ローマに戻る。小説「クオ・ヴァディス」で知ったドミネ・クオ・ヴァディス教会をめざしたのだ。ペトロがローマから逃走し、アッピア街道を下っていたとき、彼方からイエスが現れ、ならばわたしが行き、ふたたび十字架にかかろうとペテロに告げたという。ペトロは慚愧の念にたえなくなる。うろ覚えで正確ではない旨、赦されたい。

そうか、、レスピーギはローマ軍をイメージしたのではなく、復活したイエスとともに、ローマに引き返すペトロの様相を想いおこして、曲にしたのではないか、、パイプオルガンの音は地を揺り動かすペトロの回帰を暗示しているのかもしれない。

追記、どうやら、パイプオルガンはオリジナルの編成にはないようだ、だが断然加わった方がいい。長女は感動しなかった様子だたが、わたしはなんか大事なものを得た気がする次第。

感想、映画「人間革命」

今は2015年2月17日(火曜)だが、
このブログの日付けは還暦になった
その日に、遡らさせた。

まったく一人言であり、
人の目にとまらせないための、
ささやかな工夫だ。

昨日2月16日、映画「人間革命」のDVDを見た。
40年ぶりに見たのだが、、今見ても、
丹波哲郎はさぞかし大変な思いをしたことだろうが、、

彼はそのときの苦労は語らず、
やがて霊界だかなんだか、
わけのわからないことを始めだす、、
丹波哲郎さんは一種の憑依体質だった
のかもしれない。カオナシだ。

映画に戻る。実に説明の多い映画だが、
十界論がテーマの中心になっていたが、
私は、次の細部に目がいってならなかった。
脚本家の橋本忍の抽象力?を感じた。

あえて敬称を略す。

1.牧口常三郎と戸田城聖は、日蓮仏法を始める前から
固く結ばれた師弟関係であった、ということだ。
財政面から牧口の構想を支えたのだ。
牧口の価値論に対する共鳴もあったのだろうが、
牧口の人格に強く惹かれたのだ。これは重要な事実だ。

2.戸田城聖は治安維持法によって刑務所に
収監され、やがて「仏とは生命の別の名」という
深い気づきに到達したが、
そう気づく下地、淵源は、時習学館の時代、
黒板に犬と書き、子どもたちに
「さあ持って行きなさい」と教えたことに
通底する。

3.畢竟、名前を知ることはそれを
持つことと同じなのだと。受持即観心。
日蓮は、宇宙と私たち生命に対して、
南無妙法蓮華経という名前をつけたのだ。
プラトンは「善のイデア」にとどまったものを
やすやすと超えた。本仏だから、できたのだ。

4.私見だが、日蓮の名も、生命の異名に
他ならないとも思っている。

「分子生物学的にみて、
真核細胞という生物は、一個の核とミトコンドリアから
なる。核は太陽に通じ、ミトコンドリアは蓮に
通じる」と考えると、深く納得できる。
今のところ、こんなこと言うのは私だけだが。

5.戸田城聖の独居房での「所属と無所属」の問題。
映画には出てこないが、戸田城聖はもう一つ
到達したものがあった。
法華経のドラマ、虚空会の中に
実は自分もいた、という自覚だった。
それからたちどころに、法華経が読めるように
なる。ただ、思い出したのだ。
そして戸田城聖は、出獄後、牧口の価値論を封印し、
法華経と日蓮遺文「御書」から指導を始める。

6.私見だが、人は誰でも、
所属の時間と無所属の時間を持っている。
獄中の戸田城聖は、どうだったのだろう。

牧口常三郎のことが心配でたまらなかった
だけでなく、意識は、所属と無所属をいったり
来たりしなかっただろうか?

所属とは、経営者との立場であったり、
その団体の理事長という立場だったり、
属しているという意識であったり、する。
無所属はそこから離れた意識のことだ。
そういう反芻があったに違いない。









鷺高祭に行った

何十年ぶりに、わが母校、
鷺宮高校の文化祭に行った。

小3の長女に、都立高校の違いを
徐々に教えておきたく、家内と
三人でたずねたのだ。

調べると、自宅から近くの都立高校は
豊島、板橋、大山、練馬、田柄、
光が丘、武蔵丘、大泉、石神井、井草
そして鷺宮と11以上ある。

高校をどこにするか、は人生最初の
大事な選択になる。学校のおかれた
地域環境、友人、部活の影響は計り知れない。

我が家の場合、私立は選択肢にない。
また利便性の悪いところは眼中にない。
西や富士や豊多摩なんて、
かりにその実力があったとしても、
我が家の場合、遠くてはダメだ。

今から少しずつ、
本人が自分で違いを感じ
とれるようにしていきたいのだ。

わたしにしても、
都立高校といってもさまざまで、
戸山や新宿になると、その意味は
全然違うことを、恥ずかしながら、
今頃になって、ようやく、
わかってきた次第。

偏差値の高低だけの問題ではない。
まさに、各高校文化の違いを、
還暦まじかになってわかったのだ。

都立高校を一括りに捉えていた。

鷺宮高校は今、
偏差値50くらいだが、
独特の文化を形成している気がする。

たとえば笑いを誘う短歌風の詩歌だ。
自分たちの頃も似たような言葉が
校内誌によく載せていたものだ。

鷺宮DNAは連綿と続いているな、

今は、
軽音楽部と書道部がすごいことを
あらためて、知った。
ならば、書道部の作品を長女に見せよう。

15時ころ、到着したが、
校舎はまったく新しくなっていて、

自分がいた頃の面影は、、
授業をエスケープ?ふけるために
乗り越えていった「ベルリンの壁」は
跡形もなく、、

木々が4本程度の「ゲーテの森」は
あったが、、寂寥感はぬぐい難い。

私たちのときは、
文化祭の最後はキャンプファイヤーを
やるのが楽しみだったが、
もう、その企画はなさそうだ。

つきひは流れ、
全てが変容していることを
あらためて実感してしまった。無常だ。

見た目、男子生徒は幼い感じがした。
女子はかなりの子が、化粧をしていたが、
身ぎれいな感じがした。
擦れてはいないな、、重要なことだ。

1年教室が3階にあり、
3年が1階に教室にあったのも、
違和感があった。

生徒たちは、クラスごとに
オリジナルTシャツを作っていて
なるほど、わかりやすい。

PTAの母親たちも、出店している
ことも、驚きだった。

私たちの時代は、親なんて、
入学式に来ただけだったが、、。

まぁ、、

鷺宮高校の変わらないところは、

白鷺のように、明るく、
たおやかな三流、であることだろう。

この3年間で、生きるチカラを
養ってほしい。

来年も見に行きたい。



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