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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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大熊信行先生の不思議

わたしが出た創価大学は、もうじき創立50年になる。よくぞ50年、、しかも、あの小さな白亜の学舎から大きな発展を遂げ、続けていて、世間の偏差値ではわからないだろうが、在学生の質は、格段に上がった。

わたしはその三期生で、しかも斜に構えて、窓際族のように、生息していた。

現に、クラスに一人、学会とは無縁の奴がいて、そうか、俺も彼のような立ち位置で行こう、1年の終わりに決めていた、気がする。

ちなみに、彼は一人で山の縦走したりするのを好み、野ウサギを食べたり、一クラス53人の中にあって、ボサッとした風貌で屹立していて、不思議な男だった。

さらに思い出すと、1973年の滝山祭で創立者に遭遇したその彼は、創立者から「わたしの仇をとってくれ」と直接言われた、と教えてくれた。それを聞き、なぜか、わたしは「面白い!」と声をあげて喝采した。創立者に対して、当時、様々な思いがあったのだろう。例えば、三田にいた福沢諭吉のように、学内に住んていただけたらいいのに、思ったりしていたのだ。

つまり、わたしは場違いな学生だったし、逆に「甘えの構造」(懐かしい本のタイトルだ、、)にどっぷり浸かっていたのだ。

はっきり覚えている。わたしは大学に、夢心地で、甘えていたのだ。生協での不始末とか、、

70年代、創立者は一段と激しく目まぐるしい、疾風怒濤の中で戦っておられた。

当時、創立者の振る舞いは、戦艦ポチョムキンのモンタージュ映画ように、動きが速くに見えたし、その醸し出す空気感が違って見えた。この感覚は、カルト教徒的な、潜在的心理傾斜に起因するものではない、素の事実感覚だった。

大學草創期、やや高齢ではあったが個性的な教授が何人か、おられた。哲学の刈田喜一郎先生、経済の大野信三、刑法の久礼田益喜、社会学の樺俊雄(樺美智子の父)、、そしてわがゼミ、民法、農業法の宮崎俊行先生(ただ先生は創立者と同年てお若かった)とか、、

大熊信行先生はその筆頭で、常に書いている人、というイメージがあった。入学式の壇上の左側最前列におられ、創立者の講演「スコラ哲学と現代文明」だったか、を身体を傾けて、手帳に何か筆記していて、この老教授は、何か違うなと感じさせた。

創立者自ら一人で、高輪の大熊先生のお住まいまで赴き、教授陣に加わっていただくように、、まさに三顧の礼で招聘された経済学者だったし、国家悪とか、時事論壇の一旗頭でもあった。

左から右へ、思想遍歴の社会学者 清水幾太郎は、大熊先生から指弾を畏れていたようだ。そのことは、またいつか。

大熊先生の経済学は、近代経済学とマルクス経済学の統合にあると表明されていたが、数量経済学ではなく、ひたすら文章で
論理立てされていて、素の学生であった私には、憧れたが、よくわからなかった。

思い出した。1年の経済学単位を落として、
3年のとき、大熊先生の経済学を受けたのだが、、カーライルやエマーソンの文学論みたいな授業で、年間計30回の授業で、数回しか受講しなかった。

さらに、思い出したことが、、
2年のとき、グランドに在校生が
集り、創立者が短いスピーチをされた。

海には、コワいフカが、いる。
フカ、フカ、フカ、、
不可ばっかりだ、、、

それを聞いて、在校生は
ドッと歓声?のような大きな笑いが
起きた。

創立者は、在学生の成績表を一覧されて
惨憺たる状況に、慨嘆されたのだ。

わたしも、大笑いした。
それって、オレのことだ、と。
わが成績表は、大量の不可ばっかりだった。

理由はいったん不可をとり、再履修は好きな教授の講義を受けようと決めていたからでもあった。

でまぁ、大熊先生の経済学を再履修で選択したのだが、最終のテストで、わたしがやらかしたことを、、告白しておこう。
いまさら単位取消には、ならないだろうから、、こうだ。

年度末の単位認定テストで、わたしは設問とは全く異なる答案を、試験教室の隣で書いた。

事前に縦書きの答案用紙をどこかで入手したのだ。カンニングではないが、単位取消になって当然の行為だった。が、わたしは自問自答の案を、やや興奮しながら書いた。結構幸せな気分で、ひたすら大熊先生に見てもらいたい、、そんな気分だった。

それは、古代西洋哲学の田中美知太郎の次の大熊先生への抑制の効いた揶揄?に対して批判する回答、大熊先生の経済学の擁護論を書いたのだ。

田中美知太郎は、昭和34年6月の読売新聞 論壇時評でこう書いていた。今、読み返すと、田中美知太郎は大熊経済学の本質に触れることを見事に指摘していた。

文藝春秋の「政治だけが悪いのか」(田中美知太郎)も、同じような政治論であるが、これは哲学的解釈や文学的解釈の形をとらずに、政治の実際についての平凡な意見をのべたまでのものと見られるだろう。

それは一般市民を相手にするソクラテスの語法を真似たものともいわれるであろうが、かの進歩的俗論家たちから、かえって俗論として軽蔑されることは間違いないようだ。

岩波書店、世界の「経済学における人間」(大熊信行)も、経済では引き受けきれないような問題を取り扱っている点で、やはり政治論と関係があるともいえるだろう。

しかしこれは、つづきものの長篇論文の一部分たけを読まされるような感じで、ほかに論者の著書や論文を読んでいない者にとっては、いろいろ不明の点がのこるのではないかと思う。

家族の問題を、国家社会との関係から取り扱うのは、むしろ政治学の伝統的課題ではなかったかと思われるのであるが、

論者は財物と生命の両方にまたがる生産概念の拡大、あるいは統一的使用によって、きこれを経済学のうちに取り入れようとしている。

なかなか面白い試みだと思われる。しかしそれが単なる同語異議の使用にならないためには、もっと厳密な概念規定が必要ではないかと思われるし、

また逆に、概念の同義性だけを確保しようとすれば、得られるものは全く異なる領域の単なる抽象的統一にすぎなくなるのではたいかと恐れられる。

また家族を生命や労働力の再生産の場としてのみ理解することは、経済学として最大限の努力であろうと思われるが、

それはしかし、経済学的理解の限界を示しているようにも思われる。

家族や国家社会の成立を理解するためには、単なる生存のためというだけでなく、よりよい生活のためにという見地が取られなければならないというのが、むかしからの古典的政治学の教えなのである。

以上であった。わたしが尊敬する碩学、田中美知太郎は自分に対する軽いボケを書いたあとに、深いツッコミを大熊経済学にいれた。不覚にも同調の頷きをしながら、後半部分は、それは少し違うと反駁する気分がつのり、大熊経済学の擁護文を書いた。ただ詳細は忘れた、稚拙な文章だったに違いない。

試験終了のチャイムがなり、本来の教室に答案を持ち込み、出す段に、ギョッとした。答案の形式が横書きのものだったのだ、、でも、ままよ、と出してしまった。試験官に指摘されず、受け付けられ、助かったが、、、まてよ、これって厳正な処分になるかな、、と頭の中をよぎりつつ、、

結果は、大熊先生の評価は「優」だった。
なんだか気持ちが通じた気分がしたものだ。

ある時、大熊先生は遠くを見つめるように、こう言われた。

「君たちは、創立者のもとに、ひたすら集まって来た。だがしかし、創立者の本当の偉大さを、まだまだ、何もわかっていない」と。
そう聞いたとき、不思議な気持ちになったことを、、覚えている。

大熊先生は1977年6月、劇症肝炎で逝去された。享年84歳だった。

技能実習の成功体験

16日、勤務先のベトナム人技能実習生ヴィエさんが3年間の雇用契約が終了し、20日ベトナムに帰ることに。

毎年7千人出るという失踪はせず、よく頑張ったな、、感慨深い。

しかもヴィエさんは、塗装3級技能士になれた。13日、東京都知事の名前の証書とバッチが届いた。達成感のあるほほ笑みをたたえていた。

その学科試験の再試験のために、補講を4回やった。学科試験は「自信がない」と暗い表情で言うし、あと4年日本で働きたいと言うのだ。

じゃぁ、ひと肌脱ぐかと決め、過去問を分析し、勝ち取る工夫をし、教えたのだ。

宮本輝、本懐の大作

1週間ぶりに書く。

金曜日、仕事で軽自動車に乗り与野の法務局にいった。運転は数年ぶりのこと。高速の料金所の手前で、事故りそうになった。
あっこれETC車じゃないと直前に気づき、ハンドルを左にきったからだ。後続車とぶつかってもおかしくなかった。
が、無事だった。守られたのだと思う。

作家宮本輝さんの公式サイトを久しぶりに閲覧できた。ログインのパスワードとか、忘れてしまっていて、長いこと見ていなかったのだ。

昨年、宮本輝さんは「流転の海」を完結された。あしかけ三十七年、原稿用紙7000枚を越える偉業。。

ただ、わたしはその1作目の途中で中断して読んでいない。宮本作品を最後まで読み切ることができないで、放ってしまう。たぶん中断するのは、こころの奥底におなじものが流れていて響き合うせいだろう。

まっ、そういう中途半端な読者なので、感想など語れる資格はない。

なのに公式サイトに長いこと書き込みしたりして、、大病を克服したときには、輝先生からありがたい言葉もいただいたりした。感謝。

2018年12月「流転の海」を完結された宮本輝さんは聖教新聞に次の談話をのこされた。その中で池田大作という人を、師と仰いでいると、あらためて表明されていた。そのコトバは謙虚で丁寧だ。その原文を以下に、、

「流転の海」を書き終えて

「宮本輝の父と子を書く時が、きっと来る。いつか書いてほしい」。福武書店の文芸誌「海燕」の編集者にそう言われたことがきっかけで第一部「流転の海」を書き始めたのは34歳の時でした。

第二部「地の星」から文芸誌「新潮」に連載の場が移り、書き終わってみれば全9巻、400字詰め原稿用紙に換算して約7000枚。

「37年間、よくぞ書き続けた。見事にやり遂げた。お前は偉いやつや」と胸の内で自分を褒めました。

37年間、健康でいることができ、本当に守られたて実感しています。

病気で倒れて未完になることがあったら読者に申し訳ない。何があっても書き終えなければという責任と重圧を常に感じていました。

最も身近な伴走者である妻、支えてくださった全ての方に感謝は尽きません。

名も無き代弁者
「何がどうなろうと、たいしたことありゃあせん」

「自分の自尊心より大切なものを持って生きにゃいけん」

最も印象深かった熊吾の言葉を出版社が読者から募りました。中でも多かったのが、この二つだったそうです。

「流転の海」には歴史上の人物が一人も出てきません。何も昭和の歴史を書こうと思ったわけではないからです。それでも、最後は歴史小説を書いているような気持ちでした。「庶民の歴史」です。

戦争は終わったけれども、先も見えない激動の時代。その中で、子どもを育て、学校に行かせ、家族を養うため、懸命に働く人々がいました。

満足に教育を受ける機会もなく、地面を這うような暮らしの中でも、人間としての誇りを手放さず、愛情をもって精一杯生きた。そんな庶民たちの姿、人生の営みを書きたいと思ったのです。

調べてくれた方がいて、全9巻を通じた登場人物は1200人以上になるそうですが、熊吾や房江をはじめ全員が無名の民の代表であり、代弁者です。そういう大きな構想をもって書き始めました。

「生老病死」の劇(ドラマ)


創価学会の断想

久々に書く。
まず、自分本位に書いているにもかかわらず、ここに来てくださる、ほんのわずかの方々に、心から感謝。ありがとうございます。

創価学会の話。2月の座談会は全国的にブロックという最小単位の座談会で、その長、本陣長を仰せつかっているわたしが、座の中心にいなければならない。

正直言って、悩ましいが、これも人生と見切り、地でいこうと決めて、今回も挑んだ。

いつもそうだが、この日も参加者は少なかった。。が、婦人部の方と幹部指導エノモトさんに助けていただき、どうにか終えることができた。

御書は、生死一大事血脈抄のわたしの、好きな断簡だったので、、その肝心な言葉である、臨終正念とは実は自分の臨終ではなく師の臨終なのだと、大白蓮華という機関紙の解説をこえ、踏み込んだ言動をあえて、、した。

わが大学の創立者、創価学会名誉会長である池田大作という人は2019年1月2日で91歳になられた。

日本人の寿命が伸びているとはいえ、疾風怒濤の人生をおくられた池田大作という、わたしたちの師の臨終はそう遠くない出来事になる。もう100歳まで9年しかないのだから。

座談会で私は、先生と同時代に生きている意義を強調したのだ。千載一遇、、

座談会はエノモトさんの指導により、わたしの逸脱も、体裁を留めることができた。

エノモトさんはかつて本部職員の方だったが、偉ぶることは微塵もなく、フラットな目線を持たれている方で、、

町内会の交通安全運動で街角に立たれていて、よく挨拶を交わし、わたしはすきだった。

座談会の幹部指導をお願いした際も、即快諾してくださり、安堵した。

実は、私は創価学会の組織のヒエラルキーに疎く、かつそれでいいと思って、やっているので、エノモトさんの役職もよく知らず、さんづけでお呼びしている。けれど、心からリスペクトしている。身近におられる、一生成仏のお手本ととらえている。エノモトさんの健康長寿を日々祈っている。

追記。
座談会を終えたあと、47年前、エノモトさんが池田先生から託された話をしてくださった。

池田先生は、1973年、創価大学の学生の日常生活をとても心配され、エノモトさんに毎週末、八王子の学生が生活している場所をたずねて、一人一人を励ましに行って欲しい、と託された。

指導をしてはいけない、励ましに徹して欲しい。八王子駅から創立して間もない大学まで、一山越えて、徒歩で向かう学生を見ていると、学会の草創のころを髣髴とさせる、学生たちがかわいそうでたまらない、、と。

そう言われたあと、ポケットマネーから一万円を、交通費としてエノモトさんにわたされ、このことはないしょだよ、、

と言われたそうだ。その励ましは一年近く続いたようだ。

話を聞いていて、一気に1973年の大学の思い出が蘇ってきて、不肖な学生だったなぁ、と万感胸がつまることしきり、、

役者、樹木希林の見事さ

9月26日の追記、、その後も樹木希林さん言葉を追っかけている。

 自宅の床を古着の切れ端でふく作業をしているとき、『もののミョウリ』といわれた。わたしは妙理という仏法の言葉が浮かんだ。ものは徹底的に使いきるという意味合いで、その言葉を発しておられたが、ご自分も、身体を最期まで使いきられたわけで、命の妙理を尽くされた、と感じた。

さらに追記、希林さんが言われたのは「物の冥利」だった。わたしはその熟語をしらなかったが、妙理と冥利は通じるものがあるような気がしている。

最初に戻る、、

15日に亡くなられた樹木希林さんの立ち居振舞いを、しばらく、YouTubeで見ていた。

樹木希林さんの最期の口ぐせは、

『時が来たら誇りをもって脇にどけ』

だった。。

是枝監督が樹木希林さんをリスペクトする、その気持ちをカンヌ映画祭で淡々と吐露していた。

樹木希林さんは、いつも、正直な言葉を使われていた。「心こそ大切なれ」を地でやられていた。ただ者ではない、、だからその言葉が人の心に浸透する。

実は、聖教新聞2015年5月17日(日)8面に対談ゲストとして、樹木希林さんが登場されていた。学会系のものに出られたのは初めてではないかな。映画「あん」の公開前であり、主演女優として宣伝を兼ねておられただろうが、、ここでも、響く言葉を発信されていた。あらためて、見事な役者だった。

こちら側の対談相手は、中泉明彦さんという創価大学看護学部長で、その笑顔がいい、おそらく樹木希林さんは中泉さんに好印象をもたれたのではないか、、その新聞記事が、今、見つかったので、徐々に載せることにする。

《桜花爛漫の創価大学》

中泉 いよいよ映画「あん」が全国公開されますね。ドリアン助川さんの原作を読まさせていただきましたが、美しい桜の描写が印象的でした。

樹木 撮影の時も、本当に見事な桜でした。桜を最高の位置から撮影できる場所を、河瀬監督は見つけてきたんです。

中泉 創価大学にも、創立者池田先生が植樹された桜があります。「出発の庭」の「創大桜」が満開になりましたので、写真を撮ってきました。

樹木 うわー、すごい!

中泉 毎年、創大の春のキャンパスは桜花爛漫です。

樹木 創価大学もそうですが、創価学会の会館はとても素晴らしい建物が多いですね。一度、中に入ってみたかったのよ。

中泉 本日はようこそ(創価国際友好会館に)おいでくださいました。八王子の創価大学にも、ぜひお越しください。

樹木 八王子はちょっと遠いわね(笑い)。ところで、創価大学にはどんな学部があるんですか?

中泉 経済学部、法学部、文学部の3学部からスタートして、現在8学部。看護学部は、初の医療系の学部として、2013年4月に開設されました。『生命尊厳の理念』を掲げる大学ですので、とても大きな意義があると考えています。

樹木 病気で苦しむ人を支える、大変に重要な役割を担っているんですね。

中泉 患者の側に立って、真心の看護ができる人材を育成したいと思っています。

《患者に寄り添うような思いで》

樹木 この映画は、元ハンセン病患者で、ずっと強制的に「国立ハンセン病療養所」に収容されていた、徳江というおばあさんが主人公なんです。

中泉 演じる上で、どんなことに気を付けられましたか?

樹木




樹木希林さんは、マネジメントはご自分でやっていた。学会の建物に興味があったから、対談が実現したのかも
知れない。以下思いつくことを。

①樹木希林さんは、朝、法華経を読誦することを日課にしていると、久米宏さんとの20年前の対談で語っていた。

②樹木希林さんは、ただ質問に応える人ではない。必ず聞き返しくる人だ。たぶん、学会の誰かと真摯な対話をしていたのではないかな、、とそんな感じがする。

③もともと樹木希林さんには商才があった。不動産投資は相当やって、ひけらかさないが、成功されていたと思う。なので学会の建物には関心をもたれていたのは、わかる気がした。

④耳のいい人で、大女優杉村春子のprompterを勤め、杉村春子のイントネーションがおかしければ臆せず「違います」と指摘したという。耳のよさは最期まで衰えはしなかっただろう。もしかすると、夫の内田裕也さんの声が好きだったのではないかな。彼が歌う『朝陽のあたる家』が好きだったという。

樹木希林さんが、もし、我らの池田先生と対話されていたならば、同じ東京人、さぞかし自由自在な対話、、桜花爛漫な光景になっていただろう。

前職社長の読書録に思うこと

13年前に辞めた会社の社内報のコピーが出てきた。豊田徳昭社長の1991年頃の読書録。思想信条は異なるが、さまざま影響を受けた社長だったので、コピーをどこかに残し、たまたま出てきた次第。

20年、C型肝炎もあり、辛酸の続くサラリーマン生活だった。その最後の方で、社長は、ほぼ決まっていた異動をひっくり返す人事の差配をしてくれた。そのとき人事部長らが苦みばしった眼で、わたしを見つめ「もう一度やり直しか、、」と私に聞こえるように言い、会議室に向かって行ったのを思い出す。

しかしながら、その差配は会社にとっても功を奏したと断言しよう。火災保険営業で、抜本的な成長をもたらす仕組みを、作り上げたからだ。4年前か、樋口彰さんがその劇的成長の淵源は私だとを言ってくださったとき、どれだけ溜飲が下がったことか、、

早期退職したとき、退職者十数人で、既に社長を退任されていたって豊田さんを囲んで宴をもうけたが、、くだんの人事の差配は確認はしなかった。ただ、お礼を申し上げたのに対し、元社長は、微笑みで返されただけだったが、、いい大団円だった。

当時、読書録は意味不明のものばかりだったが、、今みるとやや感じるところがあり、、原文のままを以下に載せておきたい。

精神のたべもの

達者で長生きしたいと思う時がある。どんなときかというと、一つは美味いものを食った後、もっと食べたいが腹一杯で、次また食べようと思う時である。

そういう時が頻繁にあるので、食べたいもののリストがあふれ、こりゃー長生きしないと全部喰えないなあとしみじみ思うのである。

もう一つも食いものに関するものであるが、精神の食べものというべき読書でも同じことがいえる。とくに今という時代が面白い。

人類社会の破局と地球生命体の破滅期を迎えあらゆる魂の参戦が始まったことが実感として分かる。いずれにしろ、食って飲んでその間に本を読んでいるのが自分の姿であることがよくわかる。

さてずっと今後読みたい人、もしくは書物の名前を書きつらねてみる。今まで約一万冊接して来た中からどうやらしぼられて来たようだ。それでもあと数回生まれ変わらなければ読み切れないが。

先ず
①ルドルフ・シュタイナーの著作、高橋巌の訳のイザラ書房発行のものが一番良い。難解だが何故現在読まれはじめたか分かる気がする。

②出口王仁三郎「霊界物語」(八幡書店)、これはもう面白い最高の謎である。破格の人物。

③バグワン・ラジネシー、少し食傷気味だが、めるくまーる社から昨年発刊の「大いなる挑戦―黄金の未来」は分かりやすい。相変わらず美しい訳語である。

④名前は知られていないが、太田竜と八切止夫。太田竜は本モノだ。著作には、「日本原住民序説」「日本原住民と天皇制」(新和泉社) 「たべもの学入門」(緑光出版)などがあるが、こんな本は余り売れないので書店から消えている。とくに「たべもの学入門」はすばらしい。

⑤八切止夫は知る人は知る。知らぬ人は全く知らない歴史学者、現在三井記念病院で生活をしているはずだが、もう亡くなったかも知れぬ。この人のも書店にはない。六万円送ったら余った著書を数十冊送ってくれた。戦国史専門だが独自の史観で、アカデミズムにない痛快さがある。私は、歴史は大学教授のものは殆ど信用しないことにしている。

⑥コリン・ウイルソン「アウトサイダー」からずっと追いかけている。もう少し東洋から学べば良いと思うのだが、東洋に媚びないのが、いいのかもしれない。

⑦「一遍上人語録」(岩波文庫)死ぬまで手が放せない書物の一つ。私は親鸞より一遍でス。

⑧南方熊楠・・・大きすぎて食べられない。いつも食いはじめるのですが、「十二支考」(平凡社・東洋文庫)で精一杯。後に残しておこうと思うものの大手。それはそうと東洋文庫を発行している平凡社は一番好きな出版社である。東洋文庫は宝の山、平凡社の歴史選書は中世の宝の山。

⑨今はやりの解読物、イメージリーディング叢書「異形の王権」「住まいの人類学」etcは一気に読んだ。これも平凡社、つぶれないで頑張ってほしい。

⑩現代作家では何といっても中上健次である。村上春樹、龍なぞは何を考えているのかと言いたくなる。

⑪それから森敦、堀田善衛、石川淳、とくに森敦の「われ逝くものの如く」の土着性と宇宙感覚が中上健次と共通しているように思う。女性では上野千鶴子「私探しゲーム」など・・・ 吉本ばななより、コミックの大島弓子の方が上と井上奈美さんが云っていたが、その通りだった。普通は小説の方がイメージが豊かにふくらむのだが、大島弓子の方がイメージが豊か。

⑫文体が好きなのは東海林サダオと椎名誠、そしてジャズピアニストの山下洋輔。その他ではシドニーシェルダン、「明日があるなら」「ゲームの達人」最近新しいのが出たが、書店で上巻が売り切れ。芹沢公治郎の話題作「神の微笑」ほか「神の・・・」シリーズ。


以上。まず、感じたのは、わたしも似たような書き方をするな、ということ。

私見だか、うまい下手関係なく、どんな文体であっても、書いた人の気が醸し出してくるという現象がある。さしづめ「気文」とでも、造語しようかな?

読みが一向に進まない文体もあれば、絵画のようにサァーと腹に落ちてくる文体もある。読解力とは関係ない。



堀口との対話

今日は3月21日であり、堀口と会ってから9
日が過ぎている。堀口とはある理由で、この時期に必ず会い、歓談しながら、作業をする。具体は書かない。

「昨年は、」と始まり、堀口が属する音楽学校の30周年記念のまとめ役を引き受けた話をしてくれた。

ユーミンを真似る清水ミチコを招いたらしい。ユーミンは清水ミチコに「共存共栄で」とたたえあったらしい。そもそものいきさつも、知らないのだが、みんな年を重ね、まるくなっていく。

で、堀口にきいたのだ。
「今まで作った曲のなかで、何が一番好きか?」と。

すると「明治チョコレートのCM曲だ」と。

あぁ、あのハイ・ファイ・セットが歌っていた曲、、今出してみるね、とわたしは言って、このブログの過去の記事を出して、堀口にみせ、聴かした。

堀口の目線が次第に遠く、奥まっていくのがわかり、前方を見ているようでいて、そうでなくなるのがわかり、、おもしろかった。

「普通、CMソングはコンペにかけられ選らばれるのだが、最初からオファーきたんだ。」

「5曲作ったんだけど、自分のランキングでは5位が、あれだったんだ。ただね、出来上がってやみて、時間がたつと、あれが一番よかったとわかってきた。フルで作ったんだ。」

「え、あのサビのとこだけでなくて、フルで作ったんだ。そりゃ、お宝だよ、残ってないの」

「古いカセットテープで、どこかにあるはず、」

「ハイ・ファイ・セットが歌ってるんでしょ?、、そりゃ、聴きたいな」

「わかった、、探してみるよ、でも状態は悪い思うよ」と。。

その明治CM 曲が送られてきたら、このブログに貼るつもりだ。

(訃報)
3月14日にホーキング博士が亡くなった。ALSの身体でありながら、わたしは自由である、という意味の主張をされていた。それと宇宙人が到来した場合、それを侵略的にとらえていたのが、記憶に残っている。さすが、アングロサクソン系の価値観だな、、、

再度、若松英輔さんと岩崎航さんのこと

重複になるが、宮本輝公式サイトに掲げたものをと、康さんのコメントを以下に。

輝先生、二日遅れで恐縮ですが、こころより
71歳、おめでとうございます。

いくたびもの難を、乗り越えられてこられたことか、、

さつきさんが話されていた「100分で名著」ですが、
テキスト執筆者=案内人によっては、
多くの気づきを得ることもあると思います。

1、2年前でしたが、内村鑑三の「代表的日本人」の
案内をされた若松英輔さんという批評家の話は、
とても秀逸で、魅了されるものがありました。
なんというかその言葉に余韻というか、響きがあって、
聞き手のこころを震わせるものがありました。

伊集院さんたちと対話していても、二人を見ていないような
その間に透明のテロップ?(政治家の演説のときに使う)
のようなものがあって、それを見つめて読んでいる
ような感じがしたのです。無視ではなく、自分の内なるものと
向かい合っているような表情なのです。

実際に、池袋のジュンク堂で井筒俊彦という天才の
話をされたときも、その言葉の響きの不思議さは
変わりませんでした。御歳50歳になられる。

聞き手の私たちに、しきりに「書く」をすすめられる
若松さんでして、小説はかかれていませんが詩集は
出されていて、何かをもっている文学者です。

詩歌で連想しましたが、輝先生が
「ひとたびはポプラに臥す」で取り上げられて、はじめて知った
以下の杉山平一さんの「夜学生」は大好きな詩になりました。

(中略)
あゝ僕は信じる
きみ達の希望こそかなえらるべきだ
覚えたばかりの英語読本(リーダー)を
声高からかに暗誦せよ

スプリング ハズ カム

ウインタア イズ オオバア


すると康さんから、次のコメントをいただいた。  

こんにちは、

心のギアさん、
批評家・随筆家の若松英輔さんのご紹介有難うございました。
不束ながらこれまで若松英輔さんのことは存じませんでした。

>その言葉に余韻というか、響きがあって、聞き手のこころを震わせる
>ものがありました
>自分の内なるものと向かい合っているような表情

ホームページを見ると若松さんの評論・詩集・エッセイなどが
載っていますが、内村鑑三、小林秀雄、谷川俊太郎、井筒俊彦、岡倉天心
などの評論集があります。いくつかの随筆には

「人間についての普遍的な原理を難しい言葉で記述するばかりが
『哲学』ではない。ときには肉声のなかに、手紙の中に、あるいは
人知れぬ行為のなかに、真の哲学は宿っている」(「生きる哲学」から)

「生きていればときに闇のなかを歩かなくてはならない。そうしたとき
私たちは、内なる言葉をともしびにしながら歩くことができる。たった
ひとつの言葉にも闇にある人を光へと導く力が宿っている」
(「生きていくうえで、かけがえのないもの」から)

「どんなに相手を大切に思っても、私たちはいつか別れを経験しなければ
ならない。誰かを愛することは別れを育むことである」(「言葉の贈り物」から)

以上はホームページを見ただけのことですが、あえて書き出しました
のは宮本先生の作品を読んでいていつも感じることに相通じるものが
あるように思えました。1968年生まれの50歳ですが、これからの活躍が
楽しみです。

先生の『いのちの姿』や『血の騒ぎを聴け』を再読しています。


美しい文章だな、自然と立ち上がってくる品格を感じさせる。
そこで、康さんのコメントに感謝したく、さらに次のことを書き込んだ。

輝先生、みなさま、こんばんは

遅ればせながら、年初に先生の「春の夢」を読了しました。
すぐ、読書好きの女性にもススメたら、たちどころに読み終えて、
「感動した」と。で「宮本輝って、ホントにこんなに苦労した人なの?」と尋ねてきました。そうくるか、、
「そうだと思うよ。この話、仮に、あなたに置き換えたとき、あの蜥蜴ってなんだと思う?」と尋ね返したら「父親が遺した債務超過の会社だ」と即答しました。その会社の決算書は見たことがありましたので、、深くうなづいてしまいました。

康さんへ、
若松英輔さんのこと、お調べくださり、ありがとうございました。

実は、NHKインターネットラジオ「らじるらじる」の中の「聞き逃し」をクリックすると『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが「詩と出会う 詩と生きる」という連続講義されておられます。正岡子規や宮澤賢治などを話されているのですが、

その第8回が《「いのち」の詩人岩崎航(わたる)がつかんだ人生の光》
というタイトルで、まだ40代の五行歌の詩人を取り上げておられて、おぉ、お二人は邂逅しているのかといささか驚いた次第です。(ちなみに第8回は2018年4月20日までは聴けます)

2013年8月ある新聞で、仙台に住むその五行歌人が「点滴ポール 生き抜くという旗印」(ナナロク社)という歌集を出版したことを知りました。岩崎さんは進行性筋ジストロフィーと闘う歌人でした。

私は大腸がん術後3年目でしたが、そのエッジの効いた言葉に感動し池袋の書店で「点滴ポール」を購入し、そこに岩崎さんの写真があり、見つめる目は透徹していて、(あぁ、オレの大腸ガンなんかたいしたことないな)と感じ入ってしまいました。

若松さんはそのラジオの中で「点滴ポールはいつでも読めるようそばに置いてある」また「やっと同時代の偉大な詩人に会うことができた」と言われました。若松さんの深い「読み」を聴いていて、わたしは読めてなかったのだと新鮮に驚き、触発された次第で、早速、書棚から取り出し、久々読み直してみて、、そこで一番合点がいった五行歌を以下に、


自分が どう

生きたいかに

直結する

医療的決断は

普段を 試される
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「持続する志」はいつまでも
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