わが動的平衡とレジリエンスの思索日記

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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前職社長の読書録に思うこと

13年前に辞めた会社の社内報のコピーが出てきた。豊田徳昭社長の1991年頃の読書録。思想信条は異なるが、さまざま影響を受けた社長だったので、コピーをどこかに残し、たまたま出てきた次第。

20年、C型肝炎もあり、辛酸の続くサラリーマン生活だった。その最後の方で、社長は、ほぼ決まっていた異動をひっくり返す人事の差配をしてくれた。そのとき人事部長らが苦みばしった眼で、わたしを見つめ「もう一度やり直しか、、」と私に聞こえるように言い、会議室に向かって行ったのを思い出す。

しかしながら、その差配は会社にとっても功を奏したと断言しよう。火災保険営業で、抜本的な成長をもたらす仕組みを、作り上げたからだ。4年前か、樋口彰さんがその劇的成長の淵源は私だとを言ってくださったとき、どれだけ溜飲が下がったことか、、

早期退職したとき、退職者十数人で、既に社長を退任されていたって豊田さんを囲んで宴をもうけたが、、くだんの人事の差配は確認はしなかった。ただ、お礼を申し上げたのに対し、元社長は、微笑みで返されただけだったが、、いい大団円だった。

当時、読書録は意味不明のものばかりだったが、、今みるとやや感じるところがあり、、原文のままを以下に載せておきたい。

精神のたべもの

達者で長生きしたいと思う時がある。どんなときかというと、一つは美味いものを食った後、もっと食べたいが腹一杯で、次また食べようと思う時である。

そういう時が頻繁にあるので、食べたいもののリストがあふれ、こりゃー長生きしないと全部喰えないなあとしみじみ思うのである。

もう一つも食いものに関するものであるが、精神の食べものというべき読書でも同じことがいえる。とくに今という時代が面白い。

人類社会の破局と地球生命体の破滅期を迎えあらゆる魂の参戦が始まったことが実感として分かる。いずれにしろ、食って飲んでその間に本を読んでいるのが自分の姿であることがよくわかる。

さてずっと今後読みたい人、もしくは書物の名前を書きつらねてみる。今まで約一万冊接して来た中からどうやらしぼられて来たようだ。それでもあと数回生まれ変わらなければ読み切れないが。

先ず
①ルドルフ・シュタイナーの著作、高橋巌の訳のイザラ書房発行のものが一番良い。難解だが何故現在読まれはじめたか分かる気がする。

②出口王仁三郎「霊界物語」(八幡書店)、これはもう面白い最高の謎である。破格の人物。

③バグワン・ラジネシー、少し食傷気味だが、めるくまーる社から昨年発刊の「大いなる挑戦―黄金の未来」は分かりやすい。相変わらず美しい訳語である。

④名前は知られていないが、太田竜と八切止夫。太田竜は本モノだ。著作には、「日本原住民序説」「日本原住民と天皇制」(新和泉社) 「たべもの学入門」(緑光出版)などがあるが、こんな本は余り売れないので書店から消えている。とくに「たべもの学入門」はすばらしい。

⑤八切止夫は知る人は知る。知らぬ人は全く知らない歴史学者、現在三井記念病院で生活をしているはずだが、もう亡くなったかも知れぬ。この人のも書店にはない。六万円送ったら余った著書を数十冊送ってくれた。戦国史専門だが独自の史観で、アカデミズムにない痛快さがある。私は、歴史は大学教授のものは殆ど信用しないことにしている。

⑥コリン・ウイルソン「アウトサイダー」からずっと追いかけている。もう少し東洋から学べば良いと思うのだが、東洋に媚びないのが、いいのかもしれない。

⑦「一遍上人語録」(岩波文庫)死ぬまで手が放せない書物の一つ。私は親鸞より一遍でス。

⑧南方熊楠・・・大きすぎて食べられない。いつも食いはじめるのですが、「十二支考」(平凡社・東洋文庫)で精一杯。後に残しておこうと思うものの大手。それはそうと東洋文庫を発行している平凡社は一番好きな出版社である。東洋文庫は宝の山、平凡社の歴史選書は中世の宝の山。

⑨今はやりの解読物、イメージリーディング叢書「異形の王権」「住まいの人類学」etcは一気に読んだ。これも平凡社、つぶれないで頑張ってほしい。

⑩現代作家では何といっても中上健次である。村上春樹、龍なぞは何を考えているのかと言いたくなる。

⑪それから森敦、堀田善衛、石川淳、とくに森敦の「われ逝くものの如く」の土着性と宇宙感覚が中上健次と共通しているように思う。女性では上野千鶴子「私探しゲーム」など・・・ 吉本ばななより、コミックの大島弓子の方が上と井上奈美さんが云っていたが、その通りだった。普通は小説の方がイメージが豊かにふくらむのだが、大島弓子の方がイメージが豊か。

⑫文体が好きなのは東海林サダオと椎名誠、そしてジャズピアニストの山下洋輔。その他ではシドニーシェルダン、「明日があるなら」「ゲームの達人」最近新しいのが出たが、書店で上巻が売り切れ。芹沢公治郎の話題作「神の微笑」ほか「神の・・・」シリーズ。


以上。まず、感じたのは、わたしも似たような書き方をするな、ということ。

私見だか、うまい下手関係なく、どんな文体であっても、書いた人の気が醸し出してくるという現象がある。さしづめ「気文」とでも、造語しようかな?

読みが一向に進まない文体もあれば、絵画のようにサァーと腹に落ちてくる文体もある。読解力とは関係ない。



堀口との対話

今日は3月21日であり、堀口と会ってから9
日が過ぎている。堀口とはある理由で、この時期に必ず会い、歓談しながら、作業をする。具体は書かない。

「昨年は、」と始まり、堀口が属する音楽学校の30周年記念のまとめ役を引き受けた話をしてくれた。

ユーミンを真似る清水ミチコを招いたらしい。ユーミンは清水ミチコに「共存共栄で」とたたえあったらしい。そもそものいきさつも、知らないのだが、みんな年を重ね、まるくなっていく。

で、堀口にきいたのだ。
「今まで作った曲のなかで、何が一番好きか?」と。

すると「明治チョコレートのCM曲だ」と。

あぁ、あのハイ・ファイ・セットが歌っていた曲、、今出してみるね、とわたしは言って、このブログの過去の記事を出して、堀口にみせ、聴かした。

堀口の目線が次第に遠く、奥まっていくのがわかり、前方を見ているようでいて、そうでなくなるのがわかり、、おもしろかった。

「普通、CMソングはコンペにかけられ選らばれるのだが、最初からオファーきたんだ。」

「5曲作ったんだけど、自分のランキングでは5位が、あれだったんだ。ただね、出来上がってやみて、時間がたつと、あれが一番よかったとわかってきた。フルで作ったんだ。」

「え、あのサビのとこだけでなくて、フルで作ったんだ。そりゃ、お宝だよ、残ってないの」

「古いカセットテープで、どこかにあるはず、」

「ハイ・ファイ・セットが歌ってるんでしょ?、、そりゃ、聴きたいな」

「わかった、、探してみるよ、でも状態は悪い思うよ」と。。

その明治CM 曲が送られてきたら、このブログに貼るつもりだ。

(訃報)
3月14日にホーキング博士が亡くなった。ALSの身体でありながら、わたしは自由である、という意味の主張をされていた。それと宇宙人が到来した場合、それを侵略的にとらえていたのが、記憶に残っている。さすが、アングロサクソン系の価値観だな、、、

再度、若松英輔さんと岩崎航さんのこと

重複になるが、宮本輝公式サイトに掲げたものをと、康さんのコメントを以下に。

輝先生、二日遅れで恐縮ですが、こころより
71歳、おめでとうございます。

いくたびもの難を、乗り越えられてこられたことか、、

さつきさんが話されていた「100分で名著」ですが、
テキスト執筆者=案内人によっては、
多くの気づきを得ることもあると思います。

1、2年前でしたが、内村鑑三の「代表的日本人」の
案内をされた若松英輔さんという批評家の話は、
とても秀逸で、魅了されるものがありました。
なんというかその言葉に余韻というか、響きがあって、
聞き手のこころを震わせるものがありました。

伊集院さんたちと対話していても、二人を見ていないような
その間に透明のテロップ?(政治家の演説のときに使う)
のようなものがあって、それを見つめて読んでいる
ような感じがしたのです。無視ではなく、自分の内なるものと
向かい合っているような表情なのです。

実際に、池袋のジュンク堂で井筒俊彦という天才の
話をされたときも、その言葉の響きの不思議さは
変わりませんでした。御歳50歳になられる。

聞き手の私たちに、しきりに「書く」をすすめられる
若松さんでして、小説はかかれていませんが詩集は
出されていて、何かをもっている文学者です。

詩歌で連想しましたが、輝先生が
「ひとたびはポプラに臥す」で取り上げられて、はじめて知った
以下の杉山平一さんの「夜学生」は大好きな詩になりました。

(中略)
あゝ僕は信じる
きみ達の希望こそかなえらるべきだ
覚えたばかりの英語読本(リーダー)を
声高からかに暗誦せよ

スプリング ハズ カム

ウインタア イズ オオバア


すると康さんから、次のコメントをいただいた。  

こんにちは、

心のギアさん、
批評家・随筆家の若松英輔さんのご紹介有難うございました。
不束ながらこれまで若松英輔さんのことは存じませんでした。

>その言葉に余韻というか、響きがあって、聞き手のこころを震わせる
>ものがありました
>自分の内なるものと向かい合っているような表情

ホームページを見ると若松さんの評論・詩集・エッセイなどが
載っていますが、内村鑑三、小林秀雄、谷川俊太郎、井筒俊彦、岡倉天心
などの評論集があります。いくつかの随筆には

「人間についての普遍的な原理を難しい言葉で記述するばかりが
『哲学』ではない。ときには肉声のなかに、手紙の中に、あるいは
人知れぬ行為のなかに、真の哲学は宿っている」(「生きる哲学」から)

「生きていればときに闇のなかを歩かなくてはならない。そうしたとき
私たちは、内なる言葉をともしびにしながら歩くことができる。たった
ひとつの言葉にも闇にある人を光へと導く力が宿っている」
(「生きていくうえで、かけがえのないもの」から)

「どんなに相手を大切に思っても、私たちはいつか別れを経験しなければ
ならない。誰かを愛することは別れを育むことである」(「言葉の贈り物」から)

以上はホームページを見ただけのことですが、あえて書き出しました
のは宮本先生の作品を読んでいていつも感じることに相通じるものが
あるように思えました。1968年生まれの50歳ですが、これからの活躍が
楽しみです。

先生の『いのちの姿』や『血の騒ぎを聴け』を再読しています。


美しい文章だな、自然と立ち上がってくる品格を感じさせる。
そこで、康さんのコメントに感謝したく、さらに次のことを書き込んだ。

輝先生、みなさま、こんばんは

遅ればせながら、年初に先生の「春の夢」を読了しました。
すぐ、読書好きの女性にもススメたら、たちどころに読み終えて、
「感動した」と。で「宮本輝って、ホントにこんなに苦労した人なの?」と尋ねてきました。そうくるか、、
「そうだと思うよ。この話、仮に、あなたに置き換えたとき、あの蜥蜴ってなんだと思う?」と尋ね返したら「父親が遺した債務超過の会社だ」と即答しました。その会社の決算書は見たことがありましたので、、深くうなづいてしまいました。

康さんへ、
若松英輔さんのこと、お調べくださり、ありがとうございました。

実は、NHKインターネットラジオ「らじるらじる」の中の「聞き逃し」をクリックすると『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが「詩と出会う 詩と生きる」という連続講義されておられます。正岡子規や宮澤賢治などを話されているのですが、

その第8回が《「いのち」の詩人岩崎航(わたる)がつかんだ人生の光》
というタイトルで、まだ40代の五行歌の詩人を取り上げておられて、おぉ、お二人は邂逅しているのかといささか驚いた次第です。(ちなみに第8回は2018年4月20日までは聴けます)

2013年8月ある新聞で、仙台に住むその五行歌人が「点滴ポール 生き抜くという旗印」(ナナロク社)という歌集を出版したことを知りました。岩崎さんは進行性筋ジストロフィーと闘う歌人でした。

私は大腸がん術後3年目でしたが、そのエッジの効いた言葉に感動し池袋の書店で「点滴ポール」を購入し、そこに岩崎さんの写真があり、見つめる目は透徹していて、(あぁ、オレの大腸ガンなんかたいしたことないな)と感じ入ってしまいました。

若松さんはそのラジオの中で「点滴ポールはいつでも読めるようそばに置いてある」また「やっと同時代の偉大な詩人に会うことができた」と言われました。若松さんの深い「読み」を聴いていて、わたしは読めてなかったのだと新鮮に驚き、触発された次第で、早速、書棚から取り出し、久々読み直してみて、、そこで一番合点がいった五行歌を以下に、


自分が どう

生きたいかに

直結する

医療的決断は

普段を 試される

西部邁の年表を作る

西部 邁 (すすむ)さんの年表を徐々に書き込むことにする。まずはウィキペディアのものをベースに。

1939年3月、北海道山越郡長万部町に生まれる。
父親は西部深諦(じんたい)。浄土真宗派の末寺の末男。母は農家の末女。兄と妹4人の6人きょうだい。邁は次男。

札幌郡厚別の信濃小学校
札幌市の柏中学校、作家の保阪正康氏は1年後輩。一緒に通学していた。

吃音癖と空腹感で苦しむ。

中学2年のとき、札幌市内の書店「富貴堂」で参考書数十冊、万引きを繰り返す「万引き常習少年」だった。父親ゆずりの気質、敷かれた軌道からはずれたかった、それが動機だった。

クリスチャンだった富貴堂の店主は知っていたようだが、捕まらなかった。その参考書のおかげで、道内で一番の成績になった。

中学校で、やさぐれていたが優秀な海野治夫氏と出会う。45年のつきあいとなり「もっとも感動に値する人物の一人だった」と言わしめた。

札幌南高校に海野治夫とともに進学。

南高2年、16歳のときに、同年1月生まれの
岡田満智子(医者の娘)と知り合う。

高校卒業までは、マルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリの重症の吃音少年だった。

1957年東京大学の受験に落ちる。
1958年4月、東京大学教養学部(駒場)に入学、三鷹寮に入る。
1588年12月に結成されたブント(共産主義者同盟)に加盟する。

「六十年安保闘争」で指導的役割を果たすが、羽田事件(60年1月16日)で逮捕、起訴され2月末に保釈。

新安保条約が自然成立した(6月19日)のちの7月初め、全学連大会の途中で逮捕、未決勾留で東京拘置所に収監されるが、11月末に保釈で出所。

そのとき既にブントは解散しており、翌1961年3月、左翼過激派と決別する。

それから7年、三つの裁判所に通い、その間1964年3月、東京大学経済学部を卒業。
同年5月、半年の同棲にピリオドをうち、岡田満智子と結婚(のち一男一女をもうける)

1971年東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。
1972年「六・一五事件」で執行猶予判決、そして検察控訴。

横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を経て、
1986年東京大学(社会経済学専攻)に就任するも
1988年3月、人事問題のもつれをめぐり、辞任。

評論家を続けるとともに、鈴鹿国際大学客員授、秀明大学教授、学頭を歴任。

旧来の経済学を批判して経済行為の象徴的意味の
解釈を指向する「ソシオエコノミクス」で注目され、社会経済学の構築をめざした。

また高度大衆社会・アメリカニズム批判と西洋流保守思想の提唱を基軸にした評論活動を活発に行った。

2006年10月、妻満智子の大腸がんが判明、手術。
2008年1月、転移が判明。10時間におよぶ大手術を受ける。

16歳で知り合ってから、3年余のブランクを挟み、現在までの二人の「関係」はまもなく半世紀を超える。

やっぱしハイファイセットはいい

「知恵袋」の問いにこういうのがあった。

このCMソング知っていますか?
昔の明治のアーモンドチョコのCMで、「風~と虹~は、鳥~と森~は、夢~と歌~は、いい友~」という曲があったと思うのですが、このCMソング知っていますか?歌手名と曲名がわかりません。誰か教えてください。




というCMだが、知恵袋の回答はマトを得ていなかった。

それにしても、懐かしい。CMソングだから全貌はわからない。というか、オリジナルCM曲であって、「全貌はない」ことを知っている。実は、作曲した人は堀口和男という、わたしの高校時代からの友人だった。

歌っているのはハイファイセットの山本潤子さんと、教えてくれた。この曲はたしか堀口のだったよな、と思い出し、さっきショートメールでやりとりして確認した次第。こうだ、、

「あのさ〜、昔のCMで、明治チョコレートの、風と虹と、で始まる曲は、堀口の作曲だったよね?」

『そうよ』

「あらためていい曲だと思いました。で、誰が歌ってるの、あの女性の声は?」

『ハイファイセットよ。』

「やっぱし、納得です。ハイファイセットは、なんだかんだ、やっぱりいい。ありがとう」

『こちらこそ、ありがとう。その曲忘れてた。』

堀口は80年代の終わりの短い期間だったが、REICOというデュオをやっていた。相方は田口俊という人だった。アルバムを二枚作ったと思う。

あぁ、次第に思い出してきた。西新宿のホテルで田口俊氏の結婚式に出たのだ。ユーミンがいて、ハイファイセットが来ていた。そういえば「水色のワゴン」の作詞は田口俊だった。堀口が運転するクルマのなかで、その詞がうまれたときの模様を、田口さんは話してくれた。その目は遠くを見つめキラキラしていた、、あっ、詩人の目だな、、

水色のワゴンが 追いこしていったら
思わず声あ 夏の高速
海がえりの車 ゆっくりかきわけて
ふるさとのナンバープレート どこまで行くの?

このままずっと 追いかけたいね
懐かしい街角 とおってきたの?

結婚式の招待状が
5月に あの子から 届いたきりね

初恋や卒業 いろんな思い出が
スモールランプ浴び 流れてゆくよ

古い仲間と電話のあとは
アクセントがかわるって笑うあの人

このままずっと 追いかけたいね
懐かしい街角 行ける気がして

出口まで3km ワゴンともおわかれ
渋滞の都心へもどってゆくよ

水色のワゴンが 運んできてくれた
生まれた街の風 夏の高速
Wonderful Summer
Twilight Free-way

作詞 田口俊
作曲 山本俊彦




戻る、、その結婚の宴で、ユーミンは蘇州夜曲を歌われた。ハイファイセットの三人もアカペラで歌っておられたが、曲名は覚えいない。なんとまあ近くで、聴けたことなのだろう、、

わたしの青春は、ハイファイセットの歌ともにあったんだな、とあらためて気づいた。ユニゾンでなく、ハーモニーとはこういうコーラスでないと、内部に沁みわたっていかない。

いま、そばにいた11歳の長女が、「昭和っぽい」と言って遠ざかっていったが、、この懐かしさがわかるわけない、、

追記、、最初のCM曲に戻る。歌詞は誰なのか知りたくなった。

「おはよう、昨日のCMのことだけど、あの作詞は誰がしたの?」

『作詞は田口だよ。』

「ありがとう!そうか二人でやっていた頃のオファーか、、いやいや、いい話のオチだ。今ね、そのことをブログに残しておきたくなったんだ、、あのCMがいいと思う人が、たぶん、きっと、いるからね、、」

20年ぶりの対話

先週金曜、20年ぶりにカンザキさんにお会いした。前職時代の先輩で、縷々お世話になった。

1991年11月にC型肝炎で入院したときにお見舞いにきてくださった。その頃書いていた3年日記にカンザキさん名が出てきていて、懐かしく、またスマホのlineに表示されていたので、お礼の報告をした次第。ことのほか歓んでくださり、その日、西新宿でランチをすることになった。懐かしい「スンガリー」に入った。加藤登紀子さんの店だ。今もあること、混んでいることに、いささか驚きを感じた。

1.カンザキさんは66歳になっていた。やや太っていて、少し印象が違っていた。10年くらい前に離婚し、7年くらい前に再婚したという、お相手は20歳下で、お子さんを欲しがっているようで、不妊治療をされていると。もう、難しいかもしれないとも、言っていた。女性の、高齢出産だと障害をもつ子が生まれるリスクもあるなと思った、現に従妹の子どもがそうだったから、、そう思いつつ、口には出さなかった。

2.わたしもカンザキさんも採用したのは豊田さんという、一種独特のカリスマ性のある代表権者だった。だが、、結果的に詐欺まがいの話に有頂天になり、いろんな人から金をひっぱり、すっかり晩節を汚してしまった。さらに痴漢行為、、カンザキさんは相当な支援をしたが、絶交したようだ。採用された私たちが言うのは変だが、人を見る目がないお人だったのかもしれない。

3.その会社は、当時、よく人が病や事故でなくなる会社だったのかもしれないと、話していて気づいた。肺がん末期の今西さん、バイク事故死の椎名さん、酔ってホームで吐いているところに電車が入ってきて頭を飛ばされた人とか、、数えると8人はいた。正社員は300人程度の会社なのに、、

4.話していて、世間的にブラックな会社ではなかったが、早期退職したことは正解だった、悔いはなかった。
カンザキさんは在籍中の最後の仕事として、プレゼンで競合に勝った話は秀逸だった。見積金額ば倍違っていたのに、長期的な瑕疵担保責任をブランドとデザインの視点から強調し、受注したのだ、という。

5.わたしも自慢話をした。
在籍最期の3年間の損保営業で、新築物件の長期火災保険、それも35年の長期火災保険を売りまくる仕組みをつくり、軌道に乗せた。「長良川鵜飼方式」と勝手に呼び、営業仲間のイメージを醸成させた。親会社の新築物件を成約させた住宅営業マンに長期火災保険の話をしてもらい、保険契約を決まると、住宅営業マンに商品券を上げるスキームだった。こちらは子会社なのにナメタ企画だったが、軌道に乗ると、雪だるま式に売上は伸びていった。私が退職した後、商品券スキームは無くなり、親会社である住宅営業本社が本腰を入れ、より機能的なグループ会社の組織改編がなされていった。

2015年に損保業界が長期火災保険は最長10年と短縮されるまでに、この会社は突出して、売りに売りまくった。何しろ一件1000万円の保険料をたたき出す営業マンもいたのだから、、出るクイは打たれるで期間短縮になったのだ、と推測している。。カンザキさんは微笑みを浮かべながら聞いていてくださった。

6.旧姓クゲモトさんの話になった。とっくに東京にもどっていて、ヨガ教室を主宰しているようだ。やにわに私をスマホで撮り、lineで彼女に転送していた。懐かしい、最後に会ったのは、1996年頃か、東京駅で握手して別れた、ような気がする。家に戻って検索すると、なるほど彼女はいい表情になって、いた。逡巡の憂いのような面影は消え、自信、チャクラが開いるような感じがした。

7.先日、いただいた宮本輝さんの「おめでとうございます。長いあいだ闘い抜いたことでハーボニーという新薬と出会えたんですね。毒を出し切って、これからは宇宙の永遠の大生命を満喫する日々ですね。」という言葉、その話をカンザキさんに話すと、強い関心を示された。驚いた、カンザキさんは小説を10作近く書かれていたのだ。すばらしい、、と思わず、拍手をした。文章の型、文体が大事だと言われ、、三島由紀夫の「金閣寺」はやっぱいいと言われていた。私は三島由紀夫は苦手なので、うなづくだけだったが、、

やはり一対一の対話はありがたい、、さまざまなことが徐々に見えてくる、わかってくる。

カストロとスリーパーズ

昨日、キューバのフィデル カストロ前議長が、90歳で亡くなった。賛否はあるが、20世紀の最後の革命家だったと思う。銅像などの顕彰は拒否し、無冠のまま、亡くなった。

1996年6月、わたしの大学の創立者は、ハバナの革命宮殿で、カストロ議長と会見した。その写真が記憶に定着している。議長は私服のスーツ姿で、満面の笑みなのだ。二人の間に、文化大臣が立っておられたが、彼も、子どもように愛らしい、笑顔で写っていた。創立者が、何がしか、、たぶん服装についてだと推察するが、、言葉を発して、呼応するような笑顔に包まれた、、そう読み取ることができる。

創立者は、ストンと相手の中に、自然と入っていかれる。不思議な人だ。人材育成や政治哲学などが話されたとあるが、おそらくは、そんな鯱鉾ばったものでなく、共戦の友の、愉快な語らいだったろう。

その会談は3時間くらいかかり、深夜に及んだので、議長の体調を気遣い、創立者はお別れをした。が、その後も、カストロ議長は側近の人たちと午前2時か3時まで、歓談していた、という。

映画「スリーパーズ」だったか?5人の少年たちが、刑務所で虐待され、大人になって復讐する映画がある。復讐を遂げたあと一夜かぎりの宴をもったのだが、、そのことが重なった。

創立者は、チェ ゲバラと同じ1928年生まれだ。革命の流血と無血の違いは大きいが、カストロはそのことを分かっていたと思う。カストロ議長は、ホセ マルティを師と仰ぎ、行動の軸にしていたからだ。


スリーパーズで間違ってはいなかった。検索すると、、

あるいたずらが原因で過失傷害を問われ、少年院に送られたロレンツォ(シェイクス)、マイケル、トミー、ジョンの4人の少年を待っていたのは、看守たちからの性的虐待だった。圧倒的な暴力を前になすすべもなく、少年たちは心に深い傷を負う。

ある日の院内のフットボールの試合中、リーダー格でギャングの息子であるリゾを引き込み、日頃の虐待の恨みを暴力で晴らすが、その後リゾは「殴る場所がなくなるまで」殴られて死んだ。

やがて成人した4人のうち、トミーとジョンがレストランでかつての看守であるノークスに出会い、射殺してしまう。検事補になり、今事件を担当することになったマイケル、新聞記者となったロレンツォは2人を無罪に、そして少年院であった虐待を公にすることを誓い、奮闘する。

まず、呑んだくれの弁護士スナイダーに、マイケルが密かに用意した台本どおりに弁護をさせ、裁判に証人として出廷した元看守の1人であるファーガソンに虐待があったことを認めさせる。次に、もう1人の元看守はリゾを院内で撲殺したことをギャングの兄に密告され、射殺される。残りの1人で現在は刑事となっていた男は、ロレンツォの密告によって収賄と殺人の容疑で逮捕される。

レストランにいた客が2人を見たと証言した不利な状況で、ロレンツォは4人をよく知るボビー神父に聖職者は嘘をつかないと知った上で偽の証言をしてほしいと懇願する。少年院であった出来事を幼馴染のキャロルや神父に打ち明け、数週間後、神父は出廷し、事件当夜は被告の2人とバスケットボールの観戦をしに行っていたと偽の証言をする。

看守への復讐が着々と進み、残るは無罪判決のみ。判決は無罪。その後、4人とキャロルは祝杯をあげる。これが5人が集まった最後の夜となった。


追記、フィデルの遺体は火葬された。

マルティン ブーバー

1.ハーボニー47錠目は8:59に飲んだ。

2.午前中、再び豊島園のスタジオアリスへ。長女と次女の撮影をした。なかなか可愛いくとれた。5年ぶりに行ったが、やはり費用は思った以上にかかる。割高感はあるな、、人件費か?

3.マルティン ブーバー「我と汝」を読了した。岩波文庫で160ページほどだが、時間がかかった。それに「対話」はまだ読んでいない。実践的行動的神秘主義と訳者はブーバーを評していた。

4.マルティン ブーバー(1878~1965)は神学者であり、ヘブライ大学で社会哲学を教えていた人だという。正直いってキリスト教もユダヤ教もわからない、あまり関心もない。ただ、この本は感動した。頭の整理のために、松岡正剛さん言葉を載せておきたい。いったん、ほぼ全部コビペする。今後は気に入った言葉を、逐次載せたい。

 ブーバーはこういうことを考えた。世界は人間の二重の態度において二重なのである。人間の態度が二重であるのは、そもそも根元語が二つの対偶語から始まっているためである。
 その根元的な二つの対偶語とは、ドイツ語でいう“Ich-Du”(我-汝)と“Ich-Es”(我-それ)ではあるまいか。この二つの根元的対偶語があることによって、人間は「我」そのものが二重であることを知る。だから、我を語るには汝を語ればよく、「それ」が語られれば我は語られ、そこに汝を語ることが介在できるのなら、「それ」を語ることからも存在の開示はあるはずである。
 だいたいこういう前提で、ブーバーは我と汝の対話を始めた。そこにあるのはひたすら「関係」(Beziehung)だ。ブーバーは、その関係の世界に投げ出されている我と汝を、我と汝が同時に知るにはどうすればよいかを考察しつづける。

 ドイツ語で考えること。(省略)
 それほどに、ドイツ語による思想には独創的なものがあるということなのだ。はたしてほんとうにそうかどうかということは、どこの母国語によっても哲学は自生しているのだから、ドイツ語思想だけを過大視したり、逆に目の敵にすることのおかしさを強調するだけなのであるにもかかわらず、たとえば、これに匹敵して1980年代に、フランス語によるポストモダン思想の“実験”が連打されたものの、これはひどく乏しい成果におわったことをおもいあわせたりすると、なるほど、どこかドイツ語思想には魔法が棲息しているとも思いたくなる。
 なぜドイツ語にはドイツ語の思索が生まれるのか。一見、謎も何もないようなこの疑問を前にしたときこそ、マルティン・ブーバーを読むべきなのである。
 ブーバーこそは、その根源にひそむ“Ich-Du”の関係を、すなわちドイツ語による「我-汝」の関係を考察しつづけて、その記録をのこした神学者だった。

 ブーバーは「我」それ自体というものがありえないというところから出発した。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのである。
 では、何があるのかといえば、存在するのは根元語の「我-汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがある。これが交互性(Wecheselseitgkeit)あるいは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものである。
 しばらく、ぼく自身がブーバーとなって、本書がドイツ語的に進行させている内実を半ば日本語に置き換えて、諸君のブーバー体験を代行したいと思う。

 われわれは何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とはわれわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。
 では、どのようにすれば「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのか。まずは、私という我の中に汝を見出すべきなのだ。そうすれば、私の我は汝のさまざまなモノやコトによって成立している光景に出会うにちがいない。そうだとすれば、経験とは実は「我からの遠ざかり」であって、それが了解できれば、次には私の我が「汝からの遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に逢着できるはずなのである。
 しかし、私が我と汝に出会うのは、探索などではおこらない。私が根元語を私の中の汝にぶつけることによって生じる恩寵をいかすしかない。この恩寵は「存立の岸辺」のようなところからやってくるものである。
 これをようするに「汝を言う能力」(Dusagenkonnen)とも「関係の中へ歩みいる」(In-Beziehung-treten)ともいう。

 こうして、当初に「関係」があるわけなのである。これは原始人のことを想定すればよい。かれらには主体も客体もなく、主語も対象もなく、そもそも「我-汝」すらおこっていなかった。しかしながら、それは逆にいえば、どんなことも「我-汝」の関係から始めるしかなかったということなのである。
 ということは、原世界(Urwelt)とは関係の始原であるということだ。「現身(うつしみ)の母」ということなのである。われわれのすべての対話は、この「現身の母」との、原世界との対話なのである。そして、このことが了解できたとき、われわれは、われわれ自身の内に「生得の汝」がいることに気がついていく。それは擬人化ではなく、われわれ自身における「我-汝」の恩寵的交代なのである。
 以上のことを、世界は人間にとって人間の二重に応じて二重なのであると、いう。

 個の歴史と類の歴史は、どのようにその外見が異なろうとも、そこには関係がある。我(自己)と組(組織)との相違性にも関係がある。
 けれどもわれわれは、自身を「我」と呼びながら、歴史や組織を「それ」とよぶ。それらの両方を「共に在る」とよぶ力をもってはいない。なぜなら、個にとって類の歴史は外部であり、我にとって組織はいつでも外部化できるからである。が、この錯覚を除去しようとしたとき、初めてわれわれはこの両者のあいだの「感情」をもつことができるのだ。
 この感情がつくるもの、それは「汝の境界線」を生ける中心として、そこに向かう者たちのズレを頼みに「あいだ」をつくり、その「あいだ」にそれぞれが生ける相互関係を立たせていくということである。これが感情が生み出す「真の共同体」(Gemeinde)というものではなかろうか。そうでない共同体が理想だというのなら、その例を持ち出してもらいたい。
 ここにおいて、われわれはやっと「逆戻り」(Dahinter-ziuruck)と「乗越え」(Daruber-hinaus)をいずれも破棄しないですむようになる。われわれは他人を懲らしめるときも、自分を懲らしめるときも、いつも「逆戻り」か「乗越え」しかやってこなかったものであるが、そしてそのことに痛く反省しすぎてきたものであるが、しかし、「我-汝」の関係にこの二つの方法を委譲できるなら、ずっと気分よく「あいだ」を互いに照応しあえるはずなのである。

 われわれはハイマルメーネ(宿命)に出会ってこそ、ハイマルメーネにさえ「我-汝」を見出せるものである。そこに「業の力」を「星の力」にする支点が見出せるものである。
 宿命とは、畢竟、生成なのである。定められていることは、定めることなのだ。そこにはひたすら「我-汝」の振動があればいいことなのだ。この振動こそ、東洋において無為とよばれたものである。選ばれたことを選ぶことに変える振動である。
 宿命を専一性にも締め出しにしてもならない。すべてはいつだって二者対応(Zweiheit)なのだ。
 こうして、われわれは「我-汝」の関係がひたすらに言語(ドイツ語)との縁を結んでいくのを知ることになるだろう。第1には、言語の敷居が生まれる言葉において、第2には、関係の言語が生まれる言葉において、第3には、無言を破る言語を生み出す言葉において。もし、世界がコスモスかエロスかロゴスかだとするのなら、この世界の三性は、いずれも委譲の言葉の生成によって生じたものであるはずなのである。




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