わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への機微

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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「創価学会秘史」から

6月17日の日曜、創価学会の教学任用試験に会員・会友を合わせて12万人の方々が挑戦されたと知った。その試験範囲の中に、必ず学会の歴史を知ることが入っている。

実は、私個人としても初代会長の牧口常三郎という人の思想遍歴に関心が強い。なぜ日蓮正宗という一宗門に入信したのだろう。牧口常三郎は青年期は北海道におられたのだから、キリスト教の影響は少なからずあっただろうに、そしてもしキリスト教徒になっていたら価値創造の団体はどうなっていただろうか、、とか想像を巡らせたりする。ただ、その遍歴は分からないことが多い。

今、板橋区図書館から二つの本を借りて読んでいる。
高橋篤史「創価学会秘史」(講談社 2018/2)
鶴見太郎「ある邂逅 柳田国男と牧口常三郎」(潮出版社  )

後者は学会系の出版社で論調は柔和だが、前者は学会に対して冷ややか、批判的な論調(最初は、今日標ぼうするものとは違う、例えば平和思想なんてなかった。戦後に現れた論調だとか)になっている。

が一向に構わない、無名の学会人の私から見れば、どちらも面白く、飽きずに読める。ひとます「創価学会秘史」から面白いと感じた事実を箇条書きで、以下にメモしておきたい。敬称、尊称は略す。

人のふるまいとして最期は獄死した牧口常三郎という人がどれだけ偉大だったか、そのことを確認したい、、「創価学会は小学校長をしていた人が実験証明を旗印にはじめた教育団体から日蓮仏法に直結する宗教団体に飛躍した、というわが認識」(私の学会定義はここからはじまる)は揺るがない。その内在的な歴史をわが身の中心軸にしたいのだ。


1.北海道から東京に来られた牧口常三郎はその初著「人生地理学」は1000頁に及ぶ大著ながら増刷を重ね、多くの知友を得た。志賀重昂(しげたか)、講道館の加納治五郎、民俗学の柳田国男、など。

2.とりわけ牧口より4歳下の柳田国男とは1909年5月2日に知り合い、やがて親しくなっていった。柳田は戦前の創価教育学会の顧問を引き受けて時期もあったが、牧口が宗教の話に及ぶと柳田はすぐ拒否し、シャットアウトしていた。

3.牧口は、東京に出て最初は、社団法人茗渓会で書記の働き口を得た。また弘文学院、東亜学校で地理学の講師をした。その後富士見尋常小学校、文部省図書局に職を得ていた。

4.1905年5月から3年間、経済的に恵まれない女子に対して通信教育を施す大日本高等女学会の主幹を務めた。しかし経営は厳しかった。

5.柳田国男が幹事となった郷土会に牧口も加わった。郷土会は毎月、会員が小日向の新渡戸稲造邸などに集まり、各各自由な立場で各地の風習や民間伝承などの研究成果を発表する場であった。会員はエリート官僚が中心で、毎回50銭の会費を出す代わりに新渡戸から2円程度の御馳走をふるまわれていた。

6.1910年、牧口は農商務省の嘱託として九州の中央に位置する津江村、小国村の生活実態調査に赴いている。

7.柳田国男は牧口の性格を
 「温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命していた」
 「口が下手で、余り物が言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことを云う人であると判ってきた」
 
8.1911年5月、柳田と牧口は、甲州の谷村から道志谷、月夜野、相模にかけて旅行をした。柳田は「非常に気持ち良い旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出される程、印象深いものがあった」と二人の親交の深さを語った。

9.小学校長の牧口は、地元の有力者の子弟を特別扱いすることに反対し、立場危うくなることが多々あった。

10.墨田区亀沢の三笠尋常小学校では、貧しい家庭が多い地域であり、多くの児童は昼食抜きで、事業が終わると副業に汗を流していた。見かねた牧口はペニーランチ、パン1個に汁椀2杯を無料で配る制度を導入した。その後1922年4月、裕福な家庭の子弟が通う白金尋常小学校の校長に転任した。

11.牧口の生家である渡辺家は禅宗、養家の牧口家は「法華の家」だったが、幼少期の牧口に信仰の念はなかった。札幌の生活でキリスト教に深入りすることはなかった。

12.上京後、牧口は禅に参加したり、深呼吸法を試してみたり、田中智学の国柱会に1916年頃、接近した。田中の講演を数回聴きに行った。牧口の岳父である牧口熊太郎が国柱会の会員だった。

13.牧口は、1920年頃から十数年間、古神道の禊に長く親しんだ。滝に打たれたり、厳寒の海に入っていく。財団法人稜威(みいづ)会の主催の禊だった。牧口は自宅でも毎朝冷水浴を欠かさなかった。しかし「心からの信仰に入ることは出来なかった」と。

14.牧口を折伏した三谷素啓は日蓮正宗の有力信徒で、牧口より7歳上、目白商業学校の初代校長であった。ただしその在任期間1年にすぎなかった。柳田国男は三谷に対して「どうも正体の判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。ところが、いくつかの妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議と良く効いた」と。そもそも牧口が三谷を紹介したのも「面白い薬がありますよ」と言ったのがきっかけだった。

15.1922年、牧口と戸田城聖(当時は城外)は三田の慶應義塾に行き、来日していたアインシュタインの講演を聞いた。また牧口はアメリカのプラグマティズムのジョン・デューイにも関心をもっていた。

16.柳田国男は後年、牧口が日蓮正宗に入信した動機について二つの原因を推測して書いている。それは「貧苦と病苦」であると。
「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供(四男四女)が患ったり、死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた」と。

以上、ひとまず、ここまで。

私見だが、小林秀雄は晩年よく柳田国男の評論をされた。「山の人生」の録音もある。おそらく小林秀雄は膨大な柳田国男の著作を読んでいただろうし、その中に「故郷七十年拾遺」もあったはず。そこに牧口常三郎のことが出てくる。小林秀雄は1910年頃、港区白金尋常小学校に通っていたわけで、時期は異なり出会ってはいないだろうが、牧口を自分の母校の校長を務めた人と知っていたかもしれない。

1970年代の前半、小林秀雄は、中村光男などを伴って、日蓮正宗大石寺に桜を見に訪れている。応対したのはわが母校創立者の池田先生であり、互いに微笑みながら歩かれている姿を聖教新聞で見たことがある。言論問題と重なる時期だった。単なる物見遊山ではあるまい、池田大作という40歳代前半の人に直接会いにきたのだ。小林秀雄は、しっかり、池田大作という人の目を見つめたに違いない。私も70年代何度か、先生の眼を見たが、洞察と真剣と奥深さと、人生でそのような眼をした人を、他に見たことがない。

おそらく小林秀雄はその歓談の際も、学会草創の牧口常三郎のことがよぎったのではないか、、その小林秀雄の、2008年に載った聖教新聞の記事は、また後日書き込むことにする。

三期生大会、、わが母校に行った

18日の日曜、9時過ぎに家を出て、電車で八王子の母校に向かった。10年ぶりの同窓会に出る。10時15分には、八王子駅の北口にいた。そこから母校に向かう人たちの長蛇の列。女子短大の卒業式らしい。
八王子の駅前中央の道路から直線的なバイパス道路ができていて、トンネルを抜け、母校まで15分たらずで、到着した。40年前の国道16号線を使い、ひよどり丘を超える行程だったら、こうは行かない。

実は、、面倒くさい、だれが咎めるわけでもないし、ドタキャンするか、、という心が一瞬あったのだが、、ともあれ、11時の開会から遅れること30分で、到着した。

会場前には、法学部教授のKがいた。髪は黒く、名は体を表していた。
「当起遠迎 当如敬仏」の経文通り、恬淡と案内をかって出ていた。まじめに、正しく生きてきた表情をしていて、リスペクトしている。Kは付属からではなく、都立小松川高から母校に入って来られた。お兄さんが原因不明の病か、病院のミスだったかで早くに亡くされ、それが、保険法を研究する動機になったのでは、、とかねてから推測していたが、Kに確認はしていない。よく頑張ったな、、

同期の人たちは、およそ200人はいたのではないかな。前方にいき、床に座った。全体を見渡すと、みな真っ白の頭で、なんてまぁ、みな老けているのだろうというのが、率直な感想。63歳から64歳だろうが、しわも増え、誰が誰だかわからない。車椅子の方も三人ほどおられた。そりゃ、そうだな、と横を見ると、私に案内をLINEでくれた大井がいた。大井は若かった。

高梨が司会をつとめ、一期生のアメリカ創価大学の羽吹学長、山本前学長、そして一期生の馬場学長と、談話をしてくださった。三人とも、柔らかい、いい声をしていた。どうやら、この日 一期生や二期生も集まっているようで、お三方はお忙しいようだった。どんな話だったかというと、、

・私たち通学していたころの文系の「白亜の学舎」は、今は利用されていないらしく、残されるのは一対のブロンズ像と卒業生の名が入っている銅板の壁だけになる。(いや違う、私見だが、この山を横断する東京電力の巨大な送電線の鉄塔は、あの時のままだし、これからも残るだろう)

・私たちの頃とは比べ物にならない程、学生のレベルは上がっている。例えばロシア語は東京外大に引けを取らない、いや、それ以上という評価もあり、学会員でない方も入学されてくると。(それはあながち、偽りでもないだろう。モスクワ大と強力な提携関係にあるし、ロシア留学は当然のように、組み込まれているだろうから。全体的に俯瞰して、大学入試時の偏差値は高くないが、卒業時のレベルは上がっているに違いない、、そう思えた)

・・とまあ、だらだら書くことになりそうだから、、中断。

謹んで、わが母校の創立者のメッセージを以下に載せたい。

メッセージ

みんな、青春の故郷におかえりなさい!遠くから、また忙しいところ、よく帰ってきてくれました。こんな嬉しいことはありません。ありがとう!本当にありがとう!懐かしい一人一人の誇り高き英姿を浮かべつつ、すべてを見守っています。

今朝、妻も「あなたと一緒に創大を築いてきた方たちですね。皆、本当に立派になられましたね」とほほ笑んでおりました。みんなの尊い功労は、決して忘れておりません。

御金言には、「根ふかければ枝さかへ 源と遠ければ流長し」とあります。皆さんこそ、誉れも高き創価教育の勝利の源であるとの誇りに胸を張って、いよいよ後継の友の道を、私と一緒に開いていってください。

私と妻も、今の皆さんの年代から、いやましての大闘争を開始しました。アメリカ創価大学を開学したのは、七十三歳の時です。

諸君も、大いなる力を発揮していくのは、まさにこれからである。ますます健康で、長寿で、大切な一家眷属を牽引しながら、共々に、人間王者の花道を、大勝利で飾ってくれ給え!

今年は、周恩来総理の生誕百二十周年。生涯の戦友であった鄧穎超夫人が、総理と交わした手紙の一部を、最後に贈ります。

「私たちは、揺るがず、不屈不撓で、どんな困難や障害にあっても、勇敢に前に向かって進み戦うのみです」と。

一日一日、私と共に、生涯の学友と共に、栄光凱歌の「学生歌」を轟かせながら、朗らかに進み戦おう!

二〇一八年三月十八日    
創立者  池田 大作  


創立者は、今年90歳になられた。
メッセージは、今からでいい、さぁ、立ちなさい、、そうおっしゃっていると肝に銘じよう。

若松英輔と岩崎航

宮本輝公式サイトBTCのお仲間の康さんが、西部邁さんのことを次にようにコメントされていた。

西部邁さんの入水自死のことは、現役の時にわが社の広報誌に度々ご登場いただいたので、
驚きとともに大変残念に思っております。
しかし、西部さんは、終始一貫して、自分のことは自ら処するという生き方を訴えられ、
国家においても外国に依存したり、ポピュリズム〈大衆迎合主義)に与したりしないことの
大切さを常に考えていらっしゃいました。
したがって、今日の社会の現状を見て、自死は必然であったようにも思えます。

稀な知識人であったことは間違いないでしょう。


その通りだ。康さんの正視眼にリスペクト。西部邁『友情』も読んでみると仰っておられた。

本題。2月26日の月曜日の午前中、解体会社の事務作業をしながらNHKインターネットラジオ「らじるらじる」を聞いていた。CMがある民放とちがい落ち着いて聴いていられる。

その中の『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが岩崎航(わたる)という五行歌の詩人を取り上げていて、おぉ、と驚き、懐かしさを感じながら、聴いていた。

その《 第8回 『いのち』の詩~岩崎航がつかんだ人生の光 》 であり、←をクリックすれば2018年4月20日までは聴ける。

わたしは、若松さんにも、岩崎さんにも、そういえば関心を持っていたわけで、、二人は交流があるのか、という驚きでもあった。

若松さんの『岩崎航論』で、腹に響いたのは、次の五行歌

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚


「点滴ポール
生き抜くという旗印」(ナナロク社,
,2013年7月3日発行)51頁


若松さんは、
岩崎航の言葉の強度を感じて欲しい、、
その歌は「命と心とは違うんだ」と教えてくれている。そう航が考えたのではない。そう生きて来たんだということ、、そのことに深い敬意と、、
信頼に値する、同時代を代表する詩人に、「やっと、めぐり会えた」と評した。

そして
岩崎航を、筋ジストロフィーの病気から視ないほうがいい。
病を背負う人間がいるだけであり、これを勘違いすると、岩崎航という詩人を見誤る、、

と評して、、偉大な詩人がいることに、私たちは誇りに思っていいとまで、言われた。

若松英輔という人は、言葉が立っている人、悪く言えば感情移入の強い人、というのが私の第一印象だった。

「100分で名著」で内村鑑三「代表的日本人」の説明を若松さんがされていて、その声と表情がなんとも不思議だった。

うまく言えないが伊集院さんたちと対話していても、茫然とした表情をしていて、50センチ先にある透明なテロップに浮かぶ言葉を音読している、そんな感じがしたのだ。

だが、その言葉が、なんとも胸をうつ。内奥に刻まれている言葉を発している感じ。

その上で、
五行歌をつづる岩崎航さんを、
筋ジストロフィーとALSの違いもわからない
わたしごときが、、
どう思うかということだが、、それは次回。。

生前の太宰治を知る人

引き続き、太宰治の心中のこと、

牟礼4丁目の玉川上水は、太宰治の遺体が発見された場所だった。入水した玉川上水は三鷹駅に近いところで、碑もあるようだ。近くには作家の山本有三の洋館がある。入水場所と洋館との距離は、200メートルくらいか?

そこから2キロちかく、太宰治は流されたのだ。入水と発見が同じ場所と思い込んでいた。当時の上水は水量も多く、流れの速い川だった、ようだ。

思い出した、太宰治は山本邸に、たびたび石を投げたらしい。文学界の大御所と芥川賞が欲しかった太宰治、、よっぽど癪だったのだろう。

さっき検索して知ったが、、
太宰治に会ったことがある西荻窪の安藤久蔵さんは、心筋梗塞で倒られたようだ。今、どうされておられるか気になる。ご存命なら今年105歳になる。

11月、西荻窪の薪能のときに、安藤さんのコーヒー店「アロマフレッシュ」に行こうとおもっていたが、寒くてパスしてしまったな、、

2年前の対話は、絶対に忘れない。

遠く、安藤久蔵さんの背中をみつめて歩むこと、、

井草八幡で、第1回 遅野井薪能

1.能を見た感動は続いている。古典の力か、時間がたつにつれ、通奏低音のように深く響いてくる。国費をかけて、能を守ろうとしているこの国の意志は、わかる気がする。能は日本文化の結晶に違いない。

2.今月30日、「熊坂」を、西荻窪の井草八幡宮の神楽殿で、薪能として行われることを知った。昨日の国立能楽堂で、そのチラシを手にしたのだ。最初は再び行こうとは思わなかったが、今は、行きたくなっている。

3.井草八幡宮は、大学のときの民法ゼミ、宮崎俊行先生の本家だ。なので井草八幡宮に行って、本殿や郷土資料館みたいな建物にも入ったことがある。帰りには、西荻窪駅前のこけし屋でご馳走していただいたな。宮崎先生は88歳になられているはず、ご存命だろうか、、

そういえば、高校の同窓生、大岡夫婦の結婚式は、たしか、井草八幡宮だったな、、

さらに、105歳になられている?と思う安藤久蔵さんのコーヒー豆を売る店は、井草八幡宮の近くだったな、、

4.井草八幡宮は、今、パワースポットになっているらしい。たしかに木々が鬱蒼としていて、いい気が流れているのかもしれない。そこは、昔は遅野井という地名だったようだ。遅野井の名は、源頼朝による奥州藤原氏征伐のときの出来事に由来するらしい。熊坂は義経の話がベースにあるわけだから、因縁浅からず、でいいかもしれない。。たぶん予約する。全席自由で3000円なら、ヨシとしよう。今度は前の方で、見たいものだ。

追記、宮崎俊行先生は、検索すると、2004年3月に、追悼号なる論文集が出ていることから、その前年あたりに鬼籍にはいられたのかもしれない。享年は75歳くらいか、、1970年代に玄米食をとられていたような、かすかな記憶があるが、、まったく、師恩に報いていないな、、俺は。大学の創立者と生年が同じ昭和3年、西暦1928年1月10日のお生まれだったと思う。創立者と同じように、ご存命と決め込んでいた、ということは、ご専門の農業法学者として、TPPのクビキも東日本大震災も、ご存知ないまま逝かれたのか、、

なんだか、ショックだ。風邪をひいたようだ、ノドが痛い。

天才と瞑想と呪文と

先般の井筒俊彦全集記念講演会で尋ねたかったことが、ようやく思い浮かんだ。

1.どうして井筒俊彦は30カ国の言語を短期間にトップレベルまでに身につけることができたのだろうか。中東の言語以外は独学で、しかも原書を読みこむために学習したわけで、会話は二の次。しかも、英語やフランス語は簡単で面白くない。サンスクリット語は興味深い、、等々、ごく自然に、そう言われたのだ。

2.先日、井筒の声を聴いたが、キーの高い明るい声で、倍音?のような、響かせる声ではなかったのは意外だった。上手く言えないか、「哲人の声」には思えなかった。

井筒俊彦の声はこんな感じだ、、

3.私見だが、その天才的な言語修得能力は、井筒の父親によって培われた瞑想法と深い関係があるのではないか?若松英輔さんは、井筒邸を訪ねた際、奥様に2階の部屋を案内され「ここが生前、井筒が瞑想していた部屋だ」と話したという、、そんなエピソードを話された若松英輔さんに尋ねてみたかった。井筒さんに本として残して欲しかったのは、際立った能力を産んだ方法論であり、こころの機微だ。でも、あの三田の会場では浮かばなかった。

4.井筒の主著「神秘哲学」を踏まえ、こういう話が検索できた。上記の方法のヒントはこの本だけだろう。

井筒俊彦「瞑想の核心部分の構造」

私(井筒俊彦)はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。

彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。

 しかしながら私(井筒俊彦)は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

《もっとも彼(井筒俊彦)は、その後に父から学んだ修養法からの脱却を図ってもいる。》

西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。

《ここまでが井筒俊彦のコトバ、以下は被検索者の言葉だと私は思うが》

井筒俊彦にとっては父から学んだこの修養法は克服すべきものだったのかもしれないが、
それはそれとして、この修養法が彼の脳の力を飛躍的に高めた可能性は否定出来ない。

同じく日本史上の最高の天才といわれる空海もまた、「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれる独自の方法で能力開発を行なったことで知られている。

「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を1,000,000遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができるというもの。ちなみにその間に異性のことを考えてもいけないし、食事にも細かな制限がある。

どちらにしても、ある一点に集中するという訓練を一定期間、必死になって行うことで、記憶力が飛躍的にたかまることを示唆している。もっとも、この方法は大変苦しいもので、一説によれば死亡率が5割にもなるという。ほとんどが狂死してしまうらしい。


以上だ。
つまり、井筒俊彦は、父親の瞑想の方法を、なんだかんだ、晩年まで続けていたことになる。懐かしの「巨人の星」のような話だ。普通の人間には、そうそうマネできそうな芸当ではない。真言宗の開祖空海と井筒さんくらいの、限られた人にしかできないのではないか?ちなみに私は、空海を日本史上の最高の天才とは思わない。ほかにおられる。

5.井筒さんは瞑想だけで、呪文は唱えなかったようだが、その瞑想を通じて、脳が変容していったのでは?

6.スティーブ ジョブズは、禅に傾倒していたが、さらに晩年は念仏のような呪文、マントラを唱えていたと武田鉄矢さんが「今朝の三枚おろし」で話していた。その呪文はなんだったのだろう。

7.そこで、、念仏にせよ、題目にせよ、なぜ日本の二大仏教は短い言葉をくりかえし唱えることを修行の方法としたのか?という素朴な疑問を、実は、わたしはずっと抱いていた。チベットはマニ車を回し、日本は何かを唱え続ける。瞑想か唱えるか、、あとは比叡山の回峯行とかの荒行があるが、そんな行は、もとより庶民には出来っこないし、女性はなおさらだ。

8.柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の「念仏」の章だけ、読んだ。そのあとは気分が悪くなり、図書館に返した。まれにある身体感覚だ。10年くらい前に、練馬駅北口近くの浄土真宗の寺で、養老孟司さんの話をきいたが、その前にプロフィールを話された寺の関係者を見たとき、真っ黒な相で、相当、念仏修行された感じがして、ガクッと気分が悪くなった、、そのことを今、思い出した。

9.ちなみに晩年の親鸞の木像の写真を見たが、左右の目がアンバランスで脳に障害があったのではないか?
親鸞は90歳まで生きたが、その死は、阿鼻叫喚の形相だったという。親鸞の奥さんはその様があまりにひどいので、周囲のものには見せなかったという文献が残っている。四箇の格言の、念仏無限と断じた日蓮の言葉とおりだった。

10.さらに、、日蓮の遺文集、いわゆる御書は1619頁あるが、不思議なことに、親鸞の名前は一つも出てこない、、全くの私見だが、親鸞は比叡山の天台宗の、天台沙門になっておらず、途中で下野、還俗、妻帯したので、「卒業名簿」にはなかったからではないかと、、わたしはそう思っている。

11.戻る。井筒俊彦に対する関心は、わたしのような凡人にも、何がしか非凡へのチャンスがあるのではないかという角度から、にある。だれでも、そうなるようでなければ、ホンモノの思想ではないからだ。

天皇陛下のお言葉

天皇陛下「象徴の務め難しくなる」
その、お言葉全文を、繰り返し読むために、以下に載せておきたい。

戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。

私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉(しゅうえん)に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2カ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることはできないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを、切に願っています。

オバマ大統領の広島スピーチ


5月27日、オバマ大統領の広島スピーチ 「核保有国は、恐怖の論理から逃れるべきだ」という趣旨のスピーチについて、、長文だが、必ずまた読みたくなるだろうから、コピペしておきたい。

オバマ大統領は、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。そして、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問。原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を示すスピーチをした。その中で「核なき世界」を主導する責任についても言及した。

悲しい話だが、、大統領の近くに立つ米国士官が核のボタンが入った装甲ブリーフケースを持って立っていた。

献花には安倍晋三首相が同席した。オバマ大統領のスピーチを載せておきたい。

■オバマ大統領「広島と長崎が教えてくれたのです」

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。

国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。

言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。


1960年代、チェゲバラが慰霊の献花をしたが、それ以来のエポックのように感じた。

71年の歳月が流れたが、鎮魂の大きな一つの区切りを感じた。

ふと、リンカーンのゲティスバーグ演説が思い浮かんだ。きっと、100年後も、語り継がれるだろう。

これを、演説を機会に、英語を学ぼうかな、、生まれ変わった気分で。
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