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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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まなざしの対話

以下のプラトン第七書簡の一文は、
わが学生時代に響いた言葉の一つだった。
3期生の卒業文集「草創」に、まんま『プラトン第七書簡の一文に託して』という題号で、引用した。なので、忘れることはない。

このことについては、私は何も書いていないし、これからも書くことは決してないだろう。それは他の学科のように、たやすく言葉で伝えることのできるものでは決してない。

それは事柄そのものに永い間親しんで、これと生活を共にしていると、忽然として、丁度火花が飛んで来て光明を点ずるようなことが、精神のうちに生じて、それがひとりでに成長して行くといったものなのだ。


40年以上前に読んだ和訳はもっと硬い訳文だった。これを引用しながら、その文集の中で、異端のような立ち位置、4年間のまとめだな、と感じたものだ。作文を提出した際の受け取った事務局の学生が、怪訝な顔をしたのを、かすかに覚えている。

けれど、上記のような火花は、一瞬のまなざし、わたしの眼とまなざしの眼の内に、生成されると、今は、そう思う。

あの年の創立者は、疾風怒濤の波の中に決然としておられ、戦争になるかもしれなかった中ソ対立を、緩和の糸口に導いく行動をとられていた。信じられないだろうが、事実だ。

1974年11月だった。
当時は小さな大学生協に、創立者は数人学生がついてくるカタチで入って、はや足で来られた。
先生(創立者)の歩行は独特だった。全体は悠然としているのに、とても速いのだ。

遠近に関係なく、見ているこちら側のバランス感覚が崩れ、少し動力がある靴を履いているような、妙なアニメーションを見ている感じになる。

最初、生協にいた学生は、まさかという感じで、キョトンしながら、先生を囲んむようになる前に、するりと生協のパンのコーナーに立たれ、棚の所から一つとり口に運ばれていた。

いや、、
その前にそこにいた数人全員に向かって、
『久しぶり』
『好男子だな』と言われた。

学生一人ひとりを写真をとるかのように見つめられた。が、名前を尋ねられたりしなかった。

創立者のソビエト訪問

月刊誌「潮」のコピペである。
当時の空気感がよく伝わるので、読み返したくなる。

とりわけ創立者と同じ年の、
ストリンジャック教授の緊張が伝わってくる。教授はいい顔立ちをされていた、、

また、わたしが創価大学の生協で自由闊達な動きをされていた創立者とほんの少し対面したのも、この頃で、そのシーンが頭の中を反芻することが幾度となく、、ある。なので転載を赦されよ。すこぶる長文になる。

2006-11-05
第12回 ロシアへの第一歩
平和と文化の大城 池田大作の軌跡 潮


「ソ連が怖いのではない。ソ連を知らないことが怖い。だから行く」

一九七四年九月八日、ロシアの大地に第一歩を記した。

◆日ソ間の“戦争”が終わった日。

▼「日ソ復交」の承認

 国会議事堂の長い階段を上り、池田大作青年室長は、三階の傍聴席に着いた。

 コートを脱ぎ、香峯子夫人と並んで腰を下ろす。参議院の本会議場が見下ろせた。

 一九五六年(昭和三十一年)十二月五日午後二時である。

 議場に目を凝らした。

 半円形をした議員席。左端の前から三列目に、がっちりした体格の男がいる。

 白木義一郎。同年夏に“まさかを実現した”大阪地方区から国会に送り込まれた。同じく学会が支援した辻武寿、北条雋八の姿もある。

 正面の「ヒナ壇」。首相の鳩山一郎が、軽く一礼して着席した。鳩山と共にモスクワで日ソ交渉にあたった農相・河野一郎らも椅子に身を沈めた。

 二時五分、開会。

 「日ソ共同宣言」の批准の承認をはじめ、日ソ国交回復に関する四議案が、参議院で承認されようとしていた。

 室長は議事の進行を、つぶさに見守った。時折、夫人に話しかける。

 「採決に入ります」

 議長の声が響く。

 記名投票。議員が列をなして投票に向かう。白木、辻、北条。賛成票を手にしているはずである。

 「賛成二二四票。反対三票。よって今法案は可決されました……」

 拍手がステンドグラスの天窓まで響きわたる。本会議は休憩に入った。

「通りましたね」

 夫人の言葉にうなずき、室長は傍聴席を立った。

 国会の外は、冬の短い日が暮れていた。よく晴れて風が強い。永田町の空に星が散りはじめた。


              *

 池田SGI (創価学会インタナショナル)会長が国会を傍聴したのは、この時だけである。

 第二次大戦の終結から十一年。

 日ソ間の“戦争状態”に、終止符が打たれた日だった。

 これでソ連も、日本の国連加盟を支持する。敗戦国・日本が、国際社会に認知される道筋もついた。

 だがシベリアには、まだ抑留者が残っている。一万一千余名の行方不明者もいる。オホーツク海では、ソ連による日本漁船の拿捕が絶えない。

 多くの国民にとってソ連は、生々しい憎しみが消えない“敵国”だった。


▼「日本しんぶん」編集長

 一九四五年八月九日、ソ連軍は満州(中国東北部)の国境を突破した。日ソの不可侵条約は一方的に破られた。

 「なんて卑怯な奴らだ!」

 貿易商の邦人が毒づいた。

 朝鮮半島北部の興南。二十歳の娘と手当たり次第、リュックに詰め込んでいると、引き戸が荒々しく開いた。

「早くしろ!」

 武装したソ連兵が、黒光りする銃身をしゃくって、せき立てる。

 日本人は、満州の支配者から俘虜に転げ落ちた。

 家も土地も財産も没収。四畳半の部屋に二十数人が押し込まれた。栄養失調。伝染病。みるみる、あばら骨が浮く。体力のある者から順に男たちは連行された。

 ソ連兵は、若い日本人女性を見つけしだい、別の部屋へ引きずっていった。発狂する者、自ら生命を絶つ者……。貿易商の娘は、頭を丸坊主にし、男の服を着た。


               *

 関東軍の衛生将校だった男が、頭を銃で小突かれながら、無蓋貨車から降ろされた。

 一面、原野である。

「おまえ達は道路と鉄道を敷くんだ」

 絶望と不安で、足がすくむ。地獄のシベリア収容所である。

 零下四〇度。冬の朝、背中を向けて、地面であぐらを組んだ仲間が動かない。前に回ると、すでに息をしていない。重労働に耐えるため、ネズミをゆで、ヘビを胃の腑に押し込んだ。

 ある日、収容所にタブロイド紙が回ってきた。懐かしい漢字、かなの記事が埋まっている。食い入るように読んだ。

「『日本しんぶん』 か……」

 抑留者をソ連の協力者に洗脳するための新聞である。

 編集長は「大場三平」。シベリアに連行された日本兵は約五〇万人。ソ連を蛇蝎の如く憎んでいた軍人が、やがて赤旗を振り、インターナショナルを絶叫しはじめた。天皇の軍隊をスターリン礼賛者に変えた仕掛け人である。

「大場三平」。日本人の編集者を装っているが、実は、KGB (ソ連国家保安委員会)の中佐であった。

 イワン・コワレンコ。

 やがて日ソ関係を牛耳る「闇の司祭」とまで呼ばれた。

 筋金入りの共産主義者であり、対日工作に辣腕をふるった。ツンドラの永久凍土より硬い、巌のような男である。


▼敵か 味方か……

 モスクワ「赤の広場」近くの一室。窓際で後ろ手を組んでいる強面の男が猪首をかしげた。

「反ソビエト網を形成しているのは、いったい誰だ?」

 終戦から二十余年がたっていた。

 凄みのある声は、シベリア時代と変わらない。ソビエト共産党中央委員会の国際部副部長や日本課長の職についていたコワレンコである。

 対日外交政策の中核にいたコワレンコは、危機感を隠せない。

 一九七二年九月、日中共同声明が調印される。冷戦下に「米日中ソ」の四極で保たれてきたバランスが、これで崩れた。

 もともと米日は同盟関係にある。そこに米大統領ニクソンが訪中し、米中が接近。さらに日中平和友好条約締結への動きもある。

 四極構造は、いつの間にか「米中日」と「ソ」に分かれている。これではソ連は孤立する。

 いったい誰が、日本と中国の溝を埋めたのか。よけいなことをしてくれたものだ。

 コワレンコは、ひとりの民間人を注視していた。警戒と言った方が正しいかもしれない。創価学会の池田会長である。六八年、いち早く日中の国交正常化を提言している。

 ちょうどソ連は、日本へのパイプをも失いかけていた。日本共産党とは路線問題で対立している。社会党は力不足で頼りにならない。

 一方で無気味なのが、公明党である。その創立者の池田会長。党を支える大衆勢力・創価学会。

“敵なのか、味方なのか……”

 コワレンコは判断しかねていた。


▼マンモスの博覧会

 東京・水道橋の後楽園の特設会場に「大シベリア博覧会」の看板が掲げられたのは、一九七三年の冬である。

 主催は、日本対外文化協会、毎日新聞、電通などで構成する「大シベリア博委員会」。日ソ共同事業であった。

 目玉は、シベリアで発掘されたマンモスの完全骨格と剥製である。海外初公開とあって、上々の前評判だった。

 だが、事態は暗転する。

 この冬、東京は例年にない大雪に見舞われ、会場の一部が雪の重みに耐えきれなかった。

「ゴースポジ!(何と言うことだ)」。シベリア寒気団が、シベリア展をつぶしてしまった。

 学会本部に、広告代理店の最大手・電通から一本の電話がかかってきた。本部職員の一人が電通の役員と旧知だった。

「シベリア展が大変なんだ。何とかならないか」

「助けてくれと言われても……」

 困惑した。だが、無下には断れない。思い切って池田会長に事情を打ち明けた。

「どうしてほしいと言ってるんだ」

 抽象論を好まない。つねに具体的、現実的な解答、解決策を求める。

 「入場券を購入できないかと……」と口ごもる職員。

 「そうか。意義のあることだ。応援してあげようじゃないか」


▼ソ連科学アカデミー

 創価大学の石畳を歩く二人のソ連人が、遠くから呼ぶ声に、顔を上げた。

「あっ、手を振っている」

 校舎の窓から身を乗り出す人影がある。

 ソ連科学アカデミーのナロチニツキーとキムも手を振り返した。この日、シベリア展の謝礼のため創価大学を訪問した。

 職員に案内されるままエレベーターに乗った。ドアが開くと「お待ちしていました!」。

 窓から手を振っていた人。創大創立者の池田会長だった。エレベーターに乗り込んでくる勢いだった。

 応接間に移るや、熱っぽく語り始めた。

 やおら「コスイギン閣下に、お伝えいただきたい!」。

 スケールの大きい提案が飛び出す。

 「教育国連本部を設置してはどうでしょうか」「日ソの学生で文化友好協会を」

 「モスクワ大学に東洋哲学科を新設」「創価大学と学術交流を結びましょう」

 食糧国連の構想、核実験の凍結にまで話が及んだ。

 二人は圧倒された。シベリア展の感謝を伝えるタイミングもない。

 ひと段落したところで、ようやくナロチニツキーは口を開いた。

「すばらしいご提案ですが、私たちは専門外でお返事できません。ぜひ直接、モスクワにいらしてください」

 ソ連関係者の初めての招聘の言葉となった。


▼麻布台・ソ連大使館

 東京タワーが見下ろす分厚いコンクリートの建物。高い塀に囲まれ、その中は窺いしれない。

 麻布台のソ連大使館。

 正面に止まった特殊車両の上では警棒とヘルメットで身を固めた機動隊が、あたりを睥睨している。

 シベリア展以来、学会の本部職員も、ソ連大使館を訪ねるようになった。表通りから一歩奥に入ると、人通りも途絶える。

 コツ、コツ、コツ……。

 暗く静かな坂道。背後に靴音が影のように離れない。立ち止まると、音も消える。明らかに尾行の気配があった。

 冷戦下の一九七〇年代。東西両陣営は、スパイ小説さながらに、諜報活動が熾烈だった。

 不気味な監視下で連日、意見の交換は続いた。

 大使館の参事官クズネツォフ。

「部隊という組織名。旗に鷲のデザイン。これはファッショではないのか?」。疑問を投げかけてくる。

 牧口・戸田両会長は、獄につながれた反戦の闘士。池田会長は親中国だが、反ソではない。にわかに大量の情報がソ連本国へ伝えられはじめた。


               *

 会長自身も大使館を訪れた。クズネツォフは、駐日大使のトロヤノフスキーとともに会長を迎えた。

「あなたは勇気がありますね! ここにいらっしゃるとは」

 トロヤノフスキーが口火を切った。

 池田会長は、日中を結びつけた人物である。ソ連当局にとって、こんな要注意人物はいない。

 ところが会談は忌憚がない。二人の楽しげな声が外にもれ、警備の者が怪訝な顔をした。

“こんな大使の笑い声は、聞いたことがないな”

 この日以降、トロヤノフスキーは直接、学会本部に池田会長を訪ねるようになった。


◆「池田氏は、首相のあなたが会うべき人だ」

▼コワレンコの直談判

 モスクワ。コワレンコは葉巻をくゆらし、日本から寄せられた数々のメモを見つめていた。

「……普通の日本人じゃないな」

 タイプライターで打たれた書面に万年筆でサインした。共産党中央委員会への報告書。

 概要、次のように記されていた。

 ?池田氏は一〇〇〇万人以上の会員を擁する日本最大の仏教団体のリーダーである。

 ?創価学会は大きなマスメディアをもっている。

 ?学会がソ連とソ連の外交政策について、どう評価するのか、無関心ではいられない。

 ?米ソという二つの社会体制の共存について、池田氏の見解は、我々と呼応している。

 ソ連は政治の国である。

 ソ連と中国と。池田会長がシーソーのどちらに乗るかで、国際政治のバランスは大きく傾くと見る。その計算を第一に考える。

 日本とのパイプも欲しい。

 コワレンコは、熟考のすえ、モスクワ大学による招聘を考えた。これなら政治色を薄めることができる。

 しかし、中央委員会学術部は反対している。いまだにスターリン路線を信奉する、強硬な一派もいる。

 日本共産党、社会党、総評、全学連らに働きかけ“アメリカ色の薄い日本”を目指す勢力だった。

 ソ連共産党内部の思惑、派閥争いも絡み、一筋縄ではいかない。

 これはトップに決断してもらうしかない。

 意を決したコワレンコは、重厚な木の扉を強く叩いた。

 かつてスターリンが使っていた執務室。現在の部屋の主は、首相コスイギンである。

 ドアを押し開いたコワレンコは、分厚い絨毯を踏みしめ、執務机の前まで進んだ。立ったままの直談判である。

「池田氏は、首相であるあなたが会うべき人だ」

              *

 招聘状は、コワレンコの意を受けたモスクワ大学のホフロフ総長から、ソ連大使館を経て、学会本部に届けられた。一九七四年夏、池田会長の第一次訪ソが決定した。

▼「面白くやろう」

 東京・信濃町の学会本部では、訪ソ団の青年が腕を組んだまま、考え込んでいた。

 宗教団体が共産圏に乗り込む。何をテーマに、どんな日程を組めばいいのか。ソ連側の情報も乏しい。

 頭を抱えた団員に、会長は声を掛けた。

「面白くやろう。楽しくやろう。面白い人物はいないか」

 枠にはめず、青年の自由な発想に期待した。

“面白い人物か……”

 肩の荷が下りたように、会議は活発になり、文豪ショーロホフとの対談案が飛び出した。

 このノーベル賞作家は、当時、西側では消息が分からなかった。ソ連国内でもアポイントが取れないという。

 出発の日が迫ってきた。

 学会の内外ともに、訪ソに異を唱える声は止まない。

 拉致されるのではないか。毒を盛られるかもしれない。憶測が憶測を呼ぶ。「どうか行かないでください」。心配のあまり、土下座せんばかりの者もいた。

 会長の決意は動かなかった。

「ソ連が怖いんじゃない。ソ連を知らないことが怖いんだ。だから行くんだ」

 訪ソ団は総勢九名。そのうち三人は取材関係者。言論戦に重きを置いた。


▼ストリジャックの驚き

 モスクワのシェレメチェボ国際空港の上空に、ぴかりと光った点が、みるみる機体の形に大きくなり、滑走路に降りてきた。

 一九七四年(昭和四十九年)九月八日午後三時十二分である。

 レオン・ストリジャックは背筋を伸ばし、日航機のタラップから降りてくる日本人を、じっと見つめていた。

“この人か……”

 ソ連側の通訳である。モスクワ大学主任講師。決して高い立場ではない。

 後年のモスクワ大学首脳の告白。

「初めは池田先生の人物が分からなかった。日本の宗教者など大した客ではないと思い、ストリジャックに任せた。

 やがて、これは大変な人物だと分かった。通訳も変えようとしたのだが、先生が彼を指名されるので困った」

 モスクワ大学総長のホフロフらに続いて、初対面のあいさつ。無表情なストリジャックは、池田会長と視線が合ったとき、ぎくっとした。

“心の中まで見通す目。複数の事柄を同時に見ている目”

 ロシア人よりも力強く、手を握ってきた。

 滑走路に並んだ車列。先頭の黒塗りの車「チャイカ」に池田会長と乗り込んだ。「赤の広場」に面するロシアホテルに向け発車した。

「ストリジャック先生、ぜひ、知っておいて頂きたいことがあります」

 会長は丁寧な口調で語り出した。それは、創価学会についての“集中講座”ともいうべき内容だった。

 創立からの歩み。めざす目的。学会の大きさ。組織の形態……。

 要を得て簡潔。分かりやすい。

 ずいぶん政治家や財界人の通訳をしてきたが、今回は、かなり身構えていた。

“日本の宗教者か……。非常に厳格な人ではないか。難しい仏教の言葉を、どう訳せばいいのか”

 杞憂だった。職業柄、言葉を交わせば、人間の器が察せられる。極めて常識的で、構えたところがない。神でもなければ、仏でもない。

 会長の話は、仏法の生命論――人間の生命状態を十段階に分けた「十界論」にまで及んだ。

 きょう九月八日が、会長の恩師・戸田城聖会長が、原水爆禁止宣言を発表した日であることも知る。

 発言の奥に、哲学性、精神性がある。本質をずばりと突く。胸がすく。

 ホテル前で車が停まった。会長は、一言付け加えた。

「今、話したことは、ホフロフ総長にも言わなくて結構です。私は、あなたに話しておきたかったんです」

 巨大な国家機構の、ちっぽけな歯車にすぎない自分を、一個の人間として遇してくれた。


▼通訳が見た池田会長

 ストリジャックは「会長の人間味に魅了された」と言う。

 ある日の午後、ホテルの売店前を通った。ショーケースの覆いは半分閉じ、女店主が、ぶすっとした顔で座っている。

 当時のソ連に、職業的サービスの概念も習慣もない。

 そこで会長が一言。

「お母さんがあまりにも美しいので、ついつい立ち寄ってしまいました!」

 あわてて立ち上がった女店主が、ショーケースの覆いをさっと引いた。

「あなたが来ると分かっていたら、早く開けましたのに!」

 満面の笑みを返してきた。


              *

 大学のキャンパス。あらかじめ整列していた学生たちの歓迎に応えた後、すたすたとベンチのカップルに歩み寄った。

「専攻は何? 二人は結婚するの?今、幸せですか?」

 ストリジャックは、あわてて恋人たちの熱々ぶりを訳すことになった。

 天衣無縫。会長の発言内容は、ひとつ残らずソ連側の随行員がメモして、上層部に報告する。ソ連側は疑心暗鬼だったが、会長には何の警戒もない。

 運転手をせき立てることもない。道が分からず戸惑っていても「日本人の私たちの方が、あくせくしすぎているかもしれませんね」。ゆっくりでいいから、と身ぶり手ぶりで示しながら笑った。

 車の乗り降りでは、必ずお辞儀をして、右手を挙げる。運転手たちと記念撮影にも収まった。無愛想だったドライバーの表情が、だんだん変わっていくではないか。


              *

 話術にも感服した。周囲への配慮が並大抵ではない。

 通訳が分からなかったときのために、一呼吸、間をおいてくれる。会話が核心部分に差しかかると、ゆっくり力強い口調になる。ここが大事だ、と通訳に把握させる。

 相手の話を、ここまで忍耐強く聞く人も知らない。

 ロシア人のスピーチは、いたって長い。序列にこだわり、何人も話す。そうこうするうちに、デザートのアイスクリームが、すっかり溶けてしまった。

 そこで一言。「これはロシアの飲み物です」。

 わっと場がなごんだ。


              *

 モスクワからレニングラードに移動した、ある日。赤い服で装った女性が訪ねてきた。

 欧州で仏法を知り、ソ連に移住してきた学会員だという。張り切って決意を述べる彼女に会長は厳しかった。

「ソ連で絶対に折伏しちゃだめだ。学会員と口にしてもいけない。今日から私の弟子ではないと言いなさい」

 思いも寄らぬ言葉である。彼女はその場で泣き伏せた。ストリジャックに目で助け船を求めてくる。

「先生、そこまで言わなくても、いいじゃありませんか。ソ連にだって、信教の自由はあるんです」

「いや、いいんだ。この人の人生のために、言っておかなければいけない」

 ややあって、会長は、黙ったまま、部屋の隅に置かれたピアノに歩み寄った。

 日本の曲が部屋に流れた。感傷や甘えを打ち破る力感に満ちていた。

 じっとピアノを聴く女性。目を真っ赤にはらしていたが、やがて悟るところがあったのだろう。はっと表情が変わった。

 布教より一人の幸福。殉教者や犠牲者は一人たりとも出さない。衝撃だった。


              *

 つくづく不思議な人だった。

 ストリジャックは、ユダヤ系のロシア人である。民族的な差別、悲哀を舐めてきた。

 中国東北部の出身。戦争、革命、弾圧の渦中で人々と肩を寄せ合ってきた。人間を見分ける目は持っている。

 池田会長は信じるに足る人だった。

▼厳戒態勢の下で

 モスクワの朝。会長に随行してきたカメラマンが、宿舎のロシアホテルの屋上に出た。

 クレムリンの城壁が朝日に照り映えている。右手には聖ワシーリー寺院、左手にはモスクワ川。

 ファインダーをのぞき込んだ。その時である。

 「ネリジャー!(撮るな)」

 後ろから怒気を帯びた声。屈強な男がにらんでいた。

 “昨日もつけていたな。それにしても、こんな朝早くから……”

 観念して、ゆっくりとカメラを下げた。

 エレベーターホールには中年女性が、ルームキーの係として座っていた。鍵の番にしては、妙に眼光が鋭い。

 部屋の出入りをチェックしていたようだ。

 池田会長と香峯子夫人は、にこにこと言葉をかける。ぶすっとしていた彼女が笑顔をみせるようになった。最後は「もう戦争は嫌です。世界を平和にしてください」と言い出した。


              *

 コワレンコは毎晩、一行の宿舎に顔を出した。午後九時ごろから居座り、延々と帰らない。

“目を離すものか”

 唯物主義の信奉者である。目に見えないものは信じない。心ほどもろく、危ういものはない。あれほど多くの日本の軍人が、あっけなく共産主義に転んだではないか。

 寄らば大樹の陰。長いものには巻かれろ。付和雷同――。日本人の精神構造は熟知している。「日本人には脅しが一番」と豪語してやまない。

 ソ連の孤立をおそれるコワレンコは、会長が親中反ソではないか懸念している。宿舎でも会長相手に押しの一手である。

「ソ連は、日本を壊滅する力がある。なんなら、もう一回戦争しましょう」

 会長が冷静に応じる。

「日中が条約を結んだ後で、それを上回る強力な日ソ条約を結べばいいじゃありませんか」

 拳で机をたたき、反論する。

「いや、我々の我慢にも限界がある」

「もっとソ連は大人になりなさい。三〇年、五〇年のサイクルで見れば、今やっていることは小さいことだ。時代は変わりますよ」

「学会が応援しているから公明党は存在できる。中国一辺倒の党を動かすことはたやすい」

 公明党に圧力をかけろ。

「それはしません。たとえできたとしても、しません。党は独り立ちさせています」

 毎晩こんな応酬があって、深夜零時ごろ、コワレンコは腰を上げる。

 ――手強い。脅しが効かない。これまで接した日本人と違うじゃないか。


▼ショーロホフの登場

 訪ソの日程は順調に進んだ。

 教育・学術関係――モスクワ大学、レニングラード大学をはじめ、ソ連科学アカデミー、ソ連教育省などを訪問。

 マスコミの応対――タス通信、モスクワ放送のインタビューに応じる。

 平和への祈り――モスクワの無名戦士の碑、レニングラードのピスカリョフ墓地に献花。

 さらに、国家要人との会見、市庁舎訪問、少年少女たちとの交流、レセプション、夕食会……。

 朗報が届いたのは九月十四日である。

「ショーロホフが会うって?」

 レニングラードの旅程の最終日だった。モスクワに戻る名物列車「赤い矢」。客室に両国のスタッフが集まった。

 日本側は酒とつまみ、ソ連側はウォッカとサンドイッチを持ち寄り、祝杯をあげた。

 陽気なロシアの歌が響き、日本人も肩を組む。いったい何事か、と車掌ものぞきに来た。

 学会側が唯一、要望した件である。

 文豪の作品は、その真贋をめぐって、ソ連攻撃の材料にもされていた。表舞台に出ないと、逃げている、やはり噂は本当だったと言われかねない。モスクワ大学副総長のウラジミール・トローピンらスタッフも、党中央に会見を強く訴えた。

 コワレンコも奔走している。池田会長の人物と思想を作家仲間からショーロホフに伝えてもらった。

 池田・ショーロホフ対談(九月十六日)は、日ソ双方の願いが合致した、エポックとなった。


▼ロシア正教の教会

 黒い帽子をかぶったロシア正教の聖職者は祭壇で、そっと燭台に火を点した。

 重厚な教会の内陣は真昼でも光が乏しい。ロウソクの炎が、敬虔な祈りを捧げる老僧の横顔に、深い陰影を刻んでいる。

“東洋の宗教者。どんな人物だろうか……”。珍しい来訪者を待っていた。

 九月十五日。モスクワ近郊の宗教都市・ザゴールスク。

 ソ連側が組んだプログラムに、宗教施設の見学が組み込まれていた。ソ連にも信教の自由があるのだとアピールする狙いである。

 表で人の声がする。ソ連側の先導で、東洋人の一行が近づいてきた。

 通訳を介して、池田会長が挨拶してきた。聖職者が観光客に話すような説明をしていると、いきなり奇妙な質問を放ってきた。

「あなたは、自殺についてどう考えますか」

“自殺……”

 一瞬、ひるんでいると、会長は仏法の生命観を語りはじめた。

 とうとうと十界論を説く。すでに要を得ているストリジャックが、かみ砕いて解説する。

 同席した宗教委員会の担当者。これでは話が違う。宣伝にならないじゃないか。何度か口をはさもうとしたが、対話は止まらない。老僧も釘付けになっている。

 別れ際、彼は興奮気味だった。

「こんな話は、生まれて初めて聞きました。もっと聞きたい」

 党の官僚は、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。


▼「どこで 見つけたんだ?」

 コワレンコは、耳を疑った。

 九月十六日夜。ソ連首相アレクセイ・ニコラエビッチ・コスイギンとの会見が決定し、その旨を池田会長に伝えた時のことである。

「首相はお忙しい身体です。会見は結構です。宜しくお伝え下さい」

 なんだって。せっかくセットしたものを。日本の政治家なら、一も二もなく飛びつくだろう。欲というものがないのか。

「我々の首相が会いたいと言っている。あなたは会うべきだ!」

 しばらく考えた会長。

「では短時間で結構です。今回、いろいろお気遣いいただいた御礼を伝えさせていただきます」

 翌十七日、第一次訪ソ最終日。クレムリン宮殿での会見が決まった。


              *

◆「閣下、ソ連は中国を攻めてはいけません」

 コスイギンは、朝から精力的に議案を片づけ、執務室に隣接する会見場に向かった。

 午前十時。約束の時間に池田会長は現れた。

 右手で握手。直後に、会長が両腕をポンポンと軽く叩いてきた。あれっ。思わず笑みがこぼれた。

 冒頭で写真撮影も終え、取材関係者には、退席してもらった。

「こんにち残る写真では、コスイギン首相の顔は強ばっています。これは会見前に撮影したからです。いざ会見に入ると首相の表情は一変しました」(会見の同席者)

 まず「日本人はソ連人に親近感を抱いていません」と会長。

 形式や社交辞令を好むタイプではなさそうだ。ぐっと、あごを引き、会長を見すえた。

 学会の理念や組織に関して問いかけると、通訳のストリジャックがテンポよく訳す。二人の呼吸は、ぴったりだ。

 やがて、ナチス・ドイツとのレニングラード攻防戦に話が及んだ。「そのとき私は、そこにいました……」。額に深く皺を寄せ、天井を見上げた。初対面なのに、自分の原体験を明かしていた。

 一番、驚いたのは、中ソ関係への質問だった。

 この当時、中ソ両国間では国境線をめぐって小ぜり合いが頻発していた。中ソ戦争が現実味をもって語られていた。極めて危険な話題である。誰もが腫れ物にさわるように遠回しに聞いてくる。

 ところが。

「コスイギン閣下、中国を攻めてはいけません。アメリカと武力を競い合ってもいけません。世界は運命共同体です。創価学会は小さな団体ですが、世界のことを一番心配しています」

 気迫に押されるように、コスイギンは、中国を攻める意志がないことを明言した。

 話題も豊富だった。

 核問題、食糧問題、アジアの安全保障、ソ連要人の訪日、教育交流、北方領土……。

 会見は三〇分と決まっていたが、あっという間に一時間半が過ぎた。

 時折「ハラショー」と感嘆の声をもらしたコスイギンは、終了後、コワレンコに語ったという。

「どうしてこれまで、ああいう人物を連れてこなかったのか……。それにしても、いったい、どこで見つけたんだ?」

「これが私の仕事ですから」

 胸を反らすコワレンコ。

 首相は厳命した。

「これから池田会長と密接に関係を保つことを命令する。もし、クレムリンの内部で、困難な問題が発生したら、直接、私に電話しなさい」


▼想定外の反響

 日本へ帰国する一行と別れたコワレンコの胸に、一つの疑念がぬぐい去れない。

 訪ソ自体は大成功だった。だが池田会長は、何の見返りも求めてこなかった。なぜだ。

 ソ連共産党中央委員会でも、招聘の評価は保留にされていた。日本の反応を待って、成否を見極めることになった。

 各省庁の国際部、受け入れ当事者が情報を吸い上げた。

 驚くべき結果であった。

 一九七四年末まで約三カ月間、日本のマスコミでは、池田会長の訪ソ記事、映像が大量に扱われた。

 これだけ集中的にソ連関係のニュースが流れた前例はない。帰国した西側の人間は口を閉じたままか、往々にして悪い面ばかりを強調した。

 日本の議員団や平和団体を受け入れても、簡単な帰国記事が出て、それっきり。完全な肩すかしである。

 ソ連側は、その影響力の大きさに目を見張った。しぜん対応も一変する。

「池田会長の訪ソによって初めてソ連の正確な実態が日本に紹介された」ヒストリジャックは述懐した。

 翌七五年の第二次訪ソ。

 空港にソ日協会会長のグジェンコ海運相が自ら出迎えた。招聘元も、モスクワ大学に対文連(ソ連対外友好文化交流団体連合会)が加わった。レセプションにも、二人の大臣が出席するという異例の歓迎であった。

 デンマーク女王の訪ソで多忙を極めていたコスイギンですらも、二度目の池田会見で、こう言った。

「会長とお会いするために時間を作りました」

 余談になるが、訪ソが成功裏に終わったことを心良く思わない者たちもいた。その一つの表れとして訪ソの翌年の七五年初頭には、いわゆる「月刊ペン事件」が起こる。すでに事実無根のデマとして司法上の決着をみているため、詳細は略するが、同誌の記事の中でも極めて悪辣だった一つが、訪ソに関する記述であった。

 例によって例のごとく、女性云々の話だが、訪ソには香峯子夫人が常時随行している。

 ある折に会長は語っている。

「戸田先生は先の先まで見通す大指導者でいらっしゃった。私に『将来、海外に行くようになったら、香峯子を連れていけ。世間には何を言い出す者がいるか分からないからな』とおっしゃった。どれほど有難い先生でいらっしゃったか」


▼モスクワ大学 名誉博士

 選考会議を終えたモスクワ大学副総長のトローピンは、椅子の背にもたれて、安堵の息をついた。

 一九七五年四月。

 同大学の哲学部が提案し、歴史学部等も支持してきた、池田会長への同大学名誉博士号の授与が決定した。

 大学の威信をかけた称号。審査は厳格で、選考システムも複雑である。

 学内を奔走したトローピンは、篤実な歴史学者。副総長の中では七番目の序列で、スタンドプレーを好まない学究の徒が、目の色を変えている。

 日ソ双方から雑音があった。「あなたは創価学会に利用されている」。

 外野は騒がしかったが、とうとう学内の意見調整ができた。

 七五年五月、第二次訪ソ。

 モスクワに到着した会長に、名誉博士号の件を伝えると、トローピンは思わず、のけぞった。

「断るというのですか!」

「もったいないことです。おつきあいも、まだまだ短い。これからの私の行動を見ていてください」

 心臓の鼓動が高まるのが分かった。

「先生、ぜひとも受けていただきたい!」

 ここまできて、あとには引けない。

「先生に受けていただかなくては、私が困るのです」

 すっかり困惑するトローピン。香峯子夫人が見かねて言い添えた。

「あなた、捧げたいとまでおっしゃっているのよ。先方も、そのほうが喜ばれるのですから……」

 トローピンは、百万の援軍を得た思いで夫人に笑みを向けた。

 先方のためになるならば――池田会長は、モスクワ大学の「名誉博士」を受章した。

 今日では二〇〇にも及ぶ、世界の学術機関からの名誉称号の「第一号」である。

 学術称号の受章について、とかく詮索する向きがある。しかし、もともと会長は頑として固辞したのである。この事実は記憶されてよい。


▼ログノフ博士の落涙

 モスクワ大学前総長のログノフは物理学者である。唯物主義者であるとともに、科学の人である。宗教とは相容れがたい。

 ある時、手を触れた物に火をつけてしまうという超能力少年が現れ、ソ連で話題になった。

 ログノフは、ソ連の未来に対する暗示ではないか、と池田会長に質問した。要するに宗教をオカルト的な次元でとらえていた。

 会長の答え。

「人間は人間らしく生きていくために生まれてきたんです。仮に特別な才能があっても、そのことで不幸になるケースが多い。責任ある大人が、少年が人間らしく生きる環境を整えることが大切です」

 ログノフは、はっとした。確かにそうだ。手から火が出せたところで、人間の幸不幸とは関係ない。以後、宗教への見方が変わった。科学と宗教を思索するようになった。


              *

 両者は、二冊の対談集『第三の虹の橋』『科学と宗教』を発刊した。タイトルも会長自身の発案による。ここでログノフは、生命の永遠性について、イエス、ノーいずれも断言できない態度を崩さなかった。

 一九九三年、ログノフは最愛の子息を亡くす。その翌年、会長と再会した。

 モスクワ大学内のレセプション会場。ログノフは後方の席にいた。にぎわいの中でログノフを見つけた会長は歩み寄り、部屋の片隅に誘う。本当は晴れやかに、レセプションに出る心境などではなかっただろう。二人は並んでイスに座った。


▼モスクワ大学から名誉称号の「第一号」。

「息子さんを亡くされた悲しみはいかばかりか……。私も二男を亡くしています」

 将来を嘱望した子息だった。死因は白血病。ぎゅっと目を閉じた。

「息子さんの生命は大宇宙にとけ込んで、新しいエネルギーを蓄えて、新しい生命としてログノフさんの側に生まれてきます。今はお父さんの生命の中に生きています」

 胸のあたりをボンと叩いてくれる。思わず眼鏡を外して、ハンカチをそっと目に当てた。

「池田先生の言葉を信じます」。ログノフの背を、会長は、いつまでもさすっていた。


▼ゴルバチョフとの出会い

 一九八〇年代後半、ソ連は次の三点で、池田会長を評価していた。

 ?チーホノフ首相との会見等で、第三国での米ソ首脳会談を提案した。

 ?ゴルバチョフ書記長が世界の核全廃を訴えた「クラスノヤルスク宣言」(八六年一月十五日)に対して、直後の一月三十日、ノーボスチ通信に全面的支持の声明を発表した。

 ?教育、文化交流を継続した。


            *

 ゴルバチョフ会談(一九九〇年七月二十七日)は、自然の流れだった。 席上、ソ連の国家元首としては、史上初の訪日を表明した。

 その二日前に日本の衆院議長・桜内義雄がゴルバチョフと会談した。その折には引き出せなかった発言である。

 ――初会談に先立つ一九八七年五月二十五日から六月七日まで、モスクワでSGI等の主催による「核の脅威展」が開催された。開会式典に出席した後、会長は、パリに向かう予定であった。出国の前夜、ソ連側から、パリからの帰路、再度モスクワに立ち寄れないかと打診があった。

 こんにち明らかになっているところによれば、これはソ連共産党中央の意向であった。「脅威展」 の際にゴルバチョフはルーマニア訪問中であった。もし会長のスケジュールが許せば、会談を準備したい。しかし会長は、日程の関係から丁重に断っている。

 この事実は、二つのことを示している。会談はソ連側から要請されたこと。そして売名目的、金銭介在等の勘繰りが、いかに荒唐無稽か、である。

 ゴルバチョフ会見の直後。宿舎に戻った会長は、香峯子夫人に語っている。

「純粋な人だった。英雄には、常に悲劇が待っている。これから苦難にあって真価が発揮される」

 ゴルバチョフの改革は、連邦の解体まで突き進む。

 生命を狙われた。自ら強大な権力を手放した。毀誉褒貶の嵐にもさらされた。最愛の夫人も先立った――。

 試練の連続である。窮地になるほどエールを送ったのは池田会長だった。


▼豪腕コワレンコの引退

 コワレンコが、改めて池田会長の器を感じたのは、一九八一年であるという。

 ソ連はアフガニスタン侵攻で全世界から非難を浴びていた。

 最中の同年五月、池田会長は、青年部、関西の代表ら二五〇人とともにソ連に向かった。

 このときコワレンコは硬い表情で釘を刺している。

「先生、ちょっと無防備すぎます。気をつけてください。ソ連は池田先生を利用するかもしれませんよ」

 すると 「大いに利用してもらって結構ですよ」。

 えっ。

「そのかわり平和利用でお願いしますね。コワレンコ先生、すべては、あなたにおまかせします」


              *

“もう潮時か……”

 コワレンコは一九九一年のソ連解体を前に政界から退いた。

 辣腕で鳴らした男の引退である。胸をなで下ろす日本の政治家は多かった。

 自民、社会、公明、共産…。パイプのあった政党、政治家から労をねぎらう声も届いたが、政治の世界の動きは速い。過去の人物として、コワレンコは急速に忘れられていった。

 やがて、学会からコワレンコ夫妻に、日本への招待状が届いた。

 恐縮しながら、好意に甘えさせてもらった。

 しかも妻がリューマチで悩んでいることを知っていて、関西の名湯・有馬温泉の宿まで用意してくれた。

 ゆっくり湯船で手足を伸ばしたコワレンコ。“いつ以来かな……こんなに、のんびりしたのは”。

 阿修羅の如く政治闘争に明け暮れた人生。苦労をかけた妻も日本の浴衣を着て、うれしそうである。

 来日中、妻とともに池田会長と再会した。

「こんなに夫と一緒に過ごせたことはありません。すっかり身体の痛みも消えました……」

 ふと見ると、妻は肩を震わせ、嗚咽をこらえていた。

 戦後の日ソ関係のキーマンであり、生き証人である。日本の有名出版社から、回想録の執筆を頼まれた。池田会長の功績を称えた部分に限って、編集者がクレームをつけた。ごっそり削ってきた。

“やれやれ。日本人には、池田大作の大きさが理解できないのか”

 コワレンコは呆れた。

          (文中敬称略)

   「池田大作の軌跡」編纂委員会

玉村豊男さんも完治

あぁ、やっぱここから、遠のいてしまう。
またまた断片的に、、

1.玉村豊男という74歳のエッセイストがいる。たしか東大仏文の出で、あまり読んでないが、博識の印象を持っていた。

2.玉村豊男さんがC型肝炎患者だったこと、軽井沢の奥だったか、ワイナリーを持っていることなど、記憶していた。

3.月刊誌「潮」に「わたしと平成」という特集に「自分らしい生き方ができた時代」というタイトルで、玉村さんのエッセイが載っていた。

こう書かれている、、
41歳のとき突然、吐血して病院に運ばれ、そのときの輸血が原因でC型肝炎になってしまった。

平成の30年の歳月を振り返って強く感じるのが、医療の進歩です。長年、患っていた肝炎は、平成27年に新しい薬によって完治しました。肝炎とのつきあいも、ほぼ平成という時代とリンクしているのです。

ただ肝炎が治ったと思ったら翌年には肝がんが見つかりました。

でもがんを告知されたとき、なぜかさっぱりしていて、心の重荷が下りたような気がしました。

現在、検査や治療を続けながら、がんのことをネタに「病気自慢」という本さえ出しています。


以上だが、共感することしきりだった。
驚いたのは、、

いま振り返ると、ワインに限らず、ライフワークとなる活動は、平成になって本格的に取り組んできたことです。絵を描き始めたのも、肝炎になってハードな仕事ができなくなったからです。

とあった。画家でもあったのか、知らなかった。

わたしの場合も、平成は、まるまるC型肝炎闘病の日々だった。

身の回りの片付けをしていて宮沢りえの写真集「Santa Fe」が出てきた。1991年11月に肝炎で最初に入院したとき、買ったもので、全身倦怠感でぼっとし寝ながら眺めていた。美しかったし、宮沢りえの潔さを感じた。

今日の大女優、宮沢りえにいたる一貫した心のありよう、凛としたものが、すでにその写真集に写し出されているように、思う。

それにしても四半世紀の闘病、長かったな、、肝炎がなかったなら、精力的にうって出て、もっと違う選択があったろうに。

たしかに重荷が下りる感覚は、わたしにもあったのだが、恬淡としたもので、玉村さんの絵を描くような創造力は、とてもじゃないが、、ならば65歳になる令和からわがライフワークをやるかな、、

5.あともう一人、
気になるC型肝炎患者は、90歳を超えた歴史家の色川大吉さんだが、山梨に一人で住んでおられる。C型肝炎はたぶん完治しているだろうが、、高齢だからな、、肝臓は硬くなっているかもしれない。

1975年だったか、色川さんが書かれた本に感動し、東京経済大学の授業を聞きに行き、授業のあと、本にサインしてもらったことがある。

笑顔はなく憮然として「なんだ、そんなことか」といわれたのを覚えている。そのときを境に、わたしの色川熱は徐々に冷めていったが、、もしかしたら、あの頃すでに色川大吉さんも肝炎を発症していたのかもしれない。

学生のための大学

仕事は先週、事務の女性が出社したので、引き継ぎの作業に入っているが、問題が散見され、やりがいのスイッチが入りつつある。

工事解体会社のときは限界を決めてやっていたが、ここでは一肌脱ごうかなと思っている。

掲題に入る。
創価学会の10月の座談会はブロック座談会。。わたしはその長、本陣長という役割なので、司会進行を務めた。

その日の幹部指導は婦人部の那須さんで、練馬総区の婦人部長のようで、西大泉からおめみえいただいた。創価学園、同女子短大の出身だった。

で、このかたなら大丈夫かなと、尋ねたのだ。
「創価大学にイスラム教の国から来ている学生の人たちは、その礼拝は学内でするところがあるのか」と。

コーランの教えでは、1日に五回礼拝することになっているから、どうしているのか、心配になっていたのだ。

那須さんの回答は明解だった。
「イスラム教に則った礼拝する所が設けられている。学生に限らずイスラム教の国から来賓があり、そのかたたちためにも設けられている」と。

驚き、安心した。
さすがだな、やはり創立者はすごい、、と感じいった。

今年3月に10年ぶりに八王子市丹木町の大学に行き、野外のテーブルで雑談していると、クリシュナ教徒っぽい衣を着た外国人が談話していてたし、スカーフをかぶったインドネシアの女子学生が2、3人、見かけた。40年前とはずいぶんずいぶん違う光景だった。宗門の桎梏があったなら、こうはならなかった、だろう。

国立の九州大学は、同じように礼拝所をあるらしいが、、日本の他の大学はどう対応しているのだろう。

あらためて、ここは教職員ではなく、「学生のため大学」だなと思った次第。21世紀はそういう時代なのだと思う。

一つの節目

昨日の昼、近所のガストで、石田ケンさんに昼食をご馳走していただいた。さしで二時間近く対話した。そんな石田さんとの対話は初めてだった。

わたしの状況を心配になられたようで、声がけしていただいたのだ。感謝。

石田さんは、わたしが信頼する学会人のお一人で、わたしは存念を語った。

この日、「新人間革命」の新聞掲載の最後の日だった。前作の掲載を合わせると50年の歳月に及ぶ長編になるわけで、、石田さんとの対話と重なり、記憶に残る日になるだろう。

石田さんは、リウマチなどの病気もどうにか克服し、仕事は順調のようで、全てはこの信心を中心軸にしてきたことによると言われていた。

この信心には、ヒッキョウ、ご本尊に向かって題目を唱える、そのことに深甚なものがある、とする簡潔さがある。日蓮大聖人はそのことを60年の生涯をかけて、ひろめられた。

創価学会はフレキシブルに中間を省いて、大聖人直結の信心で、今世紀中に、世界に広げようとしている、とわたしは見ているし、中華人民共和国が認容すれば世界で三億人のSGIは可能だと展望する。(ちなみに先生は周恩来に対して合法的な認容なく、布教はしないと約束した)

とりわけ大御本尊のことにふれた「新人間革命」の一節を見たとき、深くそう思った。

5495回、大道4で、池田先生はこう書かれた、その全文を載せる。

翌年七月二十五日午後、四国に草創の支部が結成されて二十二周年を迎えることから、その記念幹部会が四国研修道場で開催された。

この集いでも、四国の歌「我等の天地」を大合唱し、喜びの波動は広がっていった。

席上、山本伸一は、「阿仏房御書」(1304頁)
を拝して指導した。

本抄で日蓮大聖人は、「末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。もしそうてあれば、身分の貴さや賎しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身が宝塔であり、またその人自身が多宝如来なのである」(通解)と御断言になっている。

宝塔とは、法華経に説かれた、金、銀、瑠璃など、七宝をもって飾られた壮大な塔である。

多宝如来とは、法華経こそ万人成仏の真実の教えであることを証明する仏である。

現実の世界で日々苦闘する生身の人間が、信心に励むことによって、そのままの姿で妙法の当体、すなわち宝塔として金色燦然と輝き、また、多宝如来として真の仏法の偉大さを証明していけるというのだ。

初代会長·牧口常三郎も随所に線を引き、深く拝していた御書である。

伸一は、そのあとにある、「阿仏房さながら宝塔·宝塔さながら阿仏房·これより外の才覚無益なり」の一節を引いて訴えた。

「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。

これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。したがって『此れより外の才覚無益なり』----“これだけ知っていればいいのですよ”と言われているんです。

本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。

ですから、いつ、どこにいようと、自分がいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。

なんの心配もありません」



この5495回は、学会がご本尊に対する新基軸を定めたころの新聞掲載であった。

後世の人たちよ、「大御本尊なんです」の「大」を決して消さないで欲しい。改竄してはならない。

池田先生は、学会の過去と未來において、究極の指導をされたのだ、と私は理解した。このような発言できる人は、これから先にも、現れはしない。究極の池田思想であり、人類への印綬に違いない。

50年前、1968年9月8日、両国日大講堂で行われた第11回学生部総会で、池田先生は「日中国交正常化提言」を発表された。

私は中学二年だったが、その聖教の記事を読んだとき、尋常でない身震いを感じた。
右翼に先生は暗殺されると思ったのだ。
日本全体が中華人民共和国に恐怖心をもっていて、正常化などあり得ないといった世論だったからだ。

実際にそういう動きは、車谷長吉の小説「塩壺の匙」の中で、池田大作を殺せという依頼の話が出てきていて、その名の登場にギョッとした瞬間、一気に中国提言の恐怖がよみがえった。

あぁ、そういえば1995年のオウムなんとか教からも、先生は命をねらわれていたな、、

とにかく、上記の、私たちにおいてコペルニクス的大転換の一節は、わたしにとっては、中国提言以来の身震いだったのだ。

余談を二つ

まず、初代会長の牧口常三郎に折伏された柳田国男は、学会の信心、唱題を「マジック」だと評し、全く宗教ではないと拒絶した。戦後も二代戸田城聖とも連絡を一切、たった。

思うに、マジックと侮っても結構だが、万人にとって、これに勝る仏事はない。

もう一つ、「人間革命」「新人間革命」を「信心の教科書」と現会長は評しておられるが、教科書という表現は、いかにも東大出の頭のいい人が思い浮かびそうなキャッチコピーに見え、私には違和感がある。
遠い昔、「現代の御書」と持ち上げていた福島某がいたな、、人間革命というタイトルだけで、十分であり、評価的コピーはいかがなものか。

ちなみに私は中国やフランスの革命という歴史的な出来事を賞賛できない。不幸な出来事とみている。なので、いつも「命をあらためる」ことと解している。

「創価学会秘史」から

6月17日の日曜、創価学会の教学任用試験に会員・会友を合わせて12万人の方々が挑戦されたと知った。その試験範囲の中に、必ず学会の歴史を知ることが入っている。

実は、私個人としても初代会長の牧口常三郎という人の思想遍歴に関心が強い。なぜ日蓮正宗という一宗門に入信したのだろう。牧口常三郎は青年期は北海道におられたのだから、キリスト教の影響は少なからずあっただろうに、そしてもしキリスト教徒になっていたら価値創造の団体はどうなっていただろうか、、とか想像を巡らせたりする。ただ、その遍歴は分からないことが多い。

今、板橋区図書館から二つの本を借りて読んでいる。
高橋篤史「創価学会秘史」(講談社 2018/2)
鶴見太郎「ある邂逅 柳田国男と牧口常三郎」(潮出版社  )

後者は学会系の出版社で論調は柔和だが、前者は学会に対して冷ややか、批判的な論調(最初は、今日標ぼうするものとは違う、例えば平和思想なんてなかった。戦後に現れた論調だとか)になっている。

が一向に構わない、無名の学会人の私から見れば、どちらも面白く、飽きずに読める。ひとます「創価学会秘史」から面白いと感じた事実を箇条書きで、以下にメモしておきたい。敬称、尊称は略す。

人のふるまいとして最期は獄死した牧口常三郎という人がどれだけ偉大だったか、そのことを確認したい、、「創価学会は小学校長をしていた人が実験証明を旗印にはじめた教育団体から日蓮仏法に直結する宗教団体に飛躍した、というわが認識」(私の学会定義はここからはじまる)は揺るがない。その内在的な歴史をわが身の中心軸にしたいのだ。


1.北海道から東京に来られた牧口常三郎はその初著「人生地理学」は1000頁に及ぶ大著ながら増刷を重ね、多くの知友を得た。志賀重昂(しげたか)、講道館の加納治五郎、民俗学の柳田国男、など。

2.とりわけ牧口より4歳下の柳田国男とは1909年5月2日に知り合い、やがて親しくなっていった。柳田は戦前の創価教育学会の顧問を引き受けて時期もあったが、牧口が宗教の話に及ぶと柳田はすぐ拒否し、シャットアウトしていた。

3.牧口は、東京に出て最初は、社団法人茗渓会で書記の働き口を得た。また弘文学院、東亜学校で地理学の講師をした。その後富士見尋常小学校、文部省図書局に職を得ていた。

4.1905年5月から3年間、経済的に恵まれない女子に対して通信教育を施す大日本高等女学会の主幹を務めた。しかし経営は厳しかった。

5.柳田国男が幹事となった郷土会に牧口も加わった。郷土会は毎月、会員が小日向の新渡戸稲造邸などに集まり、各各自由な立場で各地の風習や民間伝承などの研究成果を発表する場であった。会員はエリート官僚が中心で、毎回50銭の会費を出す代わりに新渡戸から2円程度の御馳走をふるまわれていた。

6.1910年、牧口は農商務省の嘱託として九州の中央に位置する津江村、小国村の生活実態調査に赴いている。

7.柳田国男は牧口の性格を
 「温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命していた」
 「口が下手で、余り物が言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことを云う人であると判ってきた」
 
8.1911年5月、柳田と牧口は、甲州の谷村から道志谷、月夜野、相模にかけて旅行をした。柳田は「非常に気持ち良い旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出される程、印象深いものがあった」と二人の親交の深さを語った。

9.小学校長の牧口は、地元の有力者の子弟を特別扱いすることに反対し、立場危うくなることが多々あった。

10.墨田区亀沢の三笠尋常小学校では、貧しい家庭が多い地域であり、多くの児童は昼食抜きで、事業が終わると副業に汗を流していた。見かねた牧口はペニーランチ、パン1個に汁椀2杯を無料で配る制度を導入した。その後1922年4月、裕福な家庭の子弟が通う白金尋常小学校の校長に転任した。

11.牧口の生家である渡辺家は禅宗、養家の牧口家は「法華の家」だったが、幼少期の牧口に信仰の念はなかった。札幌の生活でキリスト教に深入りすることはなかった。

12.上京後、牧口は禅に参加したり、深呼吸法を試してみたり、田中智学の国柱会に1916年頃、接近した。田中の講演を数回聴きに行った。牧口の岳父である牧口熊太郎が国柱会の会員だった。

13.牧口は、1920年頃から十数年間、古神道の禊に長く親しんだ。滝に打たれたり、厳寒の海に入っていく。財団法人稜威(みいづ)会の主催の禊だった。牧口は自宅でも毎朝冷水浴を欠かさなかった。しかし「心からの信仰に入ることは出来なかった」と。

14.牧口を折伏した三谷素啓は日蓮正宗の有力信徒で、牧口より7歳上、目白商業学校の初代校長であった。ただしその在任期間1年にすぎなかった。柳田国男は三谷に対して「どうも正体の判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。ところが、いくつかの妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議と良く効いた」と。そもそも牧口が三谷を紹介したのも「面白い薬がありますよ」と言ったのがきっかけだった。

15.1922年、牧口と戸田城聖(当時は城外)は三田の慶應義塾に行き、来日していたアインシュタインの講演を聞いた。また牧口はアメリカのプラグマティズムのジョン・デューイにも関心をもっていた。

16.柳田国男は後年、牧口が日蓮正宗に入信した動機について二つの原因を推測して書いている。それは「貧苦と病苦」であると。
「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供(四男四女)が患ったり、死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた」と。

以上、ひとまず、ここまで。

私見だが、小林秀雄は晩年よく柳田国男の評論をされた。「山の人生」の録音もある。おそらく小林秀雄は膨大な柳田国男の著作を読んでいただろうし、その中に「故郷七十年拾遺」もあったはず。そこに牧口常三郎のことが出てくる。小林秀雄は1910年頃、港区白金尋常小学校に通っていたわけで、時期は異なり出会ってはいないだろうが、牧口を自分の母校の校長を務めた人と知っていたかもしれない。

1970年代の前半、小林秀雄は、中村光男などを伴って、日蓮正宗大石寺に桜を見に訪れている。応対したのはわが母校創立者の池田先生であり、互いに微笑みながら歩かれている姿を聖教新聞で見たことがある。言論問題と重なる時期だった。単なる物見遊山ではあるまい、池田大作という40歳代前半の人に直接会いにきたのだ。小林秀雄は、しっかり、池田大作という人の目を見つめたに違いない。私も70年代何度か、先生の眼を見たが、洞察と真剣と奥深さと、人生でそのような眼をした人を、他に見たことがない。

おそらく小林秀雄はその歓談の際も、学会草創の牧口常三郎のことがよぎったのではないか、、その小林秀雄の、2008年に載った聖教新聞の記事は、また後日書き込むことにする。

三期生大会、、わが母校に行った

18日の日曜、9時過ぎに家を出て、電車で八王子の母校に向かった。10年ぶりの同窓会に出る。10時15分には、八王子駅の北口にいた。そこから母校に向かう人たちの長蛇の列。女子短大の卒業式らしい。
八王子の駅前中央の道路から直線的なバイパス道路ができていて、トンネルを抜け、母校まで15分たらずで、到着した。40年前の国道16号線を使い、ひよどり丘を超える行程だったら、こうは行かない。

実は、、面倒くさい、だれが咎めるわけでもないし、ドタキャンするか、、という心が一瞬あったのだが、、ともあれ、11時の開会から遅れること30分で、到着した。

会場前には、法学部教授のKがいた。髪は黒く、名は体を表していた。
「当起遠迎 当如敬仏」の経文通り、恬淡と案内をかって出ていた。まじめに、正しく生きてきた表情をしていて、リスペクトしている。Kは付属からではなく、都立小松川高から母校に入って来られた。お兄さんが原因不明の病か、病院のミスだったかで早くに亡くされ、それが、保険法を研究する動機になったのでは、、とかねてから推測していたが、Kに確認はしていない。よく頑張ったな、、

同期の人たちは、およそ200人はいたのではないかな。前方にいき、床に座った。全体を見渡すと、みな真っ白の頭で、なんてまぁ、みな老けているのだろうというのが、率直な感想。63歳から64歳だろうが、しわも増え、誰が誰だかわからない。車椅子の方も三人ほどおられた。そりゃ、そうだな、と横を見ると、私に案内をLINEでくれた大井がいた。大井は若かった。

高梨が司会をつとめ、一期生のアメリカ創価大学の羽吹学長、山本前学長、そして一期生の馬場学長と、談話をしてくださった。三人とも、柔らかい、いい声をしていた。どうやら、この日 一期生や二期生も集まっているようで、お三方はお忙しいようだった。どんな話だったかというと、、

・私たち通学していたころの文系の「白亜の学舎」は、今は利用されていないらしく、残されるのは一対のブロンズ像と卒業生の名が入っている銅板の壁だけになる。(いや違う、私見だが、この山を横断する東京電力の巨大な送電線の鉄塔は、あの時のままだし、これからも残るだろう)

・私たちの頃とは比べ物にならない程、学生のレベルは上がっている。例えばロシア語は東京外大に引けを取らない、いや、それ以上という評価もあり、学会員でない方も入学されてくると。(それはあながち、偽りでもないだろう。モスクワ大と強力な提携関係にあるし、ロシア留学は当然のように、組み込まれているだろうから。全体的に俯瞰して、大学入試時の偏差値は高くないが、卒業時のレベルは上がっているに違いない、、そう思えた)

・・とまあ、だらだら書くことになりそうだから、、中断。

謹んで、わが母校の創立者のメッセージを以下に載せたい。

メッセージ

みんな、青春の故郷におかえりなさい!遠くから、また忙しいところ、よく帰ってきてくれました。こんな嬉しいことはありません。ありがとう!本当にありがとう!懐かしい一人一人の誇り高き英姿を浮かべつつ、すべてを見守っています。

今朝、妻も「あなたと一緒に創大を築いてきた方たちですね。皆、本当に立派になられましたね」とほほ笑んでおりました。みんなの尊い功労は、決して忘れておりません。

御金言には、「根ふかければ枝さかへ 源と遠ければ流長し」とあります。皆さんこそ、誉れも高き創価教育の勝利の源であるとの誇りに胸を張って、いよいよ後継の友の道を、私と一緒に開いていってください。

私と妻も、今の皆さんの年代から、いやましての大闘争を開始しました。アメリカ創価大学を開学したのは、七十三歳の時です。

諸君も、大いなる力を発揮していくのは、まさにこれからである。ますます健康で、長寿で、大切な一家眷属を牽引しながら、共々に、人間王者の花道を、大勝利で飾ってくれ給え!

今年は、周恩来総理の生誕百二十周年。生涯の戦友であった鄧穎超夫人が、総理と交わした手紙の一部を、最後に贈ります。

「私たちは、揺るがず、不屈不撓で、どんな困難や障害にあっても、勇敢に前に向かって進み戦うのみです」と。

一日一日、私と共に、生涯の学友と共に、栄光凱歌の「学生歌」を轟かせながら、朗らかに進み戦おう!

二〇一八年三月十八日    
創立者  池田 大作  


創立者は、今年90歳になられた。
メッセージは、今からでいい、さぁ、立ちなさい、、そうおっしゃっていると肝に銘じよう。

若松英輔と岩崎航

宮本輝公式サイトBTCのお仲間の康さんが、西部邁さんのことを次にようにコメントされていた。

西部邁さんの入水自死のことは、現役の時にわが社の広報誌に度々ご登場いただいたので、
驚きとともに大変残念に思っております。
しかし、西部さんは、終始一貫して、自分のことは自ら処するという生き方を訴えられ、
国家においても外国に依存したり、ポピュリズム〈大衆迎合主義)に与したりしないことの
大切さを常に考えていらっしゃいました。
したがって、今日の社会の現状を見て、自死は必然であったようにも思えます。

稀な知識人であったことは間違いないでしょう。


その通りだ。康さんの正視眼にリスペクト。西部邁『友情』も読んでみると仰っておられた。

本題。2月26日の月曜日の午前中、解体会社の事務作業をしながらNHKインターネットラジオ「らじるらじる」を聞いていた。CMがある民放とちがい落ち着いて聴いていられる。

その中の『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが岩崎航(わたる)という五行歌の詩人を取り上げていて、おぉ、と驚き、懐かしさを感じながら、聴いていた。

その《 第8回 『いのち』の詩~岩崎航がつかんだ人生の光 》 であり、←をクリックすれば2018年4月20日までは聴ける。

わたしは、若松さんにも、岩崎さんにも、そういえば関心を持っていたわけで、、二人は交流があるのか、という驚きでもあった。

若松さんの『岩崎航論』で、腹に響いたのは、次の五行歌

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚


「点滴ポール
生き抜くという旗印」(ナナロク社,
,2013年7月3日発行)51頁


若松さんは、
岩崎航の言葉の強度を感じて欲しい、、
その歌は「命と心とは違うんだ」と教えてくれている。そう航が考えたのではない。そう生きて来たんだということ、、そのことに深い敬意と、、
信頼に値する、同時代を代表する詩人に、「やっと、めぐり会えた」と評した。

そして
岩崎航を、筋ジストロフィーの病気から視ないほうがいい。
病を背負う人間がいるだけであり、これを勘違いすると、岩崎航という詩人を見誤る、、

と評して、、偉大な詩人がいることに、私たちは誇りに思っていいとまで、言われた。

若松英輔という人は、言葉が立っている人、悪く言えば感情移入の強い人、というのが私の第一印象だった。

「100分で名著」で内村鑑三「代表的日本人」の説明を若松さんがされていて、その声と表情がなんとも不思議だった。

うまく言えないが伊集院さんたちと対話していても、茫然とした表情をしていて、50センチ先にある透明なテロップに浮かぶ言葉を音読している、そんな感じがしたのだ。

だが、その言葉が、なんとも胸をうつ。内奥に刻まれている言葉を発している感じ。

その上で、
五行歌をつづる岩崎航さんを、
筋ジストロフィーとALSの違いもわからない
わたしごときが、、
どう思うかということだが、、それは次回。。
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