折れない心=レジリエンス日記「これからが今までを決める」1991年から25年にわたるC型肝炎と乾癬の闘病を、そして2010年の直腸がんをと、その三病を完治させた楽観主義者の自立ノート

身体「毎日1兆が生滅する60兆の細胞」の司令塔こそ、究極の主治医と見なして、アッパレ!100歳をめざし三病息災・健康長寿をもくろむ、具体の内部生命論です★
TOP ≫ CATEGORY ≫ 尊敬する人物について
CATEGORY ≫ 尊敬する人物について
       次ページ ≫

生前の太宰治を知る人

引き続き、太宰治の心中のこと、

牟礼4丁目の玉川上水は、太宰治の遺体が発見された場所だった。入水した玉川上水は三鷹駅に近いところで、碑もあるようだ。近くには作家の山本有三の洋館がある。入水場所と洋館との距離は、200メートルくらいか?

そこから2キロちかく、太宰治は流されたのだ。入水と発見が同じ場所と思い込んでいた。当時の上水は水量も多く、流れの速い川だった、ようだ。

思い出した、太宰治は山本邸に、たびたび石を投げたらしい。文学界の大御所と芥川賞が欲しかった太宰治、、よっぽど癪だったのだろう。

さっき検索して知ったが、、
太宰治に会ったことがある西荻窪の安藤久蔵さんは、心筋梗塞で倒られたようだ。今、どうされておられるか気になる。ご存命なら今年105歳になる。

11月、西荻窪の薪能のときに、安藤さんのコーヒー店「アロマフレッシュ」に行こうとおもっていたが、寒くてパスしてしまったな、、

2年前の対話は、絶対に忘れない。

遠く、安藤久蔵さんの背中をみつめて歩むこと、、

井草八幡で、第1回 遅野井薪能

1.能を見た感動は続いている。古典の力か、時間がたつにつれ、通奏低音のように深く響いてくる。国費をかけて、能を守ろうとしているこの国の意志は、わかる気がする。能は日本文化の結晶に違いない。

2.今月30日、「熊坂」を、西荻窪の井草八幡宮の神楽殿で、薪能として行われることを知った。昨日の国立能楽堂で、そのチラシを手にしたのだ。最初は再び行こうとは思わなかったが、今は、行きたくなっている。

3.井草八幡宮は、大学のときの民法ゼミ、宮崎俊行先生の本家だ。なので井草八幡宮に行って、本殿や郷土資料館みたいな建物にも入ったことがある。帰りには、西荻窪駅前のこけし屋でご馳走していただいたな。宮崎先生は88歳になられているはず、ご存命だろうか、、

そういえば、高校の同窓生、大岡夫婦の結婚式は、たしか、井草八幡宮だったな、、

さらに、105歳になられている?と思う安藤久蔵さんのコーヒー豆を売る店は、井草八幡宮の近くだったな、、

4.井草八幡宮は、今、パワースポットになっているらしい。たしかに木々が鬱蒼としていて、いい気が流れているのかもしれない。そこは、昔は遅野井という地名だったようだ。遅野井の名は、源頼朝による奥州藤原氏征伐のときの出来事に由来するらしい。熊坂は義経の話がベースにあるわけだから、因縁浅からず、でいいかもしれない。。たぶん予約する。全席自由で3000円なら、ヨシとしよう。今度は前の方で、見たいものだ。

追記、宮崎俊行先生は、検索すると、2004年3月に、追悼号なる論文集が出ていることから、その前年あたりに鬼籍にはいられたのかもしれない。享年は75歳くらいか、、1970年代に玄米食をとられていたような、かすかな記憶があるが、、まったく、師恩に報いていないな、、俺は。大学の創立者と生年が同じ昭和3年、西暦1928年1月10日のお生まれだったと思う。創立者と同じように、ご存命と決め込んでいた、ということは、ご専門の農業法学者として、TPPのクビキも東日本大震災も、ご存知ないまま逝かれたのか、、

なんだか、ショックだ。風邪をひいたようだ、ノドが痛い。

天才と瞑想と呪文と

先般の井筒俊彦全集記念講演会で尋ねたかったことが、ようやく思い浮かんだ。

1.どうして井筒俊彦は30カ国の言語を短期間にトップレベルまでに身につけることができたのだろうか。中東の言語以外は独学で、しかも原書を読みこむために学習したわけで、会話は二の次。しかも、英語やフランス語は簡単で面白くない。サンスクリット語は興味深い、、等々、ごく自然に、そう言われたのだ。

2.先日、井筒の声を聴いたが、キーの高い明るい声で、倍音?のような、響かせる声ではなかったのは意外だった。上手く言えないか、「哲人の声」には思えなかった。

井筒俊彦の声はこんな感じだ、、

3.私見だが、その天才的な言語修得能力は、井筒の父親によって培われた瞑想法と深い関係があるのではないか?若松英輔さんは、井筒邸を訪ねた際、奥様に2階の部屋を案内され「ここが生前、井筒が瞑想していた部屋だ」と話したという、、そんなエピソードを話された若松英輔さんに尋ねてみたかった。井筒さんに本として残して欲しかったのは、際立った能力を産んだ方法論であり、こころの機微だ。でも、あの三田の会場では浮かばなかった。

4.井筒の主著「神秘哲学」を踏まえ、こういう話が検索できた。上記の方法のヒントはこの本だけだろう。

井筒俊彦「瞑想の核心部分の構造」

私(井筒俊彦)はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。

彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。

 しかしながら私(井筒俊彦)は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

《もっとも彼(井筒俊彦)は、その後に父から学んだ修養法からの脱却を図ってもいる。》

西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。

《ここまでが井筒俊彦のコトバ、以下は被検索者の言葉だと私は思うが》

井筒俊彦にとっては父から学んだこの修養法は克服すべきものだったのかもしれないが、
それはそれとして、この修養法が彼の脳の力を飛躍的に高めた可能性は否定出来ない。

同じく日本史上の最高の天才といわれる空海もまた、「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれる独自の方法で能力開発を行なったことで知られている。

「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を1,000,000遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができるというもの。ちなみにその間に異性のことを考えてもいけないし、食事にも細かな制限がある。

どちらにしても、ある一点に集中するという訓練を一定期間、必死になって行うことで、記憶力が飛躍的にたかまることを示唆している。もっとも、この方法は大変苦しいもので、一説によれば死亡率が5割にもなるという。ほとんどが狂死してしまうらしい。


以上だ。
つまり、井筒俊彦は、父親の瞑想の方法を、なんだかんだ、晩年まで続けていたことになる。懐かしの「巨人の星」のような話だ。普通の人間には、そうそうマネできそうな芸当ではない。真言宗の開祖空海と井筒さんくらいの、限られた人にしかできないのではないか?ちなみに私は、空海を日本史上の最高の天才とは思わない。ほかにおられる。

5.井筒さんは瞑想だけで、呪文は唱えなかったようだが、その瞑想を通じて、脳が変容していったのでは?

6.スティーブ ジョブズは、禅に傾倒していたが、さらに晩年は念仏のような呪文、マントラを唱えていたと武田鉄矢さんが「今朝の三枚おろし」で話していた。その呪文はなんだったのだろう。

7.そこで、、念仏にせよ、題目にせよ、なぜ日本の二大仏教は短い言葉をくりかえし唱えることを修行の方法としたのか?という素朴な疑問を、実は、わたしはずっと抱いていた。チベットはマニ車を回し、日本は何かを唱え続ける。瞑想か唱えるか、、あとは比叡山の回峯行とかの荒行があるが、そんな行は、もとより庶民には出来っこないし、女性はなおさらだ。

8.柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の「念仏」の章だけ、読んだ。そのあとは気分が悪くなり、図書館に返した。まれにある身体感覚だ。10年くらい前に、練馬駅北口近くの浄土真宗の寺で、養老孟司さんの話をきいたが、その前にプロフィールを話された寺の関係者を見たとき、真っ黒な相で、相当、念仏修行された感じがして、ガクッと気分が悪くなった、、そのことを今、思い出した。

9.ちなみに晩年の親鸞の木像の写真を見たが、左右の目がアンバランスで脳に障害があったのではないか?
親鸞は90歳まで生きたが、その死は、阿鼻叫喚の形相だったという。親鸞の奥さんはその様があまりにひどいので、周囲のものには見せなかったという文献が残っている。四箇の格言の、念仏無限と断じた日蓮の言葉とおりだった。

10.さらに、、日蓮の遺文集、いわゆる御書は1619頁あるが、不思議なことに、親鸞の名前は一つも出てこない、、全くの私見だが、親鸞は比叡山の天台宗の、天台沙門になっておらず、途中で下野、還俗、妻帯したので、「卒業名簿」にはなかったからではないかと、、わたしはそう思っている。

11.戻る。井筒俊彦に対する関心は、わたしのような凡人にも、何がしか非凡へのチャンスがあるのではないかという角度から、にある。だれでも、そうなるようでなければ、ホンモノの思想ではないからだ。

天皇陛下のお言葉

天皇陛下「象徴の務め難しくなる」
その、お言葉全文を、繰り返し読むために、以下に載せておきたい。

戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。

私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉(しゅうえん)に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2カ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることはできないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを、切に願っています。

オバマ大統領の広島スピーチ


5月27日、オバマ大統領の広島スピーチ 「核保有国は、恐怖の論理から逃れるべきだ」という趣旨のスピーチについて、、長文だが、必ずまた読みたくなるだろうから、コピペしておきたい。

オバマ大統領は、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。そして、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問。原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を示すスピーチをした。その中で「核なき世界」を主導する責任についても言及した。

悲しい話だが、、大統領の近くに立つ米国士官が核のボタンが入った装甲ブリーフケースを持って立っていた。

献花には安倍晋三首相が同席した。オバマ大統領のスピーチを載せておきたい。

■オバマ大統領「広島と長崎が教えてくれたのです」

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。

彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。

広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。

多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。

数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。

しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。

私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。

物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。

より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。

どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。

国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。

現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。

技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。

だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。

私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。

私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。

私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。

私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。

言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。

いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。

あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。

アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。

ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。

私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。

私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。

それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。

平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。

私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています

アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。

しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。

亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。

国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。

世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。


1960年代、チェゲバラが慰霊の献花をしたが、それ以来のエポックのように感じた。

71年の歳月が流れたが、鎮魂の大きな一つの区切りを感じた。

ふと、リンカーンのゲティスバーグ演説が思い浮かんだ。きっと、100年後も、語り継がれるだろう。

これを、演説を機会に、英語を学ぼうかな、、生まれ変わった気分で。

信長ハムレット

このブログは思考の整理のために
書いている。

書くことによって、
他の方々の状況を知りやすくなる、
これはブログを書くことの効用といえる。

わたしの病状など、
たいしたことないな、と感じ入るブログ
に出会うと、決まって、
遡って読むようになる、
そのブログが持つチカラだ。

今月、NHKの「100分で名著」はハムレットだ。

to be,or not to be
that is question とは

生きるべきか、死すべきか
それが問題だ、と訳されているが、

最初に聴いたときから、
そんなんじゃないんじゃない?
みたいな、なんか違和感があった、

昨日、武蔵大である講演を聴いた。
教育事業を始めた若き経営者の話だ。

彼は、自分の背中を押した言葉は、
と言って、次の言葉だと紹介してくれた。

「あのなぁマツイ君、結局、世の中なぁ、
やる人間か、やらへん人間か、
どっちかやで、、」という言葉だった。

痛く、心に響いた。
そうか、、
ハムレットの独白は、
これだったんだと、合点したのだ。

あの訳のような高尚なことではなく、
絶え間なく行動しつづけられるか
どうか、だと。

秋山 駿「信長」(新潮文庫)を読むと、、
たえず次の手を打ち、麾下の武将たちにも
持続を求める信長の合理的な精神が
浮かび上がってくる。

信長こそ、
地上に、現実にいたハムレットかもしれい。
信長の最期の言葉をつなぎ合わせると絶妙に
なる。
「to be,or not to be 、
、、、 是非もない」と

ちなみに、信長はシェークスピアより
30年早く生まれたが、同時代の人同士だ。

信長が、もし、
シェークスピアの芝居を見たなら
愉快に思ったかもしれない。


まぁ、信長に遠く及ばないが
普通の人生もまた、毎日の課題を
きちんとやり続けることだ。

こうしたブログの持続も、
ささやかながら「やる人間」に連なる
と信じる。



にほんブログ村 病気ブログ C型肝炎へ
にほんブログ村

信長の温情

信長公記によると、
天正3年、織田信長に、
こんな出来事があった。

この頃、哀れなことがあった。
美濃と近江の国境に山中という
所がある。

その道のほとりで、
身体に障害のある者が雨露にうたれて
乞食をしていた。

信長は京都への上り下りにこれを見て、
たいそう哀れに思い、

「たいてい乞食というものは、
住む処を定めずにさすらい歩くも のだが、
この者はいつも変わらず、ここに居る。
何かわけでもあるのか」と、ある時、
不審をいだき、町の者に尋ねた。

町の者は、その由来を答えた。
「昔、この山中の宿で常盤御前を
殺しました。その報いで、殺した者の
子孫は、代々身体に障害をもって生まれ、
あのように乞食をしております。
世間で"山中の猿"と言っているのは、
この者のことでございます」と言上した。

6月26日、
信長は急に上京することになった。
その多忙の最中に、
あの乞食のことを思い出し、
木綿二十反を自ら用意して、
お供の者に持たせた。

山中の宿で馬を止め、
「この町の者は、男女とも
全員出頭せよ。言いつけることが
ある」と触れを出した。

どんなことを言いつけられるのかと、
人々は恐る恐る出頭したところ、

木綿二十反を乞食の猿のために
下賜し、町の者たちにこれを預けた。

信長は、
「この木綿の半分を費用に充てて
近所に小屋を作り、
この者を住まわせて、
飢え死にしないように
面倒を見てやりなさい」と言いつけた。

さらに、
「近隣の村の者たちは、
麦の収穫があったら麦を一度、
秋の収穫後には米を一度、
一年に二度ずつ毎年、
負担にならぬ程度に少しずつ、
この者に与えてくれれば、
信長はうれしく思う」と言い添えた。


以上、いささか驚いた。

情け容赦ないイメージの織田信長だが、
乞食の子子孫孫にわたる宿業を哀れと
感じたのだろう、信長の民をみる目線がいいし、
戦い明け暮れるなか、よく庶民を見ていた。

明日「信長公記」を図書館に
返さねばならないので、
印象に残っているところを書き留めた次第。

新野恵さんの言葉

整形外科医の小坂先生に
いただいた新野恵さんのCDを
何回か聴いた。

新野さんは、80歳の人らしく、
ゆったりと話される。

思い出すままに、書くと、、
1.新野さんは高卒の元中国電力の
エンジニアでボイラーに詳しい。
30年前、50歳で退職するまで
年収は1200万円あった。

2.普通のおじさんという印象で、
上からものをいう感じは、全くしない。

3.理屈はよくわからないが、竹すみが
身体にいいことを経験していった。

4.チクタンと呼ばすに、タケスミと
呼ぶことが重要と言われる。呼び名
言葉の大切さ、その影響力を実感
されておられるようだ。

5.薬は物質だが、竹すみは単なる
物質ではない、と主張される。

6.竹すみを飲むことによって
血液の質が変わり、かつ腸が
リセットされる。

7.免疫力の低い人は、正常な
レベルまでに戻す力があるが、
で過ぎたことはせず、調和を保つ。

また、、思いだしたら、逐次追加する。

以上だが、
7.こそが、小坂先生が
私にすすめた理由なのだ。
福岡伸一さんの
「生命とは動的平衡である」を
連想させる話だった。

竹すみは動的平衡をもたらす、
と理解している。

明日、白血球の検査をするが、
竹すみの効果を検証できるだろう、、



にほんブログ村 病気ブログ C型肝炎へ
にほんブログ村
訪問者数
2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
ブログ内検索
全ての記事を表示する
さらばポップアップ広告
javascript:(function()%7Bvar%20d=document;var%20e=d.createElement('SCRIPT');e.setAttribute('language','JavaScript');e.setAttribute('src','http://s6.ql.bz/~mamiya-shou/bm/invalidFloatAd.min.js');e.setAttribute('charset',%20'UTF-8');d.body.appendChild(e);%7D)();