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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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学生のための大学

仕事は先週、事務の女性が出社したので、引き継ぎの作業に入っているが、問題が散見され、やりがいのスイッチが入りつつある。

工事解体会社のときは限界を決めてやっていたが、ここでは一肌脱ごうかなと思っている。

掲題に入る。
創価学会の10月の座談会はブロック座談会。。わたしはその長、本陣長という役割なので、司会進行を務めた。

その日の幹部指導は婦人部の那須さんで、練馬総区の婦人部長のようで、西大泉からおめみえいただいた。創価学園、同女子短大の出身だった。

で、このかたなら大丈夫かなと、尋ねたのだ。
「創価大学にイスラム教の国から来ている学生の人たちは、その礼拝は学内でするところがあるのか」と。

コーランの教えでは、1日に五回礼拝することになっているから、どうしているのか、心配になっていたのだ。

那須さんの回答は明解だった。
「イスラム教に則った礼拝する所が設けられている。学生に限らずイスラム教の国から来賓があり、そのかたたちためにも設けられている」と。

驚き、安心した。
さすがだな、やはり創立者はすごい、、と感じいった。

今年3月に10年ぶりに八王子市丹木町の大学に行き、野外のテーブルで雑談していると、クリシュナ教徒っぽい衣を着た外国人が談話していてたし、スカーフをかぶったインドネシアの女子学生が2、3人、見かけた。40年前とはずいぶんずいぶん違う光景だった。宗門の桎梏があったなら、こうはならなかった、だろう。

国立の九州大学は、同じように礼拝所をあるらしいが、、日本の他の大学はどう対応しているのだろう。

あらためて、ここは教職員ではなく、「学生のため大学」だなと思った次第。21世紀はそういう時代なのだと思う。

一つの節目

昨日の昼、近所のガストで、石田ケンさんに昼食をご馳走していただいた。さしで二時間近く対話した。そんな石田さんとの対話は初めてだった。

わたしの状況を心配になられたようで、声がけしていただいたのだ。感謝。

石田さんは、わたしが信頼する学会人のお一人で、わたしは存念を語った。

この日、「新人間革命」の新聞掲載の最後の日だった。前作の掲載を合わせると50年の歳月に及ぶ長編になるわけで、、石田さんとの対話と重なり、記憶に残る日になるだろう。

石田さんは、リウマチなどの病気もどうにか克服し、仕事は順調のようで、全てはこの信心を中心軸にしてきたことによると言われていた。

この信心には、ヒッキョウ、ご本尊に向かって題目を唱える、そのことに深甚なものがある、とする簡潔さがある。日蓮大聖人はそのことを60年の生涯をかけて、ひろめられた。

創価学会はフレキシブルに中間を省いて、大聖人直結の信心で、今世紀中に、世界に広げようとしている、とわたしは見ているし、中華人民共和国が認容すれば世界で三億人のSGIは可能だと展望する。(ちなみに先生は周恩来に対して合法的な認容なく、布教はしないと約束した)

とりわけ大御本尊のことにふれた「新人間革命」の一節を見たとき、深くそう思った。

5495回、大道4で、池田先生はこう書かれた、その全文を載せる。

翌年七月二十五日午後、四国に草創の支部が結成されて二十二周年を迎えることから、その記念幹部会が四国研修道場で開催された。

この集いでも、四国の歌「我等の天地」を大合唱し、喜びの波動は広がっていった。

席上、山本伸一は、「阿仏房御書」(1304頁)
を拝して指導した。

本抄で日蓮大聖人は、「末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。もしそうてあれば、身分の貴さや賎しさ、立場の上と下は関係なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人自身が宝塔であり、またその人自身が多宝如来なのである」(通解)と御断言になっている。

宝塔とは、法華経に説かれた、金、銀、瑠璃など、七宝をもって飾られた壮大な塔である。

多宝如来とは、法華経こそ万人成仏の真実の教えであることを証明する仏である。

現実の世界で日々苦闘する生身の人間が、信心に励むことによって、そのままの姿で妙法の当体、すなわち宝塔として金色燦然と輝き、また、多宝如来として真の仏法の偉大さを証明していけるというのだ。

初代会長·牧口常三郎も随所に線を引き、深く拝していた御書である。

伸一は、そのあとにある、「阿仏房さながら宝塔·宝塔さながら阿仏房·これより外の才覚無益なり」の一節を引いて訴えた。

「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。

これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。したがって『此れより外の才覚無益なり』----“これだけ知っていればいいのですよ”と言われているんです。

本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。

ですから、いつ、どこにいようと、自分がいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。

なんの心配もありません」



この5495回は、学会がご本尊に対する新基軸を定めたころの新聞掲載であった。

後世の人たちよ、「大御本尊なんです」の「大」を決して消さないで欲しい。改竄してはならない。

池田先生は、学会の過去と未來において、究極の指導をされたのだ、と私は理解した。このような発言できる人は、これから先にも、現れはしない。究極の池田思想であり、人類への印綬に違いない。

50年前、1968年9月8日、両国日大講堂で行われた第11回学生部総会で、池田先生は「日中国交正常化提言」を発表された。

私は中学二年だったが、その聖教の記事を読んだとき、尋常でない身震いを感じた。
右翼に先生は暗殺されると思ったのだ。
日本全体が中華人民共和国に恐怖心をもっていて、正常化などあり得ないといった世論だったからだ。

実際にそういう動きは、車谷長吉の小説「塩壺の匙」の中で、池田大作を殺せという依頼の話が出てきていて、その名の登場にギョッとした瞬間、一気に中国提言の恐怖がよみがえった。

あぁ、そういえば1995年のオウムなんとか教からも、先生は命をねらわれていたな、、

とにかく、上記の、私たちにおいてコペルニクス的大転換の一節は、わたしにとっては、中国提言以来の身震いだったのだ。

余談を二つ

まず、初代会長の牧口常三郎に折伏された柳田国男は、学会の信心、唱題を「マジック」だと評し、全く宗教ではないと拒絶した。戦後も二代戸田城聖とも連絡を一切、たった。

思うに、マジックと侮っても結構だが、万人にとって、これに勝る仏事はない。

もう一つ、「人間革命」「新人間革命」を「信心の教科書」と現会長は評しておられるが、教科書という表現は、いかにも東大出の頭のいい人が思い浮かびそうなキャッチコピーに見え、私には違和感がある。
遠い昔、「現代の御書」と持ち上げていた福島某がいたな、、人間革命というタイトルだけで、十分であり、評価的コピーはいかがなものか。

ちなみに私は中国やフランスの革命という歴史的な出来事を賞賛できない。不幸な出来事とみている。なので、いつも「命をあらためる」ことと解している。

「創価学会秘史」から

6月17日の日曜、創価学会の教学任用試験に会員・会友を合わせて12万人の方々が挑戦されたと知った。その試験範囲の中に、必ず学会の歴史を知ることが入っている。

実は、私個人としても初代会長の牧口常三郎という人の思想遍歴に関心が強い。なぜ日蓮正宗という一宗門に入信したのだろう。牧口常三郎は青年期は北海道におられたのだから、キリスト教の影響は少なからずあっただろうに、そしてもしキリスト教徒になっていたら価値創造の団体はどうなっていただろうか、、とか想像を巡らせたりする。ただ、その遍歴は分からないことが多い。

今、板橋区図書館から二つの本を借りて読んでいる。
高橋篤史「創価学会秘史」(講談社 2018/2)
鶴見太郎「ある邂逅 柳田国男と牧口常三郎」(潮出版社  )

後者は学会系の出版社で論調は柔和だが、前者は学会に対して冷ややか、批判的な論調(最初は、今日標ぼうするものとは違う、例えば平和思想なんてなかった。戦後に現れた論調だとか)になっている。

が一向に構わない、無名の学会人の私から見れば、どちらも面白く、飽きずに読める。ひとます「創価学会秘史」から面白いと感じた事実を箇条書きで、以下にメモしておきたい。敬称、尊称は略す。

人のふるまいとして最期は獄死した牧口常三郎という人がどれだけ偉大だったか、そのことを確認したい、、「創価学会は小学校長をしていた人が実験証明を旗印にはじめた教育団体から日蓮仏法に直結する宗教団体に飛躍した、というわが認識」(私の学会定義はここからはじまる)は揺るがない。その内在的な歴史をわが身の中心軸にしたいのだ。


1.北海道から東京に来られた牧口常三郎はその初著「人生地理学」は1000頁に及ぶ大著ながら増刷を重ね、多くの知友を得た。志賀重昂(しげたか)、講道館の加納治五郎、民俗学の柳田国男、など。

2.とりわけ牧口より4歳下の柳田国男とは1909年5月2日に知り合い、やがて親しくなっていった。柳田は戦前の創価教育学会の顧問を引き受けて時期もあったが、牧口が宗教の話に及ぶと柳田はすぐ拒否し、シャットアウトしていた。

3.牧口は、東京に出て最初は、社団法人茗渓会で書記の働き口を得た。また弘文学院、東亜学校で地理学の講師をした。その後富士見尋常小学校、文部省図書局に職を得ていた。

4.1905年5月から3年間、経済的に恵まれない女子に対して通信教育を施す大日本高等女学会の主幹を務めた。しかし経営は厳しかった。

5.柳田国男が幹事となった郷土会に牧口も加わった。郷土会は毎月、会員が小日向の新渡戸稲造邸などに集まり、各各自由な立場で各地の風習や民間伝承などの研究成果を発表する場であった。会員はエリート官僚が中心で、毎回50銭の会費を出す代わりに新渡戸から2円程度の御馳走をふるまわれていた。

6.1910年、牧口は農商務省の嘱託として九州の中央に位置する津江村、小国村の生活実態調査に赴いている。

7.柳田国男は牧口の性格を
 「温厚で謹直で、本も読み、研究も一所懸命していた」
 「口が下手で、余り物が言わないで居ながら、言う時には、はっきりしたことを云う人であると判ってきた」
 
8.1911年5月、柳田と牧口は、甲州の谷村から道志谷、月夜野、相模にかけて旅行をした。柳田は「非常に気持ち良い旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出される程、印象深いものがあった」と二人の親交の深さを語った。

9.小学校長の牧口は、地元の有力者の子弟を特別扱いすることに反対し、立場危うくなることが多々あった。

10.墨田区亀沢の三笠尋常小学校では、貧しい家庭が多い地域であり、多くの児童は昼食抜きで、事業が終わると副業に汗を流していた。見かねた牧口はペニーランチ、パン1個に汁椀2杯を無料で配る制度を導入した。その後1922年4月、裕福な家庭の子弟が通う白金尋常小学校の校長に転任した。

11.牧口の生家である渡辺家は禅宗、養家の牧口家は「法華の家」だったが、幼少期の牧口に信仰の念はなかった。札幌の生活でキリスト教に深入りすることはなかった。

12.上京後、牧口は禅に参加したり、深呼吸法を試してみたり、田中智学の国柱会に1916年頃、接近した。田中の講演を数回聴きに行った。牧口の岳父である牧口熊太郎が国柱会の会員だった。

13.牧口は、1920年頃から十数年間、古神道の禊に長く親しんだ。滝に打たれたり、厳寒の海に入っていく。財団法人稜威(みいづ)会の主催の禊だった。牧口は自宅でも毎朝冷水浴を欠かさなかった。しかし「心からの信仰に入ることは出来なかった」と。

14.牧口を折伏した三谷素啓は日蓮正宗の有力信徒で、牧口より7歳上、目白商業学校の初代校長であった。ただしその在任期間1年にすぎなかった。柳田国男は三谷に対して「どうも正体の判らない変わった人物で、盛んに嘘をついた。ところが、いくつかの妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議と良く効いた」と。そもそも牧口が三谷を紹介したのも「面白い薬がありますよ」と言ったのがきっかけだった。

15.1922年、牧口と戸田城聖(当時は城外)は三田の慶應義塾に行き、来日していたアインシュタインの講演を聞いた。また牧口はアメリカのプラグマティズムのジョン・デューイにも関心をもっていた。

16.柳田国男は後年、牧口が日蓮正宗に入信した動機について二つの原因を推測して書いている。それは「貧苦と病苦」であると。
「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供(四男四女)が患ったり、死んだりした。細君も良い人だったが、夫婦で悩んでいた」と。

以上、ひとまず、ここまで。

私見だが、小林秀雄は晩年よく柳田国男の評論をされた。「山の人生」の録音もある。おそらく小林秀雄は膨大な柳田国男の著作を読んでいただろうし、その中に「故郷七十年拾遺」もあったはず。そこに牧口常三郎のことが出てくる。小林秀雄は1910年頃、港区白金尋常小学校に通っていたわけで、時期は異なり出会ってはいないだろうが、牧口を自分の母校の校長を務めた人と知っていたかもしれない。

1970年代の前半、小林秀雄は、中村光男などを伴って、日蓮正宗大石寺に桜を見に訪れている。応対したのはわが母校創立者の池田先生であり、互いに微笑みながら歩かれている姿を聖教新聞で見たことがある。言論問題と重なる時期だった。単なる物見遊山ではあるまい、池田大作という40歳代前半の人に直接会いにきたのだ。小林秀雄は、しっかり、池田大作という人の目を見つめたに違いない。私も70年代何度か、先生の眼を見たが、洞察と真剣と奥深さと、人生でそのような眼をした人を、他に見たことがない。

おそらく小林秀雄はその歓談の際も、学会草創の牧口常三郎のことがよぎったのではないか、、その小林秀雄の、2008年に載った聖教新聞の記事は、また後日書き込むことにする。

三期生大会、、わが母校に行った

18日の日曜、9時過ぎに家を出て、電車で八王子の母校に向かった。10年ぶりの同窓会に出る。10時15分には、八王子駅の北口にいた。そこから母校に向かう人たちの長蛇の列。女子短大の卒業式らしい。
八王子の駅前中央の道路から直線的なバイパス道路ができていて、トンネルを抜け、母校まで15分たらずで、到着した。40年前の国道16号線を使い、ひよどり丘を超える行程だったら、こうは行かない。

実は、、面倒くさい、だれが咎めるわけでもないし、ドタキャンするか、、という心が一瞬あったのだが、、ともあれ、11時の開会から遅れること30分で、到着した。

会場前には、法学部教授のKがいた。髪は黒く、名は体を表していた。
「当起遠迎 当如敬仏」の経文通り、恬淡と案内をかって出ていた。まじめに、正しく生きてきた表情をしていて、リスペクトしている。Kは付属からではなく、都立小松川高から母校に入って来られた。お兄さんが原因不明の病か、病院のミスだったかで早くに亡くされ、それが、保険法を研究する動機になったのでは、、とかねてから推測していたが、Kに確認はしていない。よく頑張ったな、、

同期の人たちは、およそ200人はいたのではないかな。前方にいき、床に座った。全体を見渡すと、みな真っ白の頭で、なんてまぁ、みな老けているのだろうというのが、率直な感想。63歳から64歳だろうが、しわも増え、誰が誰だかわからない。車椅子の方も三人ほどおられた。そりゃ、そうだな、と横を見ると、私に案内をLINEでくれた大井がいた。大井は若かった。

高梨が司会をつとめ、一期生のアメリカ創価大学の羽吹学長、山本前学長、そして一期生の馬場学長と、談話をしてくださった。三人とも、柔らかい、いい声をしていた。どうやら、この日 一期生や二期生も集まっているようで、お三方はお忙しいようだった。どんな話だったかというと、、

・私たち通学していたころの文系の「白亜の学舎」は、今は利用されていないらしく、残されるのは一対のブロンズ像と卒業生の名が入っている銅板の壁だけになる。(いや違う、私見だが、この山を横断する東京電力の巨大な送電線の鉄塔は、あの時のままだし、これからも残るだろう)

・私たちの頃とは比べ物にならない程、学生のレベルは上がっている。例えばロシア語は東京外大に引けを取らない、いや、それ以上という評価もあり、学会員でない方も入学されてくると。(それはあながち、偽りでもないだろう。モスクワ大と強力な提携関係にあるし、ロシア留学は当然のように、組み込まれているだろうから。全体的に俯瞰して、大学入試時の偏差値は高くないが、卒業時のレベルは上がっているに違いない、、そう思えた)

・・とまあ、だらだら書くことになりそうだから、、中断。

謹んで、わが母校の創立者のメッセージを以下に載せたい。

メッセージ

みんな、青春の故郷におかえりなさい!遠くから、また忙しいところ、よく帰ってきてくれました。こんな嬉しいことはありません。ありがとう!本当にありがとう!懐かしい一人一人の誇り高き英姿を浮かべつつ、すべてを見守っています。

今朝、妻も「あなたと一緒に創大を築いてきた方たちですね。皆、本当に立派になられましたね」とほほ笑んでおりました。みんなの尊い功労は、決して忘れておりません。

御金言には、「根ふかければ枝さかへ 源と遠ければ流長し」とあります。皆さんこそ、誉れも高き創価教育の勝利の源であるとの誇りに胸を張って、いよいよ後継の友の道を、私と一緒に開いていってください。

私と妻も、今の皆さんの年代から、いやましての大闘争を開始しました。アメリカ創価大学を開学したのは、七十三歳の時です。

諸君も、大いなる力を発揮していくのは、まさにこれからである。ますます健康で、長寿で、大切な一家眷属を牽引しながら、共々に、人間王者の花道を、大勝利で飾ってくれ給え!

今年は、周恩来総理の生誕百二十周年。生涯の戦友であった鄧穎超夫人が、総理と交わした手紙の一部を、最後に贈ります。

「私たちは、揺るがず、不屈不撓で、どんな困難や障害にあっても、勇敢に前に向かって進み戦うのみです」と。

一日一日、私と共に、生涯の学友と共に、栄光凱歌の「学生歌」を轟かせながら、朗らかに進み戦おう!

二〇一八年三月十八日    
創立者  池田 大作  


創立者は、今年90歳になられた。
メッセージは、今からでいい、さぁ、立ちなさい、、そうおっしゃっていると肝に銘じよう。

若松英輔と岩崎航

宮本輝公式サイトBTCのお仲間の康さんが、西部邁さんのことを次にようにコメントされていた。

西部邁さんの入水自死のことは、現役の時にわが社の広報誌に度々ご登場いただいたので、
驚きとともに大変残念に思っております。
しかし、西部さんは、終始一貫して、自分のことは自ら処するという生き方を訴えられ、
国家においても外国に依存したり、ポピュリズム〈大衆迎合主義)に与したりしないことの
大切さを常に考えていらっしゃいました。
したがって、今日の社会の現状を見て、自死は必然であったようにも思えます。

稀な知識人であったことは間違いないでしょう。


その通りだ。康さんの正視眼にリスペクト。西部邁『友情』も読んでみると仰っておられた。

本題。2月26日の月曜日の午前中、解体会社の事務作業をしながらNHKインターネットラジオ「らじるらじる」を聞いていた。CMがある民放とちがい落ち着いて聴いていられる。

その中の『カルチャーラジオ 文学の世界』という番組で、批評家・文筆家の若松英輔さんが岩崎航(わたる)という五行歌の詩人を取り上げていて、おぉ、と驚き、懐かしさを感じながら、聴いていた。

その《 第8回 『いのち』の詩~岩崎航がつかんだ人生の光 》 であり、←をクリックすれば2018年4月20日までは聴ける。

わたしは、若松さんにも、岩崎さんにも、そういえば関心を持っていたわけで、、二人は交流があるのか、という驚きでもあった。

若松さんの『岩崎航論』で、腹に響いたのは、次の五行歌

誰もがある

いのちの奥底の

燠火(おきび)は吹き消せない

消えたと思うのは

こころの 錯覚


「点滴ポール
生き抜くという旗印」(ナナロク社,
,2013年7月3日発行)51頁


若松さんは、
岩崎航の言葉の強度を感じて欲しい、、
その歌は「命と心とは違うんだ」と教えてくれている。そう航が考えたのではない。そう生きて来たんだということ、、そのことに深い敬意と、、
信頼に値する、同時代を代表する詩人に、「やっと、めぐり会えた」と評した。

そして
岩崎航を、筋ジストロフィーの病気から視ないほうがいい。
病を背負う人間がいるだけであり、これを勘違いすると、岩崎航という詩人を見誤る、、

と評して、、偉大な詩人がいることに、私たちは誇りに思っていいとまで、言われた。

若松英輔という人は、言葉が立っている人、悪く言えば感情移入の強い人、というのが私の第一印象だった。

「100分で名著」で内村鑑三「代表的日本人」の説明を若松さんがされていて、その声と表情がなんとも不思議だった。

うまく言えないが伊集院さんたちと対話していても、茫然とした表情をしていて、50センチ先にある透明なテロップに浮かぶ言葉を音読している、そんな感じがしたのだ。

だが、その言葉が、なんとも胸をうつ。内奥に刻まれている言葉を発している感じ。

その上で、
五行歌をつづる岩崎航さんを、
筋ジストロフィーとALSの違いもわからない
わたしごときが、、
どう思うかということだが、、それは次回。。

生前の太宰治を知る人

引き続き、太宰治の心中のこと、

牟礼4丁目の玉川上水は、太宰治の遺体が発見された場所だった。入水した玉川上水は三鷹駅に近いところで、碑もあるようだ。近くには作家の山本有三の洋館がある。入水場所と洋館との距離は、200メートルくらいか?

そこから2キロちかく、太宰治は流されたのだ。入水と発見が同じ場所と思い込んでいた。当時の上水は水量も多く、流れの速い川だった、ようだ。

思い出した、太宰治は山本邸に、たびたび石を投げたらしい。文学界の大御所と芥川賞が欲しかった太宰治、、よっぽど癪だったのだろう。

さっき検索して知ったが、、
太宰治に会ったことがある西荻窪の安藤久蔵さんは、心筋梗塞で倒られたようだ。今、どうされておられるか気になる。ご存命なら今年105歳になる。

11月、西荻窪の薪能のときに、安藤さんのコーヒー店「アロマフレッシュ」に行こうとおもっていたが、寒くてパスしてしまったな、、

2年前の対話は、絶対に忘れない。

遠く、安藤久蔵さんの背中をみつめて歩むこと、、

井草八幡で、第1回 遅野井薪能

1.能を見た感動は続いている。古典の力か、時間がたつにつれ、通奏低音のように深く響いてくる。国費をかけて、能を守ろうとしているこの国の意志は、わかる気がする。能は日本文化の結晶に違いない。

2.今月30日、「熊坂」を、西荻窪の井草八幡宮の神楽殿で、薪能として行われることを知った。昨日の国立能楽堂で、そのチラシを手にしたのだ。最初は再び行こうとは思わなかったが、今は、行きたくなっている。

3.井草八幡宮は、大学のときの民法ゼミ、宮崎俊行先生の本家だ。なので井草八幡宮に行って、本殿や郷土資料館みたいな建物にも入ったことがある。帰りには、西荻窪駅前のこけし屋でご馳走していただいたな。宮崎先生は88歳になられているはず、ご存命だろうか、、

そういえば、高校の同窓生、大岡夫婦の結婚式は、たしか、井草八幡宮だったな、、

さらに、105歳になられている?と思う安藤久蔵さんのコーヒー豆を売る店は、井草八幡宮の近くだったな、、

4.井草八幡宮は、今、パワースポットになっているらしい。たしかに木々が鬱蒼としていて、いい気が流れているのかもしれない。そこは、昔は遅野井という地名だったようだ。遅野井の名は、源頼朝による奥州藤原氏征伐のときの出来事に由来するらしい。熊坂は義経の話がベースにあるわけだから、因縁浅からず、でいいかもしれない。。たぶん予約する。全席自由で3000円なら、ヨシとしよう。今度は前の方で、見たいものだ。

追記、宮崎俊行先生は、検索すると、2004年3月に、追悼号なる論文集が出ていることから、その前年あたりに鬼籍にはいられたのかもしれない。享年は75歳くらいか、、1970年代に玄米食をとられていたような、かすかな記憶があるが、、まったく、師恩に報いていないな、、俺は。大学の創立者と生年が同じ昭和3年、西暦1928年1月10日のお生まれだったと思う。創立者と同じように、ご存命と決め込んでいた、ということは、ご専門の農業法学者として、TPPのクビキも東日本大震災も、ご存知ないまま逝かれたのか、、

なんだか、ショックだ。風邪をひいたようだ、ノドが痛い。

天才と瞑想と呪文と

先般の井筒俊彦全集記念講演会で尋ねたかったことが、ようやく思い浮かんだ。

1.どうして井筒俊彦は30カ国の言語を短期間にトップレベルまでに身につけることができたのだろうか。中東の言語以外は独学で、しかも原書を読みこむために学習したわけで、会話は二の次。しかも、英語やフランス語は簡単で面白くない。サンスクリット語は興味深い、、等々、ごく自然に、そう言われたのだ。

2.先日、井筒の声を聴いたが、キーの高い明るい声で、倍音?のような、響かせる声ではなかったのは意外だった。上手く言えないか、「哲人の声」には思えなかった。

井筒俊彦の声はこんな感じだ、、

3.私見だが、その天才的な言語修得能力は、井筒の父親によって培われた瞑想法と深い関係があるのではないか?若松英輔さんは、井筒邸を訪ねた際、奥様に2階の部屋を案内され「ここが生前、井筒が瞑想していた部屋だ」と話したという、、そんなエピソードを話された若松英輔さんに尋ねてみたかった。井筒さんに本として残して欲しかったのは、際立った能力を産んだ方法論であり、こころの機微だ。でも、あの三田の会場では浮かばなかった。

4.井筒の主著「神秘哲学」を踏まえ、こういう話が検索できた。上記の方法のヒントはこの本だけだろう。

井筒俊彦「瞑想の核心部分の構造」

私(井筒俊彦)はこの父から彼独特の内観法を教わった。というよりもむしろ無理やりに教え込まれた。

彼の方法というのは、必ず墨痕淋漓たる『心』の一字を書き与え、一定の時間を限って来る日も来る日もそれを凝視させ、やがて機熟すと見るやその紙片を破棄し、「紙上に書かれた文字ではなく汝の心中に書かれた文字を視よ、二十四時の間一瞬も休みなくそれを凝視して念慮の散乱を一点に集定せよ」と命じ、さらに時を経て、「汝の心中に書かれた文字をもてあますところなく掃蕩し尽くせ。『心』の文字ではなく文字の背後に汝自身の生ける『心』を見よ」と命じ、なお一歩進めると、「汝の心をも見るな、内外一切の錯乱を去ってひたすら無・心に帰没せよ。無に入って無をも見るな」といった具合であった。

 しかしながら私(井筒俊彦)は同時に、かかる内観の道上の進歩は直ちに日常的生活の分野に内的自由の撥露すべきものであって、修道の途次にある間はもとより、たとい道の道奥を窮めた後といえどもこれに知的詮索を加えることは恐るべき邪解であると教えられた。

《もっとも彼(井筒俊彦)は、その後に父から学んだ修養法からの脱却を図ってもいる。》

西欧の神秘家達は私にこれ(父親の説く徹底的に思索を否定する修道)と全く反対の事実を教えた。そして、特にギリシアの哲人達が、彼らの哲学の底に、彼らの哲学的思惟の根源として、まさしくvita comtemplativaの脱自的体験を予想していることを知ったとき、私の驚きと感激はいかばかりであったろう。私は、こうして私のギリシアを発見した。

《ここまでが井筒俊彦のコトバ、以下は被検索者の言葉だと私は思うが》

井筒俊彦にとっては父から学んだこの修養法は克服すべきものだったのかもしれないが、
それはそれとして、この修養法が彼の脳の力を飛躍的に高めた可能性は否定出来ない。

同じく日本史上の最高の天才といわれる空海もまた、「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれる独自の方法で能力開発を行なったことで知られている。

「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ)を1,000,000遍唱えれば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることができるというもの。ちなみにその間に異性のことを考えてもいけないし、食事にも細かな制限がある。

どちらにしても、ある一点に集中するという訓練を一定期間、必死になって行うことで、記憶力が飛躍的にたかまることを示唆している。もっとも、この方法は大変苦しいもので、一説によれば死亡率が5割にもなるという。ほとんどが狂死してしまうらしい。


以上だ。
つまり、井筒俊彦は、父親の瞑想の方法を、なんだかんだ、晩年まで続けていたことになる。懐かしの「巨人の星」のような話だ。普通の人間には、そうそうマネできそうな芸当ではない。真言宗の開祖空海と井筒さんくらいの、限られた人にしかできないのではないか?ちなみに私は、空海を日本史上の最高の天才とは思わない。ほかにおられる。

5.井筒さんは瞑想だけで、呪文は唱えなかったようだが、その瞑想を通じて、脳が変容していったのでは?

6.スティーブ ジョブズは、禅に傾倒していたが、さらに晩年は念仏のような呪文、マントラを唱えていたと武田鉄矢さんが「今朝の三枚おろし」で話していた。その呪文はなんだったのだろう。

7.そこで、、念仏にせよ、題目にせよ、なぜ日本の二大仏教は短い言葉をくりかえし唱えることを修行の方法としたのか?という素朴な疑問を、実は、わたしはずっと抱いていた。チベットはマニ車を回し、日本は何かを唱え続ける。瞑想か唱えるか、、あとは比叡山の回峯行とかの荒行があるが、そんな行は、もとより庶民には出来っこないし、女性はなおさらだ。

8.柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)の「念仏」の章だけ、読んだ。そのあとは気分が悪くなり、図書館に返した。まれにある身体感覚だ。10年くらい前に、練馬駅北口近くの浄土真宗の寺で、養老孟司さんの話をきいたが、その前にプロフィールを話された寺の関係者を見たとき、真っ黒な相で、相当、念仏修行された感じがして、ガクッと気分が悪くなった、、そのことを今、思い出した。

9.ちなみに晩年の親鸞の木像の写真を見たが、左右の目がアンバランスで脳に障害があったのではないか?
親鸞は90歳まで生きたが、その死は、阿鼻叫喚の形相だったという。親鸞の奥さんはその様があまりにひどいので、周囲のものには見せなかったという文献が残っている。四箇の格言の、念仏無限と断じた日蓮の言葉とおりだった。

10.さらに、、日蓮の遺文集、いわゆる御書は1619頁あるが、不思議なことに、親鸞の名前は一つも出てこない、、全くの私見だが、親鸞は比叡山の天台宗の、天台沙門になっておらず、途中で下野、還俗、妻帯したので、「卒業名簿」にはなかったからではないかと、、わたしはそう思っている。

11.戻る。井筒俊彦に対する関心は、わたしのような凡人にも、何がしか非凡へのチャンスがあるのではないかという角度から、にある。だれでも、そうなるようでなければ、ホンモノの思想ではないからだ。
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2006年11月2日から
「持続する志」はいつまでも
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