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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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八月のクリスマス

先週、Amazon Primeで韓国映画『八月のクリスマス』を見た。10年以上前に、NHKのEテレだったか、見て以来の二度目だった。

当時、なんだか他人事には思えない感じで、いた。幸い、わたしの場合、病死は免れたが、重なるものがあったからだ。

街の小さな写真館を営む三十代の男、ジョンウォンと
若い娘、駐車違反取締官のタリム、
二人の、その年の八月だらう、夏から晩秋か初冬にかけて、短い間の物語だった。

男は余命がいくばくも無いことを宣告されていたが、平らかな日常が淡々と描かれている。男の表情がいい、立ち居振る舞いがいい、

映画は、男がうつ伏せで寝ていて
、ゆっくり起きるシーンから始まる。体調は悪いようにも見えたが、病名などの説明は一切ない。痛みを見せることもない。

全体が静謐であり、、抑制の聞いた描写がかえって心にしみてくる。浸透力は「半端ない」

映画とともに、どうやら、小説ノベライズされていたようだ。なので、Amazonの中古本で258円、ポイントで注文できた。20日頃、届くだろう。

この題名は、八月に出会い、互いの心のギフトをクリスマスという言葉にかけたのだろう。

堀江貴文『時間革命』読後の断想

よく月に○冊読むとか、多読家がいるが、私はそんな言い方したことが全くない。なんとも意味のない自己表現に聞こえてしまい、ほほ笑み、沈黙するだけだ。

もとより本はさまざまあるし、本によって精読もあれば、つまみ読みでよし、とする本もあるし、借りて暫く積ん読だけの本も、あっていいのだ。

最近になって、わかったのはノンフィクションの本は、買って損したなと、私の場合、感じるようだということ。

『女帝 小池百合子』は面白いが、私たちの人を見る眼のなさに愕然とするだけで、、メモリアルで買ってみたことを、やや後悔している。

愕然としたのは、これまでに、選挙で「小池百合子」と少なくとも3回書いた気がしたからだ、、

たぶん小池さんは再び都知事となり、その4年後は衆議院議員は厳しいだろうが、参議院議員あたりを狙うのだろうな。

さて、掲題の本だが、図書館借りで、ザックリ読み、昼前に終了した。

けれど、共感すること、腹に落ちるものが多々あった。早速、目次の41項目をB6ノートに転記した。その目次ノートを眺めるだけだが、堀江貴文さんの主張のあらましがよくわかる。堀江さんは、やはり素の人だな。ホリエモン新党に投票することはないが、その動きを見続けるだろう。

ついでに、ユーチューブの及川幸久氏の話も毎回見るようになった。所属団体はともあれ、彼の声のトーンと事実説明の的確さにリスペクトしている。狭き門だろうけど、国会議員になってもらいたい、とも思う。

石井妙子著『女帝小池百合子』を注文した

掲題の本、図書館に予約したら190人待ちとあり、思案しAmazonで今日注文した。

まずAmazonのレビューに秀逸なのがあったので長いが、コピペしたい。
ちなみに、Amazonレビューには、本当に秀逸で、敬服するものが少なからず、ある。この国、この社会の底力、民度を感じる次第。

健氏 「非常に素晴らしい本」
多くの人に読んでほしい。結論から言うと、非常に素晴らしい本だった。

制作に3年かかったと書いていたが、それくらいの時間と労力をかけて書かれただけの価値がある傑作である。

ちなみに、私は学生だったとき、1年半ほど、小池百合子事務所でインターンをしていた。その時いろいろ思うことがあり、インターンをやめてからも小池氏については個人的に調べていた。

本書に書いてある小池氏の実像や人間性、考え方などは、私の知る限り、実際の小池氏本人の姿にかなり近い。

見た目はよく、美人である。弁舌さわやかで、PRも上手い。チャンスを見極め勝負をかけるのも得意。一見魅力的な人物にみえる。

ただ、権力欲が異常に強すぎる。あと豊洲問題やオリンピック問題で明らかな通り、組織を動かし政策を実現する実務能力は極端に低い(この点は本書によく書かれているので割愛するが、無能といっても過言ではない。アニメキャラに例えると銀河英雄伝説に出てくるトリューニヒトが近いと思う。)

そして何より、本書に書かれている通り、嘘が多い。悪気なくウソをつく。
カイロ大学の件を筆頭に、嘘で塗り固められた人生だと言ってよいと思う。
おそらく本物のサイコパスなのだろう。
政治家としてというより、人として重要な何かが、彼女は決定的に欠落している。

個人的に印象に残ったのは、本書の後半に出てくる「謎の秘書」であるM氏の記述である。彼は、私がインターンをしていたときに事務所にいた(本書で人柄や雰囲気が描かれている通りのような感じの人だった)。
本書で書かれている通り、M氏がどういう人なのかは事務所内でも謎だった。政治家事務所は情報の管理上、事務所に関わる人の経歴は、事務所内ではだいたい共有されていることが多い。しかしM氏については秘書の人たちもほとんど知らなかった。私とよく話してくれた秘書の方も「小池さんの親戚らしいけど、Mさんのことはよくわからないんだよね…」と言っていたのを覚えている。
本書でも、著者は彼が何者なのかかなり丹念に調べているが、突き止められていない。個人的には、このあたりにいろいろ小池氏にまつわる何かカギがあるような気がしている。

ちなみに2009年の総選挙のとき、小池氏は小選挙区で落選している。
小池氏はこの時「秘書のせいで負けた」と勘違いしたのか、とにかく激怒した。
その結果、本書に書かれている通り、古くから献身的に仕えてきた秘書たちを、秘書本人には会わず、M氏を通した伝言という形で、ほぼ全員クビにしてしまった。

私が知る限り、この秘書の方々は(中には変な人もいたものの)、皆とても職務熱心で人柄もよい、真面目で善い人ばかりだった。
あのときは民主党に強い追い風が吹いており、小池氏が小選挙区で落選したのはどう見ても秘書のせいではなかった。
それをヒステリー起こして秘書のせいにし解雇するのは、筋違いだったと思う。

長年献身的に仕えた秘書をもゴミのように扱い切り捨てる小池氏の人間性を、私は深く軽蔑した。

なお、私自身は小池氏に特に何かをされたということもないし、個人的な恨みもない。ただ、本書に書かれている通り、客観的に見て、彼女は政治家という国家の進路を任せる職務にふさわしい器ではないと思う。

できることならば、小池氏に対し、政治というものを本音ではどう思っているのか尋ねてみたいと思っている。
あわせて
・本当に国のためになりたい、国益を追求したいという気持ちで政治家をやってきたのか。
・特にやりたいこともなく、ただ自分の虚栄心と功名心を満たし、政治的地位を向上させることだけが目的だったのか。
・建設的で本質的なことをせず、PRとパフォーマンスばかり行い、政治をゲームや玩具のようにもてあそぶことに罪悪感はないのか。
・もし本当に虚栄心と功名心だけを追い求めてきたのだとしたら、振り返って、それは虚しいことだったと思うことはないか。
などのことも聞いてみたい。

長くなったが、東京都に住んでいる方は、どうか本書を読んでほしい。
とても良い本である。


以上、1年半身近に小池氏を見ていた人の感想は響くものがある。また昭和の闇を感じさせるM氏の存在は興味深い。

さて、わが購入動機を、以下に。
1.カイロ大学卒業は、たぶん詐称に違いないだろう。

つまり、『女ショーン・ケイ』なのだ。

2.このまま7 月に当選しても、都民の誰かが告発し、検察がこれを受理し、特捜が捜査する。直接、カイロ大学に赴き卒業資格の事実確認をする、機械的に捜査するだろう。

もしかしたら既に、小池氏の側近の黒幕M氏がカイロ大学の関係者か誰かに、虚偽の上塗りをしこんでいるかもしれない。

ともあれ、この本が30万部くらい売れたら、特捜は動くだろう。権力との対峙を闡明にするために。

3.学歴詐称が判明すれば公職選挙法違反になり、当選資格は失い、2位が肝心になる。前代未聞だが、たぶん得票数で2位の候補者が、新しい都知事になるのでは?と思うからだ。

4.そこで、まだ出揃ってないだろうが、私は今のところ小野泰輔氏(前熊本県副知事)に投票する。この人がひとまず無難だろうから、、

5.すべては時間経過とともに変化する。多面体のオセロゲームのように、変容するだろう。例えば小池氏の立候補の段階で、告発と受理が始まれば、当選後の展開はめまぐるしくなる。

6.実は小池氏の自宅はここから500メートル
くらいで、新築されてた頃から知っていた。だからといって、感情移入はない。

7.むしろ逆で、落下傘で東京10区の衆議院議員候補者になって、演説ぶりを近くでみたときから、その声で「この人はサイコパスではないかな、、」と感じていた。

8.ノンフィクション作家は取材の時間コストと出費は大変なものがあり、本の売上が大事になる。次の執筆の原資なるからだ。

9.これほど身近にサイコパスの症例を感じる機会はないだろう。巨大な彗星の接近、通過に遭遇することと似ている。本はその解説書になる。

10.東京都は小池都知事になる前まで数千億の繰越金、原資があったのに、小池都政の4年間で500億円まで、使ってしまったのだ。
再選したら、これから2024年までに、赤字財政に東京都が転落する可能性は、十分ある。再選させてはならない。

 実は『サイレントインべージョン』も新刊で手に入れようかと思っていたが、これは図書館借りでよしとしよう。

以上だ。ついでに別の話、公明党は、習近平と中国共産党に対する50年におよぶ基本姿勢を見直す時期にきている。現金の授受があるとは思わないが、サイレントインべージョンの罠にはまっている気がしてならない。
無論、支持母体もウィグル、チベット、香港の現状を真摯に受け止めて、中共と対応すべきだ。彼らは利用してくるだろうから。

小池百合子と習近平の中共に共通するのは、「嘘はつき通したもん勝ち」という発想にある。

追記、
2002年の小泉訪朝。横田めぐみさんは死亡と知らされた会見の席で、父の滋さんは涙で言葉を詰まらせた。妻の早紀江さんは気丈にも、夫の分まで思いを訴える。

夫妻の真後ろには、黄緑色のやけに目立つジャケットを着た小池百合子が立ち、被害者家族の肩に手を回しつつ、涙を拭った。

会見が終わり、部屋には家族らが残され、大きな悲しみに包まれていた。そこへ、いったん退出した小池が駆け込んできて、大声を上げる。
「私のバッグ。私のバッグがないのよっ」

部屋の片隅にそれを見つけると、横田夫妻もいる部屋で、彼女は叫んだ。
「あったー、私のバッグ。拉致されたかと思った」

目撃した蓮池透さんは、「あれ以来、彼女のことは信用していない」と自身のツイッターで明かしたという。

山村修『遲読のすすめ』から派生すること

AmazonPrimeで今『東京ラブストーリー』の全11話が流れている。1991年のものとはだいぶ趣きが違う感じがする。前期高齢者男には、もはや、泣けない連ドラになっていた。

リカ役の女性は歩き方が美しくない。所有欲の強い女性で、若いごく普通の男には無理だろうな、、

さて掲題の本のこと。著者山村修さんは2006年に肺がんで亡くなられている。享年56歳。

わたしも、何度か試してみたが、速読は無理な派で、、著者と同じ遲読派だなと。もう速読に関心をもつことはやめよう。

○遲読には、読了のよろこびがある。
○幸福とは、幸福の予感である。
○遠藤隆吉「初めの十頁が大切」
「粗読すれば粗読するだけ脳髄が悪くなる」
○ヘンリーミラー「読みたい本は四・五日そのままにしておくこと。自分だったらどんなこと書くかと考えること」
○一日にたった一分読むだけでも、りっぱな読書になる。

その本にはひとことも、書かれては無かった、別の併読本の一文が蘇り、頭の中で、つながった。

ゆっくり読むという行為は、

『人はいかにして、彼が本来在るところのものとなるのか?』

という、、つまり一瞬一瞬、読むまなざしの中に、哲学的人生の機微につながる何かがあるのではないか、と。

その言葉の典拠は、ニーチェの次の言葉(独文)だ。 Wie man wird,was man ist.

戻る。そうした思いの去来は、『遅読のすすめ』の中で、寡読・身読の話に及んだことだ。121頁から125頁にかけて、山村さんが取り上げた新聞記事に因する。長文だが、こうだ。

さらに、上原専祿(うえはらせんろく)という人がいる。寡読どころではない、全肉体的な「色読」をとなえ、実行した人である。

色読とは、日蓮宗で、法華経を正しく読むだけでなく、その教えを身をもって実践修行することを指す。色読もしくは「回向としての読書」とも上原はいった。

私の手元に、1979年6月17日付毎日新聞の記事のコピーがある。黒地の見出しに「死去していた上原専祿さん」とあり、横に小さく「元東京商大学長、『妻の回向に』と姿消し八年」と添えてある。

記事のはじめの部分はこうだ。
「『回向の旅に出る』という言葉だけを残し八年前、東京から姿を消した著名な世界史学者で、元東京商大(一橋大)学長の上原専祿さんが昭和五十年十月、亡妻の回向三昧に暮れながらひっそりと京都で七十六歳の生涯を閉じていたことが明らかになった。京都では知人などにも住所を秘密にし『だれにも知らせるな』というのが遺言だったという」 

妻の利子さんは1969年に亡くなった。以来、上原はひたすら『法華経』と『日蓮遺文』を読みふけるようになった。

ただ読むのではない。霊前で読誦するのである。1971年、上原は突然、東京の自宅を去り、消息を絶った。そして1975年、ひっそりと逝った。

霊前で経を読むのを「読書」というのも奇異な感じがするが、それを上原専祿はみずからの人生の最終段階の読書として実行していた。しかも、世間から行方をくらまして、である。

ちなみに、ウィキペディアには、、
1971年(昭和46年)6月、息子の上原淳道や弟子達も知らない間に長女(国立音楽大学ピアノ講師)のみを伴い東京を退出し、宇治で高島宗助という偽名を使って隠遁生活を送る。大学退職後は日蓮の研究に傾倒する。

とあった
、、戻る。
上原は、実は亡くなる六ヶ月ほどまえ、つまり行方不明のまま、読書エッセイ『クレタの壺』を出版している。

そこには七十年におよぶ自分の読書生活が、
第1期 享楽としての読書(濫読)
第2期 禁欲としての読書(閲読)
第3期 闘争としての読書(味読)
第4期 回向としての読書(色読)
の4つに区分できると記されている。

妻の死去を境にして、ついに読書さえ「無内容で無意味なもの」になったと断ずる上原専祿は、それでもやはり読書をつづける。

というより、読書の営みはかえって過激なものになる。それはもはや「目で読み、心で読む程度の『心読』では不十分」であり、どうしても回向としての読書、すなわち「生活体験を通して身体の全体で読む『色読』」でなければならなかった。

色読について上原の思いの一端をあらわす部分を、『クレタの壺』から引いてみる。

『回向』の内容と方法を求めて読経をつづけてきた私は、いつのころからか、『自我偈』の末句が、ふしぎに深厚で、たぐいなく荘重な響をたたえていることに気がついた。

いや、それはたんに深厚で荘重な響などというものてはなく、『法華経』の説主、釈迦牟尼如来自身の、時間的にも空間的にも、人に約しても、事に約しても、限られることなく尽きることもない衆生救済の慈悲行についての金口の自誓として、私のこころと身体に響きわたるようになっていった。

その末句の自誓とは次の通りだ。

毎自作是念  以何令衆生
得入無上道  速成就仏身
(毎に自らこの念を作す、
 何を以てか衆生をして
 無上道に入り
 速やかに仏身を成就する
 ことを得せしめん。)

最後に引かれた句がむずかしい。
(中略)
私は法華経の壮大さや華麗さには息をのむが、その末句などは、ただむずかしい。

どうしてこの句に打ちふるえるほどの感銘を受けることができるのか、
残念ながら分からない。

以上だ。

私の場合、自我偈の末句に、時に、心底から打ちふるえることが、ある。
それは回向ではなく病いを介してであった。
1991年から25年の歳月をかけて、二つの大病をやったおかげ、、なのだろう。

今しがた新しい『東京ラブストーリー』第11話を、見終えた。おぉー、ダスティン・ホフマンの『卒業』のラストと同じ光景が、、

でも、やはり若い人たちの話だな、死に至る病は、ない。

映画『インタステラー』から派生する思い

先日、武田鉄矢さんの「今朝の三枚おろし」で1時間ストーリーと感想を話されていて、また見たくなった。もう2回は見たが。

で、DVDを買うことにした。長女に見せたいからだ。

わたしの関心は、最後の、ブラックホールに飛び込んてからの出来事にある。

物理学の用語でテザーラクト(正八胞体)という空間に主人公が入ってしまい、時空を飛び越え、宇宙物理学者になっていた娘の部屋の書棚の向こう側にいるという現象がおとずれるシーンあたりから、すこぶる驚いたのだ。

その空間から娘に、アナログ腕時計の秒針の動きを利用して、ブラックホールの重力データをモールス信号で送るのだ。

そうして娘は、相対性理論と量子力学を止揚する方程式を見出し、ユリイカ!と叫ぶ。人類は反重力を手に入れ、宇宙な巨大な宇宙船を送ることが出来る、、、

おそらくフラクタル理論も加わっている。

どうにも不思議な話だが、わたしには法華経の自我偈が湧いてきて、さもありなんと思えてならなかった。

ヘッセの詩

ヘルマン・ヘッセの詩、加島祥造の訳詩を以下に。18日に行った北条泰時の墓と佇まいが重なったので、載せておきたい。

日本の山中で崩れかけた仏像を見て

長い歳月、雨と風にさらされて
すっかり苔むした仏陀の
痩せた温和な顔
柔らかな顔
その伏せた瞼の下の眼を
内側の目的に向けて
静かに立っている。
よろこんで朽ち果てて
万有の中に崩壊してゆく。
形を融かしこむ「無限」のほうに
目を向けているのだ。

その形は無に帰する道にあり、
もはや消えはじめているのになお
王者の高い使命をわれらに告げ
われらに求めている。

己れの姿形を
湿気とぬかるみと
土のなかに捨てることで
その使命の意味を完成させようとする。
明日は木々の根となるだろう。
風にざわめく枝葉となるだろう。

水となって
明るく澄んだ空を映しだすだろう。
葛や菌糸や羊歯となって
伸び縮みしているだろう

それは
永遠の統一へむかう万物の
流転変遷の姿なのだ


北条泰時の墓は、苔むした仏陀のようだった。泰時の子孫は墓参りしているのだろうか。北条一門は断絶したのかな、、

今、検索したら守時光睴氏という方が末裔として本を出されていた。よかった。

中野孝次と加島祥造

1980年代後半、勤めていた会社は新宿三井ビルの中にあった。親会社の都合で、幾度も会社フロワを変わったものだ。

たしか日航機墜落事故があった年は、43階あたりで、8月の事故が起きた日の翌日、紫色の異様な夕焼け空だったこと、その夏の終わり赤トンボの群が舞ったことなどを思いだす。

当時、新宿三井ビルのB1の一角に鹿島建設系の書店があった。昼休みなどよく立ちより新刊本をながめ、手にとるのが好きだった。表題だけの文字をおうことだけでも、ストレスの発散になっていた。。

あらためて思い出した。文学系では
中野孝次『清貧の思想』
宮本輝『愉楽の園』
とともに
加島祥造『老子』などがあったことを。

最近分かったことだが、
宮本輝が『螢川』で芥川賞をとったとき
中野孝次も『鳥屋の日々』という候補作品があったが、選からもれた。

今、図書館から『鳥屋の日々』を含む『麦熟るる日に』借りて読みだしたが、
静かで、いぶし銀のような語り口が、いいのだ。なんで受賞できなかったのか?

その後『清貧の思想』はベストセラーになった。が、読まなかったし、今も関心はない。

中野孝次さんの作品はローマの賢人セネカの話とご本人がん闘病記で知った。立派な先人だなと敬服した。

中野孝次さんは1935年生まれ、市川の出身、三島由紀夫と生年は同じだった。高校は出ておらず、大検を経て東大の独文を出られ、國學院でドイツ語を25年間教えられた。屹立している感じがして、敬服した。

一方、加島祥造さんは2008年頃のNHKの番組で取り上げていたことで、あぁ南アルプスを望む伊那谷で、ずっと老子を学び続けておられたのかと。

加島祥造はこう書いている。
私は60歳になったころ、老子『道徳経』の英訳本に出あいました。その「老子」は実によく私の心に滲みこんだ。
都会育ちの私が、そしてアメリカ文学に深入りした私が、自然へ回帰するきっかけとなったのでした。
と、、

その『道徳経』の冒頭、加島祥造の訳文は読みやすく、美しい。現代詩のように、こう訳された。
これが道(タオ)だと口で言ったからって、
それはほんとうの道ではないんだ。
これが道だと名づけたからって、
それはほんとうの道ではないんだ。
なぜって、それが道だと言ったり、
名づけたりする君自身が道にふくまれるからだ。
人間が名づけるすべてのものや、
ものを知ったと思う人間たちのむこう
名のない道の領域が、はるかに広がっている。


ちなみに私見を。
この文章に呼応するかのように、日蓮は『一生成仏抄』を表された観がある。即ち「我が一念を指して妙法蓮華経と名づくるぞと深く信心を発すべきなり」と。名をつける意味の深さは解像度の高低なのかもしれないな、、と今のところ、思っている。

戻る。また米国の作家マラマッド短編集の翻訳で、加島さんを再認識した。その中の『夏の読書』がよかった。別の訳者は『ある夏の読書』と題していたが、『夏の読書』でないと腹に落ちない。『夏の読書』は決して他人事ではないこと、心の機微の不思議さは伝わってこないだろうから。。

今般、中野孝次と加島祥造が囲碁で戦っていたことをしった。加島祥造の『いまを生きる』の最後の章で、こう語っていたのだ。加島祥造さんの文章は(ですます)調で綴られる。決して偉ぶらない、そこがいい。

いま、なんで老子か、
(文脈は度外視した抜粋でご容赦を)

2000年3月2日は港の見える丘公園にある神奈川近代文学館へゆき、中野孝次氏と碁を打ったのでした。このごろの彼との対戦成績はあまりよくない。
館長室に入ると、碁盤はすでに客用テーブルに出ていて、私たちはろくに挨拶の言葉を交わさずに、すぐに盤に向かいました

三局対戦し、いずれも加島さんが負けた。そこで、
二人で文学館を出た時、押さえきれぬ口惜しさから私は彼を打越の家に誘い、タクシーをとらえて家につくと、(中略)すぐに盤に向かいました。今度は


加島祥造さんの年表を作ってみたくなった。

山形ホテル

ふと、山形ホテルがどこにあったか気になった。今は便利だ、早速検索すると、六本木のIBM前の通りの反対側の方に、山形ホテルはあった。
(ここにあったのか)と、、MAPを見るとIBMはなくなりテレ東のビルに変わっていた。あれ、テレ東は神谷町だったはず、、赤坂、六本木あたりの街の変貌は著しい。

そういえば、山形ホテルがあった近くに、
主に修学旅行の生徒たちを受け入れるホテルがあった。1980年の春ころ、そこで皿洗いのバイトをしたことがあったが、きっとそこも、もうとっくに無いだろうな、、

山形ホテルがあった所にはその記念碑がある。また永井荷風の館もその近くにあったようだ。今のサントリーホールの裏あたりかな、、

サブカルチャーの先駆け、作家川本三郎さんが書かれた『荷風と東京』は、山形ホテルについて触れている。その永井荷風の『断腸亭日乗』の中から抜粋を以下に、そのまま転載する。長くなる。

それにしても、永井荷風はよく歩く人だった、、車寅次郎のように。

「断腸亭日乗」私註を読む(11) 「十 山形ホテル」

「日乗」昭和7年3月4日
偏奇館の窓から見た風景スケッチがあり、左隅に、二階建ての洋館の山形ホテル。
偏奇館のほぼ正面に見える。

現在は、麻布パインクレストというマンション

大正9年11月19日
山形ホテルの初見。「快晴。母上来訪。山形ホテル食堂に晩餐を倶にす」とある。
以後、荷風は、山形ホテルが気に入り、「日乗るには、山形ホテルの名前が頻繁に出てくる。

大正11年12月4日
「今日より近鄰の山形ホテル食堂にて夕餉をなす事となしたり」
偏奇館からホテルまでは徒歩約15分ほど。格好の散歩にもなった。

大正11年6月17日
「雨来らむとして来らず。溽暑甚し。山形ホテル食堂にて昼餉をなし、日比谷公園を歩みて帰る」

同年12月7日
「午後散策。日暮霊南阪を登るに淡烟蒼茫として氷川の森を蔽ふ。山形ホテルにて晩餐をなし家に帰りて直に筆を執る」

大正12年5月12日
「鴎外全集第七巻所載の西周伝を読む。山形ホテル食堂にて夕餉をなし今井谷を歩む」

大正14年7月1日
弟鷲津貞二郎が訪れたときも山形ホテル。「雨中鷲津貞二郎来訪。山形ホテルにて倶に昼餉をなす」。
単身生活者荷風にとって、山形ホテルの食堂は、応接間がわり。

知人が訪れたときも山形ホテルを利用。家に長居されるよりもホテルの食堂で歓談したほうが、”他人の侵入”を嫌う荷風にはよかったのだろう。
「正午酒井清次君来談。山形ホテルにて食事を輿にす」(大正12年3月24日)、
「平澤生来る。山形ホテルにて夕餉をともにす」(同年8月9日)、
「午後巌谷氏来訪。山形ホテルにて昼餔」(大正14年6月26日)。

食事だけでなく、宿泊もしている。
大正11年10月20日
「自炊の不便を避けんとて近鄰の山形ホテルに宿泊す」

大正12年1月1日
「睡を貪って正午に至る。晴れて暖なり。山形はてるに赴き昼餐を食し、帰り来って爐邊にヂットの作ワルテルの詩を再読す」

昭和2年1月20日
「寒邪、午後體温三十八度三分あり、食事に出ること能はざるを以て山形はてるよりサンドイッチを取寄せ纔(ワズカ)に飢をしのぐ」

昭和2年
銀座のカフェー・タイガーの女給お久が金の無心に来た際には、山形ホテルに難を避ける。

大正13年1月1日
「小星を件ひ山形ホテルに往く」
(「小星」は大正12年の関東大震災後、11月から約1年間、偏奇館に囲っていた「お榮」)。

大正14年12月29日
「薄暮櫻川町の女訪来りければ、山形ホテル食堂にて晩餐をともにす」

大正15年1月12日
「晡時櫻川町の女訪ひ来りし故、喜び迎えて笑語する中、食時になりしかば、倶に山形ホテルに赴き晩餐をなし、再び書斎に伴来りて打語らふほどに、長き冬の夜は早くも二更を過ぎたり」。
(「櫻川町の女」は、荷風が、美人のうえに心映えもいいと絶讃している私娼「お富」)。

山形ホテルは:
大正6年に、山形巌(36歳)というロンドン帰りの人物によって建てられた小さなホテル。
来日外国人で賑わう。
山形巌は大阪生まれ、子どものころにサーカスの芸人になり、ヨーロッパ興行にも加わり、海外で青春時代をおくった軽業師。

「荷風というと晩年の奇人ぶりがよく語られますが、そのころの荷風は、実におしゃれな紳士でしたよ。昼になると食事に来ましたが、夏など、白い麻の服を着て、子ども心にも、おしゃれなんだなと思いました」
「あの時代、泊り客でもないのに、毎日のように食堂に来て、きちんと西洋式にナイフとフォークを使って食事をしていた日本人は、荷風先生くらいでしょう。もっとも、うちのホテルの食事がおいしかったとはとても思えませんが (笑)」
(山形勲:俳優、創業者の子)

新聞のある山形ホテルは、荷風にとって世間への窓口でもあった。
大正14年11月16日
「晡下山形ホテル食堂に赴く。晩餐の卓子につきし時給仕人東京日々新聞夕刊紙を持来りし故、スープを啜りつゝ紙上を一見するに、狂言作者竹柴秀葉翁今朝病を以て目白落合村の寓居に終りしとの記事あり」

大正15年7月30日
山形ホテルが「暑中旅客なく、食堂を閉す由なれば」、仕方なく銀座風月堂に行って食事をしている。

山形ホテルが身近なものになるのは、大正12年9月の関東大震災で、神田北用賀町の家を焼け出された友人、歌舞伎排優市川左團次(俳号「松莚」)が、このホテルに仮り住まいするようになってから。

山形ホテルも大震災では大きな被害を受けていない。
「日乗」9月1日によると、食堂の壁が落ちた程度で、その夜、いつものように荷風は食堂で夕食をとる。
神田の家を焼け出され、各地を転々としていた市川左團次が、東京に戻ることにしたのは、『左團次藝談』(南光社、昭和11年)によれば、大正13年1月に、麻布十番にあった南座で、震災後初の興行を行なうことが決まったから。大正12年11月のこと。

大正12年年11月17日
はじめ左團次夫妻は、麻布十番に近いこともあり、偏奇館二階を借りたいと頼むが、そのころ荷風はお榮を偏奇館に囲っており、左團次の頼み容れることができなかった。その代わりに、紹介したのが山形ホテル。
左團次夫妻がホテルに入ったのは大正12年12月22日。
「晩間松莚子細君を携へ山形ホテルに来り宿す」。
そして、左團次は、翌大正13年1月15日に、麻布宮村町(現在の麻布十番あたり)の新築の仮住居に移るまで、約1ヶ月、山形ホテルに投宿。
この間、荷風はしばしば、山形ホテルに左團次を訪ねている。
「夜山形ホテルに往き、清潭山勇等と松莚子の居室に款語す」(大正12年12月25日)、
「晩飯を喫して後お榮を件ひ、山形ほてるに松莚子を訪ふ」(同年12月31日)、
「松莚子と晩餐を共にすることを約したれば、小星を件ひ山形ホテルに往く」(大正13年1月1日)

昭和3年7月14日
、夕食の果物を煮た皿にハエが入っているのを知らずに口に入れた。一食してあとに気づく。荷風は、この日を限りに、山形ホテルを利用するのをやめると怒る。
「山形ホテル食堂には七八年来昼餉か夕餉か一日の中に一度は必らず赴きて食事をなせしかど、今宵をかぎりに中止すべし」。

しかし、単身生活者にとって山形ホテルは、いまや偏奇館の一部のようになっている。食事に利用せざるを得ない。2ヶ月後にはまた山形ホテルに出かける。

昭和3年9月11日
「溽暑甚し、午下曝書、晩闇山形ホテル食堂に飯す。伽排黴くさくして口にしがたし」。
「中止すべし」と大見得を切っておきながら再び出かけたことが口惜しいのか、コーヒーの味にケチをつけている。

昭和3年12月13
「昏黒山形ホテル食堂に往き暮食をなし・・・」、
同年12月30日
「午後睡を貪りて薄暮にいたる、山形ホテル食堂に往き夕餉をなし」。
昭和4年1月1日
「晩間山形ホテルに夕餉を食し・・・」。
正月早々出かけて夕食をとっている。

昭和2年冬、尾崎士郎はある女と東京市内を転々としていて、12月の雨の晩、川端康成に「霊南坂上にあった山形ホテル」を紹介される。川端康成は山形ホテルの二階の片隅の小さな部屋を仕事場として借りていて、その仕事場を尾崎士郎の隠れ場として提供した。
「山形ホテルは・・・部屋の数も二階と階下と合わせてやっと十くらいしかなかったが、何となく落ちついた、かんじのいい静かなホテルだった」
尾崎士郎は川端康成の好意でこの8畳くらいの部屋に逗留し、翌年3月まで仕事に没頭。その頃、林房雄も引越してきたという。

尾崎士郎
「山形ホテルの部屋が、谷をへだてて永井荷風邸と向かいあっていたのも今はなつかしい思い出である。そのころから偏奇館と呼ばれていた荷風邸の二階の窓は、いつも戸がぎっしりとしめられて、まるで化け物屋敷みたいに無気味な印象をただよわせていた」

荷風は昭和6年ころから銀座出遊が多くなり、「日乗」から山形ホテルの名は消えていく。
山形勲氏によれば、山形ホテルは昭和4年(1929年)の世界恐慌で外国人客が減り、経営難になり、その後数年で営業をやめたという

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