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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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米国の太陽天文台が閉鎖

今、日本のテレビでは、一切、ニュースになっていないことを以下に。

米ニューメキシコ州サンスポットにある国立太陽天文台が、FBI(連邦捜査局)によって唐突に封鎖されたとのニュースが世界中を駆け巡っている。

米ニュース「ABC」の報道(9月10日付)によると、今月6日から、FBIが国立太陽天文台を封鎖、地元の郵便局員も近隣地域に異動させられたという。ずいぶんと物騒な話だが、FBIは封鎖理由を公開していないというからなお恐ろしい。

ここのところ太陽では巨大なコロナホールが形成されており、今月11日には、その影響でG2レベルの磁気嵐が地球に降り注ぐと「アメリカ海洋気象庁」(NOAA)が発表している。しかし、G2レベルの磁気嵐は11年間で600回ほど起こっており、緊急事態には程遠い……。

UFO研究家のなかには、同天文台が撮影した太陽の写真に写ってはいけないUFOが写り込んでしまったのではないかと推測する者もいる。

太陽に接近するUFOの画像や映像はインターネット上に溢れており、UFOが撮影されてしまったところで天文台を緊急封鎖する理由になるとは思えない。決して世間に知られたくないものが写ってしまったとしても、その場合は画像・映像編集をしてしまえば済む話であり、それは現にこれまで行われてきたことだろう。

真相は闇に包まれている。胸が高鳴る事件だけに、凡庸な結末にはなって欲しくない。今後の有力情報に期待しよう。



以上。私見だが、
編集する前の、なんらかの太陽にかかわる重要な情報が出てしまうことを抑えたのだろう。

その天文台関係者にエドワード・ジョセフ・スノーデン氏みたいな人がいるのかもしれない。

YouTubeで告知されたSINGENさんによると、もしかしたら、公にされたくない生命体が逃げているのではないか、と言われた。
映画のETの逃走シーンを彷彿とさせる話に聞こえた、、

いよいよ『未知との遭遇』の時代に入っているようだ。地球上はもとより、宇宙においても、こうした目に見える世界の話に「情報の格差」はあってはならない。

1938年10月の、オーソン·ウエルズのときのようなラジオドラマによるパニック騒動にはならず、わたしたちは、事態を淡々と受けとめることができるのではないか。

この動き、ヒラリー・クリントンが大統領になっていたなら、どう対応しただろうか。

告知しないという立場はありか??

赤ちゃんを取り違えの始末、、
なんとも順天堂病院の方針が解せない。

50年前のことだからしょうがないでしょ、なし崩しの論理。

かりに5年前の取り違えだったとしても、双方に知らせない対応をとるのではないか。

今は管理体制はできているから大丈夫というが、震災のような不測の事態が重なったら、どうだろう。

暖房器具などの不具合がわかったときは、メーカーは長い期間をかけてリコールをやる。

取り違えは二人の子どもだけではないかもしれないと推測し、過去の全件をアンケート調査とか、DNA 検査をするとかが、本来のあり方だろうし、テレビでリコールを呼びかけてもいいはずだ。反響は尋常ではないだろうが、世間はその真面目さを評価するだろう。

文章の中の専門家ってどんな職種の人?

これは臭いものにふたをする行為だ。

そもそも順天堂に告知しないというカタチで、その人の人生を裁くことができる立ち位置にいるのだろうか。

昔、病院が本人にがん告知しなかったのと、なんだか発想が似てないか、、

情報の非対称性、情報の格差を解消させる気はない。主語が「当院」と「本学」と二つあることも、情報格差が二段構えになっているように、みえる。


これこそ第三者機関を設けて、順天堂はかやの外にいて、ひたすら詫びるという立ち位置にいるべきではないか。なんか頭が高い。


学校法人順天堂
順天堂NEWS
Juntendo News
2018.04.06 (FRI)
法人サイト
順天堂医院での新生児取り違え事案についてのお知らせ
学校法人 順天堂

 一部週刊誌にて順天堂大学医学部附属順天堂医院(以下「当院」という。)において、約50年ほど前に、出生した新生児を取り違えた事案が発生していたという記事が掲載されました。
 本事案発生の概要、その後の当院での調査結果及び対応等を下記の如くご説明申し上げます。

■本事案発生の概要
 今から約50年ほど前に当院で出生されたお子様について、最近になって当事者の方及び当事者のお母様のご協力によりDNA検査を実施し、当事者の方とお母様との間に親子関係が存在しないことが判明しました。
 当院を退院された後に取り違えが発生することは考えにくいものと思われます。従って、当院にて取り違えが発生した可能性は極めて高いと判断致しました。
 当時の新生児確認は、分娩後、臍帯は医師が切断し、助産師が新生児を沐浴室に連れていき、沐浴後に新生児の足裏に母親の名前を記すという方法が採られていました。取り違えが発生したとすれば、新生児の足裏に母親の名前を記す前に起きたことなどが想定されます。
 しかしながら、当時出産された方々のカルテを確認いたしましたが、そこには取り違えを疑わせる記載は認められませんでした。

■当事者ご本人様及びお母様へのお詫びと協議の経緯
 当事者ご本人様及びお母様からは、ご相談を頂いて以降、出生時の状況等をお伺いしました。それらの内容と、当院での確認調査から、当院で取り違いがあった可能性が極めて高いと判断して、お詫びをし、解決に向けて、弁護士等の意見を踏まえ話し合いを行ない、ご了解して頂くことに至りました。

■取り違えの相手方当事者様の調査
 取り違えの相手方当事者様は、当院に保存してあった過去のカルテにより、確定ではありませんが、ある程度絞られました。しかしながら、退院後約50年に亘り親子関係や社会関係を築いておられると推測されることから、さらに調査し、ご本人様やその親である方にお知らせすることが適切かどうかについて、慎重に検討を行いました。この問題については、さまざまな考え方がありうるものと思料いたしますが、専門家の意見を基に、50年以上経過後にお知らせすることによって、現在の平穏な生活を乱し、取り返しのつかないことになるのではないかと考え、お知らせしないことといたしました。
 また、この事態を公表すること自体も、相手方当事者様にとって望まない結果になりうることを懸念して、当院からその時点での公表を差し控えることといたしました。
 しかしながら、本事案が週刊誌に掲載されたことを受けて、当のご本人様あるいはご家族からお問い合わせがある場合には、誠意をもって適切に対応する所存です。

■関係者の皆様へのお詫びと今後の対応
 当院において本事案を生じさせたことにつきまして、当事者ご本人様をはじめとする関係者の皆様に対し心よりお詫び申し上げます。
 本学では既にこうした取り返しのつかない事態が発生することのない体制を整備しておりますが、あらためて万全の態勢により細心の注意を払って参る所存です。

◆なお、当事者の方及びご家族に関する情報、当事者ご本人様とお母様との協議の詳細及び相手方当事者の方に関する一切の情報の開示は、本学としては控えさせていただきますことを何卒ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます。

申し開きだけで、解決策はなく、穏便にやり過ごす狙いなのだろう。

順天堂病院が「取り返しがつかないことになる」かを思料することは余計なこと。順天堂病院は、本質的に、当事者の関係には、、ないはずだ。
順天堂はそういう状況を作った側であって、当事者である二つの家族の人生をおもんばかるのは、、おかど違いだ。なんで分かんないんだろう。。

是枝監督の映画を踏まえれば、二つ家族が緩やかな大家族になる可能性もあるわけで、順天堂病院がそれを疎外していいのだろうか。。

やっぱ、順天堂病院は、頭が高い。偉そうだな、、27年前のお茶の水の順天堂病院に入院の時のことを思いだした。微妙に上から目線だったなと。

8月は過去を想起するとき

3月21日から、のどに痰がたまりやすくなり、一向にぬけない。電話中でも、のどがつまり、苦しくなったりする。

睡眠中、のどが腫れてくる感じも、ある。

さて、どうしよう。ひとまず、水分補給を徹底させよう、、だが、それ以外に何かないかと、あれこれ思案した。

前に龍角散を一缶空けるまで飲んだが、
二缶目はどこにやっちまっただろう。見つからない。

そうこう探しあぐね、気づいた。

(いやまて、また竹炭の粉末を水に混ぜて飲もう)と。

そこで8月12日から始めた。竹炭は、だいぶ前のものだが、構いはしない。

解体会社の社長が中元の残りもの、ボトル入りの無糖のブラックコーヒー数本をくれたが、それに竹炭の粉末を混ぜて、飲むことにした。

あぁ、想い出した。
そもそも、西池袋の形成外科医の小坂先生は、このやり方で飲まれていて、竹炭を強くすすめてくださったことを。
小坂先生のすすめがなければ、やらなかった。感謝。

今日で3日目だが、のどの調子はいい。

掲題のこと。このところ
1980年代のコカ・コーラのCMをYouTubeで見ているが、、いい。

完成度が高い。昭和のCMのベストテンに入るだろう。CM の奥に、一瞬だが、物語が垣間見える。

1980年代後半の、I feel Coke のCM、、
その監督は誰なのだろう。

それまではCoke is it、
ミュージカルのようなもので、
ディズニーのようで、
ありきたりで、チャラい。

それが、I feel Cokeで変容する。
あの切れのある、リズミカルなテンポは独自で、これ以前もこれ以後も、こんなCMは、ない。クオリティーが高いのだ。検索すると、

作曲は井上大輔、「ブルーシャトー」の大ヒット曲、グループサウンドの先駆け、ブルーコメッツのサックス奏者、ボーカルの人だった。2000年か、58歳で、自死していた。奥さんの看病などで、心身がやられててしまったようだ。その奥さんも、後追いのように首吊りで亡くなられたとも。痛ましい。

戻る。
I feel Cokeは、一貫して、松本孝美さんとハーフのケン・ブレニス氏が出ている。

二人ともモデルとして、CM だけで、俳優などに転身しなかった。その区切り付け方、いさぎよさはミゴトだと思う。

I feel Cokeはやがて、日本の日常の風景、風情をうちだすようになる。銭湯の出待ち、ふるさとに帰って来た家族をプラットホームで待ち受ける老夫婦、ヒットが打てない野球少年とか、普通の人々が登場してくる。

モデル系でない人の光景 が次第に増えていく。ただ、みな背が高く健康的だ。。たぶんオーディションを通った人たちだろうが、ほぼ素人と同じだろう。

その笑顔の連鎖は、絶妙であり、撮る側は大変だったろう。ゲートボールの人、旅館のお婆さん、中年のラグビーの人たち、、鬼籍の方も、かなりおられるだろう。

I feel Cokeの歌は、ハイ・ファイ・セットが一番いい。その次はブルースの上田正樹かな、、

生涯、さわやかな笑顔を失わないこと、、その尊さ、、I feel Cokeはそれを教えてくれている。

ちなみに、わたしはコカ・コーラを全く飲まない。つくられた甘さだし、歯がやられるし。

それでも自販機がなかった遠い昔、、
池袋とか、駅売りで、大きなボックスに冷たい水にひたされたファンタとか、よく買って飲んだ記憶がある。懐かしい。

信心の断想、我見と言われて

このブログは備忘録というネライのみで、書いているのだが、どうやら作家森敦の「意識の変容」のような意味合いも、求めて書いている、、のかもしれない。

心の中に、橋頭堡(キョウトウホ)を作ろうとする作業なのだと。

21日の土曜日の夜、稲葉ショウイチさんという一歳上の人と、約二時間対話した。

いわゆる学会の幹部指導という機会で、ある切迫した事情から、強いすすめがあり、ならば迫力のある「稲葉さんを」と指名して来ていただいたのだが、、

稲葉さんは、関西の名門高校の出で、重篤な脳梗塞を克服した人、昭和の学会人の空気を漂わせた人だったので、一度さしで対話したいと思っていたからだ。

ひょっとしたら鎌倉時代にも、烏帽子姿で、おられたかも知れない。

さて、私の身の上をお話すること45分くらいか、都度確認されながら聞いていただいたが、その後、私を「我見の人」と評価された。

ひとまず、その通りとうなずいて見せた。

だが徐々に、はぁ、という気持ちも強まって行った。私はかなりニュートラルな人間と位置づけていた、からだ。

おまけに、うまく言えないが、落としどころ、筋書きの結末が見えてしまった。ライターは私に指導をすすめてきた人、、だった。なんだかな、、

それにしても、いったい、我見のどこが悪いという歯向かう表情をしていた、、と思う。もう、この類いの指導はご遠慮しよう。

対話を終え、丁重にお礼を申し上げた。
常不軽菩薩をイメージしながら。

牧口常三郎という学会創設者にしても、価値論という我見をきわめて、日蓮仏法に到達したわけだし。

戦後、戸田先生は価値論に蓋をするようにされたが、牧口先生の思想遍歴の努力があったからこそ、今日の礎が築かれたのだ、、と思っている。これって大事な視点なはずだ。いわば牧口先生の思考の橋頭堡の積み重ねか、、

話は飛ぶ。私見だが、
創価学会の信心は、PCのOSように、ご本尊というOS への働きかけであり、各人が自由に心を鍛え上げていけば、いいものであるに違いない。

サッカー雑感と6月マイブーム

1.わたしは俄サッカー見物人に過ぎないが、、対ポーランド戦を見て、黒沢明監督の「七人の侍」を思い浮かぶこと、しきりだった。とりわけ終盤、時間稼ぎのパス回しをしていたとき、そう思った。

検索すると、、

「日本はドイツ人。7人の侍がブンデスリーガでプレーしている」と特集したのは、イタリア紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」だった。
記事では、外国人選手枠の制限のないブンデスリーガが日本代表の底力の根底にあると分析。「日出る国はドイツに選手たちを送り込んでいる」と報じている。


として、香川真司ほか6人のブンデスリーガの名を挙げているが、私のそれは違う。個より全体だ。日本チーム全体が「七人の侍」のような「一になって負けない心」を強く押し出していく、、そんな風に見えた。日本はベルギーに、僅差で勝つ予感がする。

[7月3日の追記]
日本はベルギーにアディショナルタイムで負けたが、立派だった。
今後、日本のFIFAランキングは61位らしいが、その半分くらい順位が上がったなら、ベスト8が常套になるのではないか。

もともと「七人の侍」は、盗賊武装集団から農民たちを守る浪人武士7人の生きざま、死にざまが展開される話。劣勢を挽回するあの手この手の戦術が、予選3ゲームと重なって見えたのだ。3ゲームを一試合とくくれば、あの時間稼ぎは、ありだ。

さらに、決勝トーナメントの対ベルギー戦になったら、一段と「七人の侍」のイメージが浮かぶのでは。西野監督は、「七人の侍」の志村喬が演じた島田勘兵衛だろう。本田圭佑は、三船敏郎のキクチヨかもしれない。

ただ残念だが、ベルギー戦をリアルタイムで見ることはないだろう。起きていられないし、チャンネル権もない。

2.さて、6月のマイブームは是枝裕和監督だった。監督の北町小学校の頃のことを、わが記憶と重ねて考えていた。家から学校まで遠かったと語っていたが、その通りだ。私も遠いなぁ、と感じていた、そのことをファッと浮かんだりしたのだ。

監督は押入れが居場所だったこと、、私もそうだった。押入れで寝ていたし。

是枝監督は、映画の中で、一貫して、人の部屋に入ろうとするとき、役者にトントンと言わせている。監督は、そうして生きてきたのだろう。

「そして父になる」の中で、車窓から、鉄塔の電線の往復を映しているが、これは二つの家族の心象、絆のように、感じた。

勝手な想像だが、、二組の夫婦は、結局、取り違えた子を育てることになる。
そうなることで、二組の家族は絆が深まり、ゆるやかな大家族になっていく。
やがて福山が演じる野々宮は早世し、リリー・フランキーが4人子どもの面倒をみていく、、
あるいは逆かもしれないが、、そんな二組の家族の未来が浮かんだり、、した。

唐突だが、、若き日に決めたように、このまま、「無名の醍醐味」を生きよう。

神田松之丞という講談師

鈴木敏夫さんの「ジブリ汗まみれ」で、若き講談師、神田松之丞(1983年6月4日生)を知った。検索すると、豊島区出身で、2007年に武蔵大を卒業、、とあった。

その「ジブリ汗まみれ」の声は、落ち着いていた。どうやら、サラリーマンだった父親は、神田松之丞さんが10歳のときに自死した、ように感じた。そこで神田松之丞さんのブログをみると、、以下の記載があった。そのまんま転載する。

私は子供の頃から死について人一倍考えている。それは小学4年の10歳の時に父親が突然亡くなったからだと思う。本当に急だった。そして子供ながらに、人間は死ぬんだと強く認識した。

私はクラスでもとびきり明るい子供だった。それは明るい人間だけに許される特権のように、毎日先生には怒られ愛されるような生徒であったと思う。

父親の葬式の時に、私は泣かなかった。涙を我慢するわけでもなく泣かなかった。
ただ、弔問に担任の先生をはじめクラスメイトが全員で来た時に、いままで泣かなかったのが嘘のように、せきをきったように嗚咽した。恐らくクラスメイトも困惑したと思う。それは私が今まで誰にもみせた事のない姿だったし、私自身体験した事のない感情だったから。

そういえば私は子供の頃、勝手にかくれんぼを始める癖があった。子供というのは勝手なものだから相手がかくれんぼをしている認識がなければ誰も探してくれないのに勝手に隠れて、遊びを始める事がある。

小学生2年くらいだったろうか池袋を父親と歩いていると、勝手に思いつき急にかくれんぼをした。ところが、父親は私がそんな事をしているとは気付かずに何処に消えてしまった。私はエンエンと泣く事だけしか出来なかった時に、優しいお姉さんが警察に連れていってくれた。名前と電話番号を泣きながら言った。何故僕は急にかくれんぼをしたんだろう。お父さんがいなくなっちゃったとひたすら後悔で泣いていたのを思いだす。

しばらくして父親が仏頂面で迎えに来てくれた。その時にどれだけ僕はこの後怒られるんだろうとびくびくしながらそれでいて、もう大丈夫だという安心感でビャービャー、より一層泣いていたのを思い出す。

父親は何も言わなかった。怒るでもなし、優しい言葉をかけるでなし。私は父親に大股でおいていかれそうになるのを走るようについていったのを思い出す。今考えれば父親はあの頃から心の病気であったのだろう。

私は父親が死んだという事実が、もう二度と迷子になっても迎えに来てくれないという絶望におそわれていた。だからいつでも迎えに来てくれるはずの父親が死んだ葬儀に、クラスメイトが全員来てくれた時の安堵感は今でも言葉で表現出来ない。

私はその3日後、自然を装ってクラスになじもうとした。事前に担任の先生が話しをしたのであろう。皆、私に優しく、私は安心をしてまたクラスの人気者としてふるまった。

ただ今までと違うのは話している最中、ふと父親の事を考えた時に能面のように私は笑わなくなった。もちろん、あいかわらずクラスメイトと仲良く話しをしているのだが、ふと自分の笑顔に罪悪感を覚えた。

父親は死んでいるのに笑っていていいのかなと。私は笑う事に罪悪感を覚える人間になっていった。

それでも一日中ほぼ笑っていたが、確実に能面の時間があり、私にとってはこの能面の時間と付き合うのが私の人生なんだなと朧げに思いはじめた。

中学、高校と私はこの能面の時間と付き合っていく中で、談志師匠と出会った。まだ私が高校生の頃であったか。航空公園駅から歩いて10分の会場で、談志師匠の独演会があった。前売り券を手に持ちながら開場時間の19時を待って、外にいたのを思い出す。

季節は真冬で、かじかむ手にあったかいコーヒーで期待を膨らましていた。会場に入り、演者と客層が作りだす空気感に呼吸が苦しくなるような緊張感をともなって席についた。

私はまだこの時、浅草演芸ホールの寄席に三回行った程度であったから、今となれば空気感の違いは当たり前だと分かるが、当時は、ただただ緊張感で開演前から吐きそうになりそうなのはあの会の他に見当たらない。

やがて緊張感を増幅させるように二番太鼓がなり、開演5分前を知らされた。やがて出囃子がなり、ゆっくりゆっくり談志師匠が現れる。物凄い緊張感。座布団に座りお辞儀をして、談志師匠が顔を上げた。満面の笑みだった。

一瞬にして、会場の空気がかわる。突き刺さるような緊張感から笑顔ひとつで解放された時に、一瞬にして私は立川談志を好きになった。やがて「ここ暗くて、誰も客なんかこねぇんじゃねえかと思ったら満員だ。俺、最近客くるんだよな。一番くるんじゃねえか…」

私はただただ圧倒されていた。「勘定板」でさんざん笑い、続く「らくだ」で私はこの人の弟子になろうか迷った。あの「らくだ」は全てが表現されていたようにおもう。くずやの卑屈な人生、喜び哀しみ、女房子供がいるから自分をおさえている人生が、物凄い奥行きのある表現としてみえた。

また、生前のらくだと呼ばれる男の乱暴さとその奥にある寂しさが表現されているのを見て、私は凄い物を見ていると中盤からサゲまでずっと鳥肌が立っていた。

初めての経験でまさにカルチャーショックだった。サゲの後もしばらく立てず、帰る道すがら10分以上鳥肌が立っていた。私はそれまで名人芸や至芸と言うものは言葉遊びだと思っていたのが目の前でされた。その衝撃といったらなかった。

何故私はあの場で弟子入りをしなかったのだろう。今でも不思議に思う。
それから談志師匠を追っかけた。それは私の父性への満たされなさを談志師匠に感じたのか。

はたまた能面のような私にだけ分かる落語に思えたのかは今でも謎だ。ただ、あの「らくだ」は私が求めていたものには違いなかった。それから私は講談師になることにした。細かく話せば長くなるが、要するに師匠の松鯉にもほれたのだ。談志師匠とは違うベクトルで、松鯉はずっと浸っていたいようなたまらない講談師だったから。

談志師匠の訃報を聞いたのは末廣の楽屋だった。11月下席、1年に1度の師匠松鯉の芝居。1階の楽屋、前座もくさるほどいて動きにくい末廣。若手真打ちの某師匠が二階からおりてきて
「今、談志師匠が死んだって。ニュースでやってる」

私はあまりの喪失感でボーッとしていたのを思い出す。そうか今は談志師匠のいない世界にいて、談志師匠がいなくても当たり前のように寄席がやっていて、落語界が続いていくのが不思議でしょうがなかった。

それから涙が馬鹿みたいに出そうになったので、思考するのが嫌になり、馬鹿みたいに前座仕事をした。着物の着付けたたみと、普段なら後輩に任せるのを取り憑かれたように自分でやった。

後輩に「今日、兄さんやたら働きますね」と言われた。確かにこんなに懸命に前座仕事をした事はなかった。
やがて師匠の松鯉が楽屋入りをした。私は父親の葬儀を思い出した。もうだれも迎えに来てくれないと思っていた時に、クラスメイトが現れた時同様嗚咽しかけた。師匠の顔を見て心底安心した。

談志師匠が亡くなっても、まだ私には松鯉がいると思った。師匠は二階に行った。すぐさまついて行き、まだ訃報を知らないようだったので、私がほとんど震える声で談志師匠の死を伝えると、だいぶ間があって「そういう大きな事は突然くるよな」と呟くようにいい、談志師匠の2、3の思い出話を喋り、優しい言葉をかけてくれた。

ふと、松鯉の死を考える。想像するだけでおかしくなる。師匠が生きているのを非常な喜びとして記しておく。


以上。父親の喪失感は、多少想像できる。「クラスメイト全員の前で」というところで、このブログの、前々回に書いた横山隆一さんの話を思い出した。

「ジブリ汗まみれ」に戻る。いつもは饒舌な鈴木敏夫さんだが、そのときは、ほとんど黙って神田松之丞さんの話を聞いていた。若い才能ある講談師の先々を、じっと見守っていこうとしている感じがした。

それにしても、、たしかに私は、講談をまともに最後まで聞いたことなぞ、なかったな。

危機の到来を実感している

ひさびさに書き込む。

1.掲題のとおり、「蔵の財」の危機が到来している。試行錯誤というより打開策が浮かばず、立ち往生の状態だ。

2.解体工事会社の事務作業そのものはあらかた見えてきたし、社長とのコミニケションはそつなくこなしてきていて、かつてのように怒り狂うこともなく、問題はないのだが、、充分な報酬ではないのだ。一人でずっと作業するのも、そろそろ限界かもしれない。

例えば、今日は、2か月前に雇用した重機オペができる人が引き抜きあい、社長はかなり怒っていたが、恬淡と雇用保険のあと処理の確認をする、、といった具合だ。期待した人に去られるのは、社長もつらいだろうに。

3.戻る。わが危機に際して、「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫氏のYouTubeをききまくっている。私たちが、リアルタイムで、ジブリの動きを見つめることができるのは、ラッキーだと思う。鈴木さんのしゃしゃり出ることをきらう人もいるようだが、関係ない。ジブリの根っこは鈴木さんのハンドリングの下にある。自分には、参考になる。

①高畑勲監督の「かぐや姫」で25億くらい赤字を引きづっているはずだが、宮崎監督は、今度こそ、最後のなるであろう作品でジブリの帳尻を合わせてくることだろう。検索すると、、

アニメーション監督の宮崎駿さん(76)は28日、制作中の新作の題名が「君たちはどう生きるか」に稔なると明かした。1937年に吉野源三郎が発表した名著から取った。「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と内容にも触れた。「完成には3年か4年かかる」と言う。

以上。2017年10月の発信なので、2020年初頭には、鈴木さんが世間を騒がしくさせるだろう。映画は、たぶん後生の若い人たちへの贈る言葉になる。興行収入は80億と予測しよう。

②高畑勲さんが2018年4月5日(木)午前1時19分、帝京大学医学部附属病院にて、亡くなられた。享年82歳。
マルキストに匂いを感じさせると日テレの氏家齊一郎さんに愛された人だっという話も、わかる気がした。ただ、紫綬褒章をもらっていたとは知らなかった。理詰めの人だったらしい。これで、鈴木敏夫さんは、後顧憂いなく的確に、必要な人を巻き込み、その力を発揮させ、累積赤字を解消させるだろう。

4.たまたま画像で見た堤未果というジャーナリストの整形顔に驚いた。1971年生。彼女の仮面、その心の闇の深さを感じさせた。あれでは、ジャーナルは頓挫して、整形顔の機微に、話し相手側は、かなり惑わされるのではないか。

私見だが、人相には意識も、無意識も内在されて、表れている。整形によって、それを意識的なものものだけに、顔全体を横溢させてしまうと、日本人の私たちは、何か不自然さを、否応なく感じ取ってしまうではないか。無常、「もののあわれ」は整形を良しとしない。

整形大国である朝鮮半島の人々は、そうした無意識の働きに対する見識は、希薄に見える。民族の価値観の違いか、、

以上、解体会社のPCで書き上げた。動かねば、、

創価学会を定義する大切さ

昨日、解体工事会社で事務作業をしていて、夕方、ふだん来ることのない社長が現れて、暫く雑談していると、、

すると、いきなり「公明党とは何か」そして「創価学会とは何か」とたずねて来られた。私の学歴を覚えていて、問いを発したのだ。あっけらかんとした、白い画用紙を差し出されたような問いかけだった。

いやー、迂闊だった。面食らった。

社長は40歳。なんでたずねるのかと思いが先立ち、自分の言葉で、即答できる力がなかったのだ。「折伏」という基本的行為に、如何に無縁でいる自分かと、慚愧の念が徐々に。

全く持って、すぐ切り返せないとは、おはずかしい。

今のままでは、わが人生は「声聞」の次元で終わってしまう。どんな場でも、尋ねられたら、しゃべらないと、日蓮大聖人そして池田先生に申し訳ない。

創価学会とは、、世間的に、ダークなイメージで十分に流布されているのではないか、、という先入観が、実は私にあって壁を自ら作っているのかも、、とあらためて気づかせていただいた。

とりあえず、1930年にできた日蓮系の宗教団体とか、と言ったが、これじゃ、なんの説明にもなってない。200字くらいで、近日中に自分なりのキャッチコピー、「わたしの中の創価学会とは」という定義を、長いのはダメ、短文で3つくらい、用意しておこう。

また、説明するときは、しなやかに、法華経の常不軽菩薩を範としよう。

訃報
元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去した。
死因は上行結腸がん(大腸がん)、71歳だった。   

早期発見ができてれば、「鉄人」の人生がまだまだ持続しただろうに、、
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