わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への機微

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る
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サッカー雑感と6月マイブーム

1.わたしは俄サッカー見物人に過ぎないが、、対ポーランド戦を見て、黒沢明監督の「七人の侍」を思い浮かぶこと、しきりだった。とりわけ終盤、時間稼ぎのパス回しをしていたとき、そう思った。

検索すると、、

「日本はドイツ人。7人の侍がブンデスリーガでプレーしている」と特集したのは、イタリア紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」だった。
記事では、外国人選手枠の制限のないブンデスリーガが日本代表の底力の根底にあると分析。「日出る国はドイツに選手たちを送り込んでいる」と報じている。


として、香川真司ほか6人のブンデスリーガの名を挙げているが、私のそれは違う。個より全体だ。日本チーム全体が「七人の侍」のような「一になって負けない心」を強く押し出していく、、そんな風に見えた。日本はベルギーに、僅差で勝つ予感がする。

[7月3日の追記]
日本はベルギーにアディショナルタイムで負けたが、立派だった。
今後、日本のFIFAランキングは61位らしいが、その半分くらい順位が上がったなら、ベスト8が常套になるのではないか。

もともと「七人の侍」は、盗賊武装集団から農民たちを守る浪人武士7人の生きざま、死にざまが展開される話。劣勢を挽回するあの手この手の戦術が、予選3ゲームと重なって見えたのだ。3ゲームを一試合とくくれば、あの時間稼ぎは、ありだ。

さらに、決勝トーナメントの対ベルギー戦になったら、一段と「七人の侍」のイメージが浮かぶのでは。西野監督は、「七人の侍」の志村喬が演じた島田勘兵衛だろう。本田圭佑は、三船敏郎のキクチヨかもしれない。

ただ残念だが、ベルギー戦をリアルタイムで見ることはないだろう。起きていられないし、チャンネル権もない。

2.さて、6月のマイブームは是枝裕和監督だった。監督の北町小学校の頃のことを、わが記憶と重ねて考えていた。家から学校まで遠かったと語っていたが、その通りだ。私も遠いなぁ、と感じていた、そのことをファッと浮かんだりしたのだ。

監督は押入れが居場所だったこと、、私もそうだった。押入れで寝ていたし。

是枝監督は、映画の中で、一貫して、人の部屋に入ろうとするとき、役者にトントンと言わせている。監督は、そうして生きてきたのだろう。

「そして父になる」の中で、車窓から、鉄塔の電線の往復を映しているが、これは二つの家族の心象、絆のように、感じた。

勝手な想像だが、、二組の夫婦は、結局、取り違えた子を育てることになる。
そうなることで、二組の家族は絆が深まり、ゆるやかな大家族になっていく。
やがて福山が演じる野々宮は早世し、リリー・フランキーが4人子どもの面倒をみていく、、
あるいは逆かもしれないが、、そんな二組の家族の未来が浮かんだり、、した。

唐突だが、、若き日に決めたように、このまま、「無名の醍醐味」を生きよう。

神田松之丞という講談師

鈴木敏夫さんの「ジブリ汗まみれ」で、若き講談師、神田松之丞(1983年6月4日生)を知った。検索すると、豊島区出身で、2007年に武蔵大を卒業、、とあった。

その「ジブリ汗まみれ」の声は、落ち着いていた。どうやら、サラリーマンだった父親は、神田松之丞さんが10歳のときに自死した、ように感じた。そこで神田松之丞さんのブログをみると、、以下の記載があった。そのまんま転載する。

私は子供の頃から死について人一倍考えている。それは小学4年の10歳の時に父親が突然亡くなったからだと思う。本当に急だった。そして子供ながらに、人間は死ぬんだと強く認識した。

私はクラスでもとびきり明るい子供だった。それは明るい人間だけに許される特権のように、毎日先生には怒られ愛されるような生徒であったと思う。

父親の葬式の時に、私は泣かなかった。涙を我慢するわけでもなく泣かなかった。
ただ、弔問に担任の先生をはじめクラスメイトが全員で来た時に、いままで泣かなかったのが嘘のように、せきをきったように嗚咽した。恐らくクラスメイトも困惑したと思う。それは私が今まで誰にもみせた事のない姿だったし、私自身体験した事のない感情だったから。

そういえば私は子供の頃、勝手にかくれんぼを始める癖があった。子供というのは勝手なものだから相手がかくれんぼをしている認識がなければ誰も探してくれないのに勝手に隠れて、遊びを始める事がある。

小学生2年くらいだったろうか池袋を父親と歩いていると、勝手に思いつき急にかくれんぼをした。ところが、父親は私がそんな事をしているとは気付かずに何処に消えてしまった。私はエンエンと泣く事だけしか出来なかった時に、優しいお姉さんが警察に連れていってくれた。名前と電話番号を泣きながら言った。何故僕は急にかくれんぼをしたんだろう。お父さんがいなくなっちゃったとひたすら後悔で泣いていたのを思いだす。

しばらくして父親が仏頂面で迎えに来てくれた。その時にどれだけ僕はこの後怒られるんだろうとびくびくしながらそれでいて、もう大丈夫だという安心感でビャービャー、より一層泣いていたのを思い出す。

父親は何も言わなかった。怒るでもなし、優しい言葉をかけるでなし。私は父親に大股でおいていかれそうになるのを走るようについていったのを思い出す。今考えれば父親はあの頃から心の病気であったのだろう。

私は父親が死んだという事実が、もう二度と迷子になっても迎えに来てくれないという絶望におそわれていた。だからいつでも迎えに来てくれるはずの父親が死んだ葬儀に、クラスメイトが全員来てくれた時の安堵感は今でも言葉で表現出来ない。

私はその3日後、自然を装ってクラスになじもうとした。事前に担任の先生が話しをしたのであろう。皆、私に優しく、私は安心をしてまたクラスの人気者としてふるまった。

ただ今までと違うのは話している最中、ふと父親の事を考えた時に能面のように私は笑わなくなった。もちろん、あいかわらずクラスメイトと仲良く話しをしているのだが、ふと自分の笑顔に罪悪感を覚えた。

父親は死んでいるのに笑っていていいのかなと。私は笑う事に罪悪感を覚える人間になっていった。

それでも一日中ほぼ笑っていたが、確実に能面の時間があり、私にとってはこの能面の時間と付き合うのが私の人生なんだなと朧げに思いはじめた。

中学、高校と私はこの能面の時間と付き合っていく中で、談志師匠と出会った。まだ私が高校生の頃であったか。航空公園駅から歩いて10分の会場で、談志師匠の独演会があった。前売り券を手に持ちながら開場時間の19時を待って、外にいたのを思い出す。

季節は真冬で、かじかむ手にあったかいコーヒーで期待を膨らましていた。会場に入り、演者と客層が作りだす空気感に呼吸が苦しくなるような緊張感をともなって席についた。

私はまだこの時、浅草演芸ホールの寄席に三回行った程度であったから、今となれば空気感の違いは当たり前だと分かるが、当時は、ただただ緊張感で開演前から吐きそうになりそうなのはあの会の他に見当たらない。

やがて緊張感を増幅させるように二番太鼓がなり、開演5分前を知らされた。やがて出囃子がなり、ゆっくりゆっくり談志師匠が現れる。物凄い緊張感。座布団に座りお辞儀をして、談志師匠が顔を上げた。満面の笑みだった。

一瞬にして、会場の空気がかわる。突き刺さるような緊張感から笑顔ひとつで解放された時に、一瞬にして私は立川談志を好きになった。やがて「ここ暗くて、誰も客なんかこねぇんじゃねえかと思ったら満員だ。俺、最近客くるんだよな。一番くるんじゃねえか…」

私はただただ圧倒されていた。「勘定板」でさんざん笑い、続く「らくだ」で私はこの人の弟子になろうか迷った。あの「らくだ」は全てが表現されていたようにおもう。くずやの卑屈な人生、喜び哀しみ、女房子供がいるから自分をおさえている人生が、物凄い奥行きのある表現としてみえた。

また、生前のらくだと呼ばれる男の乱暴さとその奥にある寂しさが表現されているのを見て、私は凄い物を見ていると中盤からサゲまでずっと鳥肌が立っていた。

初めての経験でまさにカルチャーショックだった。サゲの後もしばらく立てず、帰る道すがら10分以上鳥肌が立っていた。私はそれまで名人芸や至芸と言うものは言葉遊びだと思っていたのが目の前でされた。その衝撃といったらなかった。

何故私はあの場で弟子入りをしなかったのだろう。今でも不思議に思う。
それから談志師匠を追っかけた。それは私の父性への満たされなさを談志師匠に感じたのか。

はたまた能面のような私にだけ分かる落語に思えたのかは今でも謎だ。ただ、あの「らくだ」は私が求めていたものには違いなかった。それから私は講談師になることにした。細かく話せば長くなるが、要するに師匠の松鯉にもほれたのだ。談志師匠とは違うベクトルで、松鯉はずっと浸っていたいようなたまらない講談師だったから。

談志師匠の訃報を聞いたのは末廣の楽屋だった。11月下席、1年に1度の師匠松鯉の芝居。1階の楽屋、前座もくさるほどいて動きにくい末廣。若手真打ちの某師匠が二階からおりてきて
「今、談志師匠が死んだって。ニュースでやってる」

私はあまりの喪失感でボーッとしていたのを思い出す。そうか今は談志師匠のいない世界にいて、談志師匠がいなくても当たり前のように寄席がやっていて、落語界が続いていくのが不思議でしょうがなかった。

それから涙が馬鹿みたいに出そうになったので、思考するのが嫌になり、馬鹿みたいに前座仕事をした。着物の着付けたたみと、普段なら後輩に任せるのを取り憑かれたように自分でやった。

後輩に「今日、兄さんやたら働きますね」と言われた。確かにこんなに懸命に前座仕事をした事はなかった。
やがて師匠の松鯉が楽屋入りをした。私は父親の葬儀を思い出した。もうだれも迎えに来てくれないと思っていた時に、クラスメイトが現れた時同様嗚咽しかけた。師匠の顔を見て心底安心した。

談志師匠が亡くなっても、まだ私には松鯉がいると思った。師匠は二階に行った。すぐさまついて行き、まだ訃報を知らないようだったので、私がほとんど震える声で談志師匠の死を伝えると、だいぶ間があって「そういう大きな事は突然くるよな」と呟くようにいい、談志師匠の2、3の思い出話を喋り、優しい言葉をかけてくれた。

ふと、松鯉の死を考える。想像するだけでおかしくなる。師匠が生きているのを非常な喜びとして記しておく。


以上。父親の喪失感は、多少想像できる。「クラスメイト全員の前で」というところで、このブログの、前々回に書いた横山隆一さんの話を思い出した。

「ジブリ汗まみれ」に戻る。いつもは饒舌な鈴木敏夫さんだが、そのときは、ほとんど黙って神田松之丞さんの話を聞いていた。若い才能ある講談師の先々を、じっと見守っていこうとしている感じがした。

それにしても、、たしかに私は、講談をまともに最後まで聞いたことなぞ、なかったな。

危機の到来を実感している

ひさびさに書き込む。

1.掲題のとおり、「蔵の財」の危機が到来している。試行錯誤というより打開策が浮かばず、立ち往生の状態だ。

2.解体工事会社の事務作業そのものはあらかた見えてきたし、社長とのコミニケションはそつなくこなしてきていて、かつてのように怒り狂うこともなく、問題はないのだが、、充分な報酬ではないのだ。一人でずっと作業するのも、そろそろ限界かもしれない。

例えば、今日は、2か月前に雇用した重機オペができる人が引き抜きあい、社長はかなり怒っていたが、恬淡と雇用保険のあと処理の確認をする、、といった具合だ。期待した人に去られるのは、社長もつらいだろうに。

3.戻る。わが危機に際して、「ジブリ汗まみれ」の鈴木敏夫氏のYouTubeをききまくっている。私たちが、リアルタイムで、ジブリの動きを見つめることができるのは、ラッキーだと思う。鈴木さんのしゃしゃり出ることをきらう人もいるようだが、関係ない。ジブリの根っこは鈴木さんのハンドリングの下にある。自分には、参考になる。

①高畑勲監督の「かぐや姫」で25億くらい赤字を引きづっているはずだが、宮崎監督は、今度こそ、最後のなるであろう作品でジブリの帳尻を合わせてくることだろう。検索すると、、

アニメーション監督の宮崎駿さん(76)は28日、制作中の新作の題名が「君たちはどう生きるか」に稔なると明かした。1937年に吉野源三郎が発表した名著から取った。「その本が主人公にとって大きな意味を持つという話です」と内容にも触れた。「完成には3年か4年かかる」と言う。

以上。2017年10月の発信なので、2020年初頭には、鈴木さんが世間を騒がしくさせるだろう。映画は、たぶん後生の若い人たちへの贈る言葉になる。興行収入は80億と予測しよう。

②高畑勲さんが2018年4月5日(木)午前1時19分、帝京大学医学部附属病院にて、亡くなられた。享年82歳。
マルキストに匂いを感じさせると日テレの氏家齊一郎さんに愛された人だっという話も、わかる気がした。ただ、紫綬褒章をもらっていたとは知らなかった。理詰めの人だったらしい。これで、鈴木敏夫さんは、後顧憂いなく的確に、必要な人を巻き込み、その力を発揮させ、累積赤字を解消させるだろう。

4.たまたま画像で見た堤未果というジャーナリストの整形顔に驚いた。1971年生。彼女の仮面、その心の闇の深さを感じさせた。あれでは、ジャーナルは頓挫して、整形顔の機微に、話し相手側は、かなり惑わされるのではないか。

私見だが、人相には意識も、無意識も内在されて、表れている。整形によって、それを意識的なものものだけに、顔全体を横溢させてしまうと、日本人の私たちは、何か不自然さを、否応なく感じ取ってしまうではないか。無常、「もののあわれ」は整形を良しとしない。

整形大国である朝鮮半島の人々は、そうした無意識の働きに対する見識は、希薄に見える。民族の価値観の違いか、、

以上、解体会社のPCで書き上げた。動かねば、、

創価学会を定義する大切さ

昨日、解体工事会社で事務作業をしていて、夕方、ふだん来ることのない社長が現れて、暫く雑談していると、、

すると、いきなり「公明党とは何か」そして「創価学会とは何か」とたずねて来られた。私の学歴を覚えていて、問いを発したのだ。あっけらかんとした、白い画用紙を差し出されたような問いかけだった。

いやー、迂闊だった。面食らった。

社長は40歳。なんでたずねるのかと思いが先立ち、自分の言葉で、即答できる力がなかったのだ。「折伏」という基本的行為に、如何に無縁でいる自分かと、慚愧の念が徐々に。

全く持って、すぐ切り返せないとは、おはずかしい。

今のままでは、わが人生は「声聞」の次元で終わってしまう。どんな場でも、尋ねられたら、しゃべらないと、日蓮大聖人そして池田先生に申し訳ない。

創価学会とは、、世間的に、ダークなイメージで十分に流布されているのではないか、、という先入観が、実は私にあって壁を自ら作っているのかも、、とあらためて気づかせていただいた。

とりあえず、1930年にできた日蓮系の宗教団体とか、と言ったが、これじゃ、なんの説明にもなってない。200字くらいで、近日中に自分なりのキャッチコピー、「わたしの中の創価学会とは」という定義を、長いのはダメ、短文で3つくらい、用意しておこう。

また、説明するときは、しなやかに、法華経の常不軽菩薩を範としよう。

訃報
元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去した。
死因は上行結腸がん(大腸がん)、71歳だった。   

早期発見ができてれば、「鉄人」の人生がまだまだ持続しただろうに、、

今月の「100分で名著」は法華経だった

今しがた、宮本輝公式サイトに、以下の書き込みをした。

今月のEテレ「100分で名著」は法華経と、たまたま知り、
誰が案内をするのだろうか、と気にしながら、再放送で見ると、、

オーッ、懐かしい、、植木雅俊さんだと分かり、
「あぁ、ようやく、出るべき人が出て来られたなぁ」と
感慨深いものがありました。植木さんにお会いしたことはないのですが、
メールでのやりとりは、何度かさせていただいた方だったのです。

サンスクリット語の法華経原典を日本語の現代文に翻訳され、
岩波書店から出版されたのは10年くらい前のことでした。

それまでの、たとえば岩本裕氏の岩波文庫『法華経』が
とてもわかりにくいものだっただけに、
ストーンと腹におちるものがあり、
植木さんの訳文にいたく感動したものでした。

さて今回、植木さんの語り口、表情をみることが
できたわけで、想像していた通り、
その法華経を体系的な整理が行き届いていて、、

芝居「錦繡」の、女優の余貴美子さんの朗読も
声の抑制がきいていて、すばらしい。

MCの伊集院さんの表情もそうでしたが、
聞き手の側がスカッと晴れ渡るような
そんな心地よさをもたらせてくれました。

まだ1回しか見ていませんが、おススメいたします。

追伸、
昨夜、銀座の観世能楽堂で、金春禅竹が作った
家元や学者の話す「芭蕉」の解説を、初めて聞きました。

能の「芭蕉」は草木成仏が主題と知り、
謡のなかに「諸法実相」というコトバが出て来たりして、
能の奥深さを感じました。

言葉では言い表せないから、能を舞うのだと家元がいわれたとき、
たしか、輝先生も、同じようなことを小説を書く意味として
言われていたなぁ、、と記憶が蘇った次第です。


以上、私の書き込みは、ほかの方々と違って、全くの散文で
毎回恐縮するのだが、その公式サイトの空気感が好きなのだ。

植木雅俊さんに戻る。
植木さんは、鳩摩羅什の漢文訳も誤りがあるとするくらい、
法華経に対する言説は、畢竟、「植木思想」といえるものだと見定めている。

法華経の理解は抜きんでているが、これから先、
その思想を敷衍する人々が出てきているならば、よいのだが、と懸念する。

わが五行歌その1

先日、三期の石戸氏と二人宴をしていて、彼から出た言葉をヒントに
五行歌を書いてみることにした。
批評家 若松英輔氏の示唆を踏まえ、書く練習をするのだ。
これからまだ、添削するだろうが、、まずは、はじめてみよう。


「無上道の眼」

おさな子の 天真爛漫な眼でもなく

悩む青年の 悲しみの眼でもない

まして 老いた怒りの眼でもない

ただただ能忍  負けない心で鍛えつづけた

その眼には 無上道の現証が立ち現れている

地球一周、題目が轟く

今日で、東北大震災から7年がたった。

創価学会は世界192カ国のメンバーが、
それも若い青年男女が中心になって、
日本時間14時40分を基準に、いっせいに勤行と唱題を行った。
その数、70万人だったと、聞いた。

同日、「世界青年部総会」という名称だっだかな、開催された。

宇宙から見て地球全体から題目がとどろくという時間があったわけだ。
まったくニュースにはならないが、これこそ
エポックメーキングな世界史的事件でなくして、なんであろう。

1253年(建長5年)4月 日蓮(尊称はひかえる)が立宗宣言をしてから
765年目の慶事である。世界の平和に向けて、ギア転換が始まったのだ。

UFOが私たちに関心をもっていないかと、しきりに空を眺めてみたが、
これといった変化は、なかった。
まぁ、これからもきっと行うだろうから、、いつか気づいて欲しいな、、

篠田三郎の声

3日の土曜日、14時から練馬文化センターで藤沢周平「山桜」の朗読を聴いた。朗読した人は役者、篠田三郎さんだった。

半年前かな、篠田三郎さんは何か演じているんだらろうかと気になっていたときに、散歩の町内会掲示板で、朗読会を知り、申し込みしたのだ。

事前に「山桜」も読んでおいたが、関心は篠田さんの人となりを感じてみたかった次第。

篠田さんの朗読は落ちつきと奥行きがあり、柔らかさがあった。いい役者人生を歩まれてきたのではないかな、声はカンサンジュンに似ていて、女性受けするだろう。

朗読を聞いて、やはり、人生は普通の目線が一番、、それが感想だった。

いい朗読を聞くことができた。

わたしの中の「吉田松陰」は篠田三郎さんが演じた松陰で形成されている。NHK 大河の「花神」だったか、主役ではなかったのだが、強烈に伝わるまのがあった。一本筋が通った生き方が松陰と篠田さんには共にあり、響きあっていたのかもしれない。

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「持続する志」はいつまでも
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