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わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への橋頭堡

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る

技能実習の成功体験

16日、勤務先のベトナム人技能実習生ヴィエさんが3年間の雇用契約が終了し、20日ベトナムに帰ることに。

毎年7千人出るという失踪はせず、よく頑張ったな、、感慨深い。

しかもヴィエさんは、塗装3級技能士になれた。13日、東京都知事の名前の証書とバッチが届いた。達成感のあるほほ笑みをたたえていた。

その学科試験の再試験のために、補講を4回やった。学科試験は「自信がない」と暗い表情で言うし、あと4年日本で働きたいと言うのだ。

じゃぁ、ひと肌脱ぐかと決め、過去問を分析し、勝ち取る工夫をし、教えたのだ。

玉村豊男さんも完治

あぁ、やっぱここから、遠のいてしまう。
またまた断片的に、、

1.玉村豊男という74歳のエッセイストがいる。たしか東大仏文の出で、あまり読んでないが、博識の印象を持っていた。

2.玉村豊男さんがC型肝炎患者だったこと、軽井沢の奥だったか、ワイナリーを持っていることなど、記憶していた。

3.月刊誌「潮」に「わたしと平成」という特集に「自分らしい生き方ができた時代」というタイトルで、玉村さんのエッセイが載っていた。

こう書かれている、、
41歳のとき突然、吐血して病院に運ばれ、そのときの輸血が原因でC型肝炎になってしまった。

平成の30年の歳月を振り返って強く感じるのが、医療の進歩です。長年、患っていた肝炎は、平成27年に新しい薬によって完治しました。肝炎とのつきあいも、ほぼ平成という時代とリンクしているのです。

ただ肝炎が治ったと思ったら翌年には肝がんが見つかりました。

でもがんを告知されたとき、なぜかさっぱりしていて、心の重荷が下りたような気がしました。

現在、検査や治療を続けながら、がんのことをネタに「病気自慢」という本さえ出しています。


以上だが、共感することしきりだった。
驚いたのは、、

いま振り返ると、ワインに限らず、ライフワークとなる活動は、平成になって本格的に取り組んできたことです。絵を描き始めたのも、肝炎になってハードな仕事ができなくなったからです。

とあった。画家でもあったのか、知らなかった。

わたしの場合も、平成は、まるまるC型肝炎闘病の日々だった。

身の回りの片付けをしていて宮沢りえの写真集「Santa Fe」が出てきた。1991年11月に肝炎で最初に入院したとき、買ったもので、全身倦怠感でぼっとし寝ながら眺めていた。美しかったし、宮沢りえの潔さを感じた。

今日の大女優、宮沢りえにいたる一貫した心のありよう、凛としたものが、すでにその写真集に写し出されているように、思う。

それにしても四半世紀の闘病、長かったな、、肝炎がなかったなら、精力的にうって出て、もっと違う選択があったろうに。

たしかに重荷が下りる感覚は、わたしにもあったのだが、恬淡としたもので、玉村さんの絵を描くような創造力は、とてもじゃないが、、ならば65歳になる令和からわがライフワークをやるかな、、

5.あともう一人、
気になるC型肝炎患者は、90歳を超えた歴史家の色川大吉さんだが、山梨に一人で住んでおられる。C型肝炎はたぶん完治しているだろうが、、高齢だからな、、肝臓は硬くなっているかもしれない。

1975年だったか、色川さんが書かれた本に感動し、東京経済大学の授業を聞きに行き、授業のあと、本にサインしてもらったことがある。

笑顔はなく憮然として「なんだ、そんなことか」といわれたのを覚えている。そのときを境に、わたしの色川熱は徐々に冷めていったが、、もしかしたら、あの頃すでに色川大吉さんも肝炎を発症していたのかもしれない。

Negative Capabilityと中動態と

時間に追われ、ここに書き込むことが億劫になっているが、放置もしたくない。

掲題の最初の英字とちょっと前に知った中動態は、重要な結びつきがあると思い、メルクマールとして、そう書いておきたかった、、だけだ。

4月16日か、パリのノートルダム寺院の火災は衝撃的で、、日本なら法隆寺が燃えるようなもので、なんとも、、人は茫然とするばかり、だろう。

「遥かなノートルダム」を書いた森有正が、塔の崩壊を知ったとしたら、
彼の「経験」はどう「変貌」したのだろう。上っ面な悲しみではないのでは、、

大聖堂の火災で森有正を想起する人は、何人いるのだろう。キリスト教徒だけは思い浮かべて欲しい、、なと。

森有正のキーワードは「経験」だが、今あらためて、わたしは「体験」が性に合っているとわかる。経験か体験か、あの頃よく自問していたな、

中動態は、長く時間のかかる体験といっていい。それはNegative Capabilityと通底する。

不治の長患いの場合は、とくに、
やり場のない混沌に、、
宙ぶらりんの状態に、
ひたすら耐えるしか、ない。

ただし、だ。
耐えることに深い意味を感じ取り、臨む

それしか、普通であるわたしたちには
できない、、のだ。

きっと、それが、人間性の究極のあり方、、なのだろう。掲題の二つの言葉はそう暗示させてくれる。

能動態でもなく受動態でもなく、
中動態という言語表現があったことを知った今、なるほどサンスクリット語は中動態
が主軸になっていたのだと、合点がいった。


ともあれこんな感じで、さらに一層、断片的に書くことになる。

ここを見にこられても、おそらく、全く意味不明だろう。もともとの主旨が備忘録なのだから、ご容赦あれ、、



作家ハハキギホウセイは、
「答えの出ない事態に耐える力」とNegative Capabilityを説明する。そのエッセンスを、作家はこう書いている。


追記、いや驚いた。
ノートルダム大聖堂、再建=修復に、莫大な寄付に暴動が起きているというのだ。以下、時事通信のコピペ。

【パリ時事】大火災に見舞われたフランスのパリ中心部にある観光名所、ノートルダム大聖堂の再建のため、大富豪らから多額の寄付金の申し出が相次いでいることに対し、マクロン大統領の政策に反対し昨年11月からデモを続けている抗議運動参加者らは「不公平だ」と不満を募らせている。

抗議運動の中心となっている女性は17日、「社会的な惨状には何もしないのに、わずか一晩で膨大な金を拠出できることを見せつけた」と高額な寄付を批判。インターネット交流サイト(SNS)上では「人間より石が優先されるのか」などと反発する投稿が相次いだ。
 有力紙フィガロは、20日に予定されているデモについて「怒りを募らせたデモ隊が結集する可能性がある」と指摘。再び破壊行動が起きる恐れがあると報じた。(2019/04/19-08:06)

我が断想

形あるものは、千年スパンでみれば、いづれ崩れる。

そして究極の「宝塔」とは、大聖堂でも法隆寺でもなく、

生身の、普通であるわたしたちの
人生の中ににある、、そうわたしは信じている。

技能検定随時3級

二日続けて書く。

今勤める塗装会社にはベトナム青年が3人いる。うち一人のビエ君は技能実習生としての三年を終わろうとしている。

三年で国に帰るのかと思いきや、昨年暮に27歳まで、日本で働き、27歳で彼女と結婚する計画だ、、という。

ならば技能実習制度のプロトコルとして、技能検定3級に合格しないといけない。

2/4、ビエ君は果敢に技能検定3級に挑戦した。実技と学科と、いずれも会社の一角を提供し行われた。

最初に学科があり、試験官が私に、会社から1時間出ていて欲しいと云われた。

仕方ない、早めの昼食を光が丘のジョナサンでとったが、、気分は悪くなかった。

膵臓がんサバイバーとの対話

1ヶ月ブランクができるとスポンサー広告が出ててしまう。腹立たしい。

それが心のキックになって、鈍重ながら、今書き込んでいる。ひたすら散文で

2週間前の土曜日の午後、東陽町で、膵臓がんサバイバーのM先生と2時間、お茶した。

Mさんは術後3年経過し、再発し、抗がん剤をやりながら、仕事を続けておられた。すでにガンマーカーは桁違いに高い。医者は余命宣告はしてこないと。そうだろう、その時間の針は飛んでいても不思議ではない、、からだ。

ビックリした。重篤なのに、関西に出張されているようで、わたしには耐えられないだろうな、、と感慨しきり。

その声は変わらなかったが、体重は50キロくらいなられていて、変貌ぶりは、痛々しかったが、一期一会で、励ましたかった。

65歳のMさんは、ただただ、やり遂げたい仕事があると云われ、できるだけ生きていたいと云われた。黒澤明監督の「生きる」を目の前にしている感じがした。

ひたすら聞いた。わたしの大腸ガンの体験知なんか、遠く及ばないからだ。

偉そうなことは言えなかったが、わたしの場合との違いで、Mさんには、何でもありでやってみたりすることなさそうで、外科医の判断に委ねているな、、と感じた。受動態で生きている。そういうがん患者は多いかも。

気功も、太陽凝視も、題目三唱も、実験と決めてやってみては、何度か、やんわりすすめてきたが、あらためて話題ならなかったので、心のキックにいたらなかったんだな、と判断した。

信心したら治るのか、という素朴な問がある。

たしかに、死はさけられない病気もあるかもしれない。が、、誰でも、やっていれば、、

あるとき忽然と、ははぁ、そうだったかと

にわかに病気の意味を、体感するようになる、、と今の自分は思っている。

別れ際、握手をした。まだ大丈夫と感じ、そのまま、そう伝えると、暮にご子息の結婚があるから、頑張るわと言われた。

宮本輝、本懐の大作

1週間ぶりに書く。

金曜日、仕事で軽自動車に乗り与野の法務局にいった。運転は数年ぶりのこと。高速の料金所の手前で、事故りそうになった。
あっこれETC車じゃないと直前に気づき、ハンドルを左にきったからだ。後続車とぶつかってもおかしくなかった。
が、無事だった。守られたのだと思う。

作家宮本輝さんの公式サイトを久しぶりに閲覧できた。ログインのパスワードとか、忘れてしまっていて、長いこと見ていなかったのだ。

昨年、宮本輝さんは「流転の海」を完結された。あしかけ三十七年、原稿用紙7000枚を越える偉業。。

ただ、わたしはその1作目の途中で中断して読んでいない。宮本作品を最後まで読み切ることができないで、放ってしまう。たぶん中断するのは、こころの奥底におなじものが流れていて響き合うせいだろう。

まっ、そういう中途半端な読者なので、感想など語れる資格はない。

なのに公式サイトに長いこと書き込みしたりして、、大病を克服したときには、輝先生からありがたい言葉もいただいたりした。感謝。

2018年12月「流転の海」を完結された宮本輝さんは聖教新聞に次の談話をのこされた。その中で池田大作という人を、師と仰いでいると、あらためて表明されていた。そのコトバは謙虚で丁寧だ。その原文を以下に、、

「流転の海」を書き終えて

「宮本輝の父と子を書く時が、きっと来る。いつか書いてほしい」。福武書店の文芸誌「海燕」の編集者にそう言われたことがきっかけで第一部「流転の海」を書き始めたのは34歳の時でした。

第二部「地の星」から文芸誌「新潮」に連載の場が移り、書き終わってみれば全9巻、400字詰め原稿用紙に換算して約7000枚。

「37年間、よくぞ書き続けた。見事にやり遂げた。お前は偉いやつや」と胸の内で自分を褒めました。

37年間、健康でいることができ、本当に守られたて実感しています。

病気で倒れて未完になることがあったら読者に申し訳ない。何があっても書き終えなければという責任と重圧を常に感じていました。

最も身近な伴走者である妻、支えてくださった全ての方に感謝は尽きません。

名も無き代弁者
「何がどうなろうと、たいしたことありゃあせん」

「自分の自尊心より大切なものを持って生きにゃいけん」

最も印象深かった熊吾の言葉を出版社が読者から募りました。中でも多かったのが、この二つだったそうです。

「流転の海」には歴史上の人物が一人も出てきません。何も昭和の歴史を書こうと思ったわけではないからです。それでも、最後は歴史小説を書いているような気持ちでした。「庶民の歴史」です。

戦争は終わったけれども、先も見えない激動の時代。その中で、子どもを育て、学校に行かせ、家族を養うため、懸命に働く人々がいました。

満足に教育を受ける機会もなく、地面を這うような暮らしの中でも、人間としての誇りを手放さず、愛情をもって精一杯生きた。そんな庶民たちの姿、人生の営みを書きたいと思ったのです。

調べてくれた方がいて、全9巻を通じた登場人物は1200人以上になるそうですが、熊吾や房江をはじめ全員が無名の民の代表であり、代弁者です。そういう大きな構想をもって書き始めました。

「生老病死」の劇(ドラマ)


創価学会の断想

久々に書く。
まず、自分本位に書いているにもかかわらず、ここに来てくださる、ほんのわずかの方々に、心から感謝。ありがとうございます。

創価学会の話。2月の座談会は全国的にブロックという最小単位の座談会で、その長、本陣長を仰せつかっているわたしが、座の中心にいなければならない。

正直言って、悩ましいが、これも人生と見切り、地でいこうと決めて、今回も挑んだ。

いつもそうだが、この日も参加者は少なかった。。が、婦人部の方と幹部指導エノモトさんに助けていただき、どうにか終えることができた。

御書は、生死一大事血脈抄のわたしの、好きな断簡だったので、、その肝心な言葉である、臨終正念とは実は自分の臨終ではなく師の臨終なのだと、大白蓮華という機関紙の解説をこえ、踏み込んだ言動をあえて、、した。

わが大学の創立者、創価学会名誉会長である池田大作という人は2019年1月2日で91歳になられた。

日本人の寿命が伸びているとはいえ、疾風怒濤の人生をおくられた池田大作という、わたしたちの師の臨終はそう遠くない出来事になる。もう100歳まで9年しかないのだから。

座談会で私は、先生と同時代に生きている意義を強調したのだ。千載一遇、、

座談会はエノモトさんの指導により、わたしの逸脱も、体裁を留めることができた。

エノモトさんはかつて本部職員の方だったが、偉ぶることは微塵もなく、フラットな目線を持たれている方で、、

町内会の交通安全運動で街角に立たれていて、よく挨拶を交わし、わたしはすきだった。

座談会の幹部指導をお願いした際も、即快諾してくださり、安堵した。

実は、私は創価学会の組織のヒエラルキーに疎く、かつそれでいいと思って、やっているので、エノモトさんの役職もよく知らず、さんづけでお呼びしている。けれど、心からリスペクトしている。身近におられる、一生成仏のお手本ととらえている。エノモトさんの健康長寿を日々祈っている。

追記。
座談会を終えたあと、47年前、エノモトさんが池田先生から託された話をしてくださった。

池田先生は、1973年、創価大学の学生の日常生活をとても心配され、エノモトさんに毎週末、八王子の学生が生活している場所をたずねて、一人一人を励ましに行って欲しい、と託された。

指導をしてはいけない、励ましに徹して欲しい。八王子駅から創立して間もない大学まで、一山越えて、徒歩で向かう学生を見ていると、学会の草創のころを髣髴とさせる、学生たちがかわいそうでたまらない、、と。

そう言われたあと、ポケットマネーから一万円を、交通費としてエノモトさんにわたされ、このことはないしょだよ、、

と言われたそうだ。その励ましは一年近く続いたようだ。

話を聞いていて、一気に1973年の大学の思い出が蘇ってきて、不肖な学生だったなぁ、と万感胸がつまることしきり、、

コーギー死す、そして鳩の知らせ

久々に書く。
昨年、2018年12月28日23時に、わが家のコーギー、モモが死んだ。16歳10ヶ月と2日の生涯だった。

直に2ヶ月になるが、わが家は誰一人、ペットロスはない。ゲンキンなものだ。

モモは長く生きたと思う。お疲れさまでした。

最期の半年間は、排泄に悩まされた。ゾンザイに扱ったかもしれない。ごめんなさい。

12月の初め、寒い日だった。夕方、近くの公園散歩で排泄をしてから、自転車に乗せ、駅北口の電気屋さんの谷島さんのところにうかがった。一期一会と思ったからだ。

自転車から下ろすと、いつもそうだったがその日も、モモはにわかに元気になり、シャンとして歩きだした。

谷島さんがくださるバームクーヘンが大好きで、店の中にどんどん入っていく。

あいにく、谷島さんのご主人は福島に行っていて不在だったが、奥さまが出てこられ、いつもどおり、バームクーヘンをふた切れわモモに食べさせてくださった。モモには至福の時間だったろう。


1月14日だったか、ピンポンとなり、谷島さんのご主人が我が家に来られた。

モモちゃん、どう?

暮に亡くなりました。

あっ、やっぱそうか、、
いえね、先週のことだけど、
白い鳩が二日続けて、家に来てね。
それも1羽でね、同じ鳩だった、
そしたらモモと同じように、バームクーヘンをふた切れペロリと食べていき、、

その食欲に驚いたけど、待てよ、こりゃもしかして、とモモのことが浮かび、確かめに来たんだけど、やっぱ、そうだったか、、と。

事実は以上だが、それを様々に考えた。

虫の知らせに似た、鳩の知らせかと、いったんはケリをつけたが、、

今はこう思っている。

つまり、もう一度バームクーヘンを食べたいと思ったモモの残存思念が、一つの情報となって発信され、それを鳩が感じ取ったのではないかと、言ってみれば、残存思念の一期一会ではないか?と。
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「持続する志」はいつまでも
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