わが動的平衡とレジリエンスを信じる自立への機微

直腸がん、C型肝炎が完治し、これからが今までを決める、、という身の処し方を綴る

続、柳田國男が創価学会を語る

前回に続いて、柳田國男「故郷七十年拾遺」からの抜粋を以下に転載する。

柳田國男、創価学会を語る

柳田國男の「故郷七十年」は青空文庫の中で、まだ作業中とあり、気に入った文章をコピペできない。

仕方ないので、紙の文庫から手で入力し、以下に載せておきたい。

民俗学の創始者は、創価学会の草創のころ、外から学会に対してどんな印象を持っていたか、、が書かれている。内からでも外からでも、感じとれる何かは、確実にあるに違いない。

大きく分けて二ヶ所から、牧口常三郎初代会長と創価学会のことを触れている。

一つは「私の学問」の中の「郷土研究会」の文章。もう一つは「故郷七十年拾遺」の「真字本曽我物語」あたりからの文章。

私見だが、柳田國男は牧口常三郎と「前からなかなか関係は深かった」しその接し方は暖かい。なので「同情はする。されど私は、そもそも創価学会とは何か?それはわからないし関心もない」というスタンスにつきるのではないか。

実際、柳田國男が会ったのは二代会長までだったし、三代池田会長に会おうとはしなかった。

郷土研究会
明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稲造博士を中心に郷土会を創立したが、その定例会員は石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏、牧口常三郎などという人たちであった。そのときのことは、私が筆記した「郷土会記録」にまとめられている。

石黒忠篤君は、今では政治家になってしまったが、もとは本当のわれわれの仲間であった。大学にいるころから、私どものやっているものを読んでかぶれたらしい。

「郷土会」のもととなったのが、「郷土研究会」という集まりで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。

そこへ新渡戸稲造博士が西洋から帰って来られたので、後には新渡戸稲造先生のお宅に伺うようになったが、中心はやはり「郷土研究会」からの連中であった。

話題のもとは、会員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だったのは、早稲田大学の小田内通敏君であった。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稲田の人で、国木田独歩の友人とかきいている。ことによると牧口君が連れて来たのかもしれない。

小田内君の関係の一人、二人会員になった人があったが、とにかくそういう人たちが、全部新渡戸先生の方へ移ったのである。

新渡戸邸へ移ってから初めて加わったのは三宅驥一(きいち)君であった。那須○君もそのころから来たが、この人はどちらかというと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だった。

先生のお宅では毎回会費五十銭をおさめて、そのころとして二円か二円五十銭くらうのごちそうをして下さった。

名ばかりの会費をとって、来客の面目を害しないように心づかいをして下さったのである。場所もよく、そのうえ本もたくさんあり、ごちそうも出て、楽しい会であった。

明治四十四年の五月、私は牧口君を誘って、甲州の谷村から道志谷をぬけ、月夜野を経て相模に出たことがある。

そのころ電報が三日もかかるという山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であった。

非常に気持ちのよい旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思い出されるほど、印象深いものがあった。

この牧口君は創価学会の創始者であり、最近後継者の戸田城聖君も亡くなったので、世間の関心もあるかと思う。

牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範学校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だったらしい。

私は前からなかなか関係が深かったから、『価値論』という本に序文を書いているが、創価学会そのものは私にはよくわからない。

若い者を引き立てることが好きで、師範学校で教えたお弟子たちを大変可愛がったりするのが、一つの特徴であった。


北海道出身の社会学者田辺寿利という人も、お弟子の一人だったと思う。

牧口君はどういうわけか文部省に入って、私のところへ来たのは、文部省の嘱託をしていたころであった。

郷土会はやがて郷土研究を出す母胎となり、今日の民俗学会の基礎となって来たが、そのころはまだ民俗学という言葉は一般化されなかった。


以上である。創価学会は若い人を引き立てるという柳田國男の見立ては正しい。

今日、学会は世界に拡大したが、柳田國男の印象の通り、世界中の青年を引き立てている。たとえば「青年よ広布の山を登れ」という歌がある。



もう一つは、次回とする。

「山の人生」から

前にも取り上げたが、あらためて柳田國男の「山の人生」の中から、一番記憶に残る二つの話、おそらく裁判記録だろうが、、「人間苦の記録」その全文を掲げておきたい。わたしは、その語り口が好きだ。

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。

何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。

阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。

それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。

私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。

ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。

すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

尋常性乾癬の現状

二週続けて金曜日は、近所の温泉銭湯「久松湯」に入っている。翌日肌の状態が良好なのは、たしかで、さらに毎週続ければ、乾癬はだいぶ沈静化する気がする。

乾癬は、毎年夏になると暴れだし、悪化する、その繰り返しだったが、それはなくなった。

13日の金曜日、久松湯は比較的すいていた。オーナーは「東京盆だから」と話してくれた。その言葉、知らなかった。

温泉の露天風呂に入っていて、ふと40だい後半っぽい、アトピー系の人がいた。前にも見た気がする。私と同じ湯治が目的なのだろう。460円の銭湯料金、いわば「コンビニ湯治」といえる。その人は、改善しているのだろうか。

最近、久しぶりに、白いグンゼの丸首とVネックの下着を6枚買った。それまではグレイのTシャツばかり、だったから、感慨深い。

乾癬のせいで、背中もおなかも、血がにじみだし、白い下着はじきにくすんでしまうから、数年近く、着るのはやめていた。

今年に入ってから、その血がにじみ出す状態は抜け出すことができたわけで、改善傾向はたしかだろう。

まだ、塗り薬はやめられないし、背中がかゆくなるのは変わらないが。

長女に、綿棒で薬を塗ってもらうと、あぁそこそこと、声をだす。心地よいのだ。

そうだ、背中をかく棒が欲しくて、Amazonで検索していたら、300円程度の手ごろなものがあったのだが、そのほか2000円になるまでのものを買わないとダメなので、グンゼ下着を6つ買うことにしたのだ。たいした話しではないが、思い出せるように、書いておこう。


私のなかの創価学会

今週、小茂根図書館で「宮本輝 叱責」で検索をかけていて、下記のエッセイに出会った。最初の文章は可笑しくワッと小声を出したが、しまいに涙が出た。とんと忘れていたが、嗚咽に近かい涙、だった。実は、このところ、さまざま艱難辛苦がおしよせてきていることも影響して、泣きの涙だったのだろうが、、

されど宮本輝、実語の人、なんてまあ、ご自分の五臓六腑を見せる作家なのだろう。その勇気に、、感服した。

この信心を「内在的」にとらえて持続しているならば、輝先生の言葉はしみてくる、、自分の場合も、そうであるに違いないのだと。

タイトル 「私のなかの創価学会」.
サブタイトル 「人間を幸福にする闘いを文学に」.
作家 宮本輝(みやもとてる)

私が創価学会に入信したのは昭和47年の秋だから、信仰して、かれこれ17年が過ぎようとしている。
強度の不安神経症の発作に苦しみながら、私は、創価学会という善意のかたまりみたいな人間群像に飛び込んだのだが、いま、私は「飛び込ませてくれた多くの人々」に、言葉に尽くせない感謝の念を抱いている。

入信してまもなく、私は座談会で扇子を持たされ、学会歌の指揮をとらされて、すぐにでも創価学会から足を洗いたいと思ったくせに、その半年後には中等部の担当者となって、部員さんの家々を自転車で廻っていた。

私が担当した中等部員たちも、いまは立派な社会人となり、中にはもう4人の子供の父となっている人もいる。勤行なんか大嫌いだと言う中学生たちに、ずいぶんてこずったのだが、振り返って思い起こせば、てこずらされることで、私は中学生たちに磨いてもらっていたのだ。

中等部を担当していたとき、私は、中等部総会のために、生まれて初めて、短い戯曲を書いた。これは評判が良くて、次には尼崎の男子部幹部会のための劇を書かないかと言われた。

私は、張り切って書いたのだが、出来上がったシナリオを読んだある幹部の、「やっぱり尼崎は花笠音頭にかぎるで」というひとことでボツになった。 私は憤慨したが、いまになれば、なんだか楽しい思い出である。

けれども、その短い戯曲を書いているときも、私は将来作家になろうなどとは夢寐にも思っていなかった。私が、作家をこころざしたのは、入信して3年が過ぎたころである。

池田先生が、講演のなかでサルトルの言葉を引用して指導された箇所を読みながら、私は、こんなにもたくさんの創価学会員がいるのに、なぜ世間に通用する作家が一人もいないのだろうと思った。

そして突然、「よし、俺が作家になろう」と決めた。

本来、ケンカ早くて短絡的で、根は明るい性格なので、決めた翌日に会社勤めを辞めてしまった。(このような性格は、じつは作家に向いていないのではないかと、ときおり不安になる)

私は、作家になろうという夢を叶えるために入信したのではない。
入信してから、作家をこころざした。

日蓮大聖人の無尽蔵な御指南が、池田先生の多くの指導が、少しずつ少しずつ私の内部で眠っていたものを揺り動かして、 私を作家への道に走らせたとも言える。

なぜなら、私が小説の中で書いているものは、すべて大聖人様の仏法から御教示されたものであり、池田先生の指導から学んだものであり、ひいては、創価学会の、人間を幸福にする闘いから教えられたものばかりなのだ。

それらは、いったん私の中に染み込み、私という人間を通過して、私という世界における体験やら思考やらをまな板として、別の皿に移されていく。

だから、いささかでも私の作品を評価する人は、日蓮大聖人の仏法を、池田先生という指導者を、創価学会という奇蹟的な団体を評価しなければならない。そして、私の作品を否定する人は、この私の眼高手低(がんこうしゅてい)を笑うべきである。

創価学会への入信、それによる幾つかの信仰体験、池田先生の激励がなければ、宮本輝などという作家は存在しなかっただろう。それどころか、ノイローゼが昂じて廃人となるか、生来の作り話のうまさを生かして詐欺師となるかがおちだったに違いない。これは、本人が言うのだから、ほとんど間違いのないところである。

この少ない紙面において、創価学会の、戦後の日本に果たした巨大な役割について書くのは、どだい無理といえる。

いったい、どれほどの貧しい無名の庶民が、創価学会の中で、生きる希望を見いだしていったことだろう。どれほど多くの病人たちが、蘇生の力を与えられたことだろう。どれほどたくさんの青年たちが、日本の教育制度が忘れた「人間の道」を学んだことだろう。

それらをなおざりにして、創価学会や池田先生に関する低俗な記事を書く、売らんかな主義の三流ジャーナリストも、読んで騒ぎたてる人も、それでは、自分たちは他社の幸福に対してどのような労苦を費やしたと言うのであろう。

彼らはいつも傍観者で、隙あらば他人をだしにして何らかのおこぼれをかすめ盗ろうとしている恥知らずたちにすぎない。

彼等は永遠に傍観者だが、自分たちの立っている場所が、決して安全地帯ではないことに恐れを抱いている。

だが、彼等は眼低手高(がんていしゅこう)なのだ。我々が、眼高手低である限り、彼等の手の高さは、ときに巧妙に翻弄するだろう。

大聖人様の仏法を学び、池田先生の薫陶を受けている我々は、おのずと眼高となっていくが、それを社会の中で具現化する手が低いあいだは、眼低手高の輩を打ち負かすことは出来ない。

思想は低劣だが技に長けている。そんな連中に負けるのは恥だから、作家としていまだ「手低」の私は、絶えず創価学会という原点に立って、自分を磨きつづけなければならないのである。


眼高手低(がんこうしゅてい):理想は高いが実行力が伴わないこと。特に、批評する力はあるが創作力がないこと。
眼低手高(がんていしゅこう):理想は低く技術だけが高いこと。中身がなく、創作力のみが長けていること。宮本輝の造語。

酒の常習は、毎日少量でも、やめた

わたしは、人の目を見るのが好きだ。とりわけ中年以降の人の目は、その人の人生が表れた作品、と思っている。

西郷隆盛は、人を魅了する黒々と輝く目をしていたようだ。司馬遼太郎の小説の中に、そういう表現があったと記憶する。

そういう目の存在を現実に知ったのは、わが大学の創立者、40だいの池田大作という人の目を見てからだ。それと、わが大学の理事長だった岡安という人の目も、それに近いものが、あった。そう感じた自分がいたのは、たしかだ。

少し前に、テレビで、石田純一の目を見たが、あたまの芯がボケ始めたな、と感じさせた。ワインを常習的に飲んでいるのでは、、

一方、80歳の加山雄三の目はボケてないな、と気付き、、調べたら2004年、66歳の
ときに、酒を飲むのをやめた、とあった。

また、ジブリの鈴木敏夫は酒はやらない。わが大学の創立者も、飲まない。

で、ひょっとすると、、
たとえ少量でも、毎日飲んでいると、脳はやられるのではないか、と気づいたのだ。

当たりだった。検索するとこういう記事が見つかったからだ。

ニューズウィーク日本版
ほどほどでも飲酒を続けると脳には有害?
2017年10月26日(木)10時30分
ハナ・オズボーン
ニューズウィーク日本版
<適量なら飲酒は健康にいい――という常識を覆して、少量でも長期に渡って飲酒を続けると脳がダメージを受けるという酒好きにはショッキングな研究結果が>

ほどほどの量でも、長期間にわたって飲酒を続けると脳がダメージを受けるかもしれない――酒飲みにはショッキングな研究結果が明らかになった。

2017年6月にブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)で発表されたオックスフォード大学とロンドン大学ユニバーシティーカレッジ(UCL)の最新研究によれば、週当たり14~21単位のアルコールを摂取していた人は、記憶や空間認知をつかさどる脳の部位である海馬が萎縮する確率が、飲まない人の3倍も高かったという。

ちなみにイギリス政府の定めたガイドラインでは、飲酒は週に14単位以内にすべきとされている。1単位は純アルコール量で10ミリリットルとされ、度数4%のビールなら250ミリリットル、13%のワインなら76ミリリットルに相当する。

研究チームが分析対象としたのは、健康でアルコール依存症でない男女550人の30年間にわたる追跡データだ。調査開始時点での平均年齢は43歳で、被験者に対しては定期的に認知能力の検査が行われた。飲酒や喫煙の習慣、病歴や教育、身体的活動といった点についても並行して調査が行われた。

分析によれば、最もリスクが大きかったのは週に30単位以上飲む人。14~21単位の人も、あまり飲まない人や全く飲まない人と比べると海馬が萎縮する兆候はずっと多く見られた。

( 中 略 )

だが、常識に疑問符を突き付けたという点で意義は大きい。英王立エジンバラ病院神経精神科のキリアン・ウェルチはBMJに寄せた論説でこう述べている。「多くの人が普通だと思っている飲酒習慣が健康に悪影響をもたらす、という主張を補強する重要なものだ。私たちは何かと理由をつけて、長期的には利益にならない行動にしがみつくことを正当化しがちだ」

少なくとも、飲酒習慣を見直すきっかけにはなりそうだ。


思い返すと、前職の会社の人々は、飲酒癖が多く、いた。

すぐに浮かぶのは、為国さんという取締役までなった人だ。昼間はしゃんとしていて判断も明快なのだが、夜になると、会社の金で、毎日、相当飲んでいた、、というイメージしかない。役員退職金は出ずに辞めたのではないか、、老いてなお常習化した酒飲みは、人格が卑しくなる、そういう気がする。

それより気になるのは、同時期に会社をやめた川瀬である。今も、毎日ワインを飲んでいるのではないか。海馬の萎縮は進んでなければいいが。

それと、がんサバイバーの経験知だが、
飲み過ぎは、松果体にも影響するだろう。

わたしは、この一年、ほぼ毎日、金麦250ミリを飲んできた。微量だが、常習化すると、脳は萎縮する予感する。なので、今週から、徐々にやめていくことにする。

当面の目標は、週に二回程度にすること。

サッカー雑感と6月マイブーム

1.わたしは俄サッカー見物人に過ぎないが、、対ポーランド戦を見て、黒沢明監督の「七人の侍」を思い浮かぶこと、しきりだった。とりわけ終盤、時間稼ぎのパス回しをしていたとき、そう思った。

検索すると、、

「日本はドイツ人。7人の侍がブンデスリーガでプレーしている」と特集したのは、イタリア紙「ガゼッタ・デロ・スポルト」だった。
記事では、外国人選手枠の制限のないブンデスリーガが日本代表の底力の根底にあると分析。「日出る国はドイツに選手たちを送り込んでいる」と報じている。


として、香川真司ほか6人のブンデスリーガの名を挙げているが、私のそれは違う。個より全体だ。日本チーム全体が「七人の侍」のような「一になって負けない心」を強く押し出していく、、そんな風に見えた。日本はベルギーに、僅差で勝つ予感がする。

[7月3日の追記]
日本はベルギーにアディショナルタイムで負けたが、立派だった。
今後、日本のFIFAランキングは61位らしいが、その半分くらい順位が上がったなら、ベスト8が常套になるのではないか。

もともと「七人の侍」は、盗賊武装集団から農民たちを守る浪人武士7人の生きざま、死にざまが展開される話。劣勢を挽回するあの手この手の戦術が、予選3ゲームと重なって見えたのだ。3ゲームを一試合とくくれば、あの時間稼ぎは、ありだ。

さらに、決勝トーナメントの対ベルギー戦になったら、一段と「七人の侍」のイメージが浮かぶのでは。西野監督は、「七人の侍」の志村喬が演じた島田勘兵衛だろう。本田圭佑は、三船敏郎のキクチヨかもしれない。

ただ残念だが、ベルギー戦をリアルタイムで見ることはないだろう。起きていられないし、チャンネル権もない。

2.さて、6月のマイブームは是枝裕和監督だった。監督の北町小学校の頃のことを、わが記憶と重ねて考えていた。家から学校まで遠かったと語っていたが、その通りだ。私も遠いなぁ、と感じていた、そのことをファッと浮かんだりしたのだ。

監督は押入れが居場所だったこと、、私もそうだった。押入れで寝ていたし。

是枝監督は、映画の中で、一貫して、人の部屋に入ろうとするとき、役者にトントンと言わせている。監督は、そうして生きてきたのだろう。

「そして父になる」の中で、車窓から、鉄塔の電線の往復を映しているが、これは二つの家族の心象、絆のように、感じた。

勝手な想像だが、、二組の夫婦は、結局、取り違えた子を育てることになる。
そうなることで、二組の家族は絆が深まり、ゆるやかな大家族になっていく。
やがて福山が演じる野々宮は早世し、リリー・フランキーが4人子どもの面倒をみていく、、
あるいは逆かもしれないが、、そんな二組の家族の未来が浮かんだり、、した。

唐突だが、、若き日に決めたように、このまま、「無名の醍醐味」を生きよう。

是枝監督と北町小学校のこと

昼間、是枝監督の映画「海街diary 」と「海よりもまだ深く」の二本を、Amazon primeでみた。

正直、あまり関心がなかった映画監督だったが、小人の存在がキモにあった「ゴーイングマイホーム」のテレビドラマは、ゴンチチの音源といい、その空気感が好きだった。

あらためて、小津安二郎を連想させる、ホームドラマを画き続ける監督とわかった。ただ是枝監督は、小津安二郎をそれほど意識していないようだ。

少し調べてみたら、驚いた、、
是枝監督は、私と同じ北町小学校に、1年から3年までいて、「母校は北町小学校」と話されていた。

で気付いたのだが、是枝さんのベースは、その北町小学校時代の生活が「郷土」になっていて、小津安二郎より練馬区北町の生活体験の方が映画の通奏低音として、あるのではないかと。
よほど、その頃が楽しかったのではないか。

生年からみて、私が北町中学校に上がったあとに、是枝さんは北町小学校に入学された、ことになる。検索すると、毎日新聞に次の記事があった。是枝監督の小学校ときの思い出話しだ。

僕の原風景っていうと、東京の練馬区北町の川越街道と家の脇のトウモロコシ畑、延々と並ぶ自衛隊官舎ですね。

うちは勤め人だったんで、平屋の二軒長屋に住んでました。暮らしぶりは普通の家より10年くらい古かったんじゃないかな。

風呂も父親がまきを割ってたいてたし、共同の井戸がありましたから。

友達が住んでるコンクリート製の立派な官舎がうらやましくて、うちも団地に住むことになってわくわくしたのを覚えています。

トイレは水洗だしお風呂も簡単に火が付いて便利でしたけど、庭がなくなったのが、ちょっとさびしかったですね。


50年前に引き戻された感じがした。是枝さんの通学路も想像できた。なんという北町に対する郷愁の強さなのか、、

北町の自衛隊官舎の子でなく、典型的な庶民の子だったんだ。

練馬区北町3丁目に1970年までは、互いに同じ町内の子どもだったと、わかった。

是枝家は、東武練馬駅と下赤塚駅の、中間くらいの木造の平家。どの辺りか、なんとなく、想像がついた。わたしが住んでいた都営団地の近くの住まいではないか、、もしかすると、その二軒長屋も、都営だったのではないか。「万引き家族」の家も、もしかしたら二軒長屋のセットではないか。

間取りは二間、庭があり建て増しができたのでは、とか想像がつ。トイレはボットン式だったろう。

なぜ想像できるかというと、実は、中学二年のとき、私の家も、その団地から北町6丁目の、都営の二軒長屋に転居したので、是枝さんの話は、風景も空気感も伝わってくるのだ。もしかしたら、是枝少年と道ですれ違っていたかもしれない。

また、北町小学校から清瀬の小学校に移ったとき、都落ちの気分と学力レベルが下がった感じを是枝さんは、したようだ。

実際、自衛隊官舎に住む児童は賢い人が多くいた。おそらく、いまも北町小学校内の学力格差はある、だろう。

さらに、調べると、是枝さんは通学途中の絵の具工場から出てくる絵の具の排水に興味をもっていた、という。

そんな工場、どの辺にあったっけ?と調べたら、わが団地のすぐそばに、その会社はあった。
なんで気づかなかったのだろう。やはり感性の違いか、、いやいや、あぁ、わたしは田柄川沿いを通学路にしていたから、そこはあまり歩かなかったから、記憶になかったのだ、、としよう。

暗きょになる前の田柄川は、その絵の具の排水でさまざまな色に変化したらしいが、あぁそういえば、、とよみがえるものはなかった。

北町小学校の広報誌に、2014年にNHK の「課外授業」で小学校を訪れた是枝監督の話が掲載されていた。
是枝監督が学校正門にある「白い恐竜」像を見て、「自分がいたときにも、この恐竜像はありました」と言ったと。

はっとした。白い恐竜像がよみがえったのだ。トーテンポールと一緒に、鎮座していた。よく廃棄しないで存続しているな。55年はたってるだろうに。

是枝さんは、すぐ近くに住み、ほぼ同じ通学路で北町小学校を登下校していただろう。当時、下校時間の知らせはドボルザーク「新世界」だった。

今住んでいるところから北町はさほど遠くない。なのに、是枝さんのような北町への郷愁が、なぜだか、湧いてこない。懐かしむより、去り行くことが先立つ、という価値観なのかな。

ともあれ、中央線沿線でもない地域、、脂っぽい床で車内に鏡があった東武東上線、その練馬区北町から、いまや「万引き家族」で世界的に有名になったホームドラマの映画監督が生まれたといことは、、とても感慨深い。
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